世界が忘れた約束を、聖女はまだ知らない。

「ゼノ!」

 シアはローブの前を掻き合わせたまま、背中を向けているゼノを睨んだ。

「何!」

「言わなくていい!」

「俺が悪いの!?」

 悪いに決まっている。少なくとも、わざわざ口に出す必要はなかったはずだ。

 シアは熱を持った頬を隠すようにローブを引き上げ、今度はすぐ目の前にいるリカルドへ顔を向けた。眼鏡を奪われた彼には、こちらの姿はほとんど見えていないはずだ。それは分かっているのに、先ほどまで自分がどんな格好をしていたのかを考えると、まともに顔を見られなかった。

「リカルドも忘れて!」

「何をですか!」

「全部!」

「見えていません!」

「ほんとに!?」

「何度言わせるんですか!」

 リカルドは眼鏡を探しているらしく、片手を宙へ伸ばしている。その指先が見当違いの場所を彷徨うのを見れば、本当にほとんど何も見えていないのだろう。

 ただし、その顔は耳まで真っ赤だった。

「赤くなってる!」

「見えていないと言っているでしょう!」

「じゃあ何で赤いの!」

「知りません!」

 即座に返された声からは、普段の落ち着きがすっかり消えている。それが余計に怪しく思えて、シアはローブの中から疑うような目を向けた。

「絶対分かってる!」

「聖女様、とにかく眼鏡を返してください!」

「あ」

 そこでようやく、まだ自分が眼鏡を持っていたことを思い出した。

 右手を見ると、細い銀縁の眼鏡がしっかり握られている。慌てて差し出しかけたところで、ローブの下にはリカルドのシャツを一枚着ているだけだと思い出し、シアは伸ばしかけた手を勢いよく引っ込めた。

「無理!」

「なぜ!」

「今近づけない!」

 リカルドは何も見えないまま眉間に皺を寄せ、苛立ったように手を差し出す。

「では、そこに置いてください!」

「どこ!?」

「知りません!」

「リカルドが見えないからでしょ!」

「そうです!」

 自分で答えておきながら腹が立ったのか、リカルドの声が一段大きくなった。

 そのとき、少し離れたところから、堪えきれなかったような笑い声が漏れる。

 振り返れば、こちらに背を向けたままのゼノが肩を震わせていた。

「……ゼノ」

「無理……これは無理……」

「笑わないでよ!」

「だって、聖女サマ朝からずっと楽しそうだったのに、最後これって……」

「誰のせいだと思ってるの!」

「最初に実験魔法かけたリカルド?」

「お前も原因だ!」

 すかさずリカルドの怒声が飛び、ゼノの笑い声がますます大きくなる。

 シアも最初こそ恥ずかしさで顔から火が出そうだったが、状況が滅茶苦茶すぎて、だんだん怒っているのが馬鹿らしくなってきた。

 眼鏡を奪われ、ほとんど何も見えないまま怒っているリカルド。律儀に背中を向けながら笑っているゼノ。その真ん中で、借り物のローブを必死に掻き合わせて怒鳴っている自分。

 朝には、こんな一日になるなんて想像もしていなかった。

「……ふふ」

 一度零れた笑いは止まらなかった。

「聖女サマ?」

「だって……変なの」

 シアが笑えば、ゼノもまたつられるように笑い出す。

「いいから眼鏡を返してください!」

 リカルドだけは最後まで怒鳴っていた。

 シアは慌てて眼鏡を机の上に置き、リカルドの手を取ってその場所へ導いた。

「はい。ごめんね」

「……まったく」

 眼鏡を掛け直したリカルドは、深い溜め息をついた。

 ◇

 王城に戻った頃には、すっかり日が暮れていた。

 ゼノの家にあった服を借り、どうにか人前に出られる格好になったシアは、裏門を抜けたところで壁にもたれて待っていたリアムを見つけた。

「遅い」

「ごめん」

「日暮れまでに戻る約束だっただろ」

「うん。本当にごめんね」

 リアムはすぐには答えず、シアの後ろに立つ二人へ目を向けた。

「お二人にも、日暮れまでに戻してほしいとお願いしたはずですが」

「申し訳ない。こちらの不手際だ」

 リカルドが謝ると、ゼノも珍しく素直に頷いた。

「ごめんね。ちょっと色々あってさ」

「……何があったんです?」

「それは秘密」

「ゼノ!」

 シアが慌てて声を上げると、ゼノは悪びれもせず笑った。

 リアムは何か言いたげだったが、まずはシアへ向き直る。

「元に戻ったのか」

「うん!」

 証明するように両腕を広げてみせると、リアムは頭から足先までシアの姿を確かめた。朝には片腕で抱えられるほど小さくなっていた身体も、今は元通りである。それを自分の目で確かめて、ようやく安心したらしい。

「何もなかった?」

「……何も」

 一瞬だけ間が空いた。

 直後、背後でゼノが吹き出したので、シアは勢いよく振り返る。

「何もなかった!」

「はいはい」

「本当に!」

「分かったって」

 どう考えても信じていない顔で笑うゼノの隣で、リカルドは何も言わず、ただ眼鏡の位置を直した。

 その仕草を見た途端、先ほどまでの騒ぎが鮮明に蘇る。シアはまた熱くなりそうな頬を誤魔化すように顔を逸らした。

「何なんだ」

 リアムが怪訝そうに眉を寄せる。

「何でもないよ」

「そうは見えないけど」

「ほんとに何でもない」

 それ以上追及する気はないらしく、リアムは三人を順番に眺めてから肩の力を抜いた。

「ならいいけど……結局、一日何してたんだ?」

 尋ねられ、シアはすぐに答えようとして、少しだけ考えた。

 魔法の実験に巻き込まれ、子どもになって、初めてゼノの家へ行った。菓子を食べ、光の鳥を追いかけ、リカルドにいたずらをして、最後には思い出すだけでも恥ずかしい目に遭った。

 朝から起きたことをひとつずつ辿っているうちに、自然と笑みが浮かんでくる。

「友達ができたの」

「……誰と?」

 リアムに尋ねられ、シアは振り返った。

 リカルドは露骨に怪訝そうな顔をしている。ゼノは相変わらず、何がそんなに楽しいのか分からないような、いつもの笑顔を浮かべていた。

「二人と」

「俺は友人になったとは言っていません」

「えー!」

「ほら振られてんじゃん」

「ゼノも入ってるんだからね!」

「俺?」

「そうだよ!」

「いつ決まったの、それ」

「今日!」

「勝手だなあ」

 二人とも認めてくれない。

 それでも、シアの笑みは消えなかった。

 昨日までの一年は戻ってこない。

 けれど今日という一日は、ちゃんと自分のものになった。

「じゃあ、また明日ね」

 シアは二人へ向かって手を振った。

 リカルドが一瞬だけ黙り、何かを諦めたように息を吐く。

「……明日も研究室へ来るつもりですか?」

「うん」

「来るなと言っても?」

「行くよ」

 今度はもっと深い溜め息が返ってきた。

「なら、せめて入る前に声をかけてください」

「今日もかけたよ?」

「返事を待ってください」

「あ、そっか」

「本当に分かっているんですか……」

 呆れきった声だった。

 それでも、来るなとは言われなかった。

 そのことが嬉しくて、シアはもう一度笑い、今度こそ二人へ背を向けた。すぐにリアムが隣へ並び、歩き出してからちらりとこちらを見る。

「機嫌直ったな」

「うん」

「ならいい」

 それだけ言って前を向くリアムの隣を、シアも同じ歩幅で進んでいく。

 千年祭を待つ王都には、今夜も数えきれない灯りが揺れていた。春の夜風の向こうから人々の笑い声が聞こえ、祭りの準備をしているのだろう、どこか遠くでは木槌を打つ音も響いている。

 自分がどうしてここへ来たのかも、この先に何が待っているのかも、まだ分からない。

 それでも、明日になれば会いに行ける人がいる。また明日、と言える相手がいる。

 リアムと並んで歩きながら、シアは祭りの灯りが揺れる王都を見上げた。