月影の後宮、君と再び恋をする

 池の水が、黒く染まっていた。
 月明かりを映していた水面は、今や墨を流したように濁り、その中央から白い女の姿がゆっくりと浮かび上がってくる。
 顔のない女。
 長い黒髪が水面を這い、白い着物の裾からは無数の影が伸びていた。
 小夜は息を呑んだ。
 昨夜、自分の部屋に現れた妖と同じ気配。
 けれど、目の前の存在は比べものにならないほど強大だった。
「殿下……あれは一体?」
「月喰いの眷属だ。封印の隙間から漏れ出したものだろう」
 朔夜は刀を構えたまま、低く答えた。
「だが、妙だな。これほどの妖が、結界の内側にまで入り込めるはずがない」
『それは、あなたが弱くなったからよ』
 女の声が、庭園全体に響いた。
『呪いに蝕まれ、封印を支える力さえ失いつつある。あなたが皇太子でいられる時間も、もう長くはない』
「黙れ」
『そして、その娘……』
 女の顔のない頭部が、小夜へ向いた。
『あなたは、まだ何も知らないのね』
 黒い影が、一斉に小夜へ襲いかかった。
「小夜!」
 朔夜が刀を振るう。
 銀色の刃が影を切り裂き、黒い靄が夜空へ散った。
 しかし、影は何度でも蘇る。
 斬っても、斬っても、池の底から新たな影が這い上がってくるのだ。
 朔夜の右腕に黒い筋が浮かんだ。
「くっ……!」
 刀を握る手が震える。
 小夜は、その異変を見逃さなかった。
 このままでは、朔夜が危ない。
「殿下、私に任せてください!」
「駄目だ。お前は手を出すな!」
「でも!」
「これは命令だ!」
 朔夜の声が夜の庭に響いた。
 小夜は唇を噛んだ。
 なぜ、この人はいつもそうなのだろう。
 自分が傷つくことは厭わないくせに、誰かが手を差し伸べようとすると拒絶する。
 まるで、自分一人が犠牲になればすべて解決すると信じているようだった。
 そのとき、小夜の胸元で銀細工が熱を帯びた。
 淡い光が着物越しに漏れ出す。
 同時に、頭の奥で声が響いた。
『小夜……』
 懐かしい声だった。
 幼い頃、何度も聞いた気がする声。
『一緒に、月を見よう』
 小夜は目を見開いた。
 次の瞬間、彼女の指先から白銀の光が放たれた。
 光は庭園を包み込み、黒い影を一瞬で消し去った。
 顔のない女が、初めて後ずさる。
『まさか……もう目覚め始めたというの?』
 女の姿が霧に変わっていく。
『いいわ。思い出しなさい。あの夜、あなたが何を選んだのかを』
 黒い霧は池の底へと沈み、やがて消えた。
 庭園に静寂が戻る。
 小夜は、その場に膝をついた。
「小夜!」
 朔夜が駆け寄り、彼女の身体を支える。
「大丈夫か。どこか痛むところは?」
「私は……大丈夫です」
 小夜は自分の手を見つめた。
 先ほどの光は、自分の力なのだろうか。
 いつもの浄化とは違う。
 もっと深く、もっと強い何かが、自分の中から溢れ出したような感覚だった。
 朔夜は小夜の胸元に目を向けた。
 月形の銀細工は、まだかすかに光っていた。
「……やはり、そうなのか」
「殿下?」
 朔夜は答えなかった。
 ただ、小夜を支える腕に、ほんの少し力を込めた。
 まるで、もう二度と離したくないと願うように。
  *
 翌朝。
 朔夜は、小夜を東宮の奥にある小さな書斎へ呼び出した。
「昨夜のことだが」
「はい」
「お前が見た女のことを調べる必要がある」
 机の上には、一枚の古い地図が広げられていた。
 宮城の北東。
 現在は立ち入りを禁じられている一角に、赤い印がつけられている。
「ここは?」
「月見の旧宮だ」
 朔夜は地図を指でなぞった。
「十年前まで、皇族の子どもたちが過ごしていた場所だ。今は廃宮となっている」
「十年前……」
 その言葉に、小夜の胸がざわめいた。
 自分が故郷を離れたのも、ちょうどその頃だった。
「なぜ、そこへ?」
「昨夜の妖が現れた場所には、共通点がある。いずれも旧宮の結界に近い場所だ」
 朔夜は地図を畳んだ。
「何かが、旧宮に残されている可能性が高い」
「私も、お供してよろしいのでしょうか」
「お前がいなければ、調査にならない」
 そう言ってから、朔夜は少しだけ言葉を切った。
「……それに、確かめたいことがある」
 その横顔は、いつも以上に険しかった。
 小夜は頷いた。
「わかりました」
 彼が何を確かめたいのか。
 まだわからない。
 けれど、自分にも確かめなければならないことがある。
 十年前の記憶。
 朔夜との関係。
 そして、自分の中に眠る力の正体。
 小夜は胸元の銀細工を握りしめた。
  *
 月見の旧宮は、宮城の北東、深い竹林の向こうにあった。
 門には錆びた鎖が巻かれ、苔むした石段には落ち葉が積もっている。
 かつては皇族の子どもたちの笑い声が響いていたというが、今は鳥の声さえ聞こえなかった。
「ここには、長く人が入っていないのですか?」
「ああ。十年前の事件以来、封鎖されている」
「事件……?」
 朔夜は足を止めた。
「お前は、どこまで覚えている?」
 突然の問いに、小夜は戸惑った。
「幼い頃の記憶は、ほとんどありません。両親が亡くなったことと、故郷を離れたことくらいで……」
「両親が亡くなったのは、いつだ」
「十年前です」
 朔夜の表情が変わった。
 ほんの一瞬だったが、小夜にはわかった。
「……そうか」
 彼は再び歩き始めた。
 それ以上、何も尋ねなかった。
 やがて二人は、旧宮の奥にある庭園へたどり着いた。
 そこには一本の大きな桜の木が立っていた。
 季節は秋。
 枝には葉がほとんど残っていない。
 それでも、幹の周囲には淡い光が漂っていた。
「この桜は……」
「月桜だ。月の力を宿す、古い神木だと伝えられている」
 朔夜は木の根元へ歩み寄った。
「昔、俺はここで一人の少女と出会った」
 小夜の心臓が、大きく跳ねた。
「少女……?」
「ああ。俺がまだ九つだった頃だ」
 朔夜は遠い記憶をたどるように、目を細めた。
「その少女は、迷子になって泣いていた。俺は声をかけたが、少女は俺を見て、こう言った」
 朔夜は小夜を振り返った。
「あなたも、一人なの?」
 小夜は息を呑んだ。
 その言葉。
 確かに、どこかで聞いたことがある。
 いや、自分が言ったのだ。
 誰かに。
 幼い頃に。
「少女は、俺が皇族だと知らなかった。だから、俺に遠慮もしなかった」
 朔夜の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「俺が一人でいると、隣に座って、菓子を分けてくれた。俺が剣の稽古で失敗すると、笑って励ましてくれた」
「……」
「そして、俺が妖に襲われたとき、少女は逃げずに俺を助けた」
 小夜の脳裏に、炎の光景がよみがえった。
 燃え上がる社殿。
 倒れた柱。
 そして、血に染まった小さな手。
「やめて……」
 小夜は頭を押さえた。
「どうした?」
「わかりません。でも……何かが……」
 頭の奥が痛む。
 思い出そうとすると、何かに押し戻されるようだった。
 朔夜が近づこうとした、そのとき。
 月桜の幹が淡く光った。
 小夜の胸元の銀細工が、それに呼応するように輝き始める。
 木の根元に、古い石箱が現れた。
「これは……」
 朔夜が膝をつき、石箱を開ける。
 中には、一冊の薄い日記帳と、古びた布が入っていた。
 布には、月形の紋様が刺繍されている。
 小夜は、それを見た瞬間、息を呑んだ。
 母が使っていた着物と同じ紋様だった。
「なぜ、これが……」
 朔夜は日記帳を開いた。
 最初の頁には、古い文字が記されていた。
 ――月喰いの封印が弱まりつつある。
 ――浄化の力を持つ一族が、再び必要となる日が来るだろう。
 ――ただし、封印を完全に解くには、月の力を宿す皇族と、浄化の巫女が互いを信じなければならない。
 朔夜は頁をめくった。
 そこには、十年前の日付が記されていた。
 ――本日、月喰いの眷属が旧宮に侵入した。
 ――皇太子殿下が襲われ、浄化の巫女が力を解放した。
 ――しかし、力が暴走し、封印の一部が破損した。
 小夜の顔から血の気が引いた。
「浄化の巫女……」
 日記帳の最後の頁には、こう記されていた。
 ――巫女の記憶は、封印を守るために失われた。
 ――彼女がすべてを思い出せば、月喰いもまた目覚めるだろう。
 小夜は、日記帳を握る朔夜の手が震えていることに気づいた。
「殿下……」
「……俺は、知っていた」
 朔夜が呟いた。
「お前が、いつか戻ってくるかもしれないことを」
「どういうことですか?」
「十年前、俺は妖に襲われた。お前が俺を救ってくれた。だが、その代償に、お前は記憶を失った」
 小夜は首を横に振った。
「そんな……私、覚えていません」
「わかっている」
 朔夜の声は、ひどく静かだった。
「お前が忘れてしまったことも、俺を覚えていないことも、すべてわかっている」
 彼は小夜を見つめた。
「それでも、俺はお前を探していた」
 その言葉に、小夜の胸が締めつけられた。
 十年間。
 この人は、ずっと自分を探していたのだ。
 自分が忘れてしまった約束を、ずっと覚えていたのだ。
「……なぜ、私なのですか?」
 小夜は震える声で尋ねた。
「どうして、そこまでして私を?」
 朔夜はすぐには答えなかった。
 月桜の枝が、風もないのに揺れている。
 やがて彼は、小夜の手を取った。
「お前が、俺の命を救ってくれたからだ」
「それだけですか?」
 思わず口にしてから、小夜ははっとした。
 自分でも、なぜそんなことを尋ねたのかわからなかった。
 けれど、知りたかった。
 命を救った恩義だけなのか。
 それとも、もっと別の何かがあるのか。
 朔夜は、小夜の手を見つめた。
「……それだけなら、こんなに苦しくはならなかった」
 低い声だった。
 小夜は顔を上げた。
 朔夜の瞳には、今まで見たことのない感情が浮かんでいた。
 冷たさでも、怒りでもない。
 長い間、誰にも見せずに抱えてきた、切実な想い。
「お前が笑えば、嬉しかった。お前が泣けば、何もできない自分が悔しかった。お前がいなくなってから、何度も後悔した」
 朔夜は一度、言葉を切った。
「もっと早く、お前を守れる力が欲しかった」
 小夜の目に、涙が浮かんだ。
 知らないはずの人なのに。
 この人の言葉が、一つ一つ胸の奥へ染み込んでくる。
「……殿下」
「今のお前に、俺の気持ちを理解しろとは言わない」
 朔夜は、そっと小夜の手を離した。
「ただ、これだけは覚えておいてくれ」
 彼はまっすぐに小夜を見つめた。
「お前が忘れてしまっても、俺はあの日の約束を忘れない」
 小夜の頬を、涙が伝った。
 その瞬間。
 頭の奥で、何かが弾けた。
 幼い日の記憶が、鮮明によみがえる。
 月桜の下。
 小さな少年と少女が、並んで座っている。
『朔夜さまは、将来、どんな人になりたいの?』
『……強い人間になりたい』
『どうして?』
『大切なものを、守れるようになりたいからだ』
 少年はそう言って、少女の手を握った。
『だから、お前も約束してくれ』
『何を?』
『いつか、俺が一人前になったら、またここで会おう』
 少女は笑った。
『うん。約束!』
 そして、二人は小指を絡めた。
 記憶は、そこで途切れた。
「……思い出した」
 小夜は、呆然と呟いた。
「私……約束したんですね。殿下と」
 朔夜は目を見開いた。
「小夜……」
「月見の庭で、また会おうって……」
 小夜は涙を拭った。
「私、忘れてしまって、ごめんなさい」
 朔夜は首を横に振った。
「お前が謝ることではない」
「でも……」
「お前が生きていてくれた。それだけで、十分だ」
 朔夜は、ほんの少しだけ笑った。
 その笑顔を見た瞬間、小夜は胸が苦しくなった。
 この人は、ずっと一人で生きてきたのだろう。
 自分を探しながら。
 呪いに蝕まれながら。
 誰にも弱さを見せずに。
 小夜は、そっと朔夜の手を握った。
「今度は、私も約束します」
「……何を?」
「もう、勝手にいなくなりません。殿下が一人で苦しんでいるなら、私も一緒に考えます」
 朔夜は、驚いたように小夜を見つめた。
「……お前は、本当に」
「はい?」
「いや。何でもない」
 彼は顔を背けた。
 けれど、小夜は見逃さなかった。
 その耳が、赤くなっていることを。
  *
 その夜、二人は東宮へ戻った。
 しかし、小夜が部屋へ戻る前に、朔夜は一つのことを告げた。
「明日から、俺の執務室にも出入りしてもらう」
「執務室、ですか?」
「ああ。月喰いについて、調べる必要がある。お前の力が必要だ」
「承知しました」
 小夜は頷いた。
 けれど、朔夜はまだ何か言いたげだった。
「それから……」
「はい?」
「無理はするな」
 小夜は目を瞬かせた。
「殿下?」
「お前は、自分のことを後回しにしすぎる。誰かを救うために、自分を犠牲にする必要はない」
 その言葉は、どこか切実だった。
 小夜は微笑んだ。
「ありがとうございます。気をつけます」
 朔夜は小さく頷き、去っていった。
 小夜は、その背中を見送りながら思った。
 自分はまだ、朔夜のことをほとんど知らない。
 彼が何を恐れているのか。
 なぜ、あれほど自分を遠ざけようとするのか。
 そして、十年前のあの夜に何が起きたのか。
 すべてを知るには、まだ時間が必要だろう。
 それでも。
 もう一度、この人と向き合いたい。
 幼い日の約束を、今度こそ果たしたい。
 そう思った。
  *
 深夜。
 後宮の奥にある一室で、朱音は一人、古い鏡を見つめていた。
 鏡の表面には、黒い靄が渦巻いている。
「……あの娘が、記憶を取り戻し始めたのね」
 朱音は小さく呟いた。
 鏡の向こうから、女の声が響く。
『ええ。封印が揺らいでいる』
「では、もう時間がないということ?」
『そうね。皇太子と巫女が心を通わせれば、封印は強まる。けれど、あの娘がすべてを思い出せば、月喰いもまた完全に目覚める』
 朱音は唇を噛んだ。
「ならば、二人を引き離さなければ」
『できるの?』
「……やるしかないわ」
 朱音は鏡に手を触れた。
「私は、あの方をお守りするために後宮へ来たのですから」
 鏡の向こうで、女が笑った。
『そう。ならば、次の満月までに決めなさい』
 黒い靄が、鏡全体を覆い尽くす。
『皇太子を救うのか。それとも、月喰いを解き放つのか』
 朱音は目を閉じた。
 その手には、古びた布が握られていた。
 月形の紋様が刺繍された、白い布。
 小夜が月見の旧宮で見つけたものと、同じ紋様だった。
「……ごめんなさい」
 誰に向けた言葉なのか。
 朱音自身にも、わからなかった。
 窓の外では、赤い月が静かに輝いていた。