世界が忘れた約束を、聖女はまだ知らない。

 王都に戻った頃には、日が傾き始めていた。

 シアが戻ったという知らせは瞬く間に広がったらしい。城門を抜けるなり、騎士だけでなく神官や王城の役人まで次々と駆け寄ってきて、居場所を尋ねる声や、怪我や体調を案じる声が重なり、答える間もないほどだった。

 無事ですと何度繰り返したのか分からないうちに、今度は医務官に半ば強引に診察室へ連れていかれ、怪我も病気もないと認めてもらうまで、ルーファスのところへ行くことは許されなかった。

「だから先に休めって言っただろ」

 ようやく解放されて廊下に出ると、壁際で待っていたリアムが呆れたように言った。

「ルーファスに会ってから」

「逃げないぞ」

「分かってるよ。でも、今日がいいの」

 リアムはまだ何か言いたそうにしていたが、シアの顔を見ると、それ以上は口にしなかった。

「その前に着替えろ。砂まみれだ」

 言われて自分の裾を見下ろせば、海辺を歩き回った名残がしっかり残っている。さすがにこのままではルーファスの部屋に入れないと納得し、シアはリアムとともに自室へ戻ることにした。

 扉を開けると、窓辺の机も、寝台の脇に置かれた花瓶も、棚に並ぶ本の背表紙も、目を閉じれば思い浮かべられるほど見慣れた場所にあった。

 だからこそ、机の上に伏せられた一冊の本が目についた。手に取ってみれば自分の本に間違いないのに、ここまで読み進めた記憶がない。隣には茶を飲んだあとのカップが残され、予定表には身に覚えのない予定が書き込まれている。

 見覚えのある字に、シアは予定表を持ち上げた。

「……これ、私が書いたの?」

 扉のそばにいたリアムが近づき、横から予定表を覗き込む。

「お前の字だろ」

「そうなんだけど……」

 文字は間違いなく自分のものなのに、これを書いた瞬間も、茶を飲みながら本を閉じたことも、シアの記憶にはなかった。

 一年前に戻ったのなら、ここにあるものはすべて、自分が一度経験した過去の中にあるはずだ。それなのに、この部屋にはシアの知らない「昨日」が残っている。

「私、いついなくなったの?」

「四日前の朝だ。侍女が来たときにはもういなかった。前の晩までは普通にいたぞ」

「リアムは会った?」

「夕方にな。稽古しただろ」

 その言葉にも覚えがなく、シアは手元の予定表へ目を落とした。

 そこには自分の字があり、茶を飲んだあとのカップも、途中まで読んだ本も残っている。誰かがシアのふりをしてここで暮らしていたようには見えない。自分の知らない時間を過ごした自分が、四日前まで確かにここにいたのだ。

「シア」

 リアムに呼ばれて顔を上げると、案の定、こちらをじっと見ていた。

「また考え込んでる」

「……うん」

「今すぐ分からないことまで考えるな。ルーファス様に会うんだろ」

 予定表を握ったままの手に目を落とし、シアは小さく頷いた。今ここで考え続けても答えが出ないことは、自分でも分かっている。

「そうだね」

 予定表を机に戻すと、リアムには部屋の外で待っていてもらい、シアは急いで着替えを済ませた。

 再び廊下へ出ると、待っていたリアムとともに東棟へ向かう。

 ルーファスが眠っている部屋には薄く薬草の匂いが漂い、窓辺のカーテンは半分だけ開かれていた。

 夕暮れの光が差し込む寝台に、ルーファスはいた。

 最後に見たルーファスは、黒い靄に身体を覆われ、剣を支えにしてようやく立っていた。それなのに今は、何事もなかったように白い寝具の中で眠っている。傷も血も見えない姿を前にすると、あの神殿での出来事が、ずっと遠い日の記憶のように思えてしまう。

「……ルーファス」

 寝台の傍に近づいてそっと手を取ると、思っていたよりも冷たかった。シアはその指を両手で包み込み、眠ったままの顔を見つめる。

「ねえ」

 呼びかけても返事はない。

「私、戻ってきたよ」

 どこへ戻ってきたのか、自分でもうまく説明できない。それでも、彼には伝えたかった。

「だから、起きて」

 手の中で何かが動いた気がして、シアは息を呑んだ。

「リアム」

 呼びかけると、少し離れたところに立っていたリアムが顔を上げる。

「どうした?」

「今、指が……」

 言い終わらないうちに、寝台の傍らで小さな金属音が鳴った。

 二人でそちらを見れば、透明な石を嵌め込んだ測定器の針が、ゆっくりと右に動いている。

「これ、何?」

「リカルド様が置いていったものだ。ルーファス様の魔力の変化を測ってるらしい」

 シアはもう一度ルーファスの手を握り、眠ったままの顔を覗き込んだ。

「聞こえてるの?」

 針が微かに揺れた。

 ただの魔力の揺らぎかもしれない。握った手に反応したのだと決めつけるには、小さすぎる変化だ。

 それでもシアは冷えた指を両手で包み、もう一度呼びかけようとして、ふとルーファスの手首に目を留めた。

 そこには、細い黒い線が走っている。

 袖を少し捲ると、黒い線は皮膚の下を這うように、肘のほうへと伸びていた。

 その色と形に息を呑む。最後の神殿でルーファスの身体を覆っていたものと、よく似ている。ただ、あのときよりずっと薄く、今にも消えてしまいそうなほど細い。

「これ、いつから?」

 シアが手首を示すと、リアムも寝台のそばへ歩み寄った。

「俺には分からない。リカルド様なら何か知ってるかもしれないけど」

「リカルドは?」

「研究室だと思う。ここ数日はほとんど寝てないみたいだから」

 シアはルーファスの袖を元に戻し、その手を寝具の上へそっと置いた。

 黒い線の原因を聞きたいのはもちろんだが、それ以上に、ただリカルドの顔が見たかった。あの神殿で一緒にいた彼が、ここにもちゃんといることを、自分の目で確かめたい?

「行ってくる」

 そう告げて立ち上がると、リアムも一緒に部屋を出ようとした。

「俺も行く」

「リアムはここにいて」

 足を止めた彼に、シアは寝台のほうを示した。

「ルーファスを一人にしたくないから。私は大丈夫だよ」

 リアムは寝台に視線を移し、しばらくしてから頷いた。

「分かった」

 シアはもう一度だけルーファスの眠る姿を振り返り、静かに部屋を出た。