「──シア?」
名前を呼ばれた途端、考えるより先に足が動いた。祭りの飾りを運ぶ荷車を避け、人の間を縫うように抜けて、シアはまっすぐリアムのもとへ駆けていく。
向こうも一瞬遅れて駆け出した。人混みを抜けて近づいてきたリアムは、あと数歩というところで急に足を緩め、本当にそこにいるのか確かめるようにシアを見つめた。
「お前、どこに――」
「後ろ向いて」
「……は?」
「いいから、早く!」
ようやく見つけた幼馴染から最初に言われる言葉としては相当おかしかったらしく、リアムは眉を寄せた。それでもシアが譲らないと分かると、納得のいかない顔をしながら背を向けてくれる。
シアはその背中へ手を伸ばし、右肩から斜め下へ掌を滑らせていった。
「おい、何してるんだ」
「動かないで。ちょっとだけだから」
リアムは何か言いたげに身じろぎしたが、シアが手を離さないので諦めたらしい。
あの神殿で黒い奔流に抉られ、どれだけ神聖力を注いでも最後まで塞ぎきれなかった場所。けれど今、指先に触れるのは厚い騎士服の乾いた布だけで、その下から血が滲むことも、痛みに身体が強張ることもない。
もう一度そっと掌を当てると、布越しに温かな体温が伝わってきた。
「……ない」
「何が?」
「傷が、ないの」
リアムが肩越しに振り返る。シアは最後にもう一度だけ右肩へ触れ、それからゆっくりと手を下ろした。
血の匂いもしない。あの傷は、どこにもなかった。
「よかった……」
声にした途端、海辺で目を覚ましてからずっと張り詰めていた気持ちが緩み、シアは思わず俯いた。
リアムは何も言わずにシアを見つめていたが、不意に腕を伸ばし、その身体を強く抱き寄せた。
「失踪しておいて、最初の言葉がそれか」
耳元で聞こえた声は少し怒っている。けれど、背中に回された腕は温かく、シアは目を閉じて彼の騎士服を握りしめた。
「何日探したと思ってる。王都だけじゃない。港も街道も、近隣の村まで騎士を出したんだぞ」
責めるような言葉とは裏腹に、リアムはなかなか腕を離そうとしない。シアは彼の胸元に額を寄せ、小さな声で謝った。
「……ごめんなさい」
「本当に、何してたんだよ」
その声を聞いていると、幼い頃の記憶が次々と蘇ってくる。
家が隣同士だった頃、木登りをして二人揃って叱られたことも、泣きながら喧嘩した翌朝には何事もなかったように一緒に朝食を食べたことも、リアムは覚えている。シアが知っているこの先の一年を、彼はまだ経験していない。それでも、幼い頃から積み重ねてきた二人の時間まで失われたわけではないのだ。
今は、それだけで充分だった。
やがて腕が離れると、リアムはシアの頭から足元まで視線を動かし、怪我がないと分かると、ようやく表情を緩めた。
「怪我は? 痛いところはないか?」
「大丈夫だよ。リアム、心配性になってない?」
「誰のせいだと思ってる」
昔から変わらない返事がおかしくて、シアはようやく笑った。するとリアムの眉間からも力が抜け、いつもの見慣れた顔に戻っていく。
「あ、そうだ」
シアは手に持っていた包みを思い出し、リアムに差し出した。
「これ、リアムに」
「何だ?」
「お菓子。好きでしょ」
「嫌いじゃないけど……今?」
「今」
怪訝そうに包みを開いたリアムは、まだ少し温かい焼き菓子を取り出すと、何のためらいもなく口へ運ぼうとする。
「待って!」
シアは慌ててその腕を掴んだ。
「熱いから、ちゃんと冷まして」
「子どもじゃないんだぞ」
「知ってるけど、火傷するから!」
妙に必死なシアを見て、リアムはしばらく黙っていたが、やがて諦めたように焼き菓子を包みに戻した。
「これでいいか?」
「うん!」
「……変なやつ」
「リアムに言われたくない」
そう返して笑ったところで、目の前の広場が記憶の中の光景と重なった。
あの日と同じ焼き菓子を持ったリアムがいる。一年前にも、こうして彼と笑い合ったことを覚えているのはシアだけだった。今こうして笑っている時間も、自分にとっては失った日々の続きなのに、リアムにとっては初めて迎えた今日なのだと思うと、嬉しいはずなのに少しだけ寂しかった。
「それで、シア」
リアムは焼き菓子を包み直すと、改めてシアへ向き直った。
「何があった?」
シアは答えようとして、言葉に詰まった。
どこから話せばいいのか、自分でも分からない。最後の神殿で起きたことはすべて覚えている。ゼノの光に呑み込まれ、気づけば最後の戦いから一年前の春にいた。けれど、ルーファスの眠りも、自分が数日前からいなくなっていたことも、ただ一年前に戻っただけでは説明がつかなかった。
「……海辺で目を覚ましたの」
「海?」
「その前のことは覚えてる。でも、どうして海辺にいたのかは分からなくて……気づいたら、千年祭の前に戻ってた」
リアムは眉を寄せた。何を言っているのか分からないという顔をしていたが、すぐに問い返すことはせず、しばらく考えたあとで短く息を吐いた。
「じゃあ、今はそれでいい」
「……信じるの?」
「お前が分からないって言ってることを、俺に分かるわけないだろ。今ここで問い詰めたって、答えられないんだろ?」
シアが頷くと、リアムはそれ以上尋ねようとしなかった。
昔から、リアムはこういうところがある。無理に分かったふりをしないくせに、分からないからといってシアの言葉まで疑わない。幼い頃から変わらないその受け止め方が、今はありがたかった。
「帰るぞ。詳しい話は城で聞く」
「待って、リアム」
歩き出そうとした彼を呼び止めると、リアムは足を止めて振り返った。
「ルーファスは?」
その名前を出した途端、リアムの表情が変わる。
「町で聞いたの。眠ってるって」
「……ああ。今も意識が戻らない」
「会わせて」
シアはリアムを見上げ、言葉を重ねた。
「帰ったら、すぐ会わせてほしいの。眠っていてもいいから」
理由を尋ねられると思った。けれどリアムは何も聞かず、一度だけ頷いた。
「分かった」
リアムは近くにいた騎士を呼び止め、聖女を発見したことを王都へ伝えるよう頼んだ。部下へ指示を出す声は落ち着いていて、先ほどまで自分に向けられていたものとはずいぶん違う。その横顔を眺めているうちに、シアの口元には自然と笑みが浮かんだ。
幼馴染の自分だけが知っている顔もあれば、騎士としての彼の顔もある。
やがて部下たちへの指示を終えたリアムが、繋いであった馬を連れて戻ってきた。
「一緒に乗れ。王都まで連れていく」
「うん」
先に馬へ跨ったリアムが差し伸べてくれた手を取り、シアもその後ろへ乗る。彼の腰に腕を回すと、馬はゆっくりと歩き始め、二人は祭りの準備で賑わう町をあとにした。
街道はいつもより混み合っており、荷馬車や旅人を避けながら進むため、思ったほど速度は出ない。先ほどまで晴れていた空には薄い雲が広がり始め、海から離れるにつれて潮の匂いも薄れていく。
やがて街道の向こうに、見慣れた王都の城壁が姿を現した。
知っている城へ、知っている人たちのいる場所へ。ようやく帰ってきたのだという実感が、シアの胸の奥に静かに広がっていった。
名前を呼ばれた途端、考えるより先に足が動いた。祭りの飾りを運ぶ荷車を避け、人の間を縫うように抜けて、シアはまっすぐリアムのもとへ駆けていく。
向こうも一瞬遅れて駆け出した。人混みを抜けて近づいてきたリアムは、あと数歩というところで急に足を緩め、本当にそこにいるのか確かめるようにシアを見つめた。
「お前、どこに――」
「後ろ向いて」
「……は?」
「いいから、早く!」
ようやく見つけた幼馴染から最初に言われる言葉としては相当おかしかったらしく、リアムは眉を寄せた。それでもシアが譲らないと分かると、納得のいかない顔をしながら背を向けてくれる。
シアはその背中へ手を伸ばし、右肩から斜め下へ掌を滑らせていった。
「おい、何してるんだ」
「動かないで。ちょっとだけだから」
リアムは何か言いたげに身じろぎしたが、シアが手を離さないので諦めたらしい。
あの神殿で黒い奔流に抉られ、どれだけ神聖力を注いでも最後まで塞ぎきれなかった場所。けれど今、指先に触れるのは厚い騎士服の乾いた布だけで、その下から血が滲むことも、痛みに身体が強張ることもない。
もう一度そっと掌を当てると、布越しに温かな体温が伝わってきた。
「……ない」
「何が?」
「傷が、ないの」
リアムが肩越しに振り返る。シアは最後にもう一度だけ右肩へ触れ、それからゆっくりと手を下ろした。
血の匂いもしない。あの傷は、どこにもなかった。
「よかった……」
声にした途端、海辺で目を覚ましてからずっと張り詰めていた気持ちが緩み、シアは思わず俯いた。
リアムは何も言わずにシアを見つめていたが、不意に腕を伸ばし、その身体を強く抱き寄せた。
「失踪しておいて、最初の言葉がそれか」
耳元で聞こえた声は少し怒っている。けれど、背中に回された腕は温かく、シアは目を閉じて彼の騎士服を握りしめた。
「何日探したと思ってる。王都だけじゃない。港も街道も、近隣の村まで騎士を出したんだぞ」
責めるような言葉とは裏腹に、リアムはなかなか腕を離そうとしない。シアは彼の胸元に額を寄せ、小さな声で謝った。
「……ごめんなさい」
「本当に、何してたんだよ」
その声を聞いていると、幼い頃の記憶が次々と蘇ってくる。
家が隣同士だった頃、木登りをして二人揃って叱られたことも、泣きながら喧嘩した翌朝には何事もなかったように一緒に朝食を食べたことも、リアムは覚えている。シアが知っているこの先の一年を、彼はまだ経験していない。それでも、幼い頃から積み重ねてきた二人の時間まで失われたわけではないのだ。
今は、それだけで充分だった。
やがて腕が離れると、リアムはシアの頭から足元まで視線を動かし、怪我がないと分かると、ようやく表情を緩めた。
「怪我は? 痛いところはないか?」
「大丈夫だよ。リアム、心配性になってない?」
「誰のせいだと思ってる」
昔から変わらない返事がおかしくて、シアはようやく笑った。するとリアムの眉間からも力が抜け、いつもの見慣れた顔に戻っていく。
「あ、そうだ」
シアは手に持っていた包みを思い出し、リアムに差し出した。
「これ、リアムに」
「何だ?」
「お菓子。好きでしょ」
「嫌いじゃないけど……今?」
「今」
怪訝そうに包みを開いたリアムは、まだ少し温かい焼き菓子を取り出すと、何のためらいもなく口へ運ぼうとする。
「待って!」
シアは慌ててその腕を掴んだ。
「熱いから、ちゃんと冷まして」
「子どもじゃないんだぞ」
「知ってるけど、火傷するから!」
妙に必死なシアを見て、リアムはしばらく黙っていたが、やがて諦めたように焼き菓子を包みに戻した。
「これでいいか?」
「うん!」
「……変なやつ」
「リアムに言われたくない」
そう返して笑ったところで、目の前の広場が記憶の中の光景と重なった。
あの日と同じ焼き菓子を持ったリアムがいる。一年前にも、こうして彼と笑い合ったことを覚えているのはシアだけだった。今こうして笑っている時間も、自分にとっては失った日々の続きなのに、リアムにとっては初めて迎えた今日なのだと思うと、嬉しいはずなのに少しだけ寂しかった。
「それで、シア」
リアムは焼き菓子を包み直すと、改めてシアへ向き直った。
「何があった?」
シアは答えようとして、言葉に詰まった。
どこから話せばいいのか、自分でも分からない。最後の神殿で起きたことはすべて覚えている。ゼノの光に呑み込まれ、気づけば最後の戦いから一年前の春にいた。けれど、ルーファスの眠りも、自分が数日前からいなくなっていたことも、ただ一年前に戻っただけでは説明がつかなかった。
「……海辺で目を覚ましたの」
「海?」
「その前のことは覚えてる。でも、どうして海辺にいたのかは分からなくて……気づいたら、千年祭の前に戻ってた」
リアムは眉を寄せた。何を言っているのか分からないという顔をしていたが、すぐに問い返すことはせず、しばらく考えたあとで短く息を吐いた。
「じゃあ、今はそれでいい」
「……信じるの?」
「お前が分からないって言ってることを、俺に分かるわけないだろ。今ここで問い詰めたって、答えられないんだろ?」
シアが頷くと、リアムはそれ以上尋ねようとしなかった。
昔から、リアムはこういうところがある。無理に分かったふりをしないくせに、分からないからといってシアの言葉まで疑わない。幼い頃から変わらないその受け止め方が、今はありがたかった。
「帰るぞ。詳しい話は城で聞く」
「待って、リアム」
歩き出そうとした彼を呼び止めると、リアムは足を止めて振り返った。
「ルーファスは?」
その名前を出した途端、リアムの表情が変わる。
「町で聞いたの。眠ってるって」
「……ああ。今も意識が戻らない」
「会わせて」
シアはリアムを見上げ、言葉を重ねた。
「帰ったら、すぐ会わせてほしいの。眠っていてもいいから」
理由を尋ねられると思った。けれどリアムは何も聞かず、一度だけ頷いた。
「分かった」
リアムは近くにいた騎士を呼び止め、聖女を発見したことを王都へ伝えるよう頼んだ。部下へ指示を出す声は落ち着いていて、先ほどまで自分に向けられていたものとはずいぶん違う。その横顔を眺めているうちに、シアの口元には自然と笑みが浮かんだ。
幼馴染の自分だけが知っている顔もあれば、騎士としての彼の顔もある。
やがて部下たちへの指示を終えたリアムが、繋いであった馬を連れて戻ってきた。
「一緒に乗れ。王都まで連れていく」
「うん」
先に馬へ跨ったリアムが差し伸べてくれた手を取り、シアもその後ろへ乗る。彼の腰に腕を回すと、馬はゆっくりと歩き始め、二人は祭りの準備で賑わう町をあとにした。
街道はいつもより混み合っており、荷馬車や旅人を避けながら進むため、思ったほど速度は出ない。先ほどまで晴れていた空には薄い雲が広がり始め、海から離れるにつれて潮の匂いも薄れていく。
やがて街道の向こうに、見慣れた王都の城壁が姿を現した。
知っている城へ、知っている人たちのいる場所へ。ようやく帰ってきたのだという実感が、シアの胸の奥に静かに広がっていった。



