「──シア。もういい」
「よくないよ。まだ消えてない」
シアはルーファスの制止に耳を貸さず、胸元で重ねた両手に力を込めた。
祈りに応じて白い光が溢れ、彼の身体に絡みついていた黒い靄を焼き払っていく。けれど祭壇の奥から湧き出す闇は尽きることを知らず、押し戻したそばから再びルーファスの足元へと流れ込んでいた。
厄災が目覚めてから、どれほどの時間が経っただろう。
白銀の鎧には数えきれない傷が走り、金色の髪も血と埃に汚れている。床に突き立てた長剣を支えにどうにか立っているルーファスは、誰の目にも限界が近いと分かる有様だった。
「……リカルド」
「話しかけるな。計算が狂う」
ルーファスに呼ばれたリカルドは、顔も上げずに答える。
彼の周囲には書きかけの術式が散乱しており、ひびの入った眼鏡の下には一筋の血が伝っていた。どうにかしてルーファスから厄災だけを引き剥がそうと、先ほどから計算を繰り返しているのだ。
「あと少しで境界が定まる。だから余計なことを考えず、そこにいろ」
「……そうか」
小さく頷いたルーファスが、今度はシアを見た。
「シア。私ごと封印しろ」
「…………え?」
思いがけない言葉に目を丸くするシアへ、ルーファスは至って真剣な顔で続ける。
「厄災はもう私の身体から離れない。ここで私ごと消してしまえば、これ以上被害が広がることもないだろう」
「何を言ってるの。そんなことできるわけないよ」
「お前ならできる」
「できるかどうかの話じゃない!」
思わず声を荒らげれば、ルーファスは困ったように眉を下げた。
シアは聖女だ。神聖力によって人々の傷を癒やし、悪しきものを封じる力を持っている。厄災を宿したルーファスを、その身体ごと消し去ることも不可能ではない。
けれど、目の前にいるのは共に旅をしてきた大切な仲間なのだ。
祭りの日に外套を掛けてくれたことも、怪我をすれば自分のことのように心配してくれたことも、シアは覚えている。何度も隣で剣を振るい、いつだって守ってくれた彼を、自分の手で消すことなどできるはずがなかった。
「……あなたのいない世界なんて、選べないよ」
ルーファスの青い瞳が揺れ、何かを言いかけたその時、祭壇の奥で黒い靄が大きく膨れ上がった。
神殿全体が地の底から突き上げられたように揺れ、足元に広がっていた闇が一斉にルーファスの身体へ這い上がっていく。
「ルーファス!」
咄嗟に駆け出したシアだったが、横から伸びてきた腕に肩を突き飛ばされ、石床へ倒れ込んだ。直後、頭上を黒い奔流が唸りながら通り過ぎ、何かが裂けるような鈍い音が響く。
顔を上げたシアの目に映ったのは、剣を握ったまま立ち尽くしているリアムの姿だった。
黒髪の隙間から覗く横顔が苦痛に歪み、やがて剣が手を離れる。傾いだ身体を慌てて抱き留めたシアは、自分の手が生温かな血で濡れていくのを見て息を呑んだ。
「リアム!」
「……お前が、飛び出すからだろ」
掠れた声で叱られ、シアは唇を噛んだ。
右肩から背中にかけて、鎧ごと抉られた深い傷が走っている。すぐさま両手を翳すと、白い光が傷口を包み、裂けた皮膚を少しずつ塞ぎ始めた。
「お願い……!」
残された神聖力を注ぎ続けたが、傷が半ばまで癒えたところで掌の光が弱まっていく。もう一度祈りを捧げても、淡い光は指先から零れ落ちるように消えてしまい、シアは呆然と自分の手を見つめた。
ルーファスを厄災ごと封印できるだけの力が、先ほどまで確かに残っていたはずなのに、今はリアムの傷さえ治しきれない。
「血は止まった。充分だ」
リアムはシアの肩に手を置くと、痛みに顔を顰めながらも身体を起こし、落とした剣を拾い上げた。
「俺はまだ動ける。それより、前を見ろ」
言われて振り返れば、ルーファスはまだ長剣を支えに立っている。リカルドも術式を書き続けているが、祭壇から這い出した闇は石床を伝い、少しずつこちらへと広がっていた。
遠くで何かが砕ける音が響き、神殿を覆っていた結界の光が一枚消える。
「……ゼノは?」
「はいはい、いるよ」
崩れた柱の向こうから聞き慣れた声がして、シアはほっと息をついた。
瓦礫を跨いで現れたゼノは、額から流れた血で片方の眉まで濡らし、オレンジ色の髪もすっかり乱れている。外套は肩口から大きく裂けていたが、シアと目が合うと何事もなかったように笑った。
「そんな顔しなくても、置いて帰ったりしないって」
「結界は大丈夫なの?」
「一枚駄目になったけど、まだ二枚ある。俺、優秀だから」
「……怪我してる」
「これくらい平気。聖女サマは自分の心配をしてなよ」
こんな状況でも普段と変わらないゼノの態度に、シアは少しだけ肩の力を抜いた。
ゼノは国一番の魔法使いだ。軽薄で掴みどころがなく、何を考えているのか分からないことも多いが、これまで彼の魔法に何度助けられてきたか分からない。
そのゼノはシアの心配など意に介さず、リカルドのもとへ向かうと、差し出された術式を覗き込んだ。
「どう? 何とかなりそう?」
「ここまではできた。だが、厄災とルーファスの魂の境界が定まらない」
「なるほどねえ」
ゼノは緑の瞳を細めて式を追い、余白に何かを書き加えてから紙を返す。リカルドはそれに目を通すと、すぐに別の一枚を引き寄せ、続きを書き始めた。
二人がこうして魔法の研究を始めるのは、旅の間も珍しいことではなかった。リカルドが難しい顔で考え込み、ゼノが横から口を挟む。シアには理解できない話ばかりだったが、そんなやり取りから思いがけない発見が生まれることもある。
けれど今は、書き上げた紙が増えるばかりで、ルーファスを覆う黒い靄も薄くなる気配がない。
やがて、神殿の外を覆う結界が低く軋み、リカルドは書きかけの術式を前にしてペンを止めた。
「……時間が足りない。あと少しあれば、境界を固定できる。厄災だけを切り離して、その先まで繋げられるかもしれないのに……」
悔しそうに唇を噛んだリカルドの手元には、何度も書き直された術式が散らばっている。シアには内容が分からなくとも、彼がここまで諦めずに計算を続けてきたことだけは分かっていた。
「次があるなら、今度は間に合わせる」
その言葉を聞いた途端、ゼノの指が止まる。
彼はリカルドの横顔を見つめ、それから床一面に散らばった術式へと視線を移した。書き潰された何枚もの紙を眺めていたが、やがて小さく頷いて顔を上げる。
「……そっか」
「ゼノ?」
シアが呼ぶと、彼はこちらを向いた。その口元には、いつもの笑みが浮かんでいる。
「俺、こう見えて天才なのよ」
「……知ってるよ?」
「ははっ。聖女サマは素直でいいね」
ゼノは楽しそうに笑うと、何もない宙へ指先を持ち上げた。
淡い光が灯り、空中に一本の線が引かれる。そこに新たな線と円が重なり、シアの知らない文字が次々と連なっていった。
ひとつの式が次の式を呼ぶように広がり、やがて複雑な術式が神殿全体を覆い始める。
「待て、ゼノ」
リカルドが組み上がっていく術式を見て、怪訝そうに眉を寄せた。
「その術式は何だ」
「んー? ちょっとした思いつき」
「ふざけるな。そんな構造の魔法陣は見たことがない」
「そりゃそうでしょ。今作ってるんだから」
いつものように軽く答えながら、ゼノは指先を動かし続けていた。
リカルドは何か言いかけたが、目の前で組み上がっていく式を追ううちに、黄水晶色の瞳を見開く。
「……まさか」
リカルドの呟きをよそに、ゼノは最後の術式を描き上げた。
その瞬間、神殿全体に眩い光が広がる。
床に散らばっていた紙が風もないのに舞い上がり、シアの銀髪を大きく煽った。咄嗟に足を踏ん張ったが、確かに石床を踏んでいるはずなのに、足元の感覚が次第に薄れていく。
すぐ傍にいたはずのルーファスも、リアムも、リカルドも、いつの間にか遠ざかっていた。
「……ゼノ?」
舞い上がる紙の向こうで、ゼノはまだ指先を動かしている。
「ゼノ、何してるの?」
シアは光の中へ一歩踏み出し、彼に向かって手を伸ばす。
けれど、指先は届かない。
ほんの数歩しか離れていないはずなのに、どれだけ腕を伸ばしても距離が縮まらなかった。
「ゼノ!」
もう一度名前を呼ぶと、ようやく彼は振り返った。
ゼノはいつものように笑おうとしたが、なぜか途中でやめてしまった。
その顔を見た途端、シアは胸が締めつけられるような心地がした。彼が何をしようとしているのか分からないまま、もう一度、精一杯手を伸ばす。
「待って。みんなで帰るんでしょ」
緑の瞳が、まっすぐにシアを見つめている。
やがて、彼は困ったように笑った。
「ごめんな、シア」
その言葉とともに、目を開けていられないほどの光が溢れた。
伸ばした指先は、最後までゼノに届かなかった。
「よくないよ。まだ消えてない」
シアはルーファスの制止に耳を貸さず、胸元で重ねた両手に力を込めた。
祈りに応じて白い光が溢れ、彼の身体に絡みついていた黒い靄を焼き払っていく。けれど祭壇の奥から湧き出す闇は尽きることを知らず、押し戻したそばから再びルーファスの足元へと流れ込んでいた。
厄災が目覚めてから、どれほどの時間が経っただろう。
白銀の鎧には数えきれない傷が走り、金色の髪も血と埃に汚れている。床に突き立てた長剣を支えにどうにか立っているルーファスは、誰の目にも限界が近いと分かる有様だった。
「……リカルド」
「話しかけるな。計算が狂う」
ルーファスに呼ばれたリカルドは、顔も上げずに答える。
彼の周囲には書きかけの術式が散乱しており、ひびの入った眼鏡の下には一筋の血が伝っていた。どうにかしてルーファスから厄災だけを引き剥がそうと、先ほどから計算を繰り返しているのだ。
「あと少しで境界が定まる。だから余計なことを考えず、そこにいろ」
「……そうか」
小さく頷いたルーファスが、今度はシアを見た。
「シア。私ごと封印しろ」
「…………え?」
思いがけない言葉に目を丸くするシアへ、ルーファスは至って真剣な顔で続ける。
「厄災はもう私の身体から離れない。ここで私ごと消してしまえば、これ以上被害が広がることもないだろう」
「何を言ってるの。そんなことできるわけないよ」
「お前ならできる」
「できるかどうかの話じゃない!」
思わず声を荒らげれば、ルーファスは困ったように眉を下げた。
シアは聖女だ。神聖力によって人々の傷を癒やし、悪しきものを封じる力を持っている。厄災を宿したルーファスを、その身体ごと消し去ることも不可能ではない。
けれど、目の前にいるのは共に旅をしてきた大切な仲間なのだ。
祭りの日に外套を掛けてくれたことも、怪我をすれば自分のことのように心配してくれたことも、シアは覚えている。何度も隣で剣を振るい、いつだって守ってくれた彼を、自分の手で消すことなどできるはずがなかった。
「……あなたのいない世界なんて、選べないよ」
ルーファスの青い瞳が揺れ、何かを言いかけたその時、祭壇の奥で黒い靄が大きく膨れ上がった。
神殿全体が地の底から突き上げられたように揺れ、足元に広がっていた闇が一斉にルーファスの身体へ這い上がっていく。
「ルーファス!」
咄嗟に駆け出したシアだったが、横から伸びてきた腕に肩を突き飛ばされ、石床へ倒れ込んだ。直後、頭上を黒い奔流が唸りながら通り過ぎ、何かが裂けるような鈍い音が響く。
顔を上げたシアの目に映ったのは、剣を握ったまま立ち尽くしているリアムの姿だった。
黒髪の隙間から覗く横顔が苦痛に歪み、やがて剣が手を離れる。傾いだ身体を慌てて抱き留めたシアは、自分の手が生温かな血で濡れていくのを見て息を呑んだ。
「リアム!」
「……お前が、飛び出すからだろ」
掠れた声で叱られ、シアは唇を噛んだ。
右肩から背中にかけて、鎧ごと抉られた深い傷が走っている。すぐさま両手を翳すと、白い光が傷口を包み、裂けた皮膚を少しずつ塞ぎ始めた。
「お願い……!」
残された神聖力を注ぎ続けたが、傷が半ばまで癒えたところで掌の光が弱まっていく。もう一度祈りを捧げても、淡い光は指先から零れ落ちるように消えてしまい、シアは呆然と自分の手を見つめた。
ルーファスを厄災ごと封印できるだけの力が、先ほどまで確かに残っていたはずなのに、今はリアムの傷さえ治しきれない。
「血は止まった。充分だ」
リアムはシアの肩に手を置くと、痛みに顔を顰めながらも身体を起こし、落とした剣を拾い上げた。
「俺はまだ動ける。それより、前を見ろ」
言われて振り返れば、ルーファスはまだ長剣を支えに立っている。リカルドも術式を書き続けているが、祭壇から這い出した闇は石床を伝い、少しずつこちらへと広がっていた。
遠くで何かが砕ける音が響き、神殿を覆っていた結界の光が一枚消える。
「……ゼノは?」
「はいはい、いるよ」
崩れた柱の向こうから聞き慣れた声がして、シアはほっと息をついた。
瓦礫を跨いで現れたゼノは、額から流れた血で片方の眉まで濡らし、オレンジ色の髪もすっかり乱れている。外套は肩口から大きく裂けていたが、シアと目が合うと何事もなかったように笑った。
「そんな顔しなくても、置いて帰ったりしないって」
「結界は大丈夫なの?」
「一枚駄目になったけど、まだ二枚ある。俺、優秀だから」
「……怪我してる」
「これくらい平気。聖女サマは自分の心配をしてなよ」
こんな状況でも普段と変わらないゼノの態度に、シアは少しだけ肩の力を抜いた。
ゼノは国一番の魔法使いだ。軽薄で掴みどころがなく、何を考えているのか分からないことも多いが、これまで彼の魔法に何度助けられてきたか分からない。
そのゼノはシアの心配など意に介さず、リカルドのもとへ向かうと、差し出された術式を覗き込んだ。
「どう? 何とかなりそう?」
「ここまではできた。だが、厄災とルーファスの魂の境界が定まらない」
「なるほどねえ」
ゼノは緑の瞳を細めて式を追い、余白に何かを書き加えてから紙を返す。リカルドはそれに目を通すと、すぐに別の一枚を引き寄せ、続きを書き始めた。
二人がこうして魔法の研究を始めるのは、旅の間も珍しいことではなかった。リカルドが難しい顔で考え込み、ゼノが横から口を挟む。シアには理解できない話ばかりだったが、そんなやり取りから思いがけない発見が生まれることもある。
けれど今は、書き上げた紙が増えるばかりで、ルーファスを覆う黒い靄も薄くなる気配がない。
やがて、神殿の外を覆う結界が低く軋み、リカルドは書きかけの術式を前にしてペンを止めた。
「……時間が足りない。あと少しあれば、境界を固定できる。厄災だけを切り離して、その先まで繋げられるかもしれないのに……」
悔しそうに唇を噛んだリカルドの手元には、何度も書き直された術式が散らばっている。シアには内容が分からなくとも、彼がここまで諦めずに計算を続けてきたことだけは分かっていた。
「次があるなら、今度は間に合わせる」
その言葉を聞いた途端、ゼノの指が止まる。
彼はリカルドの横顔を見つめ、それから床一面に散らばった術式へと視線を移した。書き潰された何枚もの紙を眺めていたが、やがて小さく頷いて顔を上げる。
「……そっか」
「ゼノ?」
シアが呼ぶと、彼はこちらを向いた。その口元には、いつもの笑みが浮かんでいる。
「俺、こう見えて天才なのよ」
「……知ってるよ?」
「ははっ。聖女サマは素直でいいね」
ゼノは楽しそうに笑うと、何もない宙へ指先を持ち上げた。
淡い光が灯り、空中に一本の線が引かれる。そこに新たな線と円が重なり、シアの知らない文字が次々と連なっていった。
ひとつの式が次の式を呼ぶように広がり、やがて複雑な術式が神殿全体を覆い始める。
「待て、ゼノ」
リカルドが組み上がっていく術式を見て、怪訝そうに眉を寄せた。
「その術式は何だ」
「んー? ちょっとした思いつき」
「ふざけるな。そんな構造の魔法陣は見たことがない」
「そりゃそうでしょ。今作ってるんだから」
いつものように軽く答えながら、ゼノは指先を動かし続けていた。
リカルドは何か言いかけたが、目の前で組み上がっていく式を追ううちに、黄水晶色の瞳を見開く。
「……まさか」
リカルドの呟きをよそに、ゼノは最後の術式を描き上げた。
その瞬間、神殿全体に眩い光が広がる。
床に散らばっていた紙が風もないのに舞い上がり、シアの銀髪を大きく煽った。咄嗟に足を踏ん張ったが、確かに石床を踏んでいるはずなのに、足元の感覚が次第に薄れていく。
すぐ傍にいたはずのルーファスも、リアムも、リカルドも、いつの間にか遠ざかっていた。
「……ゼノ?」
舞い上がる紙の向こうで、ゼノはまだ指先を動かしている。
「ゼノ、何してるの?」
シアは光の中へ一歩踏み出し、彼に向かって手を伸ばす。
けれど、指先は届かない。
ほんの数歩しか離れていないはずなのに、どれだけ腕を伸ばしても距離が縮まらなかった。
「ゼノ!」
もう一度名前を呼ぶと、ようやく彼は振り返った。
ゼノはいつものように笑おうとしたが、なぜか途中でやめてしまった。
その顔を見た途端、シアは胸が締めつけられるような心地がした。彼が何をしようとしているのか分からないまま、もう一度、精一杯手を伸ばす。
「待って。みんなで帰るんでしょ」
緑の瞳が、まっすぐにシアを見つめている。
やがて、彼は困ったように笑った。
「ごめんな、シア」
その言葉とともに、目を開けていられないほどの光が溢れた。
伸ばした指先は、最後までゼノに届かなかった。



