月が、赤かった。
水無瀬小夜は、帝都へ向かう牛車の窓から夜空を見上げた。
秋の月は本来、澄んだ銀色をしているはずだった。けれど今夜の月は、まるで誰かが墨に血を落としたように、薄赤く染まっている。
「……妖の気配がする」
思わず呟いた小夜に、向かいに座っていた老女が眉をひそめた。
「おやめなさい。そのようなことを口にするものではありませんよ」
「すみません」
小夜は素直に頭を下げた。
この国では、妖の存在を誰もが知っている。
山に棲み、人を惑わせるもの。川に潜み、旅人を引きずり込むもの。そして、人の心に入り込み、恨みや悲しみを喰らって大きくなるもの。
けれど、妖を見たと公言する者は少ない。
見える者は不吉とされ、忌み嫌われることがあるからだ。
小夜もまた、その一人だった。
生まれつき、他人には見えないものが見えた。
人の肩に絡みつく黒い糸。屋敷の隅に溜まる濁った霧。誰もいない廊下から聞こえる、幼子の笑い声。
そして、それらに触れるとき、指先から淡い光がこぼれることも。
その力のせいで、故郷では変わり者と呼ばれた。
両親を亡くしてからは、遠縁の家に引き取られたものの、居場所らしい居場所はなかった。
そんな小夜に、突然舞い込んだ話がある。
後宮への出仕だった。
帝の住まう宮城、その奥深くに広がる後宮。
高貴な姫君たちが暮らし、帝の寵愛を競う場所。美しい庭園や絢爛な御殿の陰には、嫉妬と野心が渦巻いているとも聞く。
なぜ自分がそんな場所へ呼ばれたのか。
答えは簡単だった。
後宮で、原因不明の病が流行している。
医師たちが調べても原因はわからず、祈祷師を呼んでも効果がない。そこで、妖の穢れを見抜く力を持つ小夜に白羽の矢が立ったのだ。
つまり、自分は必要とされている。
それが一時的なものであっても、小夜にとっては初めてのことだった。
だから、怖くても逃げるわけにはいかなかった。
「どうか、今度こそ誰かのお役に立てますように」
小夜は胸元に手を当てた。
そこには、幼い頃から持ち続けている小さな守り袋がある。
中に入っているのは、古びた月形の銀細工。
誰からもらったのか、もうはっきりとは覚えていない。
ただ、幼い頃に出会った男の子が、泣いていた自分にくれたものだった。
『泣くなよ。月は、夜になれば必ず会いに来るんだから』
そんな言葉を、かすかに覚えている。
あの男の子は、今頃どうしているだろう。
元気に暮らしているだろうか。
そう考えたとき、牛車が大きく揺れた。
「着きましたよ」
老女の声に顔を上げる。
目の前には、巨大な朱塗りの門がそびえていた。
月華国の皇宮。
そして、その奥に広がる、女たちの世界。
小夜の新しい人生が、今、始まろうとしていた。
*
後宮は、想像していた以上に美しかった。
白い石畳の道。池に架かる朱色の橋。風に揺れる薄紫の藤棚。そして、幾重にも連なる屋根の向こうに見える、月明かりを浴びた御殿。
けれど、小夜はその美しさに見とれてはいられなかった。
門をくぐった瞬間から、あちこちに黒い靄が見えていたからだ。
柱の陰。
池の水面。
誰もいないはずの渡り廊下。
まるで後宮全体が、何かに侵食されているかのようだった。
「こちらです。まずは女官長様にご挨拶を」
案内役の女官について歩きながら、小夜は周囲を観察した。
庭を横切る女官たちの顔には、疲労の色が濃い。華やかな衣装をまとった姫君たちも、どこか落ち着かない様子だった。
時折、ひそひそと囁く声が聞こえてくる。
「また一人、倒れたそうよ」
「今度は西の御殿の姫君ですって」
「まさか、呪いなのでは……」
小夜は足を止めた。
西の御殿。
その方向から、ひときわ濃い穢れの気配が漂っている。
黒い靄が、屋根を覆うように渦巻いていた。
「あの……」
「どうしました?」
「西の御殿には、近づかないほうがいいと思います」
案内役の女官が怪訝そうに振り返る。
「なぜです?」
「何かが、います」
その瞬間、女官の表情が強張った。
「……余計なことを言わないでください。あなたは今日から臨時の女官なのです。余計な騒ぎを起こせば、すぐにでも追い出されますよ」
「申し訳ありません」
小夜は頭を下げた。
自分の言葉を信じてもらえないことには慣れている。
それでも、見えているものを見なかったことにはできなかった。
西の御殿から漂う気配は、明らかに尋常ではない。
人の病だけではない。
もっと大きく、もっと深い何かが、後宮の奥底に潜んでいる。
そのときだった。
――カァン。
遠くで、金属が打ち合わされるような音がした。
同時に、後宮を吹き抜けていた風がぴたりと止まる。
女官たちが一斉に顔を上げた。
「まさか……」
誰かが呟いた。
次の瞬間、庭園の向こうから悲鳴が響いた。
「妖が出たぞ!」
*
騒ぎが起きたのは、月見の庭と呼ばれる場所だった。
普段は皇族しか立ち入ることのできない庭園だが、今夜は皇太子が巡回に訪れていたらしい。
小夜が駆けつけたとき、庭の中央には黒い獣がいた。
犬に似ている。
けれど、その身体は煙のように揺らぎ、目は不気味な赤色に輝いている。口から垂れる黒い液体が、石畳をじゅうじゅうと焼いていた。
妖だ。
しかも、かなり強い。
女官たちは庭の外へ逃げ惑い、武官たちが刀を構えて取り囲んでいる。
その中心に、一人の青年が立っていた。
黒い狩衣に、銀糸で刺繍された月の紋。
長い黒髪を後ろで束ね、手には白銀の刀を携えている。
整った顔立ちには、恐ろしいほど表情がなかった。
「下がれ。お前たちでは相手にならぬ」
低く、よく通る声だった。
青年が刀を構える。
刃が月光を受け、青白く輝いた。
次の瞬間、妖が跳躍した。
青年は一歩も退かず、刀を振り抜いた。
鋭い風切り音。
黒い獣の身体が二つに裂けたかと思うと、霧となって散っていく。
周囲から安堵の息が漏れた。
しかし、小夜だけは息を呑んでいた。
妖は消えたのではない。
青年の刀に、黒い靄が吸い込まれていく。
そして、刀を握る彼の右腕に、黒い筋が浮かび上がった。
穢れだ。
妖を斬るたびに、その穢れが彼の身体へ流れ込んでいる。
このままでは、いずれ彼自身が妖に呑まれてしまう。
「だめ……!」
気づけば、小夜は走り出していた。
「その刀から手を離してください!」
青年が振り向く。
周囲の武官たちが驚きの声を上げた。
「無礼者! 何者だ!」
けれど、小夜には彼らの声など聞こえなかった。
青年の腕から黒い筋が広がっている。
胸元にまで達すれば、危険だ。
小夜は青年の手首をつかんだ。
「お願いです。少しだけ、じっとしていてください」
「……何をする気だ」
「穢れを祓います」
小夜の指先から、淡い光がこぼれた。
温かな光が青年の手首を包み、黒い筋がゆっくりと薄れていく。
その場にいた誰もが、言葉を失った。
やがて、青年の腕から穢れが消えた。
小夜は安堵し、ようやく顔を上げた。
「よかった……」
そして、青年の顔を見た。
美しい人だと思った。
冷たい印象を与える切れ長の目。雪のように白い肌。月明かりに照らされた横顔は、まるで人ならざるもののようだった。
けれど、なぜだろう。
その目を見た瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
知らない人のはずなのに。
ずっと昔、どこかで会ったことがあるような気がした。
青年もまた、小夜を見つめていた。
その瞳が、大きく揺れる。
「……小夜?」
かすれた声だった。
小夜は瞬きをした。
「え?」
青年は小夜の手首をつかんだ。
強く握られたわけではない。それなのに、彼の指先がわずかに震えていることがわかった。
「お前……本当に、小夜なのか」
「私の名前をご存じなのですか?」
青年は答えなかった。
ただ、信じられないものを見るように、小夜の顔を見つめていた。
その瞳に浮かんでいるのは、驚きだろうか。
それとも、悲しみだろうか。
小夜にはわからなかった。
やがて青年は、彼女の手首をそっと離した。
「……人違いだ」
先ほどの動揺が嘘だったかのように、冷たい声だった。
「お前の名は?」
「水無瀬小夜と申します。本日より、後宮に仕えることになりました」
「そうか」
青年は短く答えた。
そして、刀を鞘に収める。
「俺は鷹宮朔夜。月華国の皇太子だ」
小夜は慌てて膝をついた。
「も、申し訳ございません! 皇太子殿下とは知らず、無礼を……!」
「よい。顔を上げろ」
恐る恐る顔を上げると、朔夜はすでに背を向けていた。
「水無瀬小夜」
「はい」
「明日から、俺の近くに仕えろ」
「……え?」
「お前には、俺の命令があるまで宮中に留まってもらう」
周囲の武官たちがざわめいた。
皇太子が、一介の臨時女官を自らの近くに置く。
それがどれほど異例のことなのか、小夜にもわかった。
「あの、ですが……私は後宮の女官として召し上げられた身でして……」
「異論があるのか?」
「い、いえ!」
「ならば決まりだ」
朔夜は振り返らなかった。
けれど、その背中が、ほんのわずかに強張っていることに小夜は気づいた。
まるで、何かを必死にこらえているように。
*
その夜、小夜は与えられた部屋で、眠れずにいた。
皇太子の命令によって、明日から彼の居所である東宮に出仕することになったのだ。
いったい何がどうなっているのだろう。
妖の穢れを祓ったことが、そこまで珍しかったのだろうか。
それとも、朔夜は本当に自分を誰かと間違えたのだろうか。
「……小夜、か」
青年が自分の名を呼んだときの声が、耳から離れない。
あの声には、懐かしさがあった。
長い間、ずっと探し続けていたものを、ようやく見つけたような響きが。
小夜は胸元の守り袋を取り出した。
月形の銀細工を、そっと掌に載せる。
すると、不思議なことが起きた。
銀細工の表面に、淡い光が浮かび上がったのだ。
小夜は目を見開いた。
今まで、こんなことは一度もなかった。
光は月の形に沿って揺らめき、やがて小さな文字を浮かび上がらせた。
――さよ。
幼い子どもの筆跡のような、拙い文字だった。
「これ……」
小夜の脳裏に、遠い記憶がよみがえる。
春の庭。
満開の桜。
泣いている自分の前にしゃがみ込む、黒髪の少年。
『俺が大きくなったら、迎えに行く』
『本当?』
『ああ。だから、それまでこれを持っていろ』
少年は小さな銀細工を、小夜の掌に置いた。
『月が見える夜には、俺のことを思い出せよ』
小夜は息を呑んだ。
そうだ。
思い出した。
あの少年の名前は――。
けれど、その先を思い出そうとした瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
銀細工が手から滑り落ちる。
同時に、部屋の灯火が一斉に消えた。
暗闇の中で、何かが笑った。
女の声だった。
『見つけた』
小夜は息を止めた。
『ようやく、見つけたわ。あの方を救える娘を』
窓の外。
月明かりの中に、白い着物をまとった女が立っていた。
顔は長い黒髪に覆われ、足元から黒い靄が広がっている。
妖だ。
しかも、これまで見たどの妖よりも強い。
『でも、気をつけなさい』
女の首が、ゆっくりと傾いた。
『あの方の呪いを解けば、あなたはすべてを失う』
次の瞬間、女の姿は霧となって消えた。
灯火が戻る。
小夜は震える手で銀細工を拾い上げた。
その表面には、先ほどまでなかった文字が刻まれていた。
――朔夜。
小夜は、その名をそっと口にした。
「……朔夜、さま」
胸の奥が、痛いほど熱くなった。
なぜだろう。
その名を呼んだだけで、涙がこぼれそうになる。
まるで、ずっと忘れてはいけない人の名前を、ようやく思い出したかのように。
*
同じ頃、東宮の奥では、朔夜が一人、月を見上げていた。
机の上には、古びた布袋が置かれている。
中に入っているのは、片方だけになった小さな銀の耳飾り。
幼い日に、少女と交換したものだった。
「……生きていたのか」
朔夜は、静かに目を閉じた。
十年前。
妖に襲われた村で、自分を救ってくれた少女。
彼女を守るために呪いを引き受け、皇族の使命を背負い、どれほどの年月を過ごしてきただろう。
少女の名を呼ぶことさえ、いつしか苦しくなっていた。
生きているのか。
どこかで幸せに暮らしているのか。
それとも、あの夜に命を落としてしまったのか。
答えのない問いを抱えたまま、朔夜は今日まで生きてきた。
そして今夜。
彼女は、目の前に現れた。
自分の名さえ忘れて。
「……小夜」
その名を口にする。
胸の奥に、温かなものが広がる。
だが、同時に、右腕の呪いが再び疼いた。
黒い筋が皮膚の下を這い、心臓へと向かって伸びていく。
朔夜は顔をしかめた。
小夜が触れたときには、確かに穢れが消えた。
しかし、完全に消えたわけではない。
むしろ、彼女の存在に反応するように、呪いの奥底に潜む何かが目を覚まし始めていた。
『ようやく、見つけた』
耳の奥で、女の声が響く。
『あの娘を連れてきなさい。そうすれば、お前を苦しめる呪いも、すべて終わる』
「黙れ」
朔夜は刀の柄を握りしめた。
「小夜には、指一本触れさせぬ」
窓の外では、赤い月が静かに輝いていた。
水無瀬小夜は、帝都へ向かう牛車の窓から夜空を見上げた。
秋の月は本来、澄んだ銀色をしているはずだった。けれど今夜の月は、まるで誰かが墨に血を落としたように、薄赤く染まっている。
「……妖の気配がする」
思わず呟いた小夜に、向かいに座っていた老女が眉をひそめた。
「おやめなさい。そのようなことを口にするものではありませんよ」
「すみません」
小夜は素直に頭を下げた。
この国では、妖の存在を誰もが知っている。
山に棲み、人を惑わせるもの。川に潜み、旅人を引きずり込むもの。そして、人の心に入り込み、恨みや悲しみを喰らって大きくなるもの。
けれど、妖を見たと公言する者は少ない。
見える者は不吉とされ、忌み嫌われることがあるからだ。
小夜もまた、その一人だった。
生まれつき、他人には見えないものが見えた。
人の肩に絡みつく黒い糸。屋敷の隅に溜まる濁った霧。誰もいない廊下から聞こえる、幼子の笑い声。
そして、それらに触れるとき、指先から淡い光がこぼれることも。
その力のせいで、故郷では変わり者と呼ばれた。
両親を亡くしてからは、遠縁の家に引き取られたものの、居場所らしい居場所はなかった。
そんな小夜に、突然舞い込んだ話がある。
後宮への出仕だった。
帝の住まう宮城、その奥深くに広がる後宮。
高貴な姫君たちが暮らし、帝の寵愛を競う場所。美しい庭園や絢爛な御殿の陰には、嫉妬と野心が渦巻いているとも聞く。
なぜ自分がそんな場所へ呼ばれたのか。
答えは簡単だった。
後宮で、原因不明の病が流行している。
医師たちが調べても原因はわからず、祈祷師を呼んでも効果がない。そこで、妖の穢れを見抜く力を持つ小夜に白羽の矢が立ったのだ。
つまり、自分は必要とされている。
それが一時的なものであっても、小夜にとっては初めてのことだった。
だから、怖くても逃げるわけにはいかなかった。
「どうか、今度こそ誰かのお役に立てますように」
小夜は胸元に手を当てた。
そこには、幼い頃から持ち続けている小さな守り袋がある。
中に入っているのは、古びた月形の銀細工。
誰からもらったのか、もうはっきりとは覚えていない。
ただ、幼い頃に出会った男の子が、泣いていた自分にくれたものだった。
『泣くなよ。月は、夜になれば必ず会いに来るんだから』
そんな言葉を、かすかに覚えている。
あの男の子は、今頃どうしているだろう。
元気に暮らしているだろうか。
そう考えたとき、牛車が大きく揺れた。
「着きましたよ」
老女の声に顔を上げる。
目の前には、巨大な朱塗りの門がそびえていた。
月華国の皇宮。
そして、その奥に広がる、女たちの世界。
小夜の新しい人生が、今、始まろうとしていた。
*
後宮は、想像していた以上に美しかった。
白い石畳の道。池に架かる朱色の橋。風に揺れる薄紫の藤棚。そして、幾重にも連なる屋根の向こうに見える、月明かりを浴びた御殿。
けれど、小夜はその美しさに見とれてはいられなかった。
門をくぐった瞬間から、あちこちに黒い靄が見えていたからだ。
柱の陰。
池の水面。
誰もいないはずの渡り廊下。
まるで後宮全体が、何かに侵食されているかのようだった。
「こちらです。まずは女官長様にご挨拶を」
案内役の女官について歩きながら、小夜は周囲を観察した。
庭を横切る女官たちの顔には、疲労の色が濃い。華やかな衣装をまとった姫君たちも、どこか落ち着かない様子だった。
時折、ひそひそと囁く声が聞こえてくる。
「また一人、倒れたそうよ」
「今度は西の御殿の姫君ですって」
「まさか、呪いなのでは……」
小夜は足を止めた。
西の御殿。
その方向から、ひときわ濃い穢れの気配が漂っている。
黒い靄が、屋根を覆うように渦巻いていた。
「あの……」
「どうしました?」
「西の御殿には、近づかないほうがいいと思います」
案内役の女官が怪訝そうに振り返る。
「なぜです?」
「何かが、います」
その瞬間、女官の表情が強張った。
「……余計なことを言わないでください。あなたは今日から臨時の女官なのです。余計な騒ぎを起こせば、すぐにでも追い出されますよ」
「申し訳ありません」
小夜は頭を下げた。
自分の言葉を信じてもらえないことには慣れている。
それでも、見えているものを見なかったことにはできなかった。
西の御殿から漂う気配は、明らかに尋常ではない。
人の病だけではない。
もっと大きく、もっと深い何かが、後宮の奥底に潜んでいる。
そのときだった。
――カァン。
遠くで、金属が打ち合わされるような音がした。
同時に、後宮を吹き抜けていた風がぴたりと止まる。
女官たちが一斉に顔を上げた。
「まさか……」
誰かが呟いた。
次の瞬間、庭園の向こうから悲鳴が響いた。
「妖が出たぞ!」
*
騒ぎが起きたのは、月見の庭と呼ばれる場所だった。
普段は皇族しか立ち入ることのできない庭園だが、今夜は皇太子が巡回に訪れていたらしい。
小夜が駆けつけたとき、庭の中央には黒い獣がいた。
犬に似ている。
けれど、その身体は煙のように揺らぎ、目は不気味な赤色に輝いている。口から垂れる黒い液体が、石畳をじゅうじゅうと焼いていた。
妖だ。
しかも、かなり強い。
女官たちは庭の外へ逃げ惑い、武官たちが刀を構えて取り囲んでいる。
その中心に、一人の青年が立っていた。
黒い狩衣に、銀糸で刺繍された月の紋。
長い黒髪を後ろで束ね、手には白銀の刀を携えている。
整った顔立ちには、恐ろしいほど表情がなかった。
「下がれ。お前たちでは相手にならぬ」
低く、よく通る声だった。
青年が刀を構える。
刃が月光を受け、青白く輝いた。
次の瞬間、妖が跳躍した。
青年は一歩も退かず、刀を振り抜いた。
鋭い風切り音。
黒い獣の身体が二つに裂けたかと思うと、霧となって散っていく。
周囲から安堵の息が漏れた。
しかし、小夜だけは息を呑んでいた。
妖は消えたのではない。
青年の刀に、黒い靄が吸い込まれていく。
そして、刀を握る彼の右腕に、黒い筋が浮かび上がった。
穢れだ。
妖を斬るたびに、その穢れが彼の身体へ流れ込んでいる。
このままでは、いずれ彼自身が妖に呑まれてしまう。
「だめ……!」
気づけば、小夜は走り出していた。
「その刀から手を離してください!」
青年が振り向く。
周囲の武官たちが驚きの声を上げた。
「無礼者! 何者だ!」
けれど、小夜には彼らの声など聞こえなかった。
青年の腕から黒い筋が広がっている。
胸元にまで達すれば、危険だ。
小夜は青年の手首をつかんだ。
「お願いです。少しだけ、じっとしていてください」
「……何をする気だ」
「穢れを祓います」
小夜の指先から、淡い光がこぼれた。
温かな光が青年の手首を包み、黒い筋がゆっくりと薄れていく。
その場にいた誰もが、言葉を失った。
やがて、青年の腕から穢れが消えた。
小夜は安堵し、ようやく顔を上げた。
「よかった……」
そして、青年の顔を見た。
美しい人だと思った。
冷たい印象を与える切れ長の目。雪のように白い肌。月明かりに照らされた横顔は、まるで人ならざるもののようだった。
けれど、なぜだろう。
その目を見た瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
知らない人のはずなのに。
ずっと昔、どこかで会ったことがあるような気がした。
青年もまた、小夜を見つめていた。
その瞳が、大きく揺れる。
「……小夜?」
かすれた声だった。
小夜は瞬きをした。
「え?」
青年は小夜の手首をつかんだ。
強く握られたわけではない。それなのに、彼の指先がわずかに震えていることがわかった。
「お前……本当に、小夜なのか」
「私の名前をご存じなのですか?」
青年は答えなかった。
ただ、信じられないものを見るように、小夜の顔を見つめていた。
その瞳に浮かんでいるのは、驚きだろうか。
それとも、悲しみだろうか。
小夜にはわからなかった。
やがて青年は、彼女の手首をそっと離した。
「……人違いだ」
先ほどの動揺が嘘だったかのように、冷たい声だった。
「お前の名は?」
「水無瀬小夜と申します。本日より、後宮に仕えることになりました」
「そうか」
青年は短く答えた。
そして、刀を鞘に収める。
「俺は鷹宮朔夜。月華国の皇太子だ」
小夜は慌てて膝をついた。
「も、申し訳ございません! 皇太子殿下とは知らず、無礼を……!」
「よい。顔を上げろ」
恐る恐る顔を上げると、朔夜はすでに背を向けていた。
「水無瀬小夜」
「はい」
「明日から、俺の近くに仕えろ」
「……え?」
「お前には、俺の命令があるまで宮中に留まってもらう」
周囲の武官たちがざわめいた。
皇太子が、一介の臨時女官を自らの近くに置く。
それがどれほど異例のことなのか、小夜にもわかった。
「あの、ですが……私は後宮の女官として召し上げられた身でして……」
「異論があるのか?」
「い、いえ!」
「ならば決まりだ」
朔夜は振り返らなかった。
けれど、その背中が、ほんのわずかに強張っていることに小夜は気づいた。
まるで、何かを必死にこらえているように。
*
その夜、小夜は与えられた部屋で、眠れずにいた。
皇太子の命令によって、明日から彼の居所である東宮に出仕することになったのだ。
いったい何がどうなっているのだろう。
妖の穢れを祓ったことが、そこまで珍しかったのだろうか。
それとも、朔夜は本当に自分を誰かと間違えたのだろうか。
「……小夜、か」
青年が自分の名を呼んだときの声が、耳から離れない。
あの声には、懐かしさがあった。
長い間、ずっと探し続けていたものを、ようやく見つけたような響きが。
小夜は胸元の守り袋を取り出した。
月形の銀細工を、そっと掌に載せる。
すると、不思議なことが起きた。
銀細工の表面に、淡い光が浮かび上がったのだ。
小夜は目を見開いた。
今まで、こんなことは一度もなかった。
光は月の形に沿って揺らめき、やがて小さな文字を浮かび上がらせた。
――さよ。
幼い子どもの筆跡のような、拙い文字だった。
「これ……」
小夜の脳裏に、遠い記憶がよみがえる。
春の庭。
満開の桜。
泣いている自分の前にしゃがみ込む、黒髪の少年。
『俺が大きくなったら、迎えに行く』
『本当?』
『ああ。だから、それまでこれを持っていろ』
少年は小さな銀細工を、小夜の掌に置いた。
『月が見える夜には、俺のことを思い出せよ』
小夜は息を呑んだ。
そうだ。
思い出した。
あの少年の名前は――。
けれど、その先を思い出そうとした瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
銀細工が手から滑り落ちる。
同時に、部屋の灯火が一斉に消えた。
暗闇の中で、何かが笑った。
女の声だった。
『見つけた』
小夜は息を止めた。
『ようやく、見つけたわ。あの方を救える娘を』
窓の外。
月明かりの中に、白い着物をまとった女が立っていた。
顔は長い黒髪に覆われ、足元から黒い靄が広がっている。
妖だ。
しかも、これまで見たどの妖よりも強い。
『でも、気をつけなさい』
女の首が、ゆっくりと傾いた。
『あの方の呪いを解けば、あなたはすべてを失う』
次の瞬間、女の姿は霧となって消えた。
灯火が戻る。
小夜は震える手で銀細工を拾い上げた。
その表面には、先ほどまでなかった文字が刻まれていた。
――朔夜。
小夜は、その名をそっと口にした。
「……朔夜、さま」
胸の奥が、痛いほど熱くなった。
なぜだろう。
その名を呼んだだけで、涙がこぼれそうになる。
まるで、ずっと忘れてはいけない人の名前を、ようやく思い出したかのように。
*
同じ頃、東宮の奥では、朔夜が一人、月を見上げていた。
机の上には、古びた布袋が置かれている。
中に入っているのは、片方だけになった小さな銀の耳飾り。
幼い日に、少女と交換したものだった。
「……生きていたのか」
朔夜は、静かに目を閉じた。
十年前。
妖に襲われた村で、自分を救ってくれた少女。
彼女を守るために呪いを引き受け、皇族の使命を背負い、どれほどの年月を過ごしてきただろう。
少女の名を呼ぶことさえ、いつしか苦しくなっていた。
生きているのか。
どこかで幸せに暮らしているのか。
それとも、あの夜に命を落としてしまったのか。
答えのない問いを抱えたまま、朔夜は今日まで生きてきた。
そして今夜。
彼女は、目の前に現れた。
自分の名さえ忘れて。
「……小夜」
その名を口にする。
胸の奥に、温かなものが広がる。
だが、同時に、右腕の呪いが再び疼いた。
黒い筋が皮膚の下を這い、心臓へと向かって伸びていく。
朔夜は顔をしかめた。
小夜が触れたときには、確かに穢れが消えた。
しかし、完全に消えたわけではない。
むしろ、彼女の存在に反応するように、呪いの奥底に潜む何かが目を覚まし始めていた。
『ようやく、見つけた』
耳の奥で、女の声が響く。
『あの娘を連れてきなさい。そうすれば、お前を苦しめる呪いも、すべて終わる』
「黙れ」
朔夜は刀の柄を握りしめた。
「小夜には、指一本触れさせぬ」
窓の外では、赤い月が静かに輝いていた。



