波の音が、すぐそばで聞こえた。
寄せては返す波が細かな砂をさらっていく。シアはしばらく目を閉じたまま、その音に耳を傾けていた。
指先を動かせば乾いた砂がさらさらと崩れ、潮の匂いを含んだ風が銀色の髪を揺らしていく。どこか遠くで海鳥が鳴き、それを追うようにもう一羽の声が重なったところで、深く沈んでいた意識がようやく浮かび上がった。
目を開けば、最初に見えたのはどこまでも青い空だった。
崩れかけた天井も、石床を這っていた黒い靄もない。眩しい光に目を細めながら身体を起こすと、髪から細かな砂が零れ落ちる。
「……海?」
目の前には、穏やかな海が広がっていた。陽を受けた水面は白く煌めき、波が寄せるたび、濡れた砂浜へ幾重もの細い筋を残していく。少し離れたところには岩場が続き、振り返れば背の低い草が生い茂る丘があって、その向こうには赤茶色の屋根がいくつか覗いている。
何事もなかったように波が寄せては返しているのに、シアの意識だけが、ついさっきまでいたはずの神殿に取り残されていた。
あの場所では、ルーファスもリアムも、リカルドも傷つきながら戦っていた。ゼノもいた。耳の奥には崩れる石の音さえ残っている気がして、そこまで思い出した途端、シアは弾かれたように自分の身体を見下ろした。
白を基調とした旅装は砂に汚れているだけで、どこにも破れたところがない。神殿の石床へ倒れ込んだときの痛みさえ、すっかり消えていた。
けれど身体が無傷だからといって、あそこで起きたことまで夢だったとは思えない。
ルーファスの身体を這い上がっていた黒い靄も、自分を庇ったリアムの背中から溢れた血の生温かさも、ひびの入った眼鏡のまま術式を書き続けていたリカルドの横顔も覚えている。
そして最後には、眩しい光の向こうにゼノがいた。
『ごめんな、シア』
そう言った直後、凄まじい光が彼の姿を呑み込んだ。
そこまでは覚えているのに、その先だけがすっぽりと抜け落ちている。
「ルーファス……?」
名前を呼びながら立ち上がり、シアは砂浜を見回した。
「リアム! リカルド!」
返事はない。
岩陰まで走って覗き込み、丘の近くまで視線を巡らせても、人影はどこにも見当たらなかった。息を切らして立ち止まれば、聞こえてくるのは規則正しい波と海鳥の声ばかり。神殿を揺るがしていた轟音も、今は嘘のように消えている。
その静けさがかえって不安で、シアは最後にもう一度、誰かが海から歩いてくることを期待するように水際へ目を向けた。
「ゼノは……?」
やはり答える声はない。
胸元に手を当てると鼓動は速いが、身体に異常はなかった。それどころか神聖力に意識を向けた瞬間、身体の奥から温かな力が満ちてくる。
試しに掌を開くと、白い光が柔らかく灯った。
「どうして……」
最後の戦いでは使い果たしたはずだった。リアムの傷を塞ごうとして、もう一度だけと何度願っても戻ってこなかった力が、今は何事もなかったように指先まで満ちている。
光を消し、潮風に乱れた髪を耳へ掛けながら周囲を見渡したところで、波打ち際から少し離れた砂の上に、不自然な跡が残っていることに気づいた。
細い線が幾重にも重なり、途中で途切れながら円を描いている。半分以上は波に削られ、どんな術式だったのか読み取れなかったが、近づけば微かな魔力の名残があった。
その魔力には、どこか覚えがあった。けれど、シアが確かめようと身を屈めたところへ波が寄せ、残っていた線の端をさらっていく。白い泡が引いたあとには、もう形らしい形も残っていなかった。
消えた線を睨んでいても答えは戻ってこないだろう。シアは膝についた砂を払って立ち上がった。
今は何が起きたのかを考えるより、四人を探すほうが先だ。
砂浜を離れて丘を越えると、海沿いの道へ出る。町までは思っていたより近く、荷車を引く商人や籠いっぱいの魚を抱えた男たちとすれ違い、道端では子どもたちが花を摘んでいた。
誰も逃げていない。黒い靄も、厄災に侵された土地もない。
そんな当たり前の光景に安堵しながら歩いていたシアは、町へ近づくにつれて、今度は別の違和感に足を鈍らせた。
家々の軒先には見覚えのある白と青の布が飾られ、通りを跨ぐ紐には星を模した飾りがいくつも吊るされている。広場では男たちが声を掛け合いながら大きな旗を掲げようとしており、風を孕んで開いた布の中央に、金糸で縫い取られた文字が見えた。
それを読んだ途端、シアの足が止まる。
「……千年祭?」
建国千年を祝う祭り。
その文字を読み違えるはずがないのに、シアはもう一度旗を見上げた。
千年祭は、去年の春に終わったはずだ。
大勢の人で賑わう王都を、リアムと、リカルドと、ルーファスと、ゼノと一緒に歩いた。屋台の匂いも、夜まで続いた人々の声も覚えている。なのに目の前の町では、これから祭りが始まるように誰もが忙しなく準備を続けていた。
「あら、大丈夫?」
背後から声をかけられ、シアは振り返った。
野菜を積んだ小さな荷車の傍らに、三十代ほどの女が立っている。その陰から幼い男の子が顔を覗かせ、砂のついたシアの裾をじっと見ていた。
「顔色が悪いわ。お水、飲む?」
「あ……ありがとうございます」
差し出された水筒を受け取り、一口飲んだところで、自分が思っていた以上に喉を渇かせていたことに気づいた。冷たい水をもう一口飲んでから返すと、男の子がシアを見上げる。
「お姉ちゃん、海から来たの?」
「え?」
「だって、砂いっぱいついてる」
言われて裾を見下ろした。確かに、どう見ても海から歩いてきた人間である。
「海から来た……のかな」
「分かんないの?」
「うん。私も、ちょっと分からなくて」
男の子はますます不思議そうに首を傾げたあと、ニッと笑って何かを差し出してきた。
「これあげる」
小さな手の上にあったのは、白い貝殻だった。縁のあたりだけが薄い桃色をしている。
「いいの?」
「うん。さっきもっと大きいの拾ったから」
「じゃあ、もらおうかな。ありがとう」
掌に乗せてもらった貝殻は、陽に温められていた。
男の子は満足そうに笑うと、今度は道端の青い花に気を取られたのか、母親の袖を引きながら走っていく。
貝殻を拾い、花を見つけただけで母親を呼べる。それが当たり前の世界を、シアはつい先ほど失いかけた。
掌に残る貝殻の温かさが、妙に嬉しい。
「綺麗な髪ねえ」
女がシアの銀髪を見ながら笑う。
「聖女様と同じ色だわ」
思いがけない言葉に、シアは女の顔を見つめた。
青い花を手に戻ってきた男の子が、母親の袖を引いた。
「聖女様、千年祭に来る?」
「どうかしら。今年は祝福の儀も難しいんじゃない?」
「なんで?」
「まだ見つかっていないんですって」
「……見つかっていない?」
思わず聞き返すと、女はシアの驚きなど知らずに話を続けた。
「聖女様よ。何日か前からお姿が見えないそうなの。王都から騎士も大勢出て、あちこち捜しているって聞いたわ」
聖女なら、ここにいる。
そう言いかけて、シアは口を閉ざした。身体は変わっていないし、神聖力もある。それなのに、目の前の女性の話では、自分は何日も前から行方不明になっているらしい。
「王都も大変でしょうね。聖騎士様まで倒れたそうだし」
「聖騎士……?」
「ルーファス様よ。もう何日も目を覚ましていないそうなの」
祭りの飾りを揺らし、春の風が通り抜けた。
男の子はシアの様子にも気づかず、摘んだ花を母親の荷車へ飾ろうとしている。
ルーファスが、何日も眠り続けている。
握りしめた貝殻の縁が、掌に食い込んだ。
「……ルーファスが?」
確かめるように呟いた声は、賑わい始めた町の中へ消えていった。
寄せては返す波が細かな砂をさらっていく。シアはしばらく目を閉じたまま、その音に耳を傾けていた。
指先を動かせば乾いた砂がさらさらと崩れ、潮の匂いを含んだ風が銀色の髪を揺らしていく。どこか遠くで海鳥が鳴き、それを追うようにもう一羽の声が重なったところで、深く沈んでいた意識がようやく浮かび上がった。
目を開けば、最初に見えたのはどこまでも青い空だった。
崩れかけた天井も、石床を這っていた黒い靄もない。眩しい光に目を細めながら身体を起こすと、髪から細かな砂が零れ落ちる。
「……海?」
目の前には、穏やかな海が広がっていた。陽を受けた水面は白く煌めき、波が寄せるたび、濡れた砂浜へ幾重もの細い筋を残していく。少し離れたところには岩場が続き、振り返れば背の低い草が生い茂る丘があって、その向こうには赤茶色の屋根がいくつか覗いている。
何事もなかったように波が寄せては返しているのに、シアの意識だけが、ついさっきまでいたはずの神殿に取り残されていた。
あの場所では、ルーファスもリアムも、リカルドも傷つきながら戦っていた。ゼノもいた。耳の奥には崩れる石の音さえ残っている気がして、そこまで思い出した途端、シアは弾かれたように自分の身体を見下ろした。
白を基調とした旅装は砂に汚れているだけで、どこにも破れたところがない。神殿の石床へ倒れ込んだときの痛みさえ、すっかり消えていた。
けれど身体が無傷だからといって、あそこで起きたことまで夢だったとは思えない。
ルーファスの身体を這い上がっていた黒い靄も、自分を庇ったリアムの背中から溢れた血の生温かさも、ひびの入った眼鏡のまま術式を書き続けていたリカルドの横顔も覚えている。
そして最後には、眩しい光の向こうにゼノがいた。
『ごめんな、シア』
そう言った直後、凄まじい光が彼の姿を呑み込んだ。
そこまでは覚えているのに、その先だけがすっぽりと抜け落ちている。
「ルーファス……?」
名前を呼びながら立ち上がり、シアは砂浜を見回した。
「リアム! リカルド!」
返事はない。
岩陰まで走って覗き込み、丘の近くまで視線を巡らせても、人影はどこにも見当たらなかった。息を切らして立ち止まれば、聞こえてくるのは規則正しい波と海鳥の声ばかり。神殿を揺るがしていた轟音も、今は嘘のように消えている。
その静けさがかえって不安で、シアは最後にもう一度、誰かが海から歩いてくることを期待するように水際へ目を向けた。
「ゼノは……?」
やはり答える声はない。
胸元に手を当てると鼓動は速いが、身体に異常はなかった。それどころか神聖力に意識を向けた瞬間、身体の奥から温かな力が満ちてくる。
試しに掌を開くと、白い光が柔らかく灯った。
「どうして……」
最後の戦いでは使い果たしたはずだった。リアムの傷を塞ごうとして、もう一度だけと何度願っても戻ってこなかった力が、今は何事もなかったように指先まで満ちている。
光を消し、潮風に乱れた髪を耳へ掛けながら周囲を見渡したところで、波打ち際から少し離れた砂の上に、不自然な跡が残っていることに気づいた。
細い線が幾重にも重なり、途中で途切れながら円を描いている。半分以上は波に削られ、どんな術式だったのか読み取れなかったが、近づけば微かな魔力の名残があった。
その魔力には、どこか覚えがあった。けれど、シアが確かめようと身を屈めたところへ波が寄せ、残っていた線の端をさらっていく。白い泡が引いたあとには、もう形らしい形も残っていなかった。
消えた線を睨んでいても答えは戻ってこないだろう。シアは膝についた砂を払って立ち上がった。
今は何が起きたのかを考えるより、四人を探すほうが先だ。
砂浜を離れて丘を越えると、海沿いの道へ出る。町までは思っていたより近く、荷車を引く商人や籠いっぱいの魚を抱えた男たちとすれ違い、道端では子どもたちが花を摘んでいた。
誰も逃げていない。黒い靄も、厄災に侵された土地もない。
そんな当たり前の光景に安堵しながら歩いていたシアは、町へ近づくにつれて、今度は別の違和感に足を鈍らせた。
家々の軒先には見覚えのある白と青の布が飾られ、通りを跨ぐ紐には星を模した飾りがいくつも吊るされている。広場では男たちが声を掛け合いながら大きな旗を掲げようとしており、風を孕んで開いた布の中央に、金糸で縫い取られた文字が見えた。
それを読んだ途端、シアの足が止まる。
「……千年祭?」
建国千年を祝う祭り。
その文字を読み違えるはずがないのに、シアはもう一度旗を見上げた。
千年祭は、去年の春に終わったはずだ。
大勢の人で賑わう王都を、リアムと、リカルドと、ルーファスと、ゼノと一緒に歩いた。屋台の匂いも、夜まで続いた人々の声も覚えている。なのに目の前の町では、これから祭りが始まるように誰もが忙しなく準備を続けていた。
「あら、大丈夫?」
背後から声をかけられ、シアは振り返った。
野菜を積んだ小さな荷車の傍らに、三十代ほどの女が立っている。その陰から幼い男の子が顔を覗かせ、砂のついたシアの裾をじっと見ていた。
「顔色が悪いわ。お水、飲む?」
「あ……ありがとうございます」
差し出された水筒を受け取り、一口飲んだところで、自分が思っていた以上に喉を渇かせていたことに気づいた。冷たい水をもう一口飲んでから返すと、男の子がシアを見上げる。
「お姉ちゃん、海から来たの?」
「え?」
「だって、砂いっぱいついてる」
言われて裾を見下ろした。確かに、どう見ても海から歩いてきた人間である。
「海から来た……のかな」
「分かんないの?」
「うん。私も、ちょっと分からなくて」
男の子はますます不思議そうに首を傾げたあと、ニッと笑って何かを差し出してきた。
「これあげる」
小さな手の上にあったのは、白い貝殻だった。縁のあたりだけが薄い桃色をしている。
「いいの?」
「うん。さっきもっと大きいの拾ったから」
「じゃあ、もらおうかな。ありがとう」
掌に乗せてもらった貝殻は、陽に温められていた。
男の子は満足そうに笑うと、今度は道端の青い花に気を取られたのか、母親の袖を引きながら走っていく。
貝殻を拾い、花を見つけただけで母親を呼べる。それが当たり前の世界を、シアはつい先ほど失いかけた。
掌に残る貝殻の温かさが、妙に嬉しい。
「綺麗な髪ねえ」
女がシアの銀髪を見ながら笑う。
「聖女様と同じ色だわ」
思いがけない言葉に、シアは女の顔を見つめた。
青い花を手に戻ってきた男の子が、母親の袖を引いた。
「聖女様、千年祭に来る?」
「どうかしら。今年は祝福の儀も難しいんじゃない?」
「なんで?」
「まだ見つかっていないんですって」
「……見つかっていない?」
思わず聞き返すと、女はシアの驚きなど知らずに話を続けた。
「聖女様よ。何日か前からお姿が見えないそうなの。王都から騎士も大勢出て、あちこち捜しているって聞いたわ」
聖女なら、ここにいる。
そう言いかけて、シアは口を閉ざした。身体は変わっていないし、神聖力もある。それなのに、目の前の女性の話では、自分は何日も前から行方不明になっているらしい。
「王都も大変でしょうね。聖騎士様まで倒れたそうだし」
「聖騎士……?」
「ルーファス様よ。もう何日も目を覚ましていないそうなの」
祭りの飾りを揺らし、春の風が通り抜けた。
男の子はシアの様子にも気づかず、摘んだ花を母親の荷車へ飾ろうとしている。
ルーファスが、何日も眠り続けている。
握りしめた貝殻の縁が、掌に食い込んだ。
「……ルーファスが?」
確かめるように呟いた声は、賑わい始めた町の中へ消えていった。



