月影の後宮、君と再び恋をする

 東宮の朝は、驚くほど静かだった。
 小夜が案内されたのは、皇太子の居所から渡り廊下を一つ隔てた、小さな離れだった。
 庭には白い萩が咲き、軒先には風鈴が吊るされている。質素ではあるが、手入れの行き届いた美しい場所だった。
「本日より、あなたには東宮付きの女官として働いていただきます」
 案内役の女官が、淡々と告げた。
「皇太子殿下のお食事や身の回りのお世話は、これまでどおり私たちが担当いたします。あなたは殿下のご命令があった場合のみ、おそばへ参るように」
「承知いたしました」
「それから」
 女官は声を潜めた。
「殿下について、余計な詮索はなさらないように」
 小夜は首を傾げた。
「詮索、ですか?」
「殿下のお身体のことも、昨夜の妖のことも。あなたが知る必要はありません」
 その言葉には、警告めいた響きがあった。
 女官はそれ以上何も言わず、足早に去っていった。
 小夜は一人、庭に残された。
「……知る必要はない、か」
 昨夜、朔夜の腕に浮かんだ黒い筋。
 あれは普通の穢れではなかった。
 妖を斬ったことで生じた穢れなら、時間とともに薄れていく。しかし、朔夜の身体に刻まれていたものは、まるで生き物のように脈打っていた。
 しかも、あの妖は小夜に告げた。
 ――あの方の呪いを解けば、あなたはすべてを失う。
 あの方とは、朔夜のことだろう。
 ならば、彼の呪いと自分には何か関係があるのだろうか。
 考え込んでいると、背後から声がした。
「ずいぶんと熱心に庭を眺めているのね」
 振り返ると、華やかな紅色の着物をまとった女性が立っていた。
 長い黒髪には金細工の簪が揺れ、白い肌には薄紅の化粧が施されている。
 その姿は、まるで絵巻物から抜け出してきた姫君のようだった。
「あなたが、昨夜殿下の穢れを祓ったという女官?」
「はい。水無瀬小夜と申します」
「私は藤原朱音。帝より、皇太子殿下の妃候補として後宮に上がることを許されている者です」
 朱音は微笑んだ。
 しかし、その目は少しも笑っていなかった。
「あなたのことは、昨夜から噂になっていますよ。妖を祓う不思議な力を持っているとか、殿下に特別に召し抱えられたとか」
「私は、ただ穢れを祓っただけです」
「そう。ならば、勘違いしないことね」
 朱音が一歩近づいた。
「殿下はお優しい方ではありません。必要と判断したものをそばに置き、不要と判断したものを切り捨てる。それだけの方です」
「……」
「今はあなたの力が必要だから、そばに置いているのでしょう。でも、役に立たなくなれば、明日には追い出されるかもしれない」
 小夜は静かに朱音を見つめた。
「それでも、私は構いません」
「何ですって?」
「必要としていただける間は、精いっぱいお役に立ちたいと思っています。いつまでここにいられるかは、私が決められることではありませんから」
 朱音の微笑みが、ほんの少しだけ消えた。
 小夜は頭を下げる。
「ご忠告、ありがとうございます」
 朱音はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……あなた、思ったより変わった人ね」
 そう言い残し、朱音は庭を去っていった。
 小夜はその後ろ姿を見送りながら、胸元の守り袋に触れた。
 ここでは、誰もが何かを隠している。
 そして自分もまた、知らないうちに大きな秘密の中心へと引き寄せられているのかもしれなかった。
  *
 昼過ぎ、小夜は東宮の書庫へ薬草の書物を届けるよう命じられた。
 書庫は御殿の北側にあり、古い文献や妖に関する記録が数多く保管されているという。
 扉を開けた瞬間、小夜は思わず立ち止まった。
 空気が重い。
 部屋の奥から、黒い靄がゆっくりと流れ出している。
 昨日、朔夜の腕に見たものと同じ気配だった。
「これは……」
 小夜は書物を抱え直し、靄の流れる方向へ歩いた。
 棚の一番奥。
 そこに、一冊の古い書物が置かれていた。
 表紙には、見覚えのある紋様が描かれている。
 三日月を囲む、二匹の蛇。
 小夜は息を呑んだ。
 幼い頃、故郷の神社で見たことがある紋様だった。
 神職だった父は、この紋様について決して話そうとしなかった。
 ただ一度だけ、こう言ったことがある。
『もしこの紋様を見つけたら、決して触れてはならないよ。人の世と妖の世を隔てる境目に関わるものだからね』
 小夜は恐る恐る表紙に触れた。
 すると、指先から淡い光が広がった。
 書物がひとりでに開く。
 紙面に並ぶ古い文字が、ぼんやりと浮かび上がった。
 ――月喰いの呪。
 ――皇統に宿る封印。
 ――浄化の巫女。
 小夜は文字を追いながら、顔を青ざめさせた。
 月喰い。
 昨夜の妖が口にした名と同じだった。
 さらに読み進めると、ある一文が目に留まった。
 ――封印を維持するには、月の力を宿す者と、穢れを祓う者が必要である。
 ――二つの力は、幼き日に結ばれた縁によって共鳴する。
「幼き日に……結ばれた縁?」
 小夜の胸がざわついた。
 そのとき、背後で扉が開いた。
「何をしている」
 低い声に、小夜は飛び上がった。
 振り返ると、そこには朔夜が立っていた。
 いつもの黒い狩衣姿。
 しかし、その目には明らかな警戒が浮かんでいた。
「あ、あの。書物を届けに参りまして……」
「それを読んだのか」
 朔夜の視線が、開かれた書物に向けられる。
「申し訳ございません。勝手に開くつもりはなかったのですが、触れた途端に……」
「もういい」
 朔夜は書物を閉じた。
 その手が、わずかに震えている。
「この書庫には、許可なく触れてはならぬものがある。二度と一人で入るな」
「……はい」
 叱責されるのは当然だった。
 それなのに、朔夜の声には怒りだけではない何かが混じっていた。
 恐れ。
 あるいは、焦り。
 小夜は思い切って尋ねた。
「殿下。月喰いとは、何なのですか?」
 朔夜の動きが止まった。
「どこでその名を知った」
「書物に書かれていました。それに、昨夜……」
 言いかけて、小夜は口を閉じた。
 昨夜、部屋に現れた妖のことを話すべきだろうか。
 しかし、朔夜は小夜の表情から何かを察したらしかった。
「昨夜、何があった」
「……女の妖が、私の部屋に現れました」
 朔夜の顔から、すべての表情が消えた。
「何と言っていた」
「殿下の呪いを解けば、私はすべてを失う、と」
 沈黙が落ちた。
 やがて朔夜は、書物を抱えたまま背を向けた。
「忘れろ」
「ですが……」
「忘れろと言った」
 鋭い声だった。
 小夜は唇を噛んだ。
「殿下は、ご自分の呪いをご存じなのですね」
「お前には関係のないことだ」
「でも、私の力が関係しているのなら――」
「関係ない!」
 書庫に、声が響いた。
 小夜は息を呑んだ。
 朔夜自身も、声を荒らげたことに驚いたようだった。
 しばらくして、彼は静かに言った。
「……お前は何も知らなくていい。知らなければ、苦しむこともない」
 その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。
 朔夜は書物を棚へ戻し、扉へ向かう。
 小夜はその背中を見つめながら、ふと思った。
 この人は、自分を遠ざけようとしている。
 けれどそれは、嫌っているからではない。
 むしろ、何かから守ろうとしているのではないだろうか。
「殿下」
 朔夜の足が止まった。
「私には、幼い頃の記憶がほとんどありません」
 小夜は胸元の守り袋を握った。
「でも、殿下のお顔を見ると、どうしても胸が苦しくなるのです。何か、大切なことを忘れているような気がして……」
 朔夜は振り返らなかった。
「それは、気のせいだ」
「本当に、そうでしょうか」
「……そうだ」
 しばらくの沈黙のあと、朔夜は書庫を出ていった。
 残された小夜は、閉ざされた扉を見つめていた。
 気のせい。
 そう言われたはずなのに。
 その声は、ひどく悲しそうに聞こえた。
  *
 その日の夕刻、後宮に再び異変が起きた。
 西の御殿に住む姫君が、突然倒れたのだ。
 侍女たちの話によれば、姫君は数日前から眠れない夜が続いていたという。
 夢の中で、誰かに名前を呼ばれる。
 目を覚ますと、枕元に黒い髪が落ちている。
 そして昨夜、とうとう鏡の中に、自分ではない女の顔を見たのだという。
 小夜は話を聞くなり、西の御殿へ向かった。
「お待ちなさい!」
 後ろから女官長の声が飛ぶ。
「あなたには、立ち入りの許可が出ていません!」
「ですが、姫君が危険です!」
「勝手な行動は許しません。殿下のお耳に入れば、ただでは済みませんよ!」
 それでも、小夜は足を止めなかった。
 廊下の奥から、強い穢れの気配が漂っていた。
 このままでは、姫君の命が危ない。
 御殿の中へ飛び込むと、薄暗い寝所に一人の姫君が横たわっていた。
 その周囲を、黒い髪のようなものが這い回っている。
 小夜には、それが見えた。
 無数の髪が、姫君の手足に絡みつき、首元へと伸びている。
「姫君!」
 小夜が駆け寄った瞬間、天井から女の声が響いた。
『また、お前か』
 黒い髪が一斉に動く。
『あの方に近づく娘。お前さえいなければ、すべては元どおりになるというのに』
「あなたは、昨夜の……!」
 小夜は両手を広げた。
 指先から光が溢れる。
 しかし、妖の髪は消えなかった。
 むしろ光を吸い込み、ますます黒く膨れ上がっていく。
「そんな……!」
『無駄よ』
 女の声が笑う。
『お前の力は、まだ目覚めていない。あの方を救うことも、この娘を救うこともできない』
 髪が小夜の足元へ迫る。
 逃げなければ。
 そう思った瞬間、障子が勢いよく開いた。
「小夜、伏せろ!」
 聞き覚えのある声。
 小夜が身をかがめると、銀色の刃が頭上を走った。
 黒い髪が一瞬で断ち切られる。
 朔夜だった。
 彼は小夜の前に立ち、刀を構えた。
「またお前か。月喰いの眷属め」
 妖が甲高い声を上げる。
『皇太子……。その身体も、もう長くはもたぬというのに』
「黙れ」
 朔夜が刀を振るう。
 妖の姿が霧となって散った。
 だが、その直後。
 朔夜の右腕に、黒い筋が一気に広がった。
「殿下!」
 小夜が駆け寄る。
 朔夜は刀を支えにして、かろうじて立っていた。
 額には汗が浮かび、唇から血の気が失せている。
「触るな……」
「でも、穢れが!」
「触るなと言っている!」
 朔夜が小夜を突き放そうとした。
 その手が、小夜の肩に触れる。
 次の瞬間、黒い筋の動きが止まった。
 小夜の身体から淡い光が広がり、朔夜の腕を包み込んでいく。
 今度は、先ほどよりも強い光だった。
 黒い筋が少しずつ薄れ、朔夜の呼吸が落ち着いていく。
 朔夜は呆然と、小夜を見つめた。
「……なぜだ」
「え?」
「なぜ、お前だけが……」
 彼の声が震えた。
 その瞳に浮かんでいるのは、恐れだった。
 自分が救われることへの恐れ。
 そして、再び誰かを失うことへの恐れ。
 小夜はそっと、彼の腕を支えた。
「大丈夫です。私は、ここにいます」
 その言葉を口にした瞬間、朔夜の表情が変わった。
 まるで、遠い昔にも同じ言葉を聞いたことがあるかのように。
 彼は小夜の手を握りしめた。
「……もう、どこにも行くな」
 小夜は目を見開いた。
「殿下……?」
 朔夜は、はっとしたように手を離した。
「今のは忘れろ」
 いつもの冷たい表情を取り戻そうとする。
 けれど、小夜は見逃さなかった。
 彼の瞳に浮かんだ、ほんの一瞬の涙を。
  *
 夜。
 小夜は東宮の庭で、一人月を見上げていた。
 姫君は無事に意識を取り戻したという。
 朔夜の呪いも、ひとまず落ち着いたらしい。
 けれど、わからないことばかりだった。
 月喰いとは何なのか。
 なぜ妖は朔夜を狙うのか。
 そして、なぜ自分の力は、朔夜に触れたときだけ特別な反応を示すのか。
「考えても、わからないことばかりね……」
 小夜は小さく息を吐いた。
 そのとき、庭の向こうから足音が聞こえた。
「こんな時間に、何をしている」
 朔夜だった。
 小夜は慌てて立ち上がる。
「申し訳ございません。少し、考え事を」
「……今日のことだな」
「はい」
 朔夜は隣に立ち、月を見上げた。
 二人の間に、しばらく沈黙が流れた。
 やがて朔夜が口を開く。
「お前は、なぜ俺を助ける」
 小夜は少し考えた。
「殿下がお困りだからです」
「それだけか」
「それだけでは、いけませんか?」
 朔夜は答えなかった。
 小夜は微笑んだ。
「私は、誰かを助けるために自分の力を使いたいのです。これまで、その力のせいで怖がられることもありました。でも、誰かの役に立てるのなら、私は自分の力を嫌いにならずに済みます」
 朔夜は、じっと小夜を見つめていた。
「……お前は、変わらないな」
「え?」
「いや。何でもない」
 朔夜は視線を逸らした。
 その耳が、ほんの少し赤くなっている。
 小夜は不思議に思いながらも、何も尋ねなかった。
 やがて朔夜は、懐から小さな包みを取り出した。
「これを持っていろ」
「これは……?」
 包みを開くと、中には白銀の小さな鈴が入っていた。
「東宮に結界を張ってある。妖が近づけば、その鈴が鳴る。何かあれば、すぐに俺を呼べ」
「ありがとうございます」
 小夜は鈴を大切に受け取った。
 その指が、朔夜の指先に触れる。
 ほんの一瞬。
 それだけなのに、二人の間を淡い光が走った。
 朔夜が息を呑む。
 小夜の胸元にある月形の銀細工が、着物の下で温かな光を放っていた。
 朔夜は、それに気づいたようだった。
「……その守り袋」
「え?」
「中に何が入っている」
 小夜は驚いた。
「古い銀細工です。幼い頃から持っているもので……」
「見せてくれ」
 小夜は守り袋を開き、月形の銀細工を取り出した。
 朔夜はそれを見た瞬間、顔色を変えた。
 銀細工の裏側には、小さな文字が刻まれていた。
 ――朔夜。
 それは、幼い日に自分が少女へ贈ったものだった。
 間違いない。
 けれど、なぜ小夜が持っているのか。
 いや、答えは一つしかなかった。
「……お前は」
 朔夜の声が掠れた。
「本当に、何も覚えていないのか」
 小夜は悲しげに微笑んだ。
「ごめんなさい。思い出そうとすると、頭が痛くなるのです。でも……」
 小夜は銀細工を握りしめた。
「殿下と一緒にいると、懐かしい気持ちになります。ずっと昔から、殿下を知っていたような……そんな気がするのです」
 朔夜は目を閉じた。
 思い出してほしい。
 そう願わなかった夜は、一日もなかった。
 けれど、思い出せば小夜は苦しむかもしれない。
 あの日、二人の間に何が起きたのか。
 なぜ小夜は記憶を失ったのか。
 そして、なぜ自分は呪いを引き受けることになったのか。
 それらを知れば、小夜はもう後戻りできない。
「……無理に思い出さなくていい」
 朔夜は静かに言った。
「お前が今、ここにいる。それだけでいい」
 小夜は、彼の横顔を見つめた。
 その言葉は優しかった。
 けれど、あまりにも切なかった。
 まるで彼が、いつか訪れる別れを覚悟しているかのように。
 そのとき。
 小夜の手の中で、白銀の鈴が鳴った。
 ちりん。
 二人は同時に顔を上げた。
 庭の池。
 月明かりに照らされた水面に、見知らぬ女の姿が映っている。
 長い黒髪。
 白い着物。
 そして、顔のない頭部。
 女は水面の中から、ゆっくりと手を伸ばした。
『見つけた……』
 声が響く。
『月の力を宿す皇太子と、浄化の巫女』
 水面が大きく揺れた。
『二人が再び出会ったのなら、封印はもう長くもたない』
 次の瞬間、池の水が黒く染まった。
 朔夜は小夜を背後へかばい、刀を抜いた。
「小夜、下がれ!」
 女の姿が、水面から浮かび上がる。
 その顔には、幼い少女のような笑みが浮かんでいた。
『さあ、始めましょう』
 赤い月が、雲に覆われた。
『十年前に終わらなかった、あの夜の続きを』
 小夜の胸元で、月形の銀細工が激しく光った。
 そして彼女の脳裏に、一つの光景がよみがえる。
 炎に包まれた神社。
 泣き叫ぶ誰かの声。
 幼い自分の手を握りしめる、黒髪の少年。
『小夜、目を閉じろ!』
 少年の声が響いた瞬間、記憶は再び闇に沈んだ。
「……あの夜、何があったの?」
 小夜の呟きは、夜風に消えた。
 朔夜は刀を構えたまま、唇を噛みしめる。
 十年前の真実が、二人を待っていた。