【17歳の解答保留(アポリア)I ――五つの迷宮と賢者の鍵】
<プロローグ:深夜一時、交差点の時計塔>
五月十四日、午前一時。17歳の朝比奈 駆(あさひな かける)は、誰もいない夜の街を歩いていた。
手元には、画面が暗転したスマートフォン。SNSのタイムラインには、夕方に起きた「ある事件」に関するクラスメイトたちの喧嘩、恋人からの未読無視、そして進路希望調査の白い紙の残像がこびりついて離れなかった。
「正解って、どこにあるんだよ」
彼がそう呟いた瞬間、街の古びた時計塔の針が逆回転を始めた。視界がぐにゃりと歪み、気がつくと彼は、霧に包まれた奇妙な円形の広場に立っていた。広場を囲むように、五つの扉が並んでいる。
それぞれの扉の前には、時代も服装も異なる「誰か」が静かに佇み、駆が来るのを待っていた。
これは、割り切れない世界を生きる17歳のための、五つの夜の対話の記録である。
<第一話:恋愛と境界線(ソクラテスと『束縛』の問答)>
駆が最初に足を踏みに入れたのは、紫色の霧が立ち込める第一の扉だった。そこにいたのは、粗末な布をまとった、お世辞にも美男子とは言えない禿頭の老人だった。
「ようこそ、若い友よ」老人は言った。
「私はソクラテス。アテナイの街をほっつき歩いていた老人だ」
駆は、昼間に元彼女と言い争ったことを思い出していた。彼女は駆のスマホのGPS共有を求め、異性の連絡先をすべて消せと言った。「好きならそれくらいできるでしょ? 束縛は愛の証拠だよ」と。駆はそれが息苦しくて別れを切り出したが、心の中では「自分が冷酷なのだろうか」と悩み続けていた。
「ねえ、ソクラテス」駆は尋ねた。
「束縛は愛情ですか? それとも支配ですか?」
ソクラテスは悪戯っぽく目を細めた。
「素晴らしい問いだ。では逆に聞こう。君は、自分の大好きな小鳥を飼うとしたら、どうするね?」
「籠に入めます。逃げたら悲しいし、危ないですから」
「では、その籠の目を一切の隙間がないほど細かくし、光も通さない鉄の箱に閉じ込めたらどうなる?」
「死んじゃいます。そんなの、小鳥のためになりません」
「そうだね」ソクラテスは頷いた。
「では、君が小鳥を鉄の箱に入れたのは、小鳥を憎んでいたからかね? それとも愛していたからかね?」
「愛していたから……いや、逃げられるのが怖かったからです」
「その通りだ。君は小鳥の命ではなく、『小鳥を失って傷つく自分の心』を守ろうとしたのだ。若き友よ、人間はしばしば『相手を大切に思う気持ち(愛)』と『相手を失う恐怖(執着)』を混同する。君の言う『束縛』が、相手の成長や自由を奪うものであるなら、それは相手を愛しているのではなく、自分の不安を埋めるために相手を『支配』しているに過ぎない。しかし、全くの無関心もまた愛とは呼べない。適度な籠の目は、時に雨風をしのぐ守りにもなる」
「じゃあ、どれくらいの細かさが『正解』なんですか?」
ソクラテスは笑って首を振った。
「それは私にもわからない。なぜなら、その籠の心地よさは、君と相手が話し合って決めるものだからだ。ただ一つ言えるのは、『愛とは、相手を自分の所有物にすることではない』ということだ。対話を恐れるな。答えを急ぐな。独占欲を愛と呼ばせてはならない」
駆がハッとすると、ソクラテスの姿は薄い霧へと消えていた。手元には、一本のオリーブの枝が残されていた。
<第二話:仮面の世界(ニーチェと『インスタ映え』の超人)>
第二の扉の向こうは、無数の鏡が浮遊するきらびやかな空間だった。そこで大きな口髭を蓄えた男が、冷ややかな目で鏡を見つめていた。
「ふん、虚栄の檻か」男は吐き捨てた。
「私はフリードリヒ・ニーチェだ」
駆は、SNSで「いいね」を集めるために必死なクラスの女子たちや、自分自身の「見栄えのいい瞬間」だけを切り取る行為に辟易していた。同時に、フォロワー数で人間の価値が決まるような現代の空気に、圧倒的な敗北感を抱いてもいた。
「ニーチェさん。インスタ映えを意識したり、SNSのフォロワー数で人を評価したりするのは、間違っていますか?」
ニーチェは駆を鋭く睨みつけた。
「間違っているか、正しいか、などという安っぽい道徳で世界を測るな! 私が問題にしたいのは、それが『生き生きとした生命の肯定』か、それとも『群衆に怯える奴隷の根性』かということだ」
ニーチェは一枚の鏡を指差した。そこには、加工アプリで顔を歪ませ、お洒落なカフェで笑顔を作る若者たちの姿が映っていた。
「彼らはなぜ、あんな写真を撮る? 本当にその空間を楽しんでいるからか? 違う。他人に『羨ましい』と思われたいからだ。他人の眼差しという『主人』に仕える、哀れな奴隷たちだよ。彼らは自分自身の価値を、画面の向こうの有象無象の『いいね』という数字に委ねてしまっている。フォロワー数などという砂の城で人間の価値が決まると思うなら、それは魂が腐っている証拠だ」
駆は耳が痛かった。自分もまた、通知の数に一喜一憂していたからだ。
「じゃあ、SNSなんてやめるべきですか?」
「極端に走るな、軟弱者が!」ニーチェは一喝した。
「美を意識し、自分を表現すること自体は悪くない。むしろ芸術的だ。だが、お前が表現すべきは『他人にウケる自分』ではなく、『お前自身の爆発するような生命力』だ! 神は死んだ。そして現代では、SNSという新しい神が君臨している。その神に祈りを捧げる信者になるな。他人の評価から自由になり、自分自身の価値基準を自分で創り出す『超人』になれ。画面の数字を増やすために生きるな。お前自身の人生を、何度でも繰り返したいと思えるほど強烈に生きろ!」
ニーチェが足を踏み鳴らすと、周囲の鏡が文字通り粉々に砕け散った。駆の足元には、輝くガラスの破片が一つ、転がっていた。
<第三話:才能の不平等(サルトルと『努力と才能』の選択)>
第三の扉をくぐると、そこは簡素なカフェのようだった。煙草の煙の向こうで、分厚い眼鏡をかけた小柄な男が原稿用紙に向かっていた。
「おや、迷い子かね。私はジャン=ポール・サルトルだ」
駆は進路希望調査の紙を思い出した。自分はサッカー部で誰よりも練習したが、結局、生まれつき足の速い天才エースの控えのまま引退した。勉強だって、いくら机に向かっても、要領のいい奴には勝てない。「努力は才能に勝てるか?」という問いは、今の駆にとって最も残酷なテーマだった。
「サルトル先生。努力は才能に勝てますか? 人は本当に平等なんですか?」
サルトルは煙草を灰皿に押し付け、静かに言った。
「残酷な真実から言おう。人間は、平等には生まれてこない。生まれつきの才能、親の財産、容姿、身体の強さ……それらはすべて、君が選んだわけではない『状況』だ。事実として、不平等は存在する」
駆は拳を握りしめた。
「じゃあ、努力なんて意味ないじゃないですか。最初から正解のルートは決まってるんだ」
「いや、決定的に違う」サルトルは眼鏡の奥の目を光らせた。
「人間は、椅子や机とは違うのだ。椅子は、職人が『座るため』という目的を持って作る。つまり、本質が先に決まっている。しかし、人間はどうか? 君は何か特定の目的を持って製造されたかね? 違う。人間はまず、この世にポツンと放り出される。『実存が本質に先立つ』のだ。君に才能がないこと、それは『状況』だ。しかし、『その状況に対して、君がどう振る舞うか』は、100%君自身の自由であり、責任だ」
「僕の責任……?」
「そうだ。才能がないからと諦めて腐るのか、それとも別の道を切り開くのか。それを選ぶのは君だ。過去の不平等は変えられないが、未来をどう彩るかは君の手の中にある。『努力が才能に勝てるか』という問い自体が、実は言い訳なのだよ。勝てないと言ってもらえれば、努力をやめる理由になるからね。人間は、自由という刑罰に処されている。君は何者にでもなれる。だからこそ、自分の選択から逃げるな。君の人生の正解は、君の選択によってのみ事後的に作られるのだ」
サルトルの言葉は、冷たいようでいて、駆の背中を強く押す熱を持っていた。気がつくとカフェは消え、駆の手には一本の万年筆が握られていた。
<第四話:幸福の処方箋(アリストテレスと『普通』の価値)>
第四の扉は、大理石の柱が並ぶ、風通しの良い講堂へと繋がっていた。立派な髭を蓄え、知性あふれる眼差しをした男が、歩きながら思策にふけっていた。
「私はアリストテレス。万学の祖などと呼ばれているが、ただの世界の観察者だよ」
駆は、親や先生から言われる「普通に大学に行って、普通に就職しなさい」という言葉に息苦しさを感じていた。「普通」の人生を目指すことが正解なのか。でも、特別な何者かになれる自信もない。幸せって、一体何なのだろう。
「アリストテレス先生。『普通』の人生を目指すべきですか? 幸せになるために、努力や特別な成功は必要なんですか?」
アリストテレスは歩みを止め、駆を優しく見つめた。
「若き友よ。あらゆる人間は、行動の究極の目的として『最高善(エウダイモニア:幸福)』を求めている。これには同意してくれるかね?」
「はい。誰だって不幸になりたくはないです」
「では、幸福とは何だろうか? 快楽を貪ることか? 富を蓄えることか? 名声を誇ることか? 違う。それらはすべて、別の目的のための『手段』に過ぎない。私が考える幸福とは、『人間としての固有の機能(理性)を、最も優れた形で発揮し続けること』、つまり『徳(アレテー)』に沿った活動そのものだ」
「難しいです……。もっと簡単に言うと、どういうことですか?」
アリストテレスは微笑んだ。
「『中庸(ちゅうよう)』という言葉を知っているかね? 偏りのない、過不足のない状態のことだ。例えば、恐怖に対して臆病すぎるのは悪だが、無謀すぎるのもまた悪だ。その間にある『勇敢』こそが美徳だ。君の言う『普通の人生』が、単なる怠惰や妥協を意味するなら、それは幸福とは言えない。しかし、過度な野心に身を焼き、他人を蹴落として得る『成功』もまた、魂を不調和にする。自分にとっての『ちょうど良いバランス』を見つけること。過剰でもなく、不足でもない、自分に最適な生き方の調和を保つこと。それこそが、実は最も高度で『幸福な人生』なのだよ。それは決して、退屈な人生という意味ではない」
「自分だけのバランス……」
「そうだ。幸せは一過性の感情ではない。一生を通じて、自分の理性を心地よく働かせ続ける習慣のことだ。他人と比べる必要はない。君の魂が最も安定する『真ん中』を探しなさい」
アリストテレスは駆の肩をポンと叩いた。その温かさが残る中、講堂の景色はサラサラと砂のように崩れ去った。
<第五話:大人の階段(カントと『嘘』の境界線)>
最後の、第五の扉。そこは冷徹なまでの静寂に包まれた、雪の降る庭園だった。几帳面な足取りで規則正しく散歩をしている老紳士がいた。
「時間を正確に。私はイマヌエル・カントだ」
駆は、ここへ来る数時間前の出来を開示的に思い出した。
親友が、学校の備品を誤って壊してしまった。親友は「頼む、先生には言わないでくれ。怒られたら奨学金が取り消されるかもしれないんだ」と泣きついた。駆は先生に尋ねられたとき、「知りません」と嘘をついた。人を守るための嘘。だけど、罪悪感で胸が引き裂かれそうだった。
「カント先生。嘘は人を守るためなら許されますか? 嘘は優しさになりますか?」
カントは足を止め、厳しい表情で駆を見つめた。
「結論から言おう。いかなる理由があろうとも、嘘は絶対に悪である。例外は認めない」
駆は言葉を失った。あまりにも冷酷な言葉に思えたからだ。
「でも! その嘘のせいで友達の未来が守られたかもしれないんですよ? 正直に言って友達を裏切る方が正しいんですか?」
「静かに、若い友人よ」カントは穏やかだが、妥協のない声で言いた。
「君の言う『人を守るための嘘(善意の嘘)』の危うさを説明しよう。君が嘘をついたとする。しかし、もしその嘘が巡り巡って、さらに最悪の結果を招いたらどうする? 例えば、君の嘘のせいで、別の無実の生徒が犯人に仕立て上げられたら? その時、君は『良かれと思ってやった』と言い訳するのかね? 君が結果をコントロールしようとするな。人間には、結果を完全に予測する能力などないのだ。だからこそ、私たちは結果の良し悪しではなく、『その行為自体が、いつでも、誰にとっても正しいルール(普遍的立法)に耐えうるか』で行動を決めねばならない。君は『世界中の全員が、困った時には嘘をついてもいい』というルールを承認できるかね?」
「それは……世界が信用できなくなります」
「その通りだ。嘘は、社会の信頼の根底を破壊する。だから、どんなに切迫していても、嘘は道徳的ではない。だが、勘違いしてはならない。私は君に『冷酷になれ』と言っているのではない。道徳とは、時に自らの感情や利益を犠牲にしてでも、理性に従うという『義務』なのだ。君が親友を想う気持ちは尊い。ならば、嘘という安易な手段に逃げるな。正直に事実を告げた上で、親友と共に謝罪し、共に償う道を模索する。それこそが、相手を『手段』ではなく『目的』として尊重する、本当の誠実さというものだ」
カントの言葉は、駆の甘えを完璧に打ち砕いた。しかし同時に、大人の階段を上るための、厳しくも確かな道標のようにも感じられた。
カントが懐中時計をパチンと閉じた瞬間、世界は完全に暗転した。
<エピローグ:午前六時の証明>
駆は目を覚ました。
気がつくと、彼は自宅の自室の机に突っ伏していた。窓の外からは、夜明けの冷たい、しかし心地よい光が差し込んでいる。午前六時。
夢だったのだろうか。
しかし、机の上には、オリーブの枝、鏡の破片、万年筆、砂時計、そして正確に時を刻む小さな時計のネジが、静かに置かれていた。
スマホの画面を見る。昨日までの悩み、恋人との関係、SNSの数字、才能への嫉妬、親友への嘘……それらへの「一発逆転の正解」は、やっぱりどこにも書かれていない。
ソクラテスは、愛を支配にするなと言った。
ニーチェは、他人の評価の奴隷になるなと言った。
サルトルは、不条理な状況から未来を選べと言った。
アリストテレスは、自分だけの調和を見つけろと言った。
カントは、安易な嘘に逃げず誠実に生きろと言った。
彼らは誰も「こうすれば絶対に幸せになれる」というマニュアル(正解)はくれなかった。ただ、「お前はどう生きるか」という問いだけを、駆の手のひらに残していったのだ。
駆は、白紙の進路希望調査の紙を引き寄せた。
手にある万年筆を握り直す。
胸の奥のモヤモヤは消えていない。だけど、不思議と足元は軽かった。
17歳の朝比奈駆は、正解のない世界へ向かって、小さく、しかし確かな一歩を踏み出すために、ペンを走らせ始めた。
(了)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【17歳の解答保留(アポリア)Ⅱ ――深淵のネットワークと血脈の枷】
<プロローグ:放課後の図書室、夕暮れのチャイム>
五月二十日、午後五時半。西日が差し込む放課後の図書室で、駆は一人、スマートフォンの画面を見つめていた。
画面に表示されているのは、あるSNSの音声スペースで知り合った「アオ」というアカウントからのメッセージだ。お互いに本名も顔も知らない。住んでいる街さえ違う。けれど、夜遅くまで音楽や将来の不安について語り合ううち、駆の心の中には、クラスの誰に対しても抱いたことのないような、切なく、強い感情が芽生えていた。
(会ったこともない相手を好きになるなんて、これは本物の恋愛なんだろうか。ただの依存か、妄想なんじゃないか……)
さらに駆のバッグの底には、ぐしゃぐしゃに丸められた「東京の美大への進学パンフレット」が入っていた。地元を離れてアートを学びたいと告げた時、父親は一蹴した。「学費を払うのは俺だ。親の許しが出ない進路など認めない」と。
「ネットの恋、親の許可。なんで俺の心は、こんなに誰かに縛られてばっかりなんだ」
机に突っ伏した駆の耳に、学校の終わりを告げるチャイムの音が響いた。しかし、その音はいつまでも鳴り止まず、次第にゴーン、ゴーンという、重厚な「寺の鐘の音」へと変わっていった。
気がつくと、図書室の窓の外は夕焼けではなく、深い蓮の池が一面に広がる神秘的な空間へと変貌していた。
<第六話:電脳の蓮池(ブッダ、老子と『ネット恋愛』の真実)>
駆が立ち上がると、図書室の机がそのまま一本の丸木橋へと変わり、蓮の池の真ん中へと伸びていた。
池のほとり、大きな菩提樹の木陰に、静かに目を閉じて座る男がいた。質素な衣をまとい、その佇まいからは一切の波風が感じられない。ブッダ(ゴータマ・シッダールタ)だった。
そしてその傍らで、水面に浮かぶ木の葉をぼんやりと眺めている、長い髭の老人がいた。道教の始祖、老子である。
「ようこそ、迷える若者よ」ブッダが静かに目を開けた。その声は、駆の耳ではなく脳裏に直接響くようだった。
「あの……お二人にお聞きしたいことがあります」駆はスマホを握りしめた。
「ネット恋愛は、本当の恋愛と言えますか? 顔も知らず、触れることもできない相手を好きになるのは、偽物の感情なんでしょうか」
ブッダは水面に浮かぶ大輪の蓮の花を指差した。
「駆よ。君は『本当の恋愛』と『偽物の恋愛』の境界線が、肉体の有無や、対面した時間の長さに存在していると考えているようだね。しかし、仏教の視点から見れば、人間が抱くあらゆる感情は、脳が見せる『執着(しゅうじゃく)』の現れに過ぎない」
「執着……ですか?」
「そうだ。例えば、学校の教室で毎日顔を合わせ、手をつなぐ恋人がいるとしよう。その時、君が愛しているのは『相手のありのままの姿』かね? それとも『自分の理想を投影した相手の幻影』かね? 人間は、目の前にいる人間のことさえ、自分の都合の良いように歪めて見ているものだ。インターネットという道具は、その『幻影』をさらに大きく膨らませる装置に過ぎない。文字や声という限られた情報から、君の心が勝手に『理想の恋人』を創り上げ、それに恋を渇望している。つまり、リアルであれネットであれ、人間が恋をしている対象の本質は、常に自分の心が作り出した『物語』なのだよ」
駆は胸をつかれた。確かに自分は、アオからの優しい返信の裏に、自分の都合の良い「救い主」を求めていたのかもしれない。
すると、それまで黙っていた老子が、ふっと笑って口を開いた。
「ブッダよ、お主はいつも理屈が硬いのう。少年よ、そんなに難しく考えるな。上善は水の如し、だ」
老子は池の水をすくい、指の隙間からこぼれ落ちる様を見せた。
「ネットの恋が本物か偽物かなど、どうでもよいではないか。『本物でなければならない』と枠にはめようとするから苦しくなる。水を見なさい。水は四角い器に入れられれば四角くなり、丸い器に入れられれば丸くなる。ネットという新しい器の中で、君の心が心地よい潤いを感じているなら、それがその瞬間の自然(じねん)というものだ。文字だけの繋がりであっても、そこに君の心が動き、温かさを得たのなら、その『現象』自体に嘘はない。ただし、水は一箇所に留まれば濁る。ネットの画面という小さな器にしがみつき、それだけが世界のすべてだと思い込むと、心は干からびてしまうぞ。流れる水のように、形にこだわらず、その時々の縁を楽しみなさい」
ブッダが再び言った。
「老子の言う通りだ。それがネットであれ現実であれ、その恋が君を『他者への慈悲』へと向かわせるなら善き縁であり、自分を慰めるためだけの『底なしの渇き』になるなら悪き縁となる。本当かどうかを疑うのではなく、『その感情が、今の君を豊かにしているか、それとも狂わせているか』を見極めなさい」
二人の賢者は同時に微笑み、霧の彼方へと消えていった。駆の手元には、一滴の水滴が、決して乾くことなく手のひらで転がっていた。
<第七話:血脈と工場の歯車(マルクスと『親の許可』という資本)>
池の景色が急速に色褪せ、次に駆が立っていたのは、黒い煙を吐き出す巨大な煙突が立ち並ぶ、19世紀のイギリスを思わせる薄暗い工業地帯の路地裏だった。
冷たい雨が降る中、ぼろぼろのコートを着て、ボサボサの髪と立派な髭を蓄えた男が、激しく咳き込みながら厚い本を抱えて歩いていた。カール・マルクスである。
マルクスは駆の姿を見ると、鋭い眼光を向けた。
「ふん、現代の若者か。君の労働価値はまだ搾取されていないようだが、何にそんなに怯えている?」
駆はバッグの中のパンフレットを思い出し、振り絞るように言った。
「マルクスさん。僕は自分の行きたい進路があるんです。でも、親から『お金を出すのは自分だから、親の許可が出ない選択は許さない』と言われました。自分の人生の選択に、親の許可って本当に必要なんですか?」
マルクスは盛大に鼻で笑った。
「ハハハ! 実にクラシックな、そして資本主義的なアポリア(行き詰まり)だな! 君の父親は、実に忠実にこの社会のルールを体現している」
マルクスは近くの工場の錆びた歯車を指差した。
「君の悩みは、一見すると『家族の愛や倫理』の問題に見えるだろう。だがそれは間違いだ。本質は『経済的支配構造』にある。現代の家族というシステムは、資本主義社会において『労働力を効率よく再生産するための最小単位』として機能している。つまり、親は君という『次世代の労働力』を育てるために投資(学費や生活費)をしている投資家なのだ。そして投資家である以上、その投資が自分の望まない方向(例えば、食えるかどうかわからないアートの道など)に使われるのを嫌う。君の父親が『お金を出すのは俺だ』と言うとき、彼は父親という人格ではなく、君の人生を買い取っている『資本家』として喋っているのだ」
マルクスの一刀両断の言葉に、駆は息を呑んだ。家族の愛情だと思っていたものの裏にある、冷徹な経済の仕組み。
「じゃあ、お金を出してもらう以上、僕は親の言う通りにするしかいないんですか……?」
「なぜそこで諦める!」マルクスは駆の肩を強く掴んだ。
「歴史を見ろ。抑圧された者が解放を勝ち取るためには、常に『闘争』が必要だった。君が親の許可を無条件に求めるのは、親の経済力に完全に依存しているからだ。つまり君は、精神的には独立したいと言いながら、物質的には親という資本家に隷属している『プロレタリアート(無産階級)』なのだよ。もし、本当に自分の選択を貫きたいのであれば、二つの道しかない。一つは、親という資本を説得するために、君の選択(アートの道)がどれだけの価値を生むかという『事業計画』を提示し、妥協を勝ち取るか。もう一つは、親の資本を拒絶し、自ら働き、奨学金を背負い、自分の足で立つリスクを引き受けることだ。自由とは、タダでは手に入らない。依存したまま自由だけを求めるのは、資本主義という冷酷な現実を甘く見すぎている」
マルクスは抱えていた『資本論』の頁を激しくめくった。
「親の許可が必要かどうかではない。君が『自分の人生の主権を、金と引き換えに親に売り渡すのか、それとも茨の道を歩んででも奪い返すのか』という、階級闘争なのだ。恐れるな。失うのは、君を繋いでいる鎖だけだ!」
耳をつんざく蒸気機関の音が響き渡り、工場の景色が歪んでいく。マルクスの荒い息遣いだけが、駆の耳にいつまでも残っていた。
<エピローグ:二つの答え、一つの覚悟>
「……あ、」
ハッと気がつくと、駆は図書室の硬い椅子の感触を取り戻していた。時計の針は午後六時を指している。窓の外は、いつもの見慣れた灰色の街並みと、沈みかけの夕日があるだけだった。
しかし、駆の右手には、あの乾かない「蓮の池の水滴」が、左手には、マルクスが着ていたコートの「ちぎれた鉄のボタン」が、確かに握られていた。
スマホが震えた。アオからの新しいメッセージだった。
『駆くん、今日もお疲れ様。最近悩んでるみたいだけど、私はいつでもここで話を聞くからね』
ブッダと老子の言葉が蘇る。
この画面の向こうの優しさは、自分自身の寂しさが作り出した幻影かもしれない。だけど、その言葉によって今、自分の心が救われているという「事実」もまた、確かにここにある。本当か偽物かなんて誰かに証明してもらう必要はない。この繋がりを、自分の心を狂わせる「依存」にせず、明日を生きる「潤い」として大切にしていけばいい。駆は「ありがとう、救われたよ」と、素直な気持ちを返信した。
正式に、バッグの底から、丸められた進路希望調査の紙と美大のパンフレットを取り出した。
マルクスは言った。依存したまま自由は手に入らない、と。
駆は、親が自分の進路に反対するのは、単に憎んでいるからではなく、この厳しい社会から自分を守ろうとする「投資家としての、親なりの歪んだ愛」であることも理解し始めていた。
(だったら、俺も子供のまま『わかってくれ』ってダダをこねるのをやめよう)
親の言う通りの人生を歩めば、経済的には安全(正解)かもしれない。だけど、それは自分の魂の死を意味する。自分の道を歩むなら、親の援助を失うリスクや、働きながら学ぶという血の滲むような苦労(闘争)が待っている。
正解なんて、どちらにもない。あるのは、「どちらの地獄を選択し、どちらの責任を背負うか」という覚悟だけだ。
駆は、ぐしゃぐしゃだったパンフレットを丁寧に手で伸ばした。
今夜、家に帰ったら、父親と向き合おう。感情的に怒鳴るのではなく、自分がどれだけ本気なのか、どんな覚悟を持っているのか、一人の独立した人間として、初めての「対話と闘争」を始めるために。
図書室を出る駆の背中に、夜の帳が静かに、しかし優しく降りていった。
(了)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【17歳の解答保留(アポリア)完結編 ――午前零時の調印式】
<第八話:机上の戦場>
五月二十日の午後九時。朝比奈家のリビングは、まるですべての空気が凍りついたかのような静寂に包まれていた。
テレビの音は消され、ただ柱時計の規則正しい秒針の音だけが、駆の心臓の鼓動を急かすように響いている。食卓の向こう側に座るのは、地元の銀行で融資課長を務める父親・正臣(まさおみ)だった。白髪の交じった髪をきっちりと整え、眼鏡の奥の目は、仕事の書類を査定するときと同じ冷徹さを宿している。
駆は、汗ばむ手のひらをズボンで拭い、意を決して一枚のクリアファイルを机に滑らせた。
「何だ、これは」
正臣は、低く厳格な声で言った。
「僕の進路計画書……いや、『朝比奈駆・東京美術大学進学に伴う資金調達および返済計画書』です」
正臣の眉がピクリと動いた。いつもなら「美大なんて絵描きの遊びで食えるわけがないだろう」「親の言う通り地元の経済学部に進め」と怒鳴り散らすはずの父親が、その書類のタイトルを見て、黙ってファイルを手に取った。
駆の脳裏に、あの薄暗いイギリスの路地裏で、ボサボサの髭を揺らして叫んだマルクスの言葉がリフレインしていた。
『君の父親は、君の人生を買い取っている資本家として喋っているのだ。自由とは、タダでは手に入らない。依存したまま自由を求めるな。闘争せよ!』
正臣はページをめくった。そこには、ただの「行きたい」という願望は一文字も書かれていなかった。書かれていたのは、徹底的な「数字」だった。
「東京の私立美大、四年間の学費および施設費、計約七百万円」
駆は震える声を抑え、一歩も引かずに語りかけた。
「それから、東京での一人暮らしの家賃と生活費、四年間で約四百万円。総額で一千百万円が必要です」
「わかっているなら話は早い」正臣は冷ややかに書類を机に置いた。
「我が家にそんな大金を、ドブに捨てるような余裕はない。地元の国立大なら、この三分の一で済む。お前は親に一千万円以上の借金を背負わせる気か」
「違います」
駆はきっぱりと言い放った。
「親の資本(カネ)に100%依存する気はありません。それは僕自身の『自立』にならないから。だから、一千百万円のうち、半分は僕が自分で背負います」
駆は書類の二ページ目を指差した。
「第一種(無利子)および第二種(有利子)の奨学金を申請します。これで四年間で計四百万円を調達します。これは僕名義の借金であり、卒業後に僕が返済します。さらに、東京での新聞奨学生の制度、または大学が公認している美術系のアルバイトにより、四年間で最低百五十万円を稼ぎ、生活費に充てます。これで計五百万円です」
正臣の目が、少しだけ見開かれた。高校生が小遣い稼ぎのためにバイトをするという次元ではない。人生を賭けた資金繰りの数字がそこにあった。
「……残り、五百五十万円はどうする」
「お父さん。あなたから、『融資』をしていただきたいんです」
駆は、カントから学んだ「誠実さ」を、アリストテレスから学んだ「中庸(調和)」の精神を持って、まっすぐに父親の目を見つめた。
「親としての仕送りではなく、一人の投資家として、僕に五百五十万円を貸してください。大学を卒業した翌年から、毎月三万円、年間三十六万円を、約十五年かけて返済します。ここに、その金銭消費貸借契約書(案)を作ってきました」
正臣は、駆が差し出した「契約書」と書かれた紙を凝視した。
17歳の息子が、夜な夜なパソコンに向かって、銀行の融資書類を模した契約書を作っていたのだ。
「馬鹿げている」正臣はため息をついた。
「美大を出て、就職もできずにのたれ死んだら、この契約書はただの紙切れ。お前には返済能力がない。銀行なら、こんな計画書は一秒でシュレッダー行きだ」
「返済能力は、作ります」
駆はバッグから、何冊ものデッサン帳を取り出し、机の上に叩きつけた。
「この三ヶ月、毎日五時間デッサンを描きました。ネットで現役の美大生や教授と繋がり、僕の作品の講評(レビュー)をもらいました。彼らは『今のペースで努力を続ければ、来年の合格率は八割を超える』と言ってくれました。ネットの繋がりは幻じゃない。僕の技術を磨くための、本物の足がかりです」
ブッダと老子が教えてくれた。ネットの海で得た繋がりを、ただの慰めにするか、自分を豊かにする道具にするかは、自分次第だと。駆は、画面の向こうの言葉をすべて自分の「実力」へと変えてみせたのだ。
「僕は、絵で食っていきます。デザインの技術を学び、在学中からクラウドソーシングでロゴやイラストの仕事を請け負います。そのためのロードマップも、そこに書いてあります」
リビングの時計が、ボーン、と午後十時を告げた。
長い沈黙が流れた。正臣は、デッサン帳のページを一枚一枚、ゆっくりとめくっていった。そこには、鉛筆の粉で真っ黒になった駆の指先が、何百回、何千回と擦り付けた執念の形跡が残されていた。
正臣は眼鏡を外し、深く背もたれに寄りかかった。その顔は、いつの間にか「冷酷な資本家」のものではなく、一人の「父親」の顔に戻っていた。
「駆」
正臣は静かに言った。
「お前がここまで本気で、自分の人生の『リスク』を計算しているとは思わなかった。ただの子供のワガママなら、力ずくでも経済学部に叩き込むつもりだったが……」
正臣は万年筆を取り出し、駆が作った契約書の余白に、滑らかな筆跡で何かを書き加えた。
「条件がある」
駆は唾を飲み込んだ。
「『一浪までは許さない。現役で東京の第一志望に合格すること』。そして、『大学の一年次、学業成績が上位三割に入らなければ、即座に融資を打ち切り、地元に連れ戻す』。この特約条項(コベナンツ)を受け入れるなら、私はお前の計画にお金を貸そう。そう……父親としてではなく、お前の可能性への投資家としてな」
駆の胸の奥から、熱いものが一気に突き上げてきた。
それは、誰かに与えられた「正解」ではない。
ソクラテス、ニーチェ、サルトル、アリストテレス、カント、ブッダ、老子、マルクス――。
暗闇のなかで彼らに悩みを打ち明け、対話し、もぎ取ってきた、駆自身の手による「最初の正解」だった。
「はい。その条件で、お願いします」
駆は、正臣から万年筆を受け取り、自らの署名欄に「朝比奈駆」と力強くサインした。
<エピローグ:果てなき荒野へ>
翌朝、午前六時。
駆は、昨夜父親と交わした契約書のコピーを机に置き、通学鞄を肩にかけた。
玄関を出ると、五月の朝の光が、痛いくらいに眩しかった。
スマホを見ると、アオから『駆くん、昨日の夜、お父さんと話せた?』とメッセージが入っている。
駆は『うん。闘って、勝ったよ。これからが本当の地獄だけど』と短く返し、スマホをポケットに仕舞った。
これから先、奨学金という重い十字架を背負い、バイトと課題に追われる日々が待っている。
才能の壁にぶつかって、また「努力は才能に勝てるか」と泣きたくなる夜も来るだろう。
美大に行けば、もっと歪んだルッキズムや、不条理な競争に巻き込まれるかもしれない。
しかし、駆の足取りは驚くほど軽かった。
なぜなら彼はもう、誰かの顔色を窺って「正解」を探すだけの迷子ではないからだ。
自分の意志で、自分の責任で、不条理な世界の荒野へと踏み出した、一人の「自由な人間」なのだから。
17歳の朝比奈駆の、本当の物語が、今ここから始まる。
(第一部・完)
<プロローグ:深夜一時、交差点の時計塔>
五月十四日、午前一時。17歳の朝比奈 駆(あさひな かける)は、誰もいない夜の街を歩いていた。
手元には、画面が暗転したスマートフォン。SNSのタイムラインには、夕方に起きた「ある事件」に関するクラスメイトたちの喧嘩、恋人からの未読無視、そして進路希望調査の白い紙の残像がこびりついて離れなかった。
「正解って、どこにあるんだよ」
彼がそう呟いた瞬間、街の古びた時計塔の針が逆回転を始めた。視界がぐにゃりと歪み、気がつくと彼は、霧に包まれた奇妙な円形の広場に立っていた。広場を囲むように、五つの扉が並んでいる。
それぞれの扉の前には、時代も服装も異なる「誰か」が静かに佇み、駆が来るのを待っていた。
これは、割り切れない世界を生きる17歳のための、五つの夜の対話の記録である。
<第一話:恋愛と境界線(ソクラテスと『束縛』の問答)>
駆が最初に足を踏みに入れたのは、紫色の霧が立ち込める第一の扉だった。そこにいたのは、粗末な布をまとった、お世辞にも美男子とは言えない禿頭の老人だった。
「ようこそ、若い友よ」老人は言った。
「私はソクラテス。アテナイの街をほっつき歩いていた老人だ」
駆は、昼間に元彼女と言い争ったことを思い出していた。彼女は駆のスマホのGPS共有を求め、異性の連絡先をすべて消せと言った。「好きならそれくらいできるでしょ? 束縛は愛の証拠だよ」と。駆はそれが息苦しくて別れを切り出したが、心の中では「自分が冷酷なのだろうか」と悩み続けていた。
「ねえ、ソクラテス」駆は尋ねた。
「束縛は愛情ですか? それとも支配ですか?」
ソクラテスは悪戯っぽく目を細めた。
「素晴らしい問いだ。では逆に聞こう。君は、自分の大好きな小鳥を飼うとしたら、どうするね?」
「籠に入めます。逃げたら悲しいし、危ないですから」
「では、その籠の目を一切の隙間がないほど細かくし、光も通さない鉄の箱に閉じ込めたらどうなる?」
「死んじゃいます。そんなの、小鳥のためになりません」
「そうだね」ソクラテスは頷いた。
「では、君が小鳥を鉄の箱に入れたのは、小鳥を憎んでいたからかね? それとも愛していたからかね?」
「愛していたから……いや、逃げられるのが怖かったからです」
「その通りだ。君は小鳥の命ではなく、『小鳥を失って傷つく自分の心』を守ろうとしたのだ。若き友よ、人間はしばしば『相手を大切に思う気持ち(愛)』と『相手を失う恐怖(執着)』を混同する。君の言う『束縛』が、相手の成長や自由を奪うものであるなら、それは相手を愛しているのではなく、自分の不安を埋めるために相手を『支配』しているに過ぎない。しかし、全くの無関心もまた愛とは呼べない。適度な籠の目は、時に雨風をしのぐ守りにもなる」
「じゃあ、どれくらいの細かさが『正解』なんですか?」
ソクラテスは笑って首を振った。
「それは私にもわからない。なぜなら、その籠の心地よさは、君と相手が話し合って決めるものだからだ。ただ一つ言えるのは、『愛とは、相手を自分の所有物にすることではない』ということだ。対話を恐れるな。答えを急ぐな。独占欲を愛と呼ばせてはならない」
駆がハッとすると、ソクラテスの姿は薄い霧へと消えていた。手元には、一本のオリーブの枝が残されていた。
<第二話:仮面の世界(ニーチェと『インスタ映え』の超人)>
第二の扉の向こうは、無数の鏡が浮遊するきらびやかな空間だった。そこで大きな口髭を蓄えた男が、冷ややかな目で鏡を見つめていた。
「ふん、虚栄の檻か」男は吐き捨てた。
「私はフリードリヒ・ニーチェだ」
駆は、SNSで「いいね」を集めるために必死なクラスの女子たちや、自分自身の「見栄えのいい瞬間」だけを切り取る行為に辟易していた。同時に、フォロワー数で人間の価値が決まるような現代の空気に、圧倒的な敗北感を抱いてもいた。
「ニーチェさん。インスタ映えを意識したり、SNSのフォロワー数で人を評価したりするのは、間違っていますか?」
ニーチェは駆を鋭く睨みつけた。
「間違っているか、正しいか、などという安っぽい道徳で世界を測るな! 私が問題にしたいのは、それが『生き生きとした生命の肯定』か、それとも『群衆に怯える奴隷の根性』かということだ」
ニーチェは一枚の鏡を指差した。そこには、加工アプリで顔を歪ませ、お洒落なカフェで笑顔を作る若者たちの姿が映っていた。
「彼らはなぜ、あんな写真を撮る? 本当にその空間を楽しんでいるからか? 違う。他人に『羨ましい』と思われたいからだ。他人の眼差しという『主人』に仕える、哀れな奴隷たちだよ。彼らは自分自身の価値を、画面の向こうの有象無象の『いいね』という数字に委ねてしまっている。フォロワー数などという砂の城で人間の価値が決まると思うなら、それは魂が腐っている証拠だ」
駆は耳が痛かった。自分もまた、通知の数に一喜一憂していたからだ。
「じゃあ、SNSなんてやめるべきですか?」
「極端に走るな、軟弱者が!」ニーチェは一喝した。
「美を意識し、自分を表現すること自体は悪くない。むしろ芸術的だ。だが、お前が表現すべきは『他人にウケる自分』ではなく、『お前自身の爆発するような生命力』だ! 神は死んだ。そして現代では、SNSという新しい神が君臨している。その神に祈りを捧げる信者になるな。他人の評価から自由になり、自分自身の価値基準を自分で創り出す『超人』になれ。画面の数字を増やすために生きるな。お前自身の人生を、何度でも繰り返したいと思えるほど強烈に生きろ!」
ニーチェが足を踏み鳴らすと、周囲の鏡が文字通り粉々に砕け散った。駆の足元には、輝くガラスの破片が一つ、転がっていた。
<第三話:才能の不平等(サルトルと『努力と才能』の選択)>
第三の扉をくぐると、そこは簡素なカフェのようだった。煙草の煙の向こうで、分厚い眼鏡をかけた小柄な男が原稿用紙に向かっていた。
「おや、迷い子かね。私はジャン=ポール・サルトルだ」
駆は進路希望調査の紙を思い出した。自分はサッカー部で誰よりも練習したが、結局、生まれつき足の速い天才エースの控えのまま引退した。勉強だって、いくら机に向かっても、要領のいい奴には勝てない。「努力は才能に勝てるか?」という問いは、今の駆にとって最も残酷なテーマだった。
「サルトル先生。努力は才能に勝てますか? 人は本当に平等なんですか?」
サルトルは煙草を灰皿に押し付け、静かに言った。
「残酷な真実から言おう。人間は、平等には生まれてこない。生まれつきの才能、親の財産、容姿、身体の強さ……それらはすべて、君が選んだわけではない『状況』だ。事実として、不平等は存在する」
駆は拳を握りしめた。
「じゃあ、努力なんて意味ないじゃないですか。最初から正解のルートは決まってるんだ」
「いや、決定的に違う」サルトルは眼鏡の奥の目を光らせた。
「人間は、椅子や机とは違うのだ。椅子は、職人が『座るため』という目的を持って作る。つまり、本質が先に決まっている。しかし、人間はどうか? 君は何か特定の目的を持って製造されたかね? 違う。人間はまず、この世にポツンと放り出される。『実存が本質に先立つ』のだ。君に才能がないこと、それは『状況』だ。しかし、『その状況に対して、君がどう振る舞うか』は、100%君自身の自由であり、責任だ」
「僕の責任……?」
「そうだ。才能がないからと諦めて腐るのか、それとも別の道を切り開くのか。それを選ぶのは君だ。過去の不平等は変えられないが、未来をどう彩るかは君の手の中にある。『努力が才能に勝てるか』という問い自体が、実は言い訳なのだよ。勝てないと言ってもらえれば、努力をやめる理由になるからね。人間は、自由という刑罰に処されている。君は何者にでもなれる。だからこそ、自分の選択から逃げるな。君の人生の正解は、君の選択によってのみ事後的に作られるのだ」
サルトルの言葉は、冷たいようでいて、駆の背中を強く押す熱を持っていた。気がつくとカフェは消え、駆の手には一本の万年筆が握られていた。
<第四話:幸福の処方箋(アリストテレスと『普通』の価値)>
第四の扉は、大理石の柱が並ぶ、風通しの良い講堂へと繋がっていた。立派な髭を蓄え、知性あふれる眼差しをした男が、歩きながら思策にふけっていた。
「私はアリストテレス。万学の祖などと呼ばれているが、ただの世界の観察者だよ」
駆は、親や先生から言われる「普通に大学に行って、普通に就職しなさい」という言葉に息苦しさを感じていた。「普通」の人生を目指すことが正解なのか。でも、特別な何者かになれる自信もない。幸せって、一体何なのだろう。
「アリストテレス先生。『普通』の人生を目指すべきですか? 幸せになるために、努力や特別な成功は必要なんですか?」
アリストテレスは歩みを止め、駆を優しく見つめた。
「若き友よ。あらゆる人間は、行動の究極の目的として『最高善(エウダイモニア:幸福)』を求めている。これには同意してくれるかね?」
「はい。誰だって不幸になりたくはないです」
「では、幸福とは何だろうか? 快楽を貪ることか? 富を蓄えることか? 名声を誇ることか? 違う。それらはすべて、別の目的のための『手段』に過ぎない。私が考える幸福とは、『人間としての固有の機能(理性)を、最も優れた形で発揮し続けること』、つまり『徳(アレテー)』に沿った活動そのものだ」
「難しいです……。もっと簡単に言うと、どういうことですか?」
アリストテレスは微笑んだ。
「『中庸(ちゅうよう)』という言葉を知っているかね? 偏りのない、過不足のない状態のことだ。例えば、恐怖に対して臆病すぎるのは悪だが、無謀すぎるのもまた悪だ。その間にある『勇敢』こそが美徳だ。君の言う『普通の人生』が、単なる怠惰や妥協を意味するなら、それは幸福とは言えない。しかし、過度な野心に身を焼き、他人を蹴落として得る『成功』もまた、魂を不調和にする。自分にとっての『ちょうど良いバランス』を見つけること。過剰でもなく、不足でもない、自分に最適な生き方の調和を保つこと。それこそが、実は最も高度で『幸福な人生』なのだよ。それは決して、退屈な人生という意味ではない」
「自分だけのバランス……」
「そうだ。幸せは一過性の感情ではない。一生を通じて、自分の理性を心地よく働かせ続ける習慣のことだ。他人と比べる必要はない。君の魂が最も安定する『真ん中』を探しなさい」
アリストテレスは駆の肩をポンと叩いた。その温かさが残る中、講堂の景色はサラサラと砂のように崩れ去った。
<第五話:大人の階段(カントと『嘘』の境界線)>
最後の、第五の扉。そこは冷徹なまでの静寂に包まれた、雪の降る庭園だった。几帳面な足取りで規則正しく散歩をしている老紳士がいた。
「時間を正確に。私はイマヌエル・カントだ」
駆は、ここへ来る数時間前の出来を開示的に思い出した。
親友が、学校の備品を誤って壊してしまった。親友は「頼む、先生には言わないでくれ。怒られたら奨学金が取り消されるかもしれないんだ」と泣きついた。駆は先生に尋ねられたとき、「知りません」と嘘をついた。人を守るための嘘。だけど、罪悪感で胸が引き裂かれそうだった。
「カント先生。嘘は人を守るためなら許されますか? 嘘は優しさになりますか?」
カントは足を止め、厳しい表情で駆を見つめた。
「結論から言おう。いかなる理由があろうとも、嘘は絶対に悪である。例外は認めない」
駆は言葉を失った。あまりにも冷酷な言葉に思えたからだ。
「でも! その嘘のせいで友達の未来が守られたかもしれないんですよ? 正直に言って友達を裏切る方が正しいんですか?」
「静かに、若い友人よ」カントは穏やかだが、妥協のない声で言いた。
「君の言う『人を守るための嘘(善意の嘘)』の危うさを説明しよう。君が嘘をついたとする。しかし、もしその嘘が巡り巡って、さらに最悪の結果を招いたらどうする? 例えば、君の嘘のせいで、別の無実の生徒が犯人に仕立て上げられたら? その時、君は『良かれと思ってやった』と言い訳するのかね? 君が結果をコントロールしようとするな。人間には、結果を完全に予測する能力などないのだ。だからこそ、私たちは結果の良し悪しではなく、『その行為自体が、いつでも、誰にとっても正しいルール(普遍的立法)に耐えうるか』で行動を決めねばならない。君は『世界中の全員が、困った時には嘘をついてもいい』というルールを承認できるかね?」
「それは……世界が信用できなくなります」
「その通りだ。嘘は、社会の信頼の根底を破壊する。だから、どんなに切迫していても、嘘は道徳的ではない。だが、勘違いしてはならない。私は君に『冷酷になれ』と言っているのではない。道徳とは、時に自らの感情や利益を犠牲にしてでも、理性に従うという『義務』なのだ。君が親友を想う気持ちは尊い。ならば、嘘という安易な手段に逃げるな。正直に事実を告げた上で、親友と共に謝罪し、共に償う道を模索する。それこそが、相手を『手段』ではなく『目的』として尊重する、本当の誠実さというものだ」
カントの言葉は、駆の甘えを完璧に打ち砕いた。しかし同時に、大人の階段を上るための、厳しくも確かな道標のようにも感じられた。
カントが懐中時計をパチンと閉じた瞬間、世界は完全に暗転した。
<エピローグ:午前六時の証明>
駆は目を覚ました。
気がつくと、彼は自宅の自室の机に突っ伏していた。窓の外からは、夜明けの冷たい、しかし心地よい光が差し込んでいる。午前六時。
夢だったのだろうか。
しかし、机の上には、オリーブの枝、鏡の破片、万年筆、砂時計、そして正確に時を刻む小さな時計のネジが、静かに置かれていた。
スマホの画面を見る。昨日までの悩み、恋人との関係、SNSの数字、才能への嫉妬、親友への嘘……それらへの「一発逆転の正解」は、やっぱりどこにも書かれていない。
ソクラテスは、愛を支配にするなと言った。
ニーチェは、他人の評価の奴隷になるなと言った。
サルトルは、不条理な状況から未来を選べと言った。
アリストテレスは、自分だけの調和を見つけろと言った。
カントは、安易な嘘に逃げず誠実に生きろと言った。
彼らは誰も「こうすれば絶対に幸せになれる」というマニュアル(正解)はくれなかった。ただ、「お前はどう生きるか」という問いだけを、駆の手のひらに残していったのだ。
駆は、白紙の進路希望調査の紙を引き寄せた。
手にある万年筆を握り直す。
胸の奥のモヤモヤは消えていない。だけど、不思議と足元は軽かった。
17歳の朝比奈駆は、正解のない世界へ向かって、小さく、しかし確かな一歩を踏み出すために、ペンを走らせ始めた。
(了)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【17歳の解答保留(アポリア)Ⅱ ――深淵のネットワークと血脈の枷】
<プロローグ:放課後の図書室、夕暮れのチャイム>
五月二十日、午後五時半。西日が差し込む放課後の図書室で、駆は一人、スマートフォンの画面を見つめていた。
画面に表示されているのは、あるSNSの音声スペースで知り合った「アオ」というアカウントからのメッセージだ。お互いに本名も顔も知らない。住んでいる街さえ違う。けれど、夜遅くまで音楽や将来の不安について語り合ううち、駆の心の中には、クラスの誰に対しても抱いたことのないような、切なく、強い感情が芽生えていた。
(会ったこともない相手を好きになるなんて、これは本物の恋愛なんだろうか。ただの依存か、妄想なんじゃないか……)
さらに駆のバッグの底には、ぐしゃぐしゃに丸められた「東京の美大への進学パンフレット」が入っていた。地元を離れてアートを学びたいと告げた時、父親は一蹴した。「学費を払うのは俺だ。親の許しが出ない進路など認めない」と。
「ネットの恋、親の許可。なんで俺の心は、こんなに誰かに縛られてばっかりなんだ」
机に突っ伏した駆の耳に、学校の終わりを告げるチャイムの音が響いた。しかし、その音はいつまでも鳴り止まず、次第にゴーン、ゴーンという、重厚な「寺の鐘の音」へと変わっていった。
気がつくと、図書室の窓の外は夕焼けではなく、深い蓮の池が一面に広がる神秘的な空間へと変貌していた。
<第六話:電脳の蓮池(ブッダ、老子と『ネット恋愛』の真実)>
駆が立ち上がると、図書室の机がそのまま一本の丸木橋へと変わり、蓮の池の真ん中へと伸びていた。
池のほとり、大きな菩提樹の木陰に、静かに目を閉じて座る男がいた。質素な衣をまとい、その佇まいからは一切の波風が感じられない。ブッダ(ゴータマ・シッダールタ)だった。
そしてその傍らで、水面に浮かぶ木の葉をぼんやりと眺めている、長い髭の老人がいた。道教の始祖、老子である。
「ようこそ、迷える若者よ」ブッダが静かに目を開けた。その声は、駆の耳ではなく脳裏に直接響くようだった。
「あの……お二人にお聞きしたいことがあります」駆はスマホを握りしめた。
「ネット恋愛は、本当の恋愛と言えますか? 顔も知らず、触れることもできない相手を好きになるのは、偽物の感情なんでしょうか」
ブッダは水面に浮かぶ大輪の蓮の花を指差した。
「駆よ。君は『本当の恋愛』と『偽物の恋愛』の境界線が、肉体の有無や、対面した時間の長さに存在していると考えているようだね。しかし、仏教の視点から見れば、人間が抱くあらゆる感情は、脳が見せる『執着(しゅうじゃく)』の現れに過ぎない」
「執着……ですか?」
「そうだ。例えば、学校の教室で毎日顔を合わせ、手をつなぐ恋人がいるとしよう。その時、君が愛しているのは『相手のありのままの姿』かね? それとも『自分の理想を投影した相手の幻影』かね? 人間は、目の前にいる人間のことさえ、自分の都合の良いように歪めて見ているものだ。インターネットという道具は、その『幻影』をさらに大きく膨らませる装置に過ぎない。文字や声という限られた情報から、君の心が勝手に『理想の恋人』を創り上げ、それに恋を渇望している。つまり、リアルであれネットであれ、人間が恋をしている対象の本質は、常に自分の心が作り出した『物語』なのだよ」
駆は胸をつかれた。確かに自分は、アオからの優しい返信の裏に、自分の都合の良い「救い主」を求めていたのかもしれない。
すると、それまで黙っていた老子が、ふっと笑って口を開いた。
「ブッダよ、お主はいつも理屈が硬いのう。少年よ、そんなに難しく考えるな。上善は水の如し、だ」
老子は池の水をすくい、指の隙間からこぼれ落ちる様を見せた。
「ネットの恋が本物か偽物かなど、どうでもよいではないか。『本物でなければならない』と枠にはめようとするから苦しくなる。水を見なさい。水は四角い器に入れられれば四角くなり、丸い器に入れられれば丸くなる。ネットという新しい器の中で、君の心が心地よい潤いを感じているなら、それがその瞬間の自然(じねん)というものだ。文字だけの繋がりであっても、そこに君の心が動き、温かさを得たのなら、その『現象』自体に嘘はない。ただし、水は一箇所に留まれば濁る。ネットの画面という小さな器にしがみつき、それだけが世界のすべてだと思い込むと、心は干からびてしまうぞ。流れる水のように、形にこだわらず、その時々の縁を楽しみなさい」
ブッダが再び言った。
「老子の言う通りだ。それがネットであれ現実であれ、その恋が君を『他者への慈悲』へと向かわせるなら善き縁であり、自分を慰めるためだけの『底なしの渇き』になるなら悪き縁となる。本当かどうかを疑うのではなく、『その感情が、今の君を豊かにしているか、それとも狂わせているか』を見極めなさい」
二人の賢者は同時に微笑み、霧の彼方へと消えていった。駆の手元には、一滴の水滴が、決して乾くことなく手のひらで転がっていた。
<第七話:血脈と工場の歯車(マルクスと『親の許可』という資本)>
池の景色が急速に色褪せ、次に駆が立っていたのは、黒い煙を吐き出す巨大な煙突が立ち並ぶ、19世紀のイギリスを思わせる薄暗い工業地帯の路地裏だった。
冷たい雨が降る中、ぼろぼろのコートを着て、ボサボサの髪と立派な髭を蓄えた男が、激しく咳き込みながら厚い本を抱えて歩いていた。カール・マルクスである。
マルクスは駆の姿を見ると、鋭い眼光を向けた。
「ふん、現代の若者か。君の労働価値はまだ搾取されていないようだが、何にそんなに怯えている?」
駆はバッグの中のパンフレットを思い出し、振り絞るように言った。
「マルクスさん。僕は自分の行きたい進路があるんです。でも、親から『お金を出すのは自分だから、親の許可が出ない選択は許さない』と言われました。自分の人生の選択に、親の許可って本当に必要なんですか?」
マルクスは盛大に鼻で笑った。
「ハハハ! 実にクラシックな、そして資本主義的なアポリア(行き詰まり)だな! 君の父親は、実に忠実にこの社会のルールを体現している」
マルクスは近くの工場の錆びた歯車を指差した。
「君の悩みは、一見すると『家族の愛や倫理』の問題に見えるだろう。だがそれは間違いだ。本質は『経済的支配構造』にある。現代の家族というシステムは、資本主義社会において『労働力を効率よく再生産するための最小単位』として機能している。つまり、親は君という『次世代の労働力』を育てるために投資(学費や生活費)をしている投資家なのだ。そして投資家である以上、その投資が自分の望まない方向(例えば、食えるかどうかわからないアートの道など)に使われるのを嫌う。君の父親が『お金を出すのは俺だ』と言うとき、彼は父親という人格ではなく、君の人生を買い取っている『資本家』として喋っているのだ」
マルクスの一刀両断の言葉に、駆は息を呑んだ。家族の愛情だと思っていたものの裏にある、冷徹な経済の仕組み。
「じゃあ、お金を出してもらう以上、僕は親の言う通りにするしかいないんですか……?」
「なぜそこで諦める!」マルクスは駆の肩を強く掴んだ。
「歴史を見ろ。抑圧された者が解放を勝ち取るためには、常に『闘争』が必要だった。君が親の許可を無条件に求めるのは、親の経済力に完全に依存しているからだ。つまり君は、精神的には独立したいと言いながら、物質的には親という資本家に隷属している『プロレタリアート(無産階級)』なのだよ。もし、本当に自分の選択を貫きたいのであれば、二つの道しかない。一つは、親という資本を説得するために、君の選択(アートの道)がどれだけの価値を生むかという『事業計画』を提示し、妥協を勝ち取るか。もう一つは、親の資本を拒絶し、自ら働き、奨学金を背負い、自分の足で立つリスクを引き受けることだ。自由とは、タダでは手に入らない。依存したまま自由だけを求めるのは、資本主義という冷酷な現実を甘く見すぎている」
マルクスは抱えていた『資本論』の頁を激しくめくった。
「親の許可が必要かどうかではない。君が『自分の人生の主権を、金と引き換えに親に売り渡すのか、それとも茨の道を歩んででも奪い返すのか』という、階級闘争なのだ。恐れるな。失うのは、君を繋いでいる鎖だけだ!」
耳をつんざく蒸気機関の音が響き渡り、工場の景色が歪んでいく。マルクスの荒い息遣いだけが、駆の耳にいつまでも残っていた。
<エピローグ:二つの答え、一つの覚悟>
「……あ、」
ハッと気がつくと、駆は図書室の硬い椅子の感触を取り戻していた。時計の針は午後六時を指している。窓の外は、いつもの見慣れた灰色の街並みと、沈みかけの夕日があるだけだった。
しかし、駆の右手には、あの乾かない「蓮の池の水滴」が、左手には、マルクスが着ていたコートの「ちぎれた鉄のボタン」が、確かに握られていた。
スマホが震えた。アオからの新しいメッセージだった。
『駆くん、今日もお疲れ様。最近悩んでるみたいだけど、私はいつでもここで話を聞くからね』
ブッダと老子の言葉が蘇る。
この画面の向こうの優しさは、自分自身の寂しさが作り出した幻影かもしれない。だけど、その言葉によって今、自分の心が救われているという「事実」もまた、確かにここにある。本当か偽物かなんて誰かに証明してもらう必要はない。この繋がりを、自分の心を狂わせる「依存」にせず、明日を生きる「潤い」として大切にしていけばいい。駆は「ありがとう、救われたよ」と、素直な気持ちを返信した。
正式に、バッグの底から、丸められた進路希望調査の紙と美大のパンフレットを取り出した。
マルクスは言った。依存したまま自由は手に入らない、と。
駆は、親が自分の進路に反対するのは、単に憎んでいるからではなく、この厳しい社会から自分を守ろうとする「投資家としての、親なりの歪んだ愛」であることも理解し始めていた。
(だったら、俺も子供のまま『わかってくれ』ってダダをこねるのをやめよう)
親の言う通りの人生を歩めば、経済的には安全(正解)かもしれない。だけど、それは自分の魂の死を意味する。自分の道を歩むなら、親の援助を失うリスクや、働きながら学ぶという血の滲むような苦労(闘争)が待っている。
正解なんて、どちらにもない。あるのは、「どちらの地獄を選択し、どちらの責任を背負うか」という覚悟だけだ。
駆は、ぐしゃぐしゃだったパンフレットを丁寧に手で伸ばした。
今夜、家に帰ったら、父親と向き合おう。感情的に怒鳴るのではなく、自分がどれだけ本気なのか、どんな覚悟を持っているのか、一人の独立した人間として、初めての「対話と闘争」を始めるために。
図書室を出る駆の背中に、夜の帳が静かに、しかし優しく降りていった。
(了)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【17歳の解答保留(アポリア)完結編 ――午前零時の調印式】
<第八話:机上の戦場>
五月二十日の午後九時。朝比奈家のリビングは、まるですべての空気が凍りついたかのような静寂に包まれていた。
テレビの音は消され、ただ柱時計の規則正しい秒針の音だけが、駆の心臓の鼓動を急かすように響いている。食卓の向こう側に座るのは、地元の銀行で融資課長を務める父親・正臣(まさおみ)だった。白髪の交じった髪をきっちりと整え、眼鏡の奥の目は、仕事の書類を査定するときと同じ冷徹さを宿している。
駆は、汗ばむ手のひらをズボンで拭い、意を決して一枚のクリアファイルを机に滑らせた。
「何だ、これは」
正臣は、低く厳格な声で言った。
「僕の進路計画書……いや、『朝比奈駆・東京美術大学進学に伴う資金調達および返済計画書』です」
正臣の眉がピクリと動いた。いつもなら「美大なんて絵描きの遊びで食えるわけがないだろう」「親の言う通り地元の経済学部に進め」と怒鳴り散らすはずの父親が、その書類のタイトルを見て、黙ってファイルを手に取った。
駆の脳裏に、あの薄暗いイギリスの路地裏で、ボサボサの髭を揺らして叫んだマルクスの言葉がリフレインしていた。
『君の父親は、君の人生を買い取っている資本家として喋っているのだ。自由とは、タダでは手に入らない。依存したまま自由を求めるな。闘争せよ!』
正臣はページをめくった。そこには、ただの「行きたい」という願望は一文字も書かれていなかった。書かれていたのは、徹底的な「数字」だった。
「東京の私立美大、四年間の学費および施設費、計約七百万円」
駆は震える声を抑え、一歩も引かずに語りかけた。
「それから、東京での一人暮らしの家賃と生活費、四年間で約四百万円。総額で一千百万円が必要です」
「わかっているなら話は早い」正臣は冷ややかに書類を机に置いた。
「我が家にそんな大金を、ドブに捨てるような余裕はない。地元の国立大なら、この三分の一で済む。お前は親に一千万円以上の借金を背負わせる気か」
「違います」
駆はきっぱりと言い放った。
「親の資本(カネ)に100%依存する気はありません。それは僕自身の『自立』にならないから。だから、一千百万円のうち、半分は僕が自分で背負います」
駆は書類の二ページ目を指差した。
「第一種(無利子)および第二種(有利子)の奨学金を申請します。これで四年間で計四百万円を調達します。これは僕名義の借金であり、卒業後に僕が返済します。さらに、東京での新聞奨学生の制度、または大学が公認している美術系のアルバイトにより、四年間で最低百五十万円を稼ぎ、生活費に充てます。これで計五百万円です」
正臣の目が、少しだけ見開かれた。高校生が小遣い稼ぎのためにバイトをするという次元ではない。人生を賭けた資金繰りの数字がそこにあった。
「……残り、五百五十万円はどうする」
「お父さん。あなたから、『融資』をしていただきたいんです」
駆は、カントから学んだ「誠実さ」を、アリストテレスから学んだ「中庸(調和)」の精神を持って、まっすぐに父親の目を見つめた。
「親としての仕送りではなく、一人の投資家として、僕に五百五十万円を貸してください。大学を卒業した翌年から、毎月三万円、年間三十六万円を、約十五年かけて返済します。ここに、その金銭消費貸借契約書(案)を作ってきました」
正臣は、駆が差し出した「契約書」と書かれた紙を凝視した。
17歳の息子が、夜な夜なパソコンに向かって、銀行の融資書類を模した契約書を作っていたのだ。
「馬鹿げている」正臣はため息をついた。
「美大を出て、就職もできずにのたれ死んだら、この契約書はただの紙切れ。お前には返済能力がない。銀行なら、こんな計画書は一秒でシュレッダー行きだ」
「返済能力は、作ります」
駆はバッグから、何冊ものデッサン帳を取り出し、机の上に叩きつけた。
「この三ヶ月、毎日五時間デッサンを描きました。ネットで現役の美大生や教授と繋がり、僕の作品の講評(レビュー)をもらいました。彼らは『今のペースで努力を続ければ、来年の合格率は八割を超える』と言ってくれました。ネットの繋がりは幻じゃない。僕の技術を磨くための、本物の足がかりです」
ブッダと老子が教えてくれた。ネットの海で得た繋がりを、ただの慰めにするか、自分を豊かにする道具にするかは、自分次第だと。駆は、画面の向こうの言葉をすべて自分の「実力」へと変えてみせたのだ。
「僕は、絵で食っていきます。デザインの技術を学び、在学中からクラウドソーシングでロゴやイラストの仕事を請け負います。そのためのロードマップも、そこに書いてあります」
リビングの時計が、ボーン、と午後十時を告げた。
長い沈黙が流れた。正臣は、デッサン帳のページを一枚一枚、ゆっくりとめくっていった。そこには、鉛筆の粉で真っ黒になった駆の指先が、何百回、何千回と擦り付けた執念の形跡が残されていた。
正臣は眼鏡を外し、深く背もたれに寄りかかった。その顔は、いつの間にか「冷酷な資本家」のものではなく、一人の「父親」の顔に戻っていた。
「駆」
正臣は静かに言った。
「お前がここまで本気で、自分の人生の『リスク』を計算しているとは思わなかった。ただの子供のワガママなら、力ずくでも経済学部に叩き込むつもりだったが……」
正臣は万年筆を取り出し、駆が作った契約書の余白に、滑らかな筆跡で何かを書き加えた。
「条件がある」
駆は唾を飲み込んだ。
「『一浪までは許さない。現役で東京の第一志望に合格すること』。そして、『大学の一年次、学業成績が上位三割に入らなければ、即座に融資を打ち切り、地元に連れ戻す』。この特約条項(コベナンツ)を受け入れるなら、私はお前の計画にお金を貸そう。そう……父親としてではなく、お前の可能性への投資家としてな」
駆の胸の奥から、熱いものが一気に突き上げてきた。
それは、誰かに与えられた「正解」ではない。
ソクラテス、ニーチェ、サルトル、アリストテレス、カント、ブッダ、老子、マルクス――。
暗闇のなかで彼らに悩みを打ち明け、対話し、もぎ取ってきた、駆自身の手による「最初の正解」だった。
「はい。その条件で、お願いします」
駆は、正臣から万年筆を受け取り、自らの署名欄に「朝比奈駆」と力強くサインした。
<エピローグ:果てなき荒野へ>
翌朝、午前六時。
駆は、昨夜父親と交わした契約書のコピーを机に置き、通学鞄を肩にかけた。
玄関を出ると、五月の朝の光が、痛いくらいに眩しかった。
スマホを見ると、アオから『駆くん、昨日の夜、お父さんと話せた?』とメッセージが入っている。
駆は『うん。闘って、勝ったよ。これからが本当の地獄だけど』と短く返し、スマホをポケットに仕舞った。
これから先、奨学金という重い十字架を背負い、バイトと課題に追われる日々が待っている。
才能の壁にぶつかって、また「努力は才能に勝てるか」と泣きたくなる夜も来るだろう。
美大に行けば、もっと歪んだルッキズムや、不条理な競争に巻き込まれるかもしれない。
しかし、駆の足取りは驚くほど軽かった。
なぜなら彼はもう、誰かの顔色を窺って「正解」を探すだけの迷子ではないからだ。
自分の意志で、自分の責任で、不条理な世界の荒野へと踏み出した、一人の「自由な人間」なのだから。
17歳の朝比奈駆の、本当の物語が、今ここから始まる。
(第一部・完)



