世界が忘れた約束を、聖女はまだ知らない。

 母子と別れたあと、シアは町の広場へ向かった。

 色鮮やかな布を掛けた屋台が並び、花屋の前にはいくつもの花籠が積まれている。祭りで配る菓子を焼いているのか、甘い匂いが漂う通りを抜けながら、シアは広場の中央に立てかけられた看板へ目を向けた。

 そこには建国千年を祝う言葉とともに、今年の年号が大きく記されていた。

 人の流れから外れて看板に近づき、記された年号を確かめる。見間違いかと思ってもう一度目を凝らしてみても、最後の戦いからちょうど一年前を示す数字は変わらなかった。

「……本当に?」

 思わず呟いてみても、目の前の数字が変わるわけではない。

 けれど、シアの覚えているルーファスは、この頃まだ眠ってなどいなかった。

 千年祭の式典に出席したあと、堅苦しい挨拶からようやく解放されたと笑っていた。シアたちと王都へ繰り出し、人混みの中でゼノを見失いかけ、リカルドが露店の商品を妙に真剣な顔で観察していたことまで覚えている。

 同じ季節で、同じ祭りを待つ人々がいて、最後の戦いまではまだ一年あるはずなのに、どうしてルーファスは眠っているのだろう。

 考えても答えは出ず、シアは看板の前を離れた。

 甘い匂いに誘われて顔を上げると、すぐ近くの屋台で丸い焼き菓子が鉄板の上へ並べられていた。果実を煮詰めた蜜を生地に包んだもので、薄く焦げ目のついた表面から湯気が立っている。

 見た瞬間、記憶の中から声が蘇った。

『熱っ』

 焼きたてを一口で食べたリアムが、珍しく大きな声を上げた。

『だから熱いって言ったのに!』

『言うのが遅い』

『食べるのが早いんだよ』

 横でゼノが笑い、リカルドが呆れ、ルーファスまで肩を揺らしていた。

「お嬢さん、買うかい?」

 屋台の主人に声をかけられ、シアは我に返った。

「……ひとつください」

「あいよ。今焼けたところだから、気をつけな」

 紙に包まれた菓子を受け取ると、掌にじんわりと熱が伝わってくる。

 今度は、リアムが火傷する前に止めよう。

 そんな小さなことを考えた途端、失ったはずの日々が、急に手の届くところへ戻ってきたような気がした。あの菓子を食べて、熱いと言って、皆で笑う。そんな何気ない時間を、もう一度四人と過ごせるのかもしれない。

 最後に見たリアムは血に濡れていた。自分を庇って背中に深い傷を負い、それでも剣を拾って立ち上がった彼が、今ならまだ傷ひとつない姿で王都にいるかもしれない。

 そう思えば、じっとしてはいられなかった。

「王都行きの馬車って、どこから出ていますか?」

「馬車? 今日は祭り前だから混んでるぞ。広場を東へ抜けたところに乗り場があるが、朝の便はもう出たんじゃないか」

「ありがとうございます!」

 礼を言って駆け出したシアだったが、手にした菓子が潰れそうになり、慌てて速度を落とした。教えられたとおり広場を東へ抜けた先には馬車乗り場があり、道へはみ出すほどの長い列ができている。

「王都へ? 今日は無理だね」

「そこをなんとか……」

「なんとかって言われてもねえ。今日の王都行きはもう満席なんだよ。明日の朝の便まで空きはないね」

 御者にそう言われ、シアは肩を落とした。

 聖女だと名乗れば、馬の一頭くらい用意してもらえるかもしれない。けれど今は、その聖女が行方不明になっているという。突然現れて自分だと名乗れば、余計な騒ぎになるだけだろう。

 王都まで歩けば相当な時間がかかる。それでも明日の朝まで待つくらいなら、馬を借りるか、途中まででも荷馬車に乗せてもらうほうが早いかもしれない。

 どうにか王都へ向かう手段はないかと考えながら広場へ戻ったところで、通りの向こうから馬の蹄の音が響いてきた。

 人々が道を空け、その間を数騎の騎馬が進んでくる。胸元に刻まれた紋章を見た瞬間、シアは息を呑んだ。

 王都の騎士だった。

 シアは人混みの向こうを見ようと背伸びをし、馬を降りた騎士たちがそれぞれ別方向へ散っていく姿を目で追った。

 その中の一人が、広場にいた兵士へ何かを尋ねている。

 黒い髪に、見慣れた背格好。腰に剣を佩いて兵士の話を聞く横顔を、シアは誰よりもよく知っていた。

「……リアム」

 名前が口から零れた瞬間、青年が振り返った。

 黒い瞳が人混みを越え、まっすぐシアを捉える。

 リアムの動きが止まり、シアもその場から動けなくなった。

 最後に見た彼は、立っていることさえ不思議なほど傷ついていた。それなのに今は、何事もなかったようにそこにいる。

 名前を呼んだ瞬間まで、確かめたいことはいくつもあったはずなのに、見慣れた黒い瞳を前にすると、何から話せばいいのか分からなくなってしまった。

 指から力が抜け、焼き菓子の包みが滑り落ちそうになったところで、シアは慌てて握り直した。