世界が忘れた約束を、聖女はまだ知らない。

 目を覚ますと、最初に見えたのは見慣れた天井だった。

 白い漆喰の上へ窓から朝の光が伸び、春の風を孕んだカーテンがゆるやかに揺れている。その向こうからは、千年祭の準備に賑わう王都のざわめきが、まだ眠りの残る部屋まで届いていた。

 シアは何度か瞬きをしたあと、毛布を鼻先まで引き上げる。

 昨日の朝、海辺で目を覚ましてから、何もかもが目まぐるしく過ぎていった。リアムとの再会、眠ったままのルーファス、戸惑うリカルド、そして昨夜、外廊で言葉を交わしたゼノ。

 掌に落ちてきた小さな光の花を思い出す。

『前に見せてくれた花火、覚えてる?』

『覚えてるけど』

 何でもないことのように返された言葉が、朝になっても耳に残っていた。

 夢ではなかったことなら、枕元の小卓に置かれた貝殻が教えてくれる。昨日、海辺で男の子にもらったもので、白く滑らかな表面の縁だけが桃色を帯びていた。

 シアはしばらくそれを眺め、毛布の中で息を吐く。

 昨夜、ゼノと話している間は忘れていられた不安が、朝になると再び胸の内に広がっていた。

 みんな、生きている。それだけで充分だと思っていたはずなのに、自分が知っている一年を誰も知らないという事実は、思っていたより寂しかった。

 だからといって、今ここにいる彼らが偽物なわけでもない。分かっているのに気持ちが追いつかず、考えれば考えるほど同じところを回ってしまう。

 もう一度眠ってしまおうかと毛布に顔を埋めたところで、控えめな音を立てて扉が叩かれた。

「シア。起きてるか」

 聞き慣れた声に、シアは毛布から顔だけを出した。

「……起きてない」

「じゃあ入るぞ」

「起きてないって言ったのに!」

 慌てて身体を起こすのとほとんど同時に扉が開き、リアムがひょいと顔を覗かせる。寝台の上で毛布を抱えたシアを見つけると、案の定という顔をした。

「起きてるじゃないか」

「今起きたの」

「朝食は?」

「まだ」

 寝起きなのだから当然だと言わんばかりに答えたシアへ、リアムは疑わしそうな目を向ける。

「食堂にも来てないだろ」

「今起きたって言ってるでしょ」

「侍女が一刻前に起こしたって言ってたぞ」

 シアは返す言葉に詰まった。リアムは何も言わず、ただこちらを見ている。昔から、この幼馴染にはこういう嘘が驚くほど通じない。

「……お腹空いてないの」

 観念して白状すると、リアムは小さく息を吐いた。

「昨日の夕食も残しただろ」

「見てたの?」

「同じ卓にいたんだから見るだろ」

 呆れたように言いながら、リアムは扉を閉めて寝台の脇まで来ると、手に提げていた小さな籠を置いた。

「何それ?」

「食え」

 素っ気ない一言に促されて中を覗けば、小さな丸パンと果物、それから紙に包まれた焼き菓子まで入っている。

「持ってきてくれたの?」

「厨房でもらっただけだ」

「リアムが?」

 思わず聞き返すと、リアムは何がそんなに不思議なのかと眉を寄せた。

「悪いか」

「悪くないけど」

 少し意外に思いながら丸パンをひとつ手に取ると、まだ温かかった。半分にちぎって口へ運べば、小麦の素朴な甘みが広がる。昨日の夕食は何を食べてもほとんど味がしなかったのに、今朝はちゃんと、おいしいと思えた。

「おいしい」

「そうか」

 リアムはそれ以上何も聞かず、籠から果物をひとつ取ると、窓辺の椅子へ腰を下ろした。

 どうして元気がないのかと問い詰めることもなく、リアムはシアが二口目を食べるところまで見届けた。ようやく安心したらしく背もたれへ身体を預け、手にした果物を眺める。

「昔からそうなんだよな」

「何が?」

「落ち込むと飯食わなくなる」

「……私、落ち込んでないよ」

 反射的に否定したものの、リアムは信じていないらしい。果物にナイフを入れながら、こちらを見もしないで言葉を続ける。

「じゃあ、しょぼくれてる」

 パンを持っていた手が、ぴたりと止まった。

「それ、昨日も言われた」

「誰に」

「ゼノ」

 名前を聞いた途端、果物を剥いていたリアムの手が止まり、怪訝そうな視線が向けられる。

「……何でゼノさんがお前のこと、しょぼくれてるって知ってるんだ?」

「たまたま会っただけ」

 どこで、とまでは言わなかった。花火のことも、掌に咲いた小さな光の花も、今はまだ自分の中だけに置いておきたかった。

「それで、ゼノさんは何て?」

「なーにしょぼくれてんの、聖女サマって」

「……あの人は、またそんなことを」

 即座に返ってきた言葉がおかしくて、シアは少し笑った。

「リアムも同じこと言ったじゃん」

「俺はいいんだよ」

「なんで?」

 リアムは手元の果物から目を上げず、何でもないことのように答える。

「昔から知ってるから」

 当然のように返され、シアは目を瞬いた。

 言った本人は気に留めた様子もなく、ナイフを滑らせるたび、果物の皮が細長く垂れていく。食べやすい大きさに切ると、そのうちのひとつを差し出してきたので、シアも何も考えずに受け取って口へ入れ、それからふと気づいた。

 これも昔からだった。

 最後の一年を知らなくても、リアムはシアが幼い頃に木から落ちて泣いたことを知っている。喧嘩をすると意地を張ることも、嫌いな野菜を皿の端へ寄せることも、落ち込めば食事を忘れるくせに、あとでお腹が空いたと騒ぐことも知っていた。

 きっとシアだって同じだ。リアムが眠いときほど口数が少なくなることも、怒っているように見えて本当に怒っていることは案外少ないことも、果物の皮を剥くのが昔から自分より上手なことも知っている。

 シアだけが覚えている一年がなくても、二人のあいだに積み重なった時間までなくなったわけではないのだ。

 そう思ったとき、昨日リカルドに言った言葉が蘇った。

『まだ友達じゃないんだね』

 そして、そのあとに続けた言葉も。

『じゃあ、これからなればいいね』

 あのときは半分、自分自身へ言い聞かせていたのかもしれない。

 なくなった時間ばかり見ていたけれど、すべてがなくなったわけではない。それに、まだないのなら、これから作ればいい。

 シアは残ったパンを噛みながら、春の光が差し込む窓の向こうへ目を向けた。

「リアム」

「何だ」

「友達って、どうやってなるんだっけ」

 リアムは手を止め、何を言い出したのかとでもいうように顔を上げた。

「……朝から何の話だ?」

「だから、友達。どうやったらなれるの?」

「気づいたらなってるものだろ」

 幼い頃から一緒にいるリアムらしい答えだ。けれど、それでは困る。リカルドと自然に友達になれる日を、のんびり待っているつもりはなかった。

「それじゃ困るの。今すぐなりたいから」

「誰と」

 怪訝そうに尋ねられた瞬間、頭の中に青い髪と銀縁の眼鏡が浮かんだ。

「リカルド!」

「は?」

 シアは残っていたパンを口に放り込み、勢いよく毛布を跳ね除けた。

「昨日、友達になろうって言ったの」

「リカルド様に?」

「うん」

「それで?」

「何でって言われた」

 リアムは驚きもせず、むしろ当然だと言いたげな顔になる。

「だろうな」

「だから今日、もう一回行ってくる」

「待て。何しに」

「友達になりに!」

 そう言って寝台から飛び降りると、リアムが何か言っていたけれど、もう半分も耳へ入らなかった。

 リカルドが自分を知らないのなら、また知ってもらえばいい。なくなった一年と同じものを取り戻すことはできなくても、今日から増やせるものならある。

 そう考えたら、じっとしている理由などなかった。

「シア!」

 そのまま部屋を飛び出そうとしたところで、背後からリアムに肩を掴まれ、足が止まった。

「なに!」

「寝間着で行くな」

 勢いを止められたシアは、そこでようやく自分の格好を見下ろした。

「あ」

「あと髪も梳かせ」

「……はい」

 背後から落ちてきたリアムの深い溜め息に肩を竦め、それでもシアは笑った。

 昨日の朝よりは、ずっと自然に。