世界が忘れた約束を、聖女はまだ知らない。

「リアム」

 このままでは話が進まないと思い、シアは外套の隙間からそっと顔を出した。

「本当に大丈夫だから。たぶん」

「最後の一言で余計不安になった」

「今日だけだから!」

 必死に頼み込むシアを見下ろし、リアムはしばらく難しい顔をしていた。

 昔から、こういう顔をするときは最後には折れてくれる。幼い頃から何度も見てきた表情だからこそ分かるのだと思えば、昨日の朝には怖かったはずの、自分だけが知らない時間の存在も、今は少し遠く感じられた。

 やがてリアムは、肺の中身を全部吐き出すような深い溜め息をつく。

「聖女様は昨日の件で疲れて部屋で休んでいる。面会は断る。それでいいんだな?」

「うん!」

「食事は俺が運んだことにする。神官が来ても通さない」

「ありがとう!」

 思わず外套から飛び出しかけたシアを、リアムが片手で押し戻す。

「ただし」

 そのままゼノとリカルドへ向けられた目は、シアへ向けるものよりずっと厳しい。

「日暮れまでには戻してください。何かあれば、すぐに俺へ知らせること。それから、絶対に無事に戻してください」

「分かっている」

 真っ先にリカルドが答えると、その横でゼノが自分を指さした。

「俺も?」

「特にゼノさんです」

「何で俺だけ名指しなの」

「普段の行いでしょう」

 ゼノは納得がいかないらしく眉を上げる。

「まだまともに話したことないのに、扱い悪くない?」

「まともに話していなくても分かります」

 あっさり言い切られ、シアはとうとう堪えきれず笑った。

 失われた一年にも、この二人が顔を合わせる機会はあった。けれど、こんなふうに言い合うところを見た覚えはない。

 同じ二人なのだから、これから似たような関係になるのかもしれない。それでも、これは失った一年をなぞって生まれた会話ではなく、今ここで初めて交わされた二人の言葉なのだ。

 知らない昨日を見つけるたびに不安になっていたのに、知らない今日が増えていくのは、少しも嫌ではなかった。

「じゃ、行こっか」

 ゼノがシアを外套ごと抱き上げる。

「自分で歩けるよ」

「見つかったらどうすんの」

「じゃあ、もっとちゃんと隠して」

「注文多いなあ」

 文句を言いながら外套を頭まで被せられ、視界があっという間に暗くなる。

「ゼノ、前見えない!」

「見えたら外からも顔見えるでしょ」

「ぶつかる!」

「俺が抱いてるからぶつからないって」

 布越しに声を潜めて言い合いながら、三人は研究棟の裏手へ向かった。

 ゼノが普段から出入りに使っているという通用門には、王宮の衛兵が一人立っていた。シアは慌てて外套の中へ頭を引っ込めたけれど、ゼノは足を止めることなく、いつもの調子で声をかける。

「お疲れさま。ちょっと外に出てくるね」

「ゼノ様。そちらは?」

 衛兵の声が近づき、シアは思わず息を止めた。

「研究用の荷物。壊れやすいから俺が運ぶよ」

「承知しました。お気をつけて」

 あっさりと通してもらえたらしい。

 門を抜けてから、シアは外套の中でそっと息を吐いた。抱えられたままなので外の様子は分からなかったが、後ろからついてくるリカルドの足音が聞こえ、ようやく王宮を出られたのだと実感する。

 それからしばらく、ゼノに抱えられたまま王都を進んだ。

 ゼノの家があるのは、王都の北西に広がる小さな森の外れだった。

 王城からそれほど離れてはいないはずなのに、石造りの町並みを抜けると人の気配はぐっと薄くなり、祭りを待つ王都の喧騒も木々の向こうへ遠ざかっていく。細い道をしばらく進んだ先に見えてきたのは、灰色の石と濃い色の木材で造られた、小ぢんまりとした家だった。

 屋根には蔦が這い、小さな煙突が一本伸びている。窓辺にはシアの知らない青い花が咲き、軒下には束ねられた薬草がいくつも吊るされていた。

「わあ……」

 ようやく外套から顔を出したシアは、思わず感嘆の声を漏らす。

「魔法使いの家だ」

「魔法使いの家だからね」

「本当にこんなところ住んでるんだ」

「どういうところに住んでると思ってたの」

「やばい植物でいっぱいの怪しげな塔」

「偏見すごいな」

 呆れたゼノに扉を開けてもらい、中へ足を踏み入れたシアは、そこでしばらく黙った。

「……汚い」

「帰る?」

「帰れないもん」

「じゃあ我慢して」

 外から眺めたときには、絵本に出てくるような可愛らしい家だと思った。中だって、本来ならきっと居心地がいいのだろう。

 壁一面の本棚には分厚い魔導書や古びた本が隙間なく並び、暖炉の前には身体を沈められそうな大きな長椅子が置かれている。窓辺を彩るのは魔法道具らしい色とりどりの石や瓶、天井には乾燥させた薬草が吊るされ、どこか甘く青い香りが漂っていた。

 問題は、その居心地のよさそうな空間の、ありとあらゆる場所に物が置かれていることだった。

 机には開きっぱなしの本が三冊、椅子には脱いだ上着、床には丸めた紙。棚には用途の分からない瓶が並び、窓辺には、なぜか半分だけ食べられた菓子まで放置されている。

「ゼノ、これいつの?」

 シアが恐る恐る菓子を指さす。

「昨日?」

「嘘」

「一昨日?」

「食べない方がいい」

 横から淡々と告げたリカルドは、そんな光景には慣れているらしく、机に積み重なった本を勝手にまとめ始めた。

 同じ大きさの本を重ね、邪魔になっていた紙を脇へ寄せる。その手つきがあまりに慣れているので、シアはふと首を傾げた。

「リカルド、ここ来たことあるの?」

「何度か」

「何度かどころじゃないでしょ」

 外套を脱ぎながら、ゼノが笑う。

「勝手に棚開けるし」

「必要な資料を探しているだけだ」

「勝手に茶も淹れる」

「お前に任せると飲めないものが出てくる」

 そこまで聞いたシアは、二人の顔を交互に見た。

「二人、仲いいんだね」

「よくない」

 すぐさま否定したリカルドへ、ゼノが呆れたような顔を向ける。

「冷たくない?」

「お前が研究資料を期限通り返せば、多少は評価を改めてもいい」

「それ仲いい人の台詞じゃん」

「違う」

 二人はまだ何か言い合っている。

 自分の知らないところで、二人はこんな関係を築いていたらしい。昨日までなら寂しく感じたかもしれないけれど、今はそれが何だか嬉しかった。

 知らないことがあるなら、今日知ればいい。

 ゼノがこんな家に暮らしていることも、リカルドがここでは勝手に茶を淹れることも、昨日までの自分は知らなかった。失った一年と同じものにはならなくても、こうして二人の新しい一面に出会えるのなら、それも悪くない気がした。

 シアは言い合いを続けている二人を眺めてから、リカルドの袖を軽く引いた。

「ねえ、リカルド」

「何ですか」

「私とも仲良くしてね」

 積んでいた本へ伸ばしていたリカルドの手が止まった。

「……なぜ、その話がまだ続いているんです?」

「友達になりに研究室へ行ったら、子どもになっちゃったから」

「それは本当に申し訳ないと思っています」

「じゃあ友達になって」

「因果関係がおかしい」

 真面目な顔で返すものだから、横で聞いていたゼノが先に吹き出した。

 つられてシアも笑えば、リカルドだけが頭痛でも堪えるように眉間へ皺を寄せ、困り果てた顔で眼鏡の位置を押し上げていた。