朝、東宮の庭に白い霧が立ち込めていた。
小夜は縁側に座り、掌の上の銀細工を見つめていた。
昨夜、月見の旧宮で取り戻した記憶。
幼い自分と朔夜が、月桜の下で交わした約束。
そして、十年前に起きたという事件。
思い出せたのは、ほんの一部にすぎない。それでも、朔夜が自分にとって特別な人だったことだけは、はっきりとわかった。
「……朔夜さま」
小さく名前を呼ぶ。
すると、胸の奥が温かくなった。
不思議だった。
記憶を失う前の自分が、彼をどれほど大切に思っていたのか。それはまだわからない。
けれど、今の自分もまた、彼のことを放っておけないと思っている。
冷たい言葉の奥に隠された優しさ。
誰にも頼ろうとしない不器用さ。
そして、時折見せる、ひどく寂しそうな眼差し。
もっと知りたい。
彼が何を抱えているのか。
何を恐れているのか。
その隣に立つことができるのなら、今度こそ一緒に歩いていきたい。
「何を考えている」
不意に声がした。
振り返ると、朔夜が立っていた。
「殿下。おはようございます」
「ああ」
朔夜は小夜の隣に腰を下ろした。
いつもなら、必要なことだけを告げて立ち去る彼が、今朝はなかなか席を立とうとしない。
「……昨夜は、よく眠れたか」
「はい。殿下は?」
「問題ない」
そう答えた直後、朔夜は小さく咳き込んだ。
右手が胸元を押さえている。
小夜は眉をひそめた。
「殿下、お身体の具合が悪いのではありませんか?」
「何でもない」
「ですが……」
「小夜」
名前を呼ばれ、小夜は口を閉じた。
朔夜は、まっすぐに彼女を見つめた。
「昨日、お前は約束したな。俺と一緒に考えると」
「はい」
「ならば、一つ頼みがある」
「何でしょう?」
「俺に何かあっても、自分を犠牲にするような真似はするな」
小夜は目を見開いた。
「それは……」
「お前の力は、月喰いの封印と深く関わっている。昨夜、お前が記憶を取り戻したことで、俺の呪いにも変化があった」
朔夜は自分の右手を見つめた。
袖の下に隠された黒い筋が、昨日より濃くなっている。
「お前が力を使えば使うほど、封印が揺らぐ可能性がある」
「それでも、殿下をお救いしたいのです」
「俺は、お前に救われたいわけではない」
思いがけない言葉に、小夜は息を呑んだ。
朔夜は、少しだけ視線を落とした。
「お前と生きたいんだ」
風が止まった。
小夜は、彼の言葉を理解するまでに時間がかかった。
「……殿下?」
「十年前、俺はお前を守れなかった。お前は記憶を失い、俺は呪いを抱えた。あの夜のことを、ずっと悔やんできた」
朔夜は苦しそうに笑った。
「だから今度こそ、お前を守りたい。お前が俺のために何かを失うくらいなら、この呪いを抱えたままでいい」
「そんなの、嫌です」
小夜は思わず声を上げた。
朔夜が驚いたように顔を上げる。
「私は、殿下に一人で苦しんでほしくありません」
「小夜……」
「私のことを守ろうとしてくださるのは嬉しいです。でも、私だって殿下を守りたいのです」
小夜は彼の手を取った。
「一緒に生きたいと思っているのは、私も同じです」
朔夜の瞳が揺れた。
彼は何かを言おうとしたが、結局、言葉にはしなかった。
ただ、小夜の手をそっと握り返した。
その手は、驚くほど冷たかった。
*
昼過ぎ、小夜は朱音に呼び出された。
場所は、後宮の西にある藤の間。
美しい藤の花が描かれた襖に囲まれた部屋で、朱音は一人、茶を用意していた。
「突然呼び出して、ごめんなさいね」
「いいえ。藤原様のお話と伺いましたので」
「ええ。あなたに伝えておきたいことがあるの」
朱音は小夜に茶を勧めた。
「皇太子殿下のことよ」
小夜は姿勢を正した。
「殿下の呪いについて、何かご存じなのですか?」
「知っているわ。私の一族は、代々、皇宮の結界を守ってきたから」
朱音は茶碗を置いた。
「月喰いの封印には、二つの力が必要なの。月の力を宿す皇族と、穢れを祓う巫女。その二つが揃うことで、妖は人の世へ出てこられなくなる」
「では、殿下の呪いは……」
「十年前、封印が破られかけたときに生じたものよ。月喰いの力が殿下の身体に入り込み、封印の一部になってしまった」
小夜は唇を引き結んだ。
朔夜の身体に刻まれた呪い。
あれは、単に妖の穢れを受けたものではなかったのだ。
封印を維持するために、彼自身が月喰いの力を抱え込んでいた。
「……呪いを解く方法はないのですか?」
「あるわ」
朱音は、迷いなく答えた。
「月喰いの核を破壊すればいい。ただし、そのためには殿下の身体に宿る月の力を解放しなければならない」
「それなら……」
「簡単なことではないの」
朱音の表情が曇った。
「月の力を解放すれば、封印は一時的に消える。その間、月喰いは完全な姿で現世に降り立つでしょう。もし倒せなければ、この国そのものが妖に呑まれる」
小夜は息を呑んだ。
「それに、もう一つ問題があるわ」
朱音は、小夜を見つめた。
「封印を完全に閉じるには、浄化の巫女が自分の力をすべて捧げなければならない」
部屋の中が静まり返った。
小夜は、膝の上で手を握りしめた。
「……それは、私の力を失うということですか?」
「それだけでは済まない可能性もある」
朱音の声は、わずかに震えていた。
「あなたの一族は、かつて同じ方法で封印を守った。けれど、その代償として、一人の巫女が命を落としたと伝えられている」
小夜の脳裏に、昨夜の妖の言葉がよみがえった。
――あの方の呪いを解けば、あなたはすべてを失う。
あれは、脅しではなかったのだ。
「どうして、私にそれを教えてくださるのですか?」
小夜は尋ねた。
「私を殿下から遠ざけたいのではありませんか?」
朱音は、すぐには答えなかった。
やがて、静かに口を開く。
「私は、殿下に生きていてほしいの」
その声には、偽りのない響きがあった。
「幼い頃から、殿下をお慕いしていたわ。皇太子としてではなく、一人の人間として。だからこそ、あの方が誰にも弱さを見せずに苦しんでいる姿を見るのが、つらかった」
朱音は窓の外を見た。
「あなたが現れてから、殿下は少しずつ変わり始めた。以前よりも、穏やかな顔をなさるようになった」
小夜は、何も言えなかった。
「でも、あなたが殿下を救おうとすれば、あなた自身が危険にさらされる。私はそれを見過ごせない」
「……藤原様」
「だから、お願い。どうか、殿下のために自分を犠牲にしないで」
朱音は深く頭を下げた。
小夜は驚いて立ち上がった。
「お顔を上げてください」
「あなたにしか頼めないのよ」
朱音は顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「私は、殿下を救う方法を探している。でも、まだ見つからない。だから……あなたにも、力を貸してほしいの」
小夜は静かに頷いた。
「わかりました。私も、殿下を救う方法を探します」
朱音は、ほっとしたように息を吐いた。
しかし、小夜は続けた。
「ただし、私一人で決めるつもりはありません。殿下にも、藤原様にも、一緒に考えていただきたいのです」
朱音は目を見開いた。
「……あなた、本当に不思議な人ね」
「そうでしょうか?」
「ええ。後宮にいる人たちは、みんな何かを手に入れるために動いている。地位や名誉、帝の寵愛。けれど、あなたは誰かを失わないために動こうとしている」
朱音は小さく笑った。
「……少しだけ、あなたが羨ましいわ」
その言葉の意味を、小夜はまだ知らなかった。
*
その日の夕刻、東宮に急報が届いた。
宮城の北にある結界の一つが、何者かによって破壊されたという。
結界を管理していた神官たちは、全員が意識を失っていた。
そして、現場には黒い羽根が一枚、残されていた。
朔夜はそれを見た瞬間、顔を険しくした。
「……月喰いの眷属か」
「殿下、すぐに退魔隊を派遣いたします」
武官が告げる。
「いや。俺が行く」
「しかし、殿下のお身体では……」
「黙れ。これ以上、結界を破らせるわけにはいかぬ」
朔夜は立ち上がった。
その身体が、わずかに揺れる。
小夜は、すぐに彼の腕を支えた。
「私も参ります」
「駄目だ」
「ですが、私の力が必要なのでしょう?」
「お前を危険な場所へ連れていくわけにはいかない」
「殿下」
小夜は、彼の目を見つめた。
「一人で行かないと、約束してくださいましたよね」
朔夜は言葉を失った。
昨日、小夜に告げたばかりだった。
自分を犠牲にするな、と。
けれど、それは自分にも当てはまることだった。
小夜は微笑んだ。
「私も一緒に行きます。殿下が危険な目に遭うのを、ただ見ていることはできません」
朔夜は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……わかった。ただし、俺のそばを離れるな」
「はい」
小夜は頷いた。
こうして二人は、結界が破られた場所へ向かうことになった。
*
宮城の北には、古い神社があった。
かつて月喰いを封じたと伝えられる場所であり、今も多くの神官が結界の管理にあたっている。
しかし、そこへ近づくにつれて、空気が重くなっていった。
木々の葉は黒ずみ、地面には不自然なひび割れが走っている。
小夜には、無数の妖の気配が感じられた。
「殿下、ここは……」
「ああ。封印の境界に近い」
朔夜は刀を抜いた。
「何が現れても、決して俺から離れるな」
小夜は頷いた。
神社の境内へ入ると、そこには信じられない光景が広がっていた。
鳥居は真ん中から折れ、拝殿の屋根は崩れ落ちている。
そして、境内の中央に、一人の男が立っていた。
白い装束をまとった、年齢のわからない男だった。
顔は穏やかで、目元には深い皺が刻まれている。
「ようこそ、皇太子殿下」
男は恭しく頭を下げた。
「あなたが、結界を破ったのか」
「いいえ。私は、封印を解いただけですよ」
男は微笑んだ。
「この国は、長い間、偽りの平穏に守られてきました。妖を封じるために、皇族は力を搾り取られ、巫女は犠牲を強いられてきた」
小夜は息を呑んだ。
「……何を言っているのですか?」
「あなたなら、わかるでしょう。浄化の巫女よ」
男の視線が、小夜へ向けられた。
「あなたの一族は、代々、封印のために利用されてきた。あなたの母も、父も、その役目を果たすために命を落としたのです」
「そんな……」
小夜の足元が揺らいだ。
両親の死。
幼い頃の記憶。
そして、自分が持つ力。
すべてが、一本の糸でつながっているように思えた。
「嘘だ!」
朔夜が叫んだ。
「水無瀬の一族は、自らの意思で封印を守ってきた。誰かに強制されたわけではない!」
「そう思いたいのでしょうね」
男は、穏やかに笑った。
「ですが、真実は違う。あなたも、皇太子として封印を維持するために生かされているにすぎない」
朔夜の右腕に、黒い筋が浮かんだ。
「黙れ……!」
「あなたの呪いが完全に目覚めれば、月喰いは現世へ降り立つ。そのとき、巫女は選ばなければならない。あなたを救うか、この国を救うか」
男は、小夜に向かって手を伸ばした。
「さあ、選びなさい。あなたの力を解放すれば、皇太子の呪いは消える。けれど、その代わりに封印は失われる」
小夜は、朔夜を見た。
彼の顔は青ざめ、刀を握る手が震えていた。
それでも、彼は小夜の前に立とうとしていた。
「小夜、聞くな」
「殿下……」
「こいつの言葉に惑わされるな。お前は何もする必要はない」
朔夜は、苦しそうに笑った。
「俺は、どうなってもいい」
その瞬間、小夜の胸の奥で、何かが切れた。
「……どうして、そんなことをおっしゃるのですか」
朔夜が振り返る。
「どうして、いつもご自分のことを後回しにするのですか!」
小夜の声が、境内に響いた。
「殿下がいなくなったら、私は悲しいです。あなたが苦しんでいるのに、何もできないことが、つらいのです!」
涙が頬を伝った。
「私は、あなたに生きていてほしい。私のためにではなく、殿下自身のために!」
朔夜は、何も言えなかった。
その瞳が、ゆっくりと揺れる。
小夜は一歩、前へ進んだ。
「私は、まだ十年前の記憶をすべて取り戻したわけではありません。殿下のことも、まだ知らないことばかりです」
胸元の銀細工が光り始める。
「それでも、今の私は、殿下と一緒に未来を歩きたいと思っています」
白銀の光が、小夜の身体を包み込んだ。
朔夜の呪いが、わずかに静まる。
「だから……一人で終わらせようとしないでください」
朔夜は、ゆっくりと目を閉じた。
そして、初めて小夜の前で弱さを認めるように、静かに呟いた。
「……怖いんだ」
「え?」
「お前を、また失うことが」
その声は、ひどく小さかった。
「十年前、お前が倒れたとき、俺は何もできなかった。目の前でお前が記憶を失っていくのを、ただ見ていることしかできなかった」
朔夜は、小夜の手を取った。
「もう二度と、あんな思いはしたくない」
小夜は、彼の手を握り返した。
「大丈夫です」
そう言って、微笑んだ。
「今度は、二人で乗り越えましょう」
その瞬間、二人の手の間から、まばゆい光が溢れ出した。
神社の境内を包み込み、黒く染まっていた木々が元の色を取り戻していく。
白い装束の男が、初めて表情を変えた。
「馬鹿な……。二つの力が、これほど強く共鳴するとは……!」
男の身体が、黒い霧に包まれる。
「だが、もう遅い!」
地面が激しく揺れた。
神社の奥にある石碑が、音を立てて崩れ落ちる。
その下から、巨大な黒い影が姿を現した。
無数の目。
長く伸びる腕。
そして、夜空を覆い尽くすほどの黒い翼。
月喰いだった。
『ようやく……』
その声は、地の底から響くようだった。
『ようやく、外へ出られる』
朔夜の身体が、大きく震えた。
黒い筋が右腕から肩へ、胸元へと広がっていく。
「殿下!」
小夜が叫ぶ。
朔夜は刀を構えた。
「……小夜、俺のそばにいろ」
「はい!」
二人は並んで立った。
月喰いが、その巨大な目を二人へ向ける。
『皇太子よ。お前は、私の器となる』
朔夜の身体から、黒い霧が立ち上った。
『そして巫女よ。お前は、私の封印を解く鍵となる』
小夜の銀細工が、激しく光る。
その光の中で、小夜は一つの記憶を取り戻した。
十年前の夜。
炎に包まれた神社で、幼い朔夜が自分を抱きしめていた。
『小夜、逃げろ!』
『いや! 朔夜さまを置いていけない!』
『いいから、逃げるんだ!』
少年は泣いていた。
初めて見る、朔夜の涙だった。
そして、小夜は思い出した。
自分が何を願ったのか。
何を犠牲にしてでも、守りたかったものが何だったのか。
「……そうだったんだ」
小夜は顔を上げた。
月喰いが、ゆっくりと翼を広げる。
朔夜は刀を握りしめた。
そして、小夜は彼の手を取った。
「殿下。私、思い出しました」
「……何を?」
小夜は、涙を浮かべながら微笑んだ。
「十年前、私が守りたかったものを」
白銀の光が、二人を包み込んだ。
「今度こそ、守ります。あなたも、この国も」
月喰いが咆哮した。
夜空を覆う雲が裂け、赤い月が姿を現す。
決戦の時が、訪れようとしていた。
*
同じ頃、後宮の藤の間では、朱音が一人、古い鏡の前に立っていた。
鏡の向こうには、黒い影が映っている。
「……始まってしまったのね」
朱音は目を閉じた。
「お父様。私は、どうすればよかったのでしょう」
返事はない。
ただ、鏡の表面に、かすかな文字が浮かび上がった。
――封印を守る者は、最後に真実を告げなければならない。
朱音は、震える手で鏡に触れた。
「……わかりました」
顔を上げた彼女の瞳には、迷いがなかった。
「今度こそ、私が終わらせます」
朱音は、部屋を飛び出した。
彼女の向かう先は、宮城の北。
月喰いが目覚めた神社だった。
小夜は縁側に座り、掌の上の銀細工を見つめていた。
昨夜、月見の旧宮で取り戻した記憶。
幼い自分と朔夜が、月桜の下で交わした約束。
そして、十年前に起きたという事件。
思い出せたのは、ほんの一部にすぎない。それでも、朔夜が自分にとって特別な人だったことだけは、はっきりとわかった。
「……朔夜さま」
小さく名前を呼ぶ。
すると、胸の奥が温かくなった。
不思議だった。
記憶を失う前の自分が、彼をどれほど大切に思っていたのか。それはまだわからない。
けれど、今の自分もまた、彼のことを放っておけないと思っている。
冷たい言葉の奥に隠された優しさ。
誰にも頼ろうとしない不器用さ。
そして、時折見せる、ひどく寂しそうな眼差し。
もっと知りたい。
彼が何を抱えているのか。
何を恐れているのか。
その隣に立つことができるのなら、今度こそ一緒に歩いていきたい。
「何を考えている」
不意に声がした。
振り返ると、朔夜が立っていた。
「殿下。おはようございます」
「ああ」
朔夜は小夜の隣に腰を下ろした。
いつもなら、必要なことだけを告げて立ち去る彼が、今朝はなかなか席を立とうとしない。
「……昨夜は、よく眠れたか」
「はい。殿下は?」
「問題ない」
そう答えた直後、朔夜は小さく咳き込んだ。
右手が胸元を押さえている。
小夜は眉をひそめた。
「殿下、お身体の具合が悪いのではありませんか?」
「何でもない」
「ですが……」
「小夜」
名前を呼ばれ、小夜は口を閉じた。
朔夜は、まっすぐに彼女を見つめた。
「昨日、お前は約束したな。俺と一緒に考えると」
「はい」
「ならば、一つ頼みがある」
「何でしょう?」
「俺に何かあっても、自分を犠牲にするような真似はするな」
小夜は目を見開いた。
「それは……」
「お前の力は、月喰いの封印と深く関わっている。昨夜、お前が記憶を取り戻したことで、俺の呪いにも変化があった」
朔夜は自分の右手を見つめた。
袖の下に隠された黒い筋が、昨日より濃くなっている。
「お前が力を使えば使うほど、封印が揺らぐ可能性がある」
「それでも、殿下をお救いしたいのです」
「俺は、お前に救われたいわけではない」
思いがけない言葉に、小夜は息を呑んだ。
朔夜は、少しだけ視線を落とした。
「お前と生きたいんだ」
風が止まった。
小夜は、彼の言葉を理解するまでに時間がかかった。
「……殿下?」
「十年前、俺はお前を守れなかった。お前は記憶を失い、俺は呪いを抱えた。あの夜のことを、ずっと悔やんできた」
朔夜は苦しそうに笑った。
「だから今度こそ、お前を守りたい。お前が俺のために何かを失うくらいなら、この呪いを抱えたままでいい」
「そんなの、嫌です」
小夜は思わず声を上げた。
朔夜が驚いたように顔を上げる。
「私は、殿下に一人で苦しんでほしくありません」
「小夜……」
「私のことを守ろうとしてくださるのは嬉しいです。でも、私だって殿下を守りたいのです」
小夜は彼の手を取った。
「一緒に生きたいと思っているのは、私も同じです」
朔夜の瞳が揺れた。
彼は何かを言おうとしたが、結局、言葉にはしなかった。
ただ、小夜の手をそっと握り返した。
その手は、驚くほど冷たかった。
*
昼過ぎ、小夜は朱音に呼び出された。
場所は、後宮の西にある藤の間。
美しい藤の花が描かれた襖に囲まれた部屋で、朱音は一人、茶を用意していた。
「突然呼び出して、ごめんなさいね」
「いいえ。藤原様のお話と伺いましたので」
「ええ。あなたに伝えておきたいことがあるの」
朱音は小夜に茶を勧めた。
「皇太子殿下のことよ」
小夜は姿勢を正した。
「殿下の呪いについて、何かご存じなのですか?」
「知っているわ。私の一族は、代々、皇宮の結界を守ってきたから」
朱音は茶碗を置いた。
「月喰いの封印には、二つの力が必要なの。月の力を宿す皇族と、穢れを祓う巫女。その二つが揃うことで、妖は人の世へ出てこられなくなる」
「では、殿下の呪いは……」
「十年前、封印が破られかけたときに生じたものよ。月喰いの力が殿下の身体に入り込み、封印の一部になってしまった」
小夜は唇を引き結んだ。
朔夜の身体に刻まれた呪い。
あれは、単に妖の穢れを受けたものではなかったのだ。
封印を維持するために、彼自身が月喰いの力を抱え込んでいた。
「……呪いを解く方法はないのですか?」
「あるわ」
朱音は、迷いなく答えた。
「月喰いの核を破壊すればいい。ただし、そのためには殿下の身体に宿る月の力を解放しなければならない」
「それなら……」
「簡単なことではないの」
朱音の表情が曇った。
「月の力を解放すれば、封印は一時的に消える。その間、月喰いは完全な姿で現世に降り立つでしょう。もし倒せなければ、この国そのものが妖に呑まれる」
小夜は息を呑んだ。
「それに、もう一つ問題があるわ」
朱音は、小夜を見つめた。
「封印を完全に閉じるには、浄化の巫女が自分の力をすべて捧げなければならない」
部屋の中が静まり返った。
小夜は、膝の上で手を握りしめた。
「……それは、私の力を失うということですか?」
「それだけでは済まない可能性もある」
朱音の声は、わずかに震えていた。
「あなたの一族は、かつて同じ方法で封印を守った。けれど、その代償として、一人の巫女が命を落としたと伝えられている」
小夜の脳裏に、昨夜の妖の言葉がよみがえった。
――あの方の呪いを解けば、あなたはすべてを失う。
あれは、脅しではなかったのだ。
「どうして、私にそれを教えてくださるのですか?」
小夜は尋ねた。
「私を殿下から遠ざけたいのではありませんか?」
朱音は、すぐには答えなかった。
やがて、静かに口を開く。
「私は、殿下に生きていてほしいの」
その声には、偽りのない響きがあった。
「幼い頃から、殿下をお慕いしていたわ。皇太子としてではなく、一人の人間として。だからこそ、あの方が誰にも弱さを見せずに苦しんでいる姿を見るのが、つらかった」
朱音は窓の外を見た。
「あなたが現れてから、殿下は少しずつ変わり始めた。以前よりも、穏やかな顔をなさるようになった」
小夜は、何も言えなかった。
「でも、あなたが殿下を救おうとすれば、あなた自身が危険にさらされる。私はそれを見過ごせない」
「……藤原様」
「だから、お願い。どうか、殿下のために自分を犠牲にしないで」
朱音は深く頭を下げた。
小夜は驚いて立ち上がった。
「お顔を上げてください」
「あなたにしか頼めないのよ」
朱音は顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「私は、殿下を救う方法を探している。でも、まだ見つからない。だから……あなたにも、力を貸してほしいの」
小夜は静かに頷いた。
「わかりました。私も、殿下を救う方法を探します」
朱音は、ほっとしたように息を吐いた。
しかし、小夜は続けた。
「ただし、私一人で決めるつもりはありません。殿下にも、藤原様にも、一緒に考えていただきたいのです」
朱音は目を見開いた。
「……あなた、本当に不思議な人ね」
「そうでしょうか?」
「ええ。後宮にいる人たちは、みんな何かを手に入れるために動いている。地位や名誉、帝の寵愛。けれど、あなたは誰かを失わないために動こうとしている」
朱音は小さく笑った。
「……少しだけ、あなたが羨ましいわ」
その言葉の意味を、小夜はまだ知らなかった。
*
その日の夕刻、東宮に急報が届いた。
宮城の北にある結界の一つが、何者かによって破壊されたという。
結界を管理していた神官たちは、全員が意識を失っていた。
そして、現場には黒い羽根が一枚、残されていた。
朔夜はそれを見た瞬間、顔を険しくした。
「……月喰いの眷属か」
「殿下、すぐに退魔隊を派遣いたします」
武官が告げる。
「いや。俺が行く」
「しかし、殿下のお身体では……」
「黙れ。これ以上、結界を破らせるわけにはいかぬ」
朔夜は立ち上がった。
その身体が、わずかに揺れる。
小夜は、すぐに彼の腕を支えた。
「私も参ります」
「駄目だ」
「ですが、私の力が必要なのでしょう?」
「お前を危険な場所へ連れていくわけにはいかない」
「殿下」
小夜は、彼の目を見つめた。
「一人で行かないと、約束してくださいましたよね」
朔夜は言葉を失った。
昨日、小夜に告げたばかりだった。
自分を犠牲にするな、と。
けれど、それは自分にも当てはまることだった。
小夜は微笑んだ。
「私も一緒に行きます。殿下が危険な目に遭うのを、ただ見ていることはできません」
朔夜は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……わかった。ただし、俺のそばを離れるな」
「はい」
小夜は頷いた。
こうして二人は、結界が破られた場所へ向かうことになった。
*
宮城の北には、古い神社があった。
かつて月喰いを封じたと伝えられる場所であり、今も多くの神官が結界の管理にあたっている。
しかし、そこへ近づくにつれて、空気が重くなっていった。
木々の葉は黒ずみ、地面には不自然なひび割れが走っている。
小夜には、無数の妖の気配が感じられた。
「殿下、ここは……」
「ああ。封印の境界に近い」
朔夜は刀を抜いた。
「何が現れても、決して俺から離れるな」
小夜は頷いた。
神社の境内へ入ると、そこには信じられない光景が広がっていた。
鳥居は真ん中から折れ、拝殿の屋根は崩れ落ちている。
そして、境内の中央に、一人の男が立っていた。
白い装束をまとった、年齢のわからない男だった。
顔は穏やかで、目元には深い皺が刻まれている。
「ようこそ、皇太子殿下」
男は恭しく頭を下げた。
「あなたが、結界を破ったのか」
「いいえ。私は、封印を解いただけですよ」
男は微笑んだ。
「この国は、長い間、偽りの平穏に守られてきました。妖を封じるために、皇族は力を搾り取られ、巫女は犠牲を強いられてきた」
小夜は息を呑んだ。
「……何を言っているのですか?」
「あなたなら、わかるでしょう。浄化の巫女よ」
男の視線が、小夜へ向けられた。
「あなたの一族は、代々、封印のために利用されてきた。あなたの母も、父も、その役目を果たすために命を落としたのです」
「そんな……」
小夜の足元が揺らいだ。
両親の死。
幼い頃の記憶。
そして、自分が持つ力。
すべてが、一本の糸でつながっているように思えた。
「嘘だ!」
朔夜が叫んだ。
「水無瀬の一族は、自らの意思で封印を守ってきた。誰かに強制されたわけではない!」
「そう思いたいのでしょうね」
男は、穏やかに笑った。
「ですが、真実は違う。あなたも、皇太子として封印を維持するために生かされているにすぎない」
朔夜の右腕に、黒い筋が浮かんだ。
「黙れ……!」
「あなたの呪いが完全に目覚めれば、月喰いは現世へ降り立つ。そのとき、巫女は選ばなければならない。あなたを救うか、この国を救うか」
男は、小夜に向かって手を伸ばした。
「さあ、選びなさい。あなたの力を解放すれば、皇太子の呪いは消える。けれど、その代わりに封印は失われる」
小夜は、朔夜を見た。
彼の顔は青ざめ、刀を握る手が震えていた。
それでも、彼は小夜の前に立とうとしていた。
「小夜、聞くな」
「殿下……」
「こいつの言葉に惑わされるな。お前は何もする必要はない」
朔夜は、苦しそうに笑った。
「俺は、どうなってもいい」
その瞬間、小夜の胸の奥で、何かが切れた。
「……どうして、そんなことをおっしゃるのですか」
朔夜が振り返る。
「どうして、いつもご自分のことを後回しにするのですか!」
小夜の声が、境内に響いた。
「殿下がいなくなったら、私は悲しいです。あなたが苦しんでいるのに、何もできないことが、つらいのです!」
涙が頬を伝った。
「私は、あなたに生きていてほしい。私のためにではなく、殿下自身のために!」
朔夜は、何も言えなかった。
その瞳が、ゆっくりと揺れる。
小夜は一歩、前へ進んだ。
「私は、まだ十年前の記憶をすべて取り戻したわけではありません。殿下のことも、まだ知らないことばかりです」
胸元の銀細工が光り始める。
「それでも、今の私は、殿下と一緒に未来を歩きたいと思っています」
白銀の光が、小夜の身体を包み込んだ。
朔夜の呪いが、わずかに静まる。
「だから……一人で終わらせようとしないでください」
朔夜は、ゆっくりと目を閉じた。
そして、初めて小夜の前で弱さを認めるように、静かに呟いた。
「……怖いんだ」
「え?」
「お前を、また失うことが」
その声は、ひどく小さかった。
「十年前、お前が倒れたとき、俺は何もできなかった。目の前でお前が記憶を失っていくのを、ただ見ていることしかできなかった」
朔夜は、小夜の手を取った。
「もう二度と、あんな思いはしたくない」
小夜は、彼の手を握り返した。
「大丈夫です」
そう言って、微笑んだ。
「今度は、二人で乗り越えましょう」
その瞬間、二人の手の間から、まばゆい光が溢れ出した。
神社の境内を包み込み、黒く染まっていた木々が元の色を取り戻していく。
白い装束の男が、初めて表情を変えた。
「馬鹿な……。二つの力が、これほど強く共鳴するとは……!」
男の身体が、黒い霧に包まれる。
「だが、もう遅い!」
地面が激しく揺れた。
神社の奥にある石碑が、音を立てて崩れ落ちる。
その下から、巨大な黒い影が姿を現した。
無数の目。
長く伸びる腕。
そして、夜空を覆い尽くすほどの黒い翼。
月喰いだった。
『ようやく……』
その声は、地の底から響くようだった。
『ようやく、外へ出られる』
朔夜の身体が、大きく震えた。
黒い筋が右腕から肩へ、胸元へと広がっていく。
「殿下!」
小夜が叫ぶ。
朔夜は刀を構えた。
「……小夜、俺のそばにいろ」
「はい!」
二人は並んで立った。
月喰いが、その巨大な目を二人へ向ける。
『皇太子よ。お前は、私の器となる』
朔夜の身体から、黒い霧が立ち上った。
『そして巫女よ。お前は、私の封印を解く鍵となる』
小夜の銀細工が、激しく光る。
その光の中で、小夜は一つの記憶を取り戻した。
十年前の夜。
炎に包まれた神社で、幼い朔夜が自分を抱きしめていた。
『小夜、逃げろ!』
『いや! 朔夜さまを置いていけない!』
『いいから、逃げるんだ!』
少年は泣いていた。
初めて見る、朔夜の涙だった。
そして、小夜は思い出した。
自分が何を願ったのか。
何を犠牲にしてでも、守りたかったものが何だったのか。
「……そうだったんだ」
小夜は顔を上げた。
月喰いが、ゆっくりと翼を広げる。
朔夜は刀を握りしめた。
そして、小夜は彼の手を取った。
「殿下。私、思い出しました」
「……何を?」
小夜は、涙を浮かべながら微笑んだ。
「十年前、私が守りたかったものを」
白銀の光が、二人を包み込んだ。
「今度こそ、守ります。あなたも、この国も」
月喰いが咆哮した。
夜空を覆う雲が裂け、赤い月が姿を現す。
決戦の時が、訪れようとしていた。
*
同じ頃、後宮の藤の間では、朱音が一人、古い鏡の前に立っていた。
鏡の向こうには、黒い影が映っている。
「……始まってしまったのね」
朱音は目を閉じた。
「お父様。私は、どうすればよかったのでしょう」
返事はない。
ただ、鏡の表面に、かすかな文字が浮かび上がった。
――封印を守る者は、最後に真実を告げなければならない。
朱音は、震える手で鏡に触れた。
「……わかりました」
顔を上げた彼女の瞳には、迷いがなかった。
「今度こそ、私が終わらせます」
朱音は、部屋を飛び出した。
彼女の向かう先は、宮城の北。
月喰いが目覚めた神社だった。



