坂の上のRD

その日の昼下がり「海風(うみかぜ)公園」にて

「かもめヶ丘病院」に隣接する「海風公園」は、七海の通勤コースである坂道の傾斜に沿って上に伸びる緑豊かな公園だ。
栗の木が沢山あって秋には栗拾いを楽しむ事が出来るのでその時期は七海の姿を良く見かける。
敷地は広大だが傾斜が激しく平坦な場所は天辺にある「かもめヶ丘病院」の敷地とその隣にある陸上競技場だけしかない。その上、北側面は断崖絶壁となっていてフェンスを乗り越えるような不届き者に命の保証はない。「市民の憩いの場」にしては若干ワイルドな仕立てになっている。
その代わり、この北側から見おろす港の風景は大迫力で、時間毎にこの街の力強さと美しさの両方を感じる事が出来る。

冬から春への変わり目の時期、北国にしてはめずらしく暖かい風がそよぎ、栗林を散策する人々や港の風景を楽しむ人々を包んでいた。

桜はその片隅のベンチに腰掛け港の向こう側、遥か遠くに目を向けていた。
その姿はガックリと肩が落ちカンファレンスで見た「鋭敏な科学者の知性」は感じられない。
膝の上には乾燥してパサパサになったコンビニのサンドイッチが手をつけられずに置かれている。

「室長、お疲れ様です」
突然背後から声をかけられた桜は反射的に振り向いた。
そこには何か大きな物を抱えて病院側から無表情にこちらを見おろす七海がいた。
桜は毅然に振る舞おうと慌てるが全く空気を読まない七海はズカズカと歩み寄り許しも得ずに桜の隣へ腰を下ろした。
驚きこちらを凝視する桜とは目を合わせず七海は少し沈黙してから突然口を開いた。
「亜鉛不足と極度の神経疲労。味覚が死んでます」
「それに・・・胃が食べ物を拒絶している」
ズバズバと核心を突く七海に、桜は冷や汗をかいた。
「な、何を言っているの。私はただの寝不足で・・・」
「嘘だ!」
七海は桜の言葉を遮った。
「食うのが怖いんだべ!味がしねくなって、吐き気がして、自分が管理栄養士失格みてえで悔しくてしかたねんだべ!」
容赦のない言葉。空気など一切読まない。だが、その言葉に悪意や軽蔑は欠片もなかった。七海が見ているのは桜の「立場」でも「プライド」でもなく、ただ眼の前で命の火が消えかかっている「一人の人間」そのものだった。
つい興奮して訛ってしまった事に恥じらいを浮かべ冷静になろうと深呼吸をしてから七海は病院の厨房から抱えて来た大きな保温容器を桜と自分の間にどっかりと置いて小さなお椀へ何かを注ぎ入れ無言で桜へ突き出した。
それは、茶色いスープだった。
「飲んでください」
「無理よ・・今は何も喉を通ら・・・」
七海の眉間に再びシワが寄った
「つべこべ言わねで飲んでけれ! ワタシが今、あんたのためだけに作ったんだ!」
叫ぶような七海の勢いに押され、桜は震える手でお碗を受け取った。
スープの表面には、ほんの少しの煎りごまと、すりおろした生姜、そして焼き網で焦げ目をつけた梅干しの欠片が浮いていた。
桜は恐る恐る、匙を口に運んだ。
最初の一瞬、やはり味はしなかった。
だが・・・
舌の奥に届いた瞬間、焼き梅の強い酸味と生姜の刺激が、麻痺していた味蕾を強烈に叩いた。続いて、丁寧に引き出された昆布の芳醇な旨味とごまの香ばしさが、冷え切っていた口腔内に一気に広がっていく。
「っ……!」
嘔吐感は来なかった。代わりに、唾液がじわじわと溢れ出し、胃の奥が「もっと欲しい」と小さく鳴った。
「これ、なに・・・?」
「焼き梅干しと生姜の出汁です。味が分からなくなった舌には、塩分じゃなくて『香りと強い酸味の刺激』でスイッチを入れるんだと・・・前に政さんが」
「それと、隠し味にうちのばあちゃんが作った熟成味噌をほんの少し」
そう伝えると七海は桜からそっと視線をそらし、遠くの海をみつめたながら
「明日1日、絶対に休んで下さい。私との約束です」と囁いた。
桜の澄んだ瞳が涙で満たされ細身のメタルフレームをくもらせた。
味がすることへの感動と喜び。
そして何よりも自分の苦しみに気づいてもらえたことへの安堵。
いろんな気持ちが入り乱れて桜はいつものようにうまく感情をコントロールできなくなっていた。
「美味しい・・・潮見さん・・・すごく、美味しい・・・」
そこには鋭い瞳の冷静な科学者ではなく、泣きじゃくる少女がいた。

しかし・・・
こんな場面でも七海は空気が読めない?というよりは読まないのか?
泣きじゃくる桜の横で七海はぶっきらぼうに・・・

「あっ、コレ全部差し上げます。家に持って帰ってください。保温容器の返却は明後日の午前中までに厨房へお願いします」と、
一方的にそう告げてその場を立ち去って行った。

桜は、さらに感情がぐちゃぐちゃに入り乱れて涙を流し、
泣きながら笑っていた。
「まったく!こんな大きいものどうやって家まで持って帰れっていうの?」
桜の笑い声は春のそよ風にのって「海風公園」から海へ駆け抜けていった。

「食への執着」を失いかけていた自分を、この若い管理栄養士が力ずくで引き戻してくれたという事実。
潮見七海は「空気が読めない」のではない。彼女は目の前の人間が発するSOSの波長に全感覚を集中させ、消えかけている「生への執念」の残り火を見つけ出し、そこに薪をくべる天才なのだと。

桜はその夜、スープを最後の一滴まで飲み干した。