母の万年筆と、見知らぬ誰かの夢

 湿り気を帯びた六月の風が、実家の古い障子を揺らしていた。

 五十八歳になった真理子は、誰もいなくなった母の居室で、膝をついて段ボール箱と格闘していた。いわゆる「実家の片付け」である。
 
「断捨離なんて、言葉で言うのは簡単だけれど」
 
 真理子は額の汗を拭い、溜息を漏らした。積み上がった箱の中には、母が生きた八十余年の歳月が、無秩序な「物」の塊となって押し込められている。

贈答品のタオル、古びた茶器、いつのものか分からない端切れ。それらは母にとっては宝物だったのかもしれないが、今の真理子にとっては、ただただ彼女の心を重くさせる「重力」そのものだった。
 
 体力の限界を感じ、座り込んだ真理子の指先に、黒い漆塗りの小さな木箱が触れた。

 埃を払って蓋を開けると、中には深いバーガンディ色の万年筆が一本、静かに横たわっていた。金色のクリップには、微かに母の指紋の跡が残っているような気がした。

 母はいつも、この万年筆で家計簿をつけ、親戚への手紙を書いていた。決して裕福な家ではなかったが、母は「本当に質の良いものを、長く手入れして使うこと」を誇りにしていた。

 だが、今の時代に万年筆を欲しがる人などいるのだろうか。リサイクルショップに持っていけば、十円か二十円の「雑貨」として処理されるのが落ちだろう。かといって、自分が使う予定もない。

「捨てるのは、母の想いまで捨ててしまうようで忍びない。でも、持っているだけでは、ただの死蔵品……」