世界が忘れた約束を、聖女はまだ知らない。

 研究室の場所は、考えなくても身体が覚えていた。

 王城の西棟を進み、その奥にある細い階段を下りていく。魔法研究用の区画へ入る頃には人の気配も少なくなり、廊下には紙とインク、それから薬品の混ざった独特の匂いが漂っていた。その匂いを吸い込むだけで、ここへ何度も通った日々が懐かしく蘇ってくる。

 もっとも、今の自分がここへ来たことがあるのかどうか、シアには分からない。

 部屋に残されていた本も、予定表も、失踪する前にリアムと交わしたという会話も覚えていなかった。ならば、この研究室へ続く道を知っているのも、時間が巻き戻る前の一年間に何度となく通った記憶が残っているからなのだろう。

 扉の前まで来ると、シアは一度息を吸った。

 リカルドはいるだろうか。いたとして、彼は自分をどんな顔で見るのだろう。

 そんなことを考えながらノックをしようと手を上げたところで、内側から扉が開き、紙束を抱えた青年が出てきた。

 青い髪に黄水晶色の瞳、そして細い銀縁の眼鏡。見間違えるはずもない姿に、シアの胸は弾んだ。

「リカルド!」

 名前を呼んだときには、もう身体が動いていた。

 紙束を抱えたままのリカルドへ勢いよく抱きつくと、彼の身体が強張る。けれど、いつまで待っても背中に腕が回ってくる気配はなく、代わりに頭上から聞こえてきたのは、戸惑いを隠しきれない声だった。

「……聖女様?」

 その呼び方に、今度はシアが動きを止めた。

 ゆっくり身体を離すと、リカルドは珍しく完全に困惑した顔でこちらを見下ろしている。

「何をなさっているんです?」

「……ごめん」

「謝罪より先に、説明していただきたいのですが」

 もっともである。
 だがしかし、会えたのが嬉しくて抱きついたのだと説明したところで、今のリカルドにはますます意味が分からないだろう。

 シアが返事に困っている間に、傾いた紙束から数枚の紙が滑り落ちた。

「あっ」

 慌ててしゃがみ込み、床に散らばった紙を拾う。術式の修正案、魔力の観測記録、薬品の配合表。どれも見慣れた書類ばかりで、シアは考えるより先に種類ごとに分けて重ねていく。

「こっちが観測記録で、これは術式。あ、この紙は下に入れちゃ駄目なんだよね。インクが移るから」

 夢中で紙を分けているうちに、リカルドから返事がないことに気づいた。顔を上げると、黄水晶色の瞳がじっとシアの手元へ向けられている。

「……なに?」

「なぜご存じなんです?」

「え?」

「その分け方です。私以外は誰も使いません」

 その問いに、紙を揃えていたシアの手が止まった。

 知っているに決まっている。何度もこの研究室に来て、散らかった紙を勝手に片づけようとしては怒られ、それでも懲りずに手伝っているうちに、本人にしか分からないような分類まで覚えてしまったのだから。

 けれど、それはこれから先の話だ。

 千年祭の頃だった。リカルドと親しくなった日のことを、シアは今でもよく覚えている。

 彼がゼノを相手に何かの実験をしようとしているところへ、たまたまシアが顔を出した。何がどう間違ったのか、本来ゼノへ向かうはずだった魔法はシアに飛んできて、翌朝には頭から小さな葉が一本生えていたのである。

 鏡を見て固まるシアの隣で、リカルドは顔色を失い、ゼノは腹を抱えて笑っていた。結局、葉は一日で消えたけれど、あの騒ぎを境に研究室へ出入りするようになり、気づけば三人でくだらない話をすることも増えていた。

 けれど、それはまだ起きていない出来事だ。今のリカルドにとって、シアは友達ではない。

「……まだ友達じゃないんだね」

「何のお話です?」

 シアは拾った紙を揃えて立ち上がり、リカルドへ差し出した。

「じゃあ、これからなればいいね」

「何の話ですか」

 困惑したように眉間を押さえる仕草は、シアの知っているリカルドと何も変わらない。その姿がおかしくて少し笑うと、ますます怪訝そうな顔をされた。

「それより、ルーファスのことを教えて」

 名前を出した途端、リカルドの表情から困惑が消えた。

「……中へどうぞ」

 促されて研究室へ入ると、机の上にはいくつもの記録用紙が広げられており、その中には先ほどルーファスの部屋で見た測定器と同じ形を描いた図もあった。リカルドは紙束を机の端へ置き、数枚の記録を選んでシアの前へ並べる。

「四日前から意識が戻っていません。外傷も毒物反応もなく、原因はまだ特定できていない状態です」

「黒い線は?」

「三日前に確認しました。少しずつ広がっています。組成は特定できていませんが、少なくとも毒でも、通常の魔力障害でもありません」

「止められない?」

「正体が分からない以上、下手に干渉するほうが危険です。今のところ、黒い線が眠りの原因なのかどうかも分かっていません」

 シアは記録に目を落とした。

 黒い線は、最後の神殿でルーファスの身体を這い、やがて彼を覆い尽くした厄災とよく似ている。

 けれど、こんなものはなかった。

 シアの知っている千年祭では、ルーファスは眠ってなどいなかった。聖騎士としていつものようにシアのそばにいて、リアムもリカルドもゼノも一緒に、五人で祭りを回ったのだ。

 あの日から一年近く経った春に、厄災との最後の戦いは起きた。それなのに、まだ千年祭すら始まっていない今、ルーファスの身体にはすでにあの黒いものがある。

「……前は、なかったのに」

「聖女様?」

 思わず零れた声に、シアは顔を上げた。

「ううん。何でもない」

「そうですか」

 リカルドは気になったようだったが、それ以上は尋ねてこなかった。

「私も手伝う」

「聖女様に研究補助をお願いするつもりはありません」

「シアでいいよ」

「何がです?」

「聖女様じゃなくて、シア」

 リカルドが眼鏡の向こうで眉を寄せる。

「友達になるなら、そのほうがいいでしょ?」

「ですから、なぜ友人になることが決定しているんです」

「なるから」

「会話になっていませんよ」

 呆れた声まで知っているものと同じで、シアはとうとう笑ってしまった。

 そのとき、研究室の扉が二度叩かれた。返事を待たずに開いた隙間から、オレンジ色の髪が覗く。

「いる? っていうか、いるよね。どうせ今日もここに――あ」

 緑の瞳がシアを見つけた。

「聖女サマ」

「ゼノ」

「やっと見つかったんだ」

 ゼノは驚いたように瞬きをしたあと、すぐにいつもの笑みを浮かべた。

「四日もどこほっつき歩いてたの。リアム、怖い顔して探してたよ」

「私だって好きでいなくなったんじゃないよ。気づいたら海辺にいたの」

「何それ。漂流?」

「違う」

「じゃあ家出?」

「もっと違うよ」

「残念。面白い話かと思ったのに」

 軽い声も、笑うときに少しだけ目を細める癖も、シアの知っているゼノだった。

 昨年の秋、聖女になったばかりの頃に出会ってから、何度この調子に振り回されただろう。国一番の魔法使いだと聞いて身構えていたのが馬鹿らしくなるほど気ままで、会えばくだらない冗談を言い、聖女という立場に慣れずにいたシアを何度も笑わせてくれた人だ。

 同じ聖女と呼ばれているのに、リカルドの口から聞いたときとは違って、ゼノの「聖女サマ」は記憶の中にあるものと少しも変わらなかった。

「何。俺の顔になんかついてる?」

「ついてないよ」

「じゃあ何でそんな見るの」

「……ゼノだなあって思って」

「何それ。四日で忘れた?」

「忘れてない」

「ならよかった」

 ゼノは笑った。それだけのやり取りなのに、張り詰めていた気持ちが少しずつ解けていく。

 リカルドとは、まだ友達になる前だった。ルーファスには、シアの知らない異変が起きている。それでも昨年の秋に出会い、自分を何度も笑わせてくれたゼノとの時間は、ここにもちゃんと残っていた。

 何もかもが変わってしまったわけではない。

 そう思えたことが嬉しくて、シアは小さく笑った。ゼノは不思議そうにこちらを見ていたけれど、今はその理由を説明するつもりはなかった。