「……どうする?」
机の陰から顔だけを覗かせたシアが小声で尋ねると、リカルドは答える代わりに片手で額を押さえた。
扉の向こうには研究棟の職員がいる。この姿を見られてはいけないらしいということだけは分かったけれど、なぜ自分が隠れなければならないのかまでは分からない。首を傾げるシアの隣では、わざわざ一緒にしゃがみ込んだゼノが、楽しそうに口元へ人差し指を立てていた。
「問題ない。測定器の一つが破損しただけだ」
何食わぬ顔で扉を少しだけ開けたリカルドが答える。
「そうでしたか。聖女様をお見かけしたという者がおりまして、こちらへいらしてはいませんか?」
「来ていない」
返事が早い。
昨日、自分の言葉にあれほど戸惑っていた人が、今は驚くほど平然と嘘をついている。シアは机の陰から、リカルドをまじまじと見つめた。
やがて職員の足音が遠ざかり、扉が閉まる。念のため少し待ってから机の陰を這い出したシアは、膝まであるシャツの裾についた埃を払いながら、リカルドを見上げた。
「何で私、隠れたの?」
リカルドとゼノが顔を見合わせる。
「王宮に知られたらまずいから」
「何で?」
まだ事情を分かっていないシアの前で、ゼノは説明するように指を一本立てた。
「王宮の研究室で実験事故が起きて、聖女サマが子どもになりました。実験責任者、リカルド」
続いて二本目。
「実験対象、俺」
さらに三本目。
「被害者、聖女サマ」
四本目を立てようとしたところで、リカルドが無言でその手を叩き落とす。
「やめろ」
「まだあるのに」
「言わなくていい」
どうやら、まだあるらしい。
呑気にそんなことを考えかけたシアだったが、ゼノが折った指を数え直しているあいだに、ようやく三本分の意味が頭の中で繋がった。
「……リカルド、クビになる?」
「そこまで単純な話ではありませんが、聖女様を実験事故に巻き込んだとなれば、何らかの処分を受ける可能性はあります」
「えっ」
子どもになった自分を面白がっていた気持ちが、一気に吹き飛んだ。
「駄目だよ!」
「だから最初から笑っている場合ではないと言っているんです!」
「どうしよう!」
途端に慌て始めたシアを見て、ゼノが呆れたように笑う。
「今さら危機感持った」
「ゼノも考えて!」
「じゃあ逃げる?」
「どこに!?」
詰め寄られたゼノは、そこで初めて考えるように視線を上へ向けた。けれど、それもほんの短いあいだで、すぐに何か面白いことでも思いついたような顔になる。
「俺んち」
「……ゼノの家?」
「王宮に置いとくよりは安全でしょ」
そういえば、シアはゼノがどこで暮らしているのか知らない。失われた一年のあいだも、会うのは王城や町中ばかりで、家を訪ねたことは一度もなかった。
ゼノが暮らしている場所とは、どんなところなのだろう。
リカルドが処分されるかもしれないという心配は消えていないのに、知らなかったものを見られると思えば、好奇心まで一緒に顔を出す。
「行く!」
「即決だな」
「でも、私がまたいなくなったら騒ぎになるよ」
昨日、四日間の行方不明から戻ってきたばかりなのだ。さすがに二日続けて聖女が消えれば、今度こそ王宮中を巻き込んだ騒ぎになりかねない。
今度は三人揃って黙り込み、しばらくして、ゼノがぽつりと言った。
「リアムに押しつけよっか」
「何を?」
「アリバイ作り」
リカルドが眼鏡の奥で目を細める。いかにも賛成したくなさそうな顔だったが、ほかに案も浮かばなかったらしく、最後には諦めたように息を吐いた。
「……それしかないか」
「リアムなら何とかしてくれるよ」
「幼馴染への信頼が雑だなあ」
ゼノに笑われ、シアは少しだけ考えてから、力強く頷く。
「うん。リアムなら大丈夫」
「ほら、雑」
◇
「嫌です」
事情を聞き終えたリアムの第一声は、予想通りだった。
「お願い!」
「嫌だ」
「リアムしか頼めないの!」
「それは頼み方として卑怯だぞ」
王城の裏手、人目につきにくい庭の一角で、シアは大きな植木の陰に身を潜めていた。
頭からすっぽりゼノの外套を被っているので、遠目には小さな荷物にしか見えない――というのがゼノの言い分だったけれど、シアには庭に不自然な布の塊が置かれているようにしか思えない。
腕を組んだリアムも同じらしく、その怪しい塊をしばらく無言で見下ろしたあと、疲れたように眉間を押さえた。
「つまり、リカルド様の実験事故で、お前が子どもになった、と」
「正確にはゼノも悪いみたい」
「へえ」
低い声とともに、リアムの視線がすっとゼノへ移る。
「何で俺を見るの」
「いえ。別に」
「怖いんだけど」
にこりともしないリアムを見て、ゼノは肩を竦めた。普段はそれほど言葉を交わさない二人なのに、こういうときばかり妙に噛み合っている。
そんな二人を放っておいて、今度はリカルドへ顔を向けたリアムの表情が、さらに険しくなった。
「それで、元に戻るまで一日ですか?」
「計算上は」
「絶対ですか?」
「……九割以上の確率で」
「残りは?」
「聞かない方がいい」
そこで会話が途切れた。
リアムは何も言わずにリカルドを見つめている。リカルドも視線を逸らさないまま黙っていたが、答えないという選択そのものが、かえって残り一割への不安を大きくしている気がする。
「……聞かせてください」
やがてリアムが低い声で言うと、リカルドは眼鏡の位置を直しただけで、やはり何も答えなかった。
机の陰から顔だけを覗かせたシアが小声で尋ねると、リカルドは答える代わりに片手で額を押さえた。
扉の向こうには研究棟の職員がいる。この姿を見られてはいけないらしいということだけは分かったけれど、なぜ自分が隠れなければならないのかまでは分からない。首を傾げるシアの隣では、わざわざ一緒にしゃがみ込んだゼノが、楽しそうに口元へ人差し指を立てていた。
「問題ない。測定器の一つが破損しただけだ」
何食わぬ顔で扉を少しだけ開けたリカルドが答える。
「そうでしたか。聖女様をお見かけしたという者がおりまして、こちらへいらしてはいませんか?」
「来ていない」
返事が早い。
昨日、自分の言葉にあれほど戸惑っていた人が、今は驚くほど平然と嘘をついている。シアは机の陰から、リカルドをまじまじと見つめた。
やがて職員の足音が遠ざかり、扉が閉まる。念のため少し待ってから机の陰を這い出したシアは、膝まであるシャツの裾についた埃を払いながら、リカルドを見上げた。
「何で私、隠れたの?」
リカルドとゼノが顔を見合わせる。
「王宮に知られたらまずいから」
「何で?」
まだ事情を分かっていないシアの前で、ゼノは説明するように指を一本立てた。
「王宮の研究室で実験事故が起きて、聖女サマが子どもになりました。実験責任者、リカルド」
続いて二本目。
「実験対象、俺」
さらに三本目。
「被害者、聖女サマ」
四本目を立てようとしたところで、リカルドが無言でその手を叩き落とす。
「やめろ」
「まだあるのに」
「言わなくていい」
どうやら、まだあるらしい。
呑気にそんなことを考えかけたシアだったが、ゼノが折った指を数え直しているあいだに、ようやく三本分の意味が頭の中で繋がった。
「……リカルド、クビになる?」
「そこまで単純な話ではありませんが、聖女様を実験事故に巻き込んだとなれば、何らかの処分を受ける可能性はあります」
「えっ」
子どもになった自分を面白がっていた気持ちが、一気に吹き飛んだ。
「駄目だよ!」
「だから最初から笑っている場合ではないと言っているんです!」
「どうしよう!」
途端に慌て始めたシアを見て、ゼノが呆れたように笑う。
「今さら危機感持った」
「ゼノも考えて!」
「じゃあ逃げる?」
「どこに!?」
詰め寄られたゼノは、そこで初めて考えるように視線を上へ向けた。けれど、それもほんの短いあいだで、すぐに何か面白いことでも思いついたような顔になる。
「俺んち」
「……ゼノの家?」
「王宮に置いとくよりは安全でしょ」
そういえば、シアはゼノがどこで暮らしているのか知らない。失われた一年のあいだも、会うのは王城や町中ばかりで、家を訪ねたことは一度もなかった。
ゼノが暮らしている場所とは、どんなところなのだろう。
リカルドが処分されるかもしれないという心配は消えていないのに、知らなかったものを見られると思えば、好奇心まで一緒に顔を出す。
「行く!」
「即決だな」
「でも、私がまたいなくなったら騒ぎになるよ」
昨日、四日間の行方不明から戻ってきたばかりなのだ。さすがに二日続けて聖女が消えれば、今度こそ王宮中を巻き込んだ騒ぎになりかねない。
今度は三人揃って黙り込み、しばらくして、ゼノがぽつりと言った。
「リアムに押しつけよっか」
「何を?」
「アリバイ作り」
リカルドが眼鏡の奥で目を細める。いかにも賛成したくなさそうな顔だったが、ほかに案も浮かばなかったらしく、最後には諦めたように息を吐いた。
「……それしかないか」
「リアムなら何とかしてくれるよ」
「幼馴染への信頼が雑だなあ」
ゼノに笑われ、シアは少しだけ考えてから、力強く頷く。
「うん。リアムなら大丈夫」
「ほら、雑」
◇
「嫌です」
事情を聞き終えたリアムの第一声は、予想通りだった。
「お願い!」
「嫌だ」
「リアムしか頼めないの!」
「それは頼み方として卑怯だぞ」
王城の裏手、人目につきにくい庭の一角で、シアは大きな植木の陰に身を潜めていた。
頭からすっぽりゼノの外套を被っているので、遠目には小さな荷物にしか見えない――というのがゼノの言い分だったけれど、シアには庭に不自然な布の塊が置かれているようにしか思えない。
腕を組んだリアムも同じらしく、その怪しい塊をしばらく無言で見下ろしたあと、疲れたように眉間を押さえた。
「つまり、リカルド様の実験事故で、お前が子どもになった、と」
「正確にはゼノも悪いみたい」
「へえ」
低い声とともに、リアムの視線がすっとゼノへ移る。
「何で俺を見るの」
「いえ。別に」
「怖いんだけど」
にこりともしないリアムを見て、ゼノは肩を竦めた。普段はそれほど言葉を交わさない二人なのに、こういうときばかり妙に噛み合っている。
そんな二人を放っておいて、今度はリカルドへ顔を向けたリアムの表情が、さらに険しくなった。
「それで、元に戻るまで一日ですか?」
「計算上は」
「絶対ですか?」
「……九割以上の確率で」
「残りは?」
「聞かない方がいい」
そこで会話が途切れた。
リアムは何も言わずにリカルドを見つめている。リカルドも視線を逸らさないまま黙っていたが、答えないという選択そのものが、かえって残り一割への不安を大きくしている気がする。
「……聞かせてください」
やがてリアムが低い声で言うと、リカルドは眼鏡の位置を直しただけで、やはり何も答えなかった。



