月影の後宮、君と再び恋をする

 月が、欠けていく。
 北の社を覆う夜空で、満月の輪郭が黒く侵食されていた。
 月喰いが吐き出す黒い霧は、木々を包み、石畳を這い、社の境内を闇へと染めていく。
 その中心に立つ朔夜の右腕には、黒い紋様が肩まで広がっていた。
「朔夜様……!」
 小夜は彼の手を握りしめた。
 触れた指先から、冷たいものが流れ込んでくる。まるで彼の中に、底のない夜が生まれてしまったかのようだった。
「手を離せ、小夜」
「嫌です」
「このままでは、お前まで呪いに呑まれる」
「それでも、離しません」
 朔夜が苦しげに顔を歪めた。
「なぜだ。お前は、ようやく自由になれるのだぞ。俺のそばにいる理由など、もうない」
 小夜は首を横に振った。
「理由なら、あります」
 胸元の銀の月飾りを握る。
 十年前、幼い自分が朔夜に渡したもの。
 失われた記憶の向こうに、ずっと残っていた約束。
「あなたが、私を忘れなかったからです」
「……小夜」
「私があなたを忘れてしまっても、あなたはずっと探していてくれた。だから今度は、私があなたを見つけます」
 月喰いが、低く笑った。
『愚かな娘よ。人の心など、封印の役には立たぬ』
 黒い霧が渦を巻き、巨大な影となって二人に迫る。
『巫女の力をすべて差し出せ。そうすれば、皇子の命だけは救ってやろう』
 朔夜の目が見開かれた。
「小夜、聞くな!」
『さもなくば、皇子の身体を器として、この世に満ちる月の力を喰らい尽くす』
 小夜は、月喰いを見据えた。
「あなたは、ずっと封じられていたのですね」
『そうだ。人間どもが恐れ、裏切り、我を閉じ込めた』
「だから、すべてを憎むのですか」
『憎む? 我にそのような感情があると思うか』
「……あるのだと思います」
 月喰いの動きが、一瞬止まった。
「本当に何も感じないのなら、どうして十年もの間、月を喰らおうとし続けたのですか。どうして、誰かに見つけてほしいように、声を響かせていたのですか」
 小夜の言葉に、黒い霧がざわめいた。
 そのときだった。
「小夜殿!」
 境内の入り口から、朱音が駆け込んできた。
 息を切らしながら、彼女は懐から一冊の古い書物を取り出した。
「間に合って……よかった」
「朱音様、どうしてここに?」
「すべてを話しに来たのです。十年前、あなたの一族が何をしたのか。そして、私たちが何を間違えたのか」
 朱音は月喰いを見上げた。
「かつて、水無瀬の巫女は、この存在を封じるために力を捧げました。しかし、それは巫女一人の犠牲で成り立つ封印ではなかったのです」
「どういうことですか?」
「皇族の月の力と、巫女の浄化の力。その二つが互いを補い、均衡を保つ。それが本来の封印でした」
 朱音は書物を開いた。
「けれど、当時の宮廷はそれを恐れたのです。巫女と皇族が対等に力を合わせれば、誰にも支配できない存在になる。だから、巫女の力だけを利用する方法が伝えられた」
 朔夜の表情が険しくなる。
「では、巫女が命を捧げなければならないという伝承は……」
「後世の者たちが作り上げた、偽りの伝承です」
 朱音の声は震えていた。
「私の家も、その秘密を知りながら黙っていました。私はずっと、あなたをお守りしたいと思っていた。けれど、その思いを言い訳にして、真実から目を背けていたのです」
 彼女は深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
 朔夜は、しばらく何も言わなかった。
 やがて静かに口を開く。
「謝罪は、宮廷に戻ってから聞こう。今は、この夜を終わらせる」
「……はい」
 朱音は顔を上げた。
「書物には、もう一つ記されていました。封印を結び直すには、巫女が自らの意思で力を差し出す必要がある。しかし、差し出すのは命ではありません」
「では、何を?」
 小夜が尋ねる。
 朱音は書物の一節を指でなぞった。
「巫女が握りしめたままの恐れを手放し、皇族が一人ですべてを背負おうとする心を手放すこと。それが、二つの力を結ぶ鍵だと」
 朔夜が息を呑んだ。
 小夜は彼の手を見つめた。
 彼はずっと、自分一人で背負おうとしていたのだ。
 皇太子としての責務も、十年前の罪も、彼女を失った痛みも。
 誰にも頼らず、誰にも弱さを見せず、すべてを自分の中に閉じ込めて。
「朔夜様」
「……ああ」
「私に、力を貸してください」
 朔夜は驚いたように彼女を見た。
 小夜は微笑む。
「私も、あなたに頼りたいのです。あなたにも、私を頼ってほしい」
 その言葉を聞いた瞬間、朔夜の目から、長い年月を閉じ込めていたような緊張がほどけた。
「俺は……お前を失うのが怖かった」
 初めて聞く、弱い声だった。
「十年前、お前を守れなかった。だから今度こそ、何もかも俺一人で終わらせようと思った」
「はい」
「だが、それでは、お前の気持ちまで置き去りにしてしまうのだな」
「……はい」
 小夜は、彼の手を両手で包んだ。
「もう、一人で行かないでください」
 朔夜は目を閉じ、深く息を吐いた。
 そして、彼女の手を握り返した。
「分かった。今度は、お前と共に行く」
 その瞬間、二人の手の間から、銀白色の光が生まれた。
 小夜の胸元の月飾りが輝き、朔夜の右腕を覆っていた黒い紋様が、少しずつ薄れていく。
 月喰いが咆哮した。
『やめろ! 人間が、我の闇を拒むというのか!』
 黒い霧が二人を飲み込もうとする。
 しかし、小夜は目を逸らさなかった。
「私たちは、あなたを憎むためにここへ来たのではありません」
『黙れ!』
「でも、あなたにすべてを奪わせるわけにもいきません」
 小夜は、幼い日の記憶を思い出していた。
 月桜の下で泣いていた少年。
 強がりながら、別れを恐れていた彼。
 そして、自分自身が抱えていた、置き去りにされた悲しみ。
 失った記憶を取り戻した今なら分かる。
 あのとき、自分が本当に願っていたこと。
 誰かの犠牲で平和を得るのではなく、誰も一人にしないこと。
「朔夜様、私の力を受け取ってください」
「お前の命を削るような真似はさせない」
「命ではありません。私が持っている、あなたを信じる気持ちです」
 小夜は微笑んだ。
「あなたも、私を信じてください」
 朔夜は、まっすぐに彼女を見つめた。
「……ああ」
 二人は同時に、月へ向かって手を掲げた。
 朔夜の身体から、淡い金色の光が立ち上る。
 小夜の手から、清らかな銀白色の光が広がる。
 二つの光は互いを押しのけることなく、溶け合い、ひとつの輪となった。
 それは、月を映す水面のようだった。
 黒い霧が光に触れるたび、少しずつ薄れていく。
『なぜだ……なぜ、我を拒まぬ……!』
 月喰いの声が、初めて揺らいだ。
 その巨大な影の奥に、一瞬だけ、人の姿にも似た輪郭が浮かんだ。
 誰にも触れられず、長い孤独の中に閉じ込められていたもの。
 小夜は、そっと語りかけた。
「もう、終わりにしましょう」
 光が満ちた。
 夜空を覆っていた黒い影がほどけ、細かな光の粒となって舞い上がる。
 それらは月へと吸い込まれ、やがて静かな輝きに変わった。
 轟音が止む。
 風が戻る。
 北の社を包んでいた闇が、ゆっくりと消えていった。
 そして――。
 月は、再び満ちた。
     *
 小夜が目を開けると、夜明け前の空が広がっていた。
 身体に痛みはない。
 浄化の力も、消えてはいなかった。
 ただ、以前とは違う。
 胸の奥にあった、何かに怯えるような冷たさが消え、代わりに穏やかな温もりが残っていた。
「小夜!」
 朔夜が彼女の肩を支えた。
「大丈夫か。どこか苦しいところは?」
「大丈夫です。朔夜様こそ……」
 彼女は彼の右腕を見た。
 黒い紋様は跡形もなく消えている。
 朔夜は自分の手を見つめ、ゆっくりと握ったり開いたりした。
「……呪いが、消えた」
 その声には、信じられないという響きがあった。
「はい」
 小夜は微笑んだ。
「一緒に、終わらせられましたね」
 朔夜は何かを言おうとして、口を閉じた。
 それから、彼女の前に膝をついた。
「小夜」
「はい?」
「十年前、俺はお前に約束した。大人になったら、もう一度ここで会おうと」
「覚えています」
「俺は、その約束を守れなかったと思っていた。お前を見失い、記憶を奪われ、長い間、何もできなかったからだ」
 彼は苦笑した。
「だが、今なら分かる。約束とは、過去に縛られるためのものではないのだな」
「……はい」
「これから先、何度でも約束を交わせばいい。たとえ道に迷っても、間違えても、また会いに行けばいい」
 朔夜は、小夜の手を取った。
「俺は、お前と生きていきたい」
 小夜の胸が、強く鳴った。
「皇太子としてではなく、誰かを守るために自分を犠牲にする男としてでもなく……一人の人間として、お前の隣にいたい」
 彼の瞳には、もう冷たい月の光だけではないものが宿っていた。
「小夜。俺と、これからの約束をしてくれないか」
 小夜は、涙をこらえながら笑った。
「どんな約束ですか?」
「明日も、その先も、お前の話を聞かせてほしい。嬉しいことも、悲しいことも。俺が間違えたら、きちんと叱ってくれ」
「ふふ。ずいぶん、難しい約束ですね」
「そうか?」
「はい。だって、私はきっと、たくさんお話ししますから」
「構わない。全部聞こう」
 小夜は、彼の手を握り返した。
「では、私からも約束です」
 彼女は、朝焼けの始まりかけた空を見上げた。
「あなたが一人で抱え込もうとしたら、何度でも隣に立ちます。あなたが迷ったら、一緒に道を探します」
 そして、彼を見つめた。
「だから、私のことも、どうか一人にしないでください」
 朔夜は、深くうなずいた。
「約束する」
 二人の間を、やわらかな風が吹き抜けた。
 社の裏手にある月桜の枝先で、白い花が一輪、静かに開いた。
     *
 それから三か月後。
 帝都の後宮には、春の訪れを告げる花々が咲き誇っていた。
 北の社の異変は、皇族と水無瀬の巫女が力を合わせ、古い封印を正しく結び直したことで収まったと発表された。
 水無瀬一族にまつわる古い記録も見直され、巫女たちが長年背負わされてきた役目は、少しずつ改められつつある。
 朱音は、宮廷の記録を整理する役目を引き受けた。
 彼女はもう、朔夜の気持ちを自分の願いで縛ろうとはしなかった。
 ある日、小夜が廊下で出会うと、朱音は穏やかに微笑んだ。
「小夜殿。殿下は、相変わらずあなたを探していらっしゃいますよ」
「えっ?」
「今朝から、ずっと」
 朱音が視線を向けた先には、庭の向こうを歩く朔夜の姿があった。
 彼は小夜を見つけるなり、足早に近づいてくる。
「小夜、ここにいたのか」
「朔夜様。何かございましたか?」
「いや……探していた」
「またですか?」
「まただ」
 あまりにも真面目に答えるものだから、小夜は思わず笑ってしまった。
「私は、どこにも行きませんよ」
「分かっている。だが、姿が見えないと気になる」
「皇太子様が、そのようなことでよろしいのですか?」
「よくないのか?」
 朔夜が本気で尋ねるので、小夜はとうとう声を上げて笑った。
 その笑顔を見て、朔夜もまた、かすかに笑った。
 かつて、氷のように冷たいと恐れられた皇太子。
 今では、彼のそばに柔らかな春の気配があることを、後宮の誰もが知っていた。
「小夜」
「はい?」
「少し、付き合ってほしい場所がある」
 朔夜が差し出した手を、小夜は迷わず取った。
     *
 二人がたどり着いたのは、後宮の奥にひっそりと残る月見の旧宮だった。
 長い間、誰も足を踏み入れなかった場所。
 今は庭が整えられ、古い月桜も、再び花を咲かせるようになっていた。
 白い花びらが風に舞う。
 その下で、朔夜は立ち止まった。
「覚えているか。昔、ここでお前に言ったことを」
「大人になったら、また会おう、ですね」
「ああ」
 朔夜は懐から、小さな包みを取り出した。
 中に入っていたのは、銀細工の髪飾りだった。
 月と桜をかたどった、繊細な細工。
「十年前、お前がくれた月飾りを覚えているだろう。あれに合わせて、職人に作ってもらった」
 小夜は、目を丸くした。
「私に?」
「他に誰がいる」
 朔夜は少しだけ視線を逸らした。
「……気に入らなければ、作り直させる」
「いいえ」
 小夜は、両手で髪飾りを受け取った。
「とても、嬉しいです」
 その声が震えていることに気づき、朔夜は彼女を見つめた。
「小夜。俺は、お前に失った時間を返すことはできない」
「はい」
「だが、これからの時間なら、お前と共に歩める」
 彼はまっすぐに告げた。
「いつか、俺の妻になってほしい。皇太子妃という役目のためだけではない。お前自身を、誰よりも大切にしたいからだ」
 小夜の瞳に、涙が浮かんだ。
 それでも、彼女は笑った。
「私も、あなたと一緒にいたいです」
 朔夜の表情が、ゆっくりとほどけていく。
「……本当に?」
「はい。でも、一つだけ条件があります」
「何でも聞こう」
「これから先、寂しいときは寂しいと言ってください。苦しいときは、苦しいと言ってください。私も、そうしますから」
 朔夜は、しばらく彼女を見つめていた。
 やがて、静かにうなずいた。
「分かった。お前には、隠さない」
 小夜は、髪飾りを胸に抱いた。
 十年前、二人は幼い約束を交わした。
 いつか大人になったら、もう一度会おう。
 けれど、再会した二人を待っていたのは、ただ懐かしい日々を取り戻すことではなかった。
 忘れてしまった記憶。
 背負わされた使命。
 誰にも言えなかった孤独。
 それらを一つずつ越えて、二人はようやく、これからの約束を交わすことができたのだ。
 月桜の花びらが、二人の肩に降り積もる。
「朔夜様」
「何だ?」
「今度は、忘れません」
 小夜が微笑む。
「あなたと交わした約束も、これから一緒に過ごす毎日も」
 朔夜は、彼女の手をそっと握った。
「俺もだ、小夜」
 春の空に、月が淡く浮かんでいた。
 かつて、二人を引き裂いた月。
 そして今、二人の未来を静かに照らす月。
 その光の下で、小夜はもう一度、幼い日の約束を思い出した。
 ――大人になったら、また会おう。
 あの日の約束は、ようやく果たされた。
 けれど、二人の物語は、ここで終わりではない。
 これから先、幾度も季節が巡るだろう。
 春には花を眺め、夏には夜風に吹かれ、秋には月を見上げ、冬には互いの温もりを確かめる。
 そして、そのたびに二人は、新しい約束を交わしていく。
 誰かの犠牲ではなく、誰かの支配でもなく。
 二人が自分の意思で選び取った、二人だけの未来を。
 月桜の花びらが、最後の一枚、風に乗って舞い上がった。
 それはまるで、長い夜の終わりを告げる、白い祝福のようだった。