世界が忘れた約束を、聖女はまだ知らない。

 研究室の前まで来たシアは、昨日、ろくに返事も待たず中へ入ったことを思い出し、今度こそきちんと扉を叩いた。

 返事はない。少し待ってからもう一度叩いてみても同じだったが、耳を澄ませると、分厚い扉の向こうから話し声が聞こえてくる。

 どうやら誰かいるようだ。

「リカルド? 入るよ?」

 昨日とは違って、今度はちゃんと声までかけてから、シアはそっと扉を押し開けた。

「だから、この程度なら問題ないって」

「問題があるかどうかを確かめるための実験だ。勝手に結論を出すな」

「でも昨日から寝てないでしょ」

「お前にだけは言われたくない」

 部屋の中央にいたのは、リカルドとゼノだった。

 床いっぱいに大きな魔法陣が描かれ、その中心にゼノが立っている。周囲には見慣れない測定器がいくつも並び、リカルドはそのひとつを覗き込みながら、手元の紙へ細かな数字を書き留めていた。

「あ、ゼノもいる」

 思わず声を上げると、二人がほとんど同時にこちらを振り向く。

「聖女様?」

「おはよ、聖女サマ」

「おはよう。何してるの?」

「実験」

 答えたのはゼノだった。床いっぱいに広がる魔法陣の中心に立たされているわりには、緊張感の欠片もない。

「何の?」

「魔力を一時的に変質させた場合、肉体にどの程度影響が――」

 代わって説明を始めたリカルドが顔を上げる。

 シアは扉のそばに立ったまま、二人の様子を眺めていた。

 ふと、覚えのある光景だと思った。

 リカルドの研究室で、ゼノが実験台になっている。そこへ自分がやってくる。

 以前にも、こんなことがあった。

 あのときも、リカルドがゼノを相手に実験をしているところへシアがやってきて、術式に巻き込まれたのだ。命に関わるような事故ではなかったけれど、翌日まで頭から小さな葉がぴょこんと生え続け、リカルドは青ざめ、ゼノは腹を抱えて笑っていた。

 そして、それがきっかけでリカルドと友達になったのだ。

 今朝、もう一度友達になろうと決めたばかりなのに、妙な偶然もあるものだと思った、そのときだった。

 測定器のひとつから、耳を刺すような高い音が鳴った。

 床の魔法陣が眩く光り、中心にいたゼノが怪訝そうに足元へ視線を落とす。

「あ」

 その一音とほとんど同時に、リカルドの顔色が変わった。

「聖女様、下がって!」

「え?」

 何が起きたのか理解するより先に、床を走った光が魔法陣の外へ溢れ出した。ゼノへ収束するはずだった光が軌道を逸れ、開いた扉の前に立つシアへ向かって弾ける。

「危な――」

 誰かの声が聞こえた次の瞬間、視界が真っ白になった。

 足元の感覚が消え、身体がふわりと浮いたかと思えば、次の瞬間には床に尻餅をついていた。遅れて腰に鈍い痛みが走り、シアは思わず顔をしかめた。

「……いったぁ」

 煙のように漂っていた光が薄れ、霞んでいた視界が戻ってくる。

 真っ先に頭に浮かんだのは、葉っぱだった。

 また生えたのだろうかと恐る恐る頭へ手を伸ばしかけ――途中で、動きが止まる。

 何もかもが、やけに大きい。

 いつもなら腰ほどの高さしかない机の天板がずっと上にあり、椅子も棚も、床に散らばった紙さえ妙に大きく見える。目の前に立つリカルドとゼノに至っては、顔を見るために思いきり顎を上げなければならなかった。

「……どうしたの?」

 口から出た自分の声まで、聞き慣れないほど高い。

 床についていた手を見れば、指が短く、袖口から覗く腕も細かった。恐る恐る立ち上がろうとすると、余った裾を踏んで転びそうになる。

「わっ」

 慌てて裾を持ち上げると、着ていた服は元の大きさのままだった。袖は指先まですっぽり隠れ、襟元も肩からずり落ちそうになっている。

 葉っぱどころではなかった。

「……ちっちゃい」

 片手でずり落ちそうな襟元を押さえ、もう片方の手を袖の中からどうにか出してみる。小さな指を開いたり閉じたりしているうちに、何だか面白くなってきた。

「私、ちっちゃい!」

 声に出した途端、笑いが零れた。

 さっきまで友達になりに来ただけだったのに、どうしてこうなったのだろう。しかも以前は葉っぱで、今度は自分そのものが小さくなっている。

「すごい! 手もちっちゃい! ゼノ見て、こんなに――」

「笑っている場合ではありません!」

 研究室いっぱいに、普段の彼からは想像もつかないほど大きなリカルドの声が響いた。

 シアはまだ笑いながら顔を上げる。

「でも、ちっちゃいよ?」

「見れば分かります!」

「リカルド、顔真っ青」

「誰のせいだと――」

「それはリカルドのせいじゃない?」

 横から呑気な声が入り、リカルドが勢いよく振り返った。

「お前が術式の中で勝手に魔力を動かしたからだろう!」

「いやいや、聖女サマが入ってくるとは思わないじゃん」

「だから実験中は動くなと言った!」

「動いてないって。ちょっと流れ変えただけ」

「それを動かしたと言うんだ!」

 目の前で始まった言い合いをよそに、シアは小さな手を何度か握ったり開いたりしてみた。爪まで小さくなっているのが、やはり妙に面白い。

「ねえ」

「何ですか!」

「いつ戻るの?」

 途端に、リカルドが黙った。

 ゼノまで口を閉ざしたので、さっきまで面白がっていた気持ちが急に萎んでいく。

「……リカルド?」

 呼びかけると、リカルドは我に返ったように測定器へ向き直った。先ほどまで書き留めていた数値と現在の値を見比べ、床の魔法陣に目を走らせたあと、シアの周囲に残る魔力を確かめる。

「術式上は、一時的な肉体変化です。変質した魔力もすでに薄れ始めていますから、時間経過で解除されるはずです」

「よかった」

 ほっとしたシアへ、リカルドは言いにくそうに眼鏡の位置を直した。

「ただ、現在の魔力の減衰速度から推測すると、完全に戻るまで、おそらく一日程度かと」

「一日?」

 思わず目を丸くすると、横でゼノが吹き出した。

「今日ずっとそれ?」

「笑うな!」

「だって面白いでしょ。聖女サマがこんな――」

 言いかけたゼノが、シアの足元へ目を向けた。

「あー、その格好じゃ歩けないか」

 言われてみれば、確かにそうだった。立っているだけならともかく、歩こうとするたびに長い裾が足へ絡みつき、袖も邪魔で仕方がない。

 ゼノは辺りを見回し、椅子の背に掛かっていたシャツを見つけると、ひょいと取り上げた。

「リカルド、これ借りるね」

「待て、それは私の――」

「はいはい」

 返事を待たずに指先を振ると、シャツが淡い光に包まれ、見る間に小さく縮んでいく。ゼノは袖と裾を少し整え、子供用のワンピースのような形になったシャツを広げてみせた。

「ほら、聖女サマ。着替えよっか」

「すごい! ゼノ、服まで作れるの?」

「作ってないって。縮めて、ちょっと形を変えただけ」

「それでもすごい!」

「でしょ。もっと褒めていいよ」

「おいゼノ、少しは反省しろ!」

 リカルドの悲鳴にも似た声を聞きながら、シアはゼノから小さなシャツを受け取った。

「ありがとう!」

「はいはい、どういたしまして」

 衝立の陰で着替えてみると、丈は膝の少し下まであり、袖も手首のところでちょうどよく収まった。襟元もずり落ちることなく、先ほどまでの服よりずっと動きやすい。

 脱いだ服を衝立の陰に畳んで置き、シアは新しい服の裾を揺らしながら二人の前へ戻った。

 ゼノがこちらを見て、また笑った。

「似合うじゃん」

「戻せるんだろうな、それ」

「戻せる戻せる」

「本当だろうな?」

「心配性だなあ」

 ゼノは肩を竦めると、シアの目の前へしゃがみ込み、視線の高さを合わせた。

 こうして向かい合えばいつものゼノなのに、少し前まで遥か上にあった顔が急に近くなったせいで、妙な感じがする。

 シアがまじまじと見返していると、ゼノもまた珍しいものを見るようにこちらを眺め、何を思ったのか、いきなり両脇に手を差し入れてきた。

「わっ!」

 ひょい、と身体が持ち上がる。

 一瞬で足が床から離れ、視界がぐんと高くなった。ゼノの手に脇を支えられたまま、シアは慌てて彼の腕に掴まる。

「ゼノ!」

「軽っ」

「降ろして!」

「ちょっと待って。面白いから」

「何が!」

 ゼノはそのまま自分の目の高さまでシアを持ち上げ、しばらく顔を眺めたあと、何がおかしいのか、くしゃりと笑った。

 人を食ったようないつもの笑い方とは少し違って、目尻まで下がっている。

「ちっさくなっても変わんないのな」

「何それ!」

「そのまんま」

「馬鹿にしてるでしょ!」

 むっとして睨みつけると、ゼノはますます楽しそうに笑った。

「してないしてない」

「絶対してる!」

 腹が立って足をばたつかせれば、そのたびに小さくなった身体がゼノの腕のあいだで揺れる。

「危ない! 降ろせ!」

 とうとう見かねたリカルドが駆け寄ってきた。

「落としたらどうする!」

「落とさないよ」

「お前の大丈夫ほど信用できないものはない!」

 不満そうな顔をしながらも、ゼノはシアをゆっくり床へ戻した。

 ようやく足の裏がついたことにほっとした、そのときだった。

 研究室の外から、こちらへ近づいてくる足音が聞こえてくる。

「リカルド様?」

 扉の向こうから声がした。

「先ほど大きな音がしましたが、何かございましたか?」