世界が忘れた約束を、聖女はまだ知らない。

 子どもの身体は、思っていたよりずっと不便だ。

「届かない」
「何が?」
「あれ」

 シアは精いっぱい腕を伸ばし、棚の上に置かれた菓子の瓶を指さした。いつもの自分なら少し背伸びをすれば届く高さなのに、今は指先と瓶の間に絶望的な距離がある。

 長椅子に寝そべっていたゼノが、シアの指さす先へ目を向けた。

「ゼノ取って」
「自分で取れば? あ、魔法使えばいいじゃん」
「私、ゼノみたいに生活魔法使えないもん」
「あ、そっか。聖女サマだもんね」
「分かってて言ったでしょ!」
「ばれた?」

 散々からかったくせに、ゼノは笑いながら立ち上がると、シアがどれだけ腕を伸ばしても届かなかった瓶をあっさり取ってくれた。

 両腕で抱えると、それだけで胸元が隠れてしまうほど大きい。満足して長椅子に向かったシアは、いつものつもりで座ろうとして、今度は思ったより高い座面を前に立ち止まった。

 普段なら何でもない高さなのに、今の身体では上がるだけでも一苦労である。

「んしょ……」

 瓶を先に座面へ置き、両手をついて腕に力を込める。どうにか片足を上げ、もう少しで膝が届きそうだと思ったところで、身体がふわりと浮いた。

「わっ」

 背後から両脇を抱えられ、そのまま軽々と長椅子に置かれる。振り返るまでもなく誰の仕業か分かったけれど、シアはむっとゼノを見上げた。

「だから自分でできるってば」
「見てる方が疲れる」
「子ども扱いしないで」
「見た目は完全に子どもだけど」
「中身は大人!」
「大人は菓子の瓶抱えて怒らないと思う」

 すぐに言い返してやろうと思ったのに、ちょうど菓子をひとつ口に放り込んだところだったせいで何も言えない。仕方なく頬を膨らませたまま睨むと、ゼノはますます楽しそうに笑った。

 向かいの机では、リカルドがこの家に着いてからずっと術式を書き直している。

 時間が経てば自然に解除されると分かっていても、それだけでは安心できないらしい。確実に元の身体に戻す方法と、戻ったあとに異常が残らないかを調べるため、紙の上には細かな術式と数字が隙間なく並び、シアとゼノが騒いでいても、ペンを走らせる手は止まらなかった。

「リカルドも食べる?」
「いりません」
「朝から何も食べてないでしょ」
「携帯保存食を食べました」
「それご飯じゃないよ」
「聖女様に俺の食生活を指導される理由が分かりません」

 顔すら上げないリカルドを見ながら、シアは菓子の瓶に手を入れた。

 ひとつ摘まんで、少し考える。

 それから瓶を長椅子に残したまま床へ降り、菓子だけを握って机まで歩いた。リカルドの隣には空いた椅子があるので、そこへ座ろうと両手を座面へかけてみたものの、こちらは長椅子よりさらに高い。

「何をしているんです?」
「ここ座る」
「向こうに椅子があります」
「高くて登れない」

 リカルドの視線が椅子からシアへと動く。

 何を考えているのか分かりやすい顔だ。けれど、登れないものは登れないので、シアがじっと見上げていると、やがて根負けしたように息を吐き、両腕を伸ばしてくる。

 そのまま抱き上げられて椅子に座らせてもらい、シアはにこりと笑った。

「ありがとう」
「落ちないでください」
「はい」

 床に届かない足を揺らしながら、すぐ隣にいるリカルドの横顔を眺める。

 前の一年でも、こうして何かを調べている彼の姿は何度も見た。話しかけてもろくに返事をしてくれず、夢中になると食事まで忘れて、気づけばシアが隣で本を読んでいたこともある。

 けれど、子どもの身体になって、初めて訪れたゼノの家で、まだ友達だとは認めてくれないリカルドの隣に座っている今日のことは知らない。

 なくなった記憶の中をどれだけ探しても、どこにもない一日だった。

「ねえ、リカルド」
「今度は何ですか」
「これあげる」

 シアは先ほどから握っていた菓子を差し出した。

「いりません」
「じゃあ、ここ置いとくね」

 術式を書いた紙にかからないよう、机の端に菓子を置いておく。

 リカルドは何も言わなかった。

 だからシアも何も言わず、窓の外へ目を向けた。青い花が風に揺れているのをしばらく眺めてから、何気ない顔で机へ視線を戻す。

 すると、置いたはずの菓子がなくなっていた。

 隣では、リカルドが先ほどと変わらない顔で術式を書いている。

 シアは気づかないふりをして、こっそり笑った。

 ◇

 昼を過ぎる頃には、小さな身体で動くことにもだいぶ慣れてきた。

 ゼノが昼食を作ると言い出したので任せてみたところ、しばらくして台所から妙な音が聞こえ、鍋の中から明らかに食べ物には似つかわしくない紫色の煙が立ち昇った。

「料理でどうやったら紫の煙が出るの?」
「俺天才だからさ、チョチョイと魔法を使うだけでこうなるのよ」
「それっていいこと……?」
「火加減を魔法でやってるからね」
「だから普通に火を使えと言っている」

 いつの間にか背後に立っていたリカルドが、ゼノの手から調理器具を取り上げる。

「え、俺が作るって」
「これ以上食材を無駄にするな」
「まだ失敗したって決まってないでしょ」
「紫の煙が出ている時点で諦めろ」

 結局、ゼノは台所から追い出され、三人で食べたのはリカルドが作り直した簡単なスープとパンだった。

 食後には、暇を持て余したシアを見かねたのか、ゼノが指先から小さな光の鳥を作った。

 淡い光をまとった鳥は部屋の中を軽やかに飛び回り、シアが手を伸ばせば、捕まりそうになる直前でひらりと逃げる。それならもういいと背を向ければ、今度はわざわざ戻ってきて、ちょこんと頭の上に止まった。

「ゼノ!」
「何?」
「これ取って!」
「気に入られてんじゃん」

 頭上から、こつこつと嘴で髪をつつかれる。

「髪つついてる!」
「巣作ろうとしてるんじゃない?」
「消して!」

 笑いながら逃げるゼノを追いかける。

 当然、小さな足では追いつけない。それでも腹が立って夢中で追い回しているうちに、絨毯の端へ爪先が引っかかった。

 身体が前へ傾いた瞬間、背後から伸びてきた腕に胴を抱えられた。

「走るな」

 転ぶ寸前で引き戻したリカルドが、呆れた顔でシアを見下ろしていた。

「ゼノが!」
「お前も煽るな!」
「俺?」
「お前以外に誰がいる!」

 今度はゼノに怒鳴る。

 研究室では滅多に声を荒らげないリカルドが、今日はもう何度怒ったのか分からない。朝から振り回している自覚はシアにもあったけれど、眼鏡の奥で本気で腹を立てている顔まで可笑しくなってしまい、結局また笑った。

 ゼノも笑っている。

 リカルドだけは笑わず、深い溜め息を吐いた。

 ◇

 夕方が近づく頃には、今度はどうしようもない眠気がやってきた。

 子どもの身体に一日中付き合わされたせいなのか、朝から騒ぎ続けたせいなのか、頭までぼんやりしてきた。

「眠い?」

 すぐ近くから、ゼノの声がした。

「……眠くない」
「その顔で?」
「子どもの身体だから……勝手に眠くなるだけ」
「それを眠いって言うんだけど」

 シアは重くなってきた瞼を擦った。

 寝るつもりはない。

 この姿でいられるのは一日だけなのだ。せっかくこうして三人でいるのに、眠ってしまえば今日が早く終わってしまうような気がして、何だかもったいない。

「ねえ、ゼノ」
「ん?」
「ここ、いつから住んでるの?」
「何年か前から」
「一人?」
「見ての通り」
「寂しくない?」

 何気なく尋ねると、ゼノは一度だけ目を瞬いた。

 けれど、すぐにいつもの笑みに戻る。

「静かでいいよ」

 シアは眠気の残る目で、ゼノを見つめた。

「でもリカルド来るんでしょ」
「そうなんだよねえ。いつも勝手に来る」
「呼ばれたから来ている」

 少し離れた机から、リカルドの声が飛んでくる。

 シアがそちらへ顔を向けると、本人は術式から目を上げてもいなかった。

「わあ、聞こえてた」

「聞こえる距離で話してるからね」

 ゼノに笑われ、シアもくすくすと笑いながら、長椅子の背へ頬をつける。

「私も、また来ていい?」
「いいけど」
「ほんと?」
「片づけてくれるなら」
「じゃあ来ない」
「即答じゃーん」

 ゼノの笑う声がする。

 子どもの身体で菓子の瓶に手が届かなかったことも、リカルドがこっそり菓子を食べたことも、ゼノの料理から紫色の煙が出たことも、光の鳥に髪をつつかれて三人で騒いだことも。

 どれも今日初めて生まれた、自分たちだけの思い出だった。

 そう思うと、何だか嬉しくて、シアは眠気に逆らうのをやめた。

「あれ、聖女サマ寝た?」
「寝てない……」
「寝てるじゃん」
「寝てないもん……」

 最後まで言い切れないまま、ゼノの笑う気配をすぐ近くに感じながら、シアはゆっくりと眠りに落ちていった。