世界が忘れた約束を、聖女はまだ知らない。

 目を覚ますと、窓の外が茜色に染まっていた。

 毛布の中で何度か瞬きをしてから、ぼんやりと天井を見上げる。眠っている間に、長椅子へきちんと寝かされていたらしい。身体を起こすと、昼間までの騒がしさが嘘のように部屋は静まり返り、ゼノは暖炉のそばで魔導具を弄り、リカルドは相変わらず机に向かっていた。

「……どれくらい寝てた?」

「一刻くらい」

 手元から目を上げることもなく、ゼノが答える。

「そんなに?」

「子どもはよく寝るねえ」

「子どもじゃない」

「はいはい」

 まるで取り合ってもらえず、シアは毛布を押し退けて長椅子から降りた。

 眠ったおかげか身体は随分と軽い。両腕を広げ、指先から足元まで確かめてみたけれど、姿はまだ小さいままである。

「リカルド」

「何ですか」

「まだ?」

「何度聞かれても答えは変わりません。術式が自然解除されるのを待つのが一番安全です」

「暇なの。遊ぼ」

「嫌です」

「即答ひどい!」

 抗議してみても、リカルドは振り向きさえしない。

 この家に着いてからずっと何かを書いたり調べたりしているというのに、よく飽きないものだ。

 シアは机の周りを意味もなく一周し、今度は反対側に回り込んで紙を覗いてみたが、やっぱり反応はなかった。

「リカルド」

「聞こえています」

「何書いてるの?」

「解除後の身体への影響を確認するための項目です」

「ふうん」

 紙いっぱいに並ぶ術式を眺め、何となく手を伸ばす。

「触らないでください」

「触ってないよ」

「触ろうとしていたでしょう」

「まだ触ってない」

「同じことです」

 全然遊んでくれないので、シアは不満げに頬を膨らませた。

 一日一緒に過ごしただけなのに、朝にはまだ遠かったはずの距離を、いつの間にか忘れている。仕事中のリカルドにまとわりつき、邪魔だと言われても懲りずに話しかけている自分が、今では少しも不思議ではなかった。

 ふと、紙の上へ落ちた夕陽が反射し、リカルドの眼鏡が光った。

 そういえば、失われた一年の中でも、彼が眼鏡を外しているところはほとんど見たことがない。眠る時と、顔を洗う時くらいだっただろうか。

「ねえ」

「今度は何ですか」

「リカルドって、眼鏡ないとどれくらい見えないの?」

「説明しても意味がないでしょう」

「気になる」

「気にしないでください」

 シアは少し考え、それからにっこりと笑った。

 机の横に置かれた椅子へ手をかけ、よじ登ろうとしたところで、さすがのリカルドも不穏な気配を察したらしい。

「聖女様?」

「ちょっとだけ」

「何をするつもりです?」

「何もしないよ」

「その顔で言われても信用できません」

 どうにか椅子へ上がり、そこからリカルドの膝に片足を乗せる。

「おい、危ない」

 反射的に伸びてきた手がシアの腰を支えた。そのまま遠慮なく膝の上へ座ると、リカルドがますます訝しげな顔になる。

「何をしているんです」

「高いところに来たかっただけ」

「なら椅子に座ってください」

「リカルドの方が高い」

「降りてください」

「やだ」

 少し離れた暖炉のそばから、ゼノがこちらを見ている。面白いものを見つけたらしく、すでに口元が笑っていた。

 シアは片手をリカルドの胸元へつき、もう片方を眼鏡へ伸ばす。

「聖女様?」

 指先が眼鏡の縁へ触れた。

 そのまま、ひょいと持ち上げる。

「……おい」

 低い声が落ちてくるより早く、シアは眼鏡を奪い取った。

「取れた!」

「聖女様!」

 途端に、リカルドの手が宙を掴む。思った以上の反応に楽しくなり、シアは戦利品のように眼鏡を頭の上へ掲げた。

「ほんとに見えない?」

「返してください!」

「私の顔見える?」

「見えません!」

「ゼノは?」

「いることしか分からない!」

「そんなに!?」

「分かったなら返せ!」

 ついに敬語まで消えた。

 普段ならまず聞くことのない口調が可笑しくて、シアは声を上げて笑う。

「リカルドが怒った!」

「怒るに決まってるだろ! 危ないから動くな!」

「じゃあ取ってみて」

「聖女様!」

「ほらほら」

「おい、やめろ!」

 本気で慌てている。

 どうやら眼鏡がなければ、本当にほとんど何も見えていないらしい。試しに身体を右に傾けてみると、リカルドの手は見当違いの左へ伸びた。

「ゼノ、見て!」

「見てる見てる」

「笑ってないで止めろ!」

「だって面白いし」

「あとで覚えていろ!」

 ゼノまで楽しそうに笑うものだから、シアもますます調子に乗った。

 友達になったと本人から認めてもらったわけではない。それでも、眼鏡を取り返そうとする手から逃げながら笑っていられるくらいには、朝よりずっと近くなれた気がする。

 けれど、リカルドが本気で困っているのを見ているうちに、さすがにからかいすぎたかもしれないと思い始めた。

「……もう、返すよ」

 シアが眼鏡を差し出そうとした、その瞬間、身体の内側で熱が弾けた。

「あれ?」

 笑いが止まる。

 朝、研究室で魔法を浴びたときとよく似た感覚が、身体の中心から指先へ向かって一気に走った。リカルドも何かを感じ取ったのか、何も見えていないまま顔を上げる。

「聖女様?」

「なんか、身体が――」

 言い終わるより先に、淡い光が弾けた。

 世界が急に縮んだように視界が高くなる。腕も足も伸び、幼かった身体が本来の姿へ戻っていくのが分かった。

「うわっ!」

 膝の上で急に重みを増したシアを支えようと、リカルドが椅子の背へ身体を押しつける。シアも慌てて机に手をつき、どうにか転げ落ちるのを免れた。

 戻った、と喜ぶ暇もない。

 身体に合わせて小さく仕立て直されていた衣服も、淡い光に包まれて形を変えていく。

 ゼノの魔法が解け、子ども用の服は元の大きさのシャツへ戻っていた。

「え」

 今の自分がリカルドのシャツを一枚着ているだけだと気づいた、そのときだった。

「ちょっ、待った!」

 ゼノが勢いよく立ち上がり、次の瞬間には大きなローブがシアの肩から掛けられた。

「動くな!」

 珍しく慌てた声に驚いて顔を上げると、ゼノはすでに背中を向けていた。

「……ゼノ?」

「いや、うん。とりあえず、それちゃんと着て」

 言われるまま、シアは眼鏡を握った手を胸元へ引き寄せ、空いている方の手でローブの前を掻き合わせた。

 シャツの裾から覗いていた脚も、これなら隠れる。

 けれど、先ほどまでの自分の姿を思い返した途端、全身の血が一気に顔へ集まった。

「……ゼノ。今、見た?」

「見てない見てない」

「ほんとに!?」

「ほんとほんと。俺、そういうときだけ反射神経いいから」

「絶対嘘!」

「いやいや、見る暇なかったって」

 ゼノは両手を上げて無実を訴える格好のまま、きちんと背中を向けている。

「ほんとに見てない?」

「見てないって。それより俺を疑う前にリカルドじゃない?」

「え?」

 ゼノが肩越しに後ろを指さした。

「今、目の前にいるよ?」

 シアの動きが止まった。

 ぎこちなく顔を動かすと、すぐ目の前にリカルドがいる。子どもの姿だったとき、膝の上へ乗ったのとほとんど同じ距離である。ただし眼鏡はなく、その眼鏡はまだシアの手の中にしっかり握られていた。

「……でも、見えてないんでしょ?」

「まあ、ほとんど見えてないだろうけど」

 ゼノが、いかにも楽しそうな声で続ける。

「でもさ、膝の上にいるのが子どもじゃなくなったのは、分かるよねえ?」

「わあああああああ!」

 シアの叫び声が、静かだった家中に響き渡った。