坂の上のRD

2025年、春(1年前)

「栄養特科」が発足し、ちょうど1年が経過しようとしていた頃。
日本で初めての試みでもあり前例がほとんどないため、思いがけない問題がまれに発生することはあったものの、桜(さくら)の適切な対応で「栄養特科」はその役割を順調に果たし始めていた。
しかし、院内でも特に難易度の高い問題を抱えた患者たちを一手に引き受けその「心に寄り添う」のは当然、言葉で言うほど簡単なことではない。
室長を務める桜(さくら)はこの一年間の激務で心身共に疲労困憊していた。
極度のストレスと多忙から重度の味覚障害と拒食症状を発症しており、何を食べても紙を噛んでいるような無味無臭の感覚。食べ物を口に入れるだけで激しい嘔吐感に襲われ、体重は30キロ台まで落ち込んだ。
「食」を通して患者を救うはずの管理栄養士である自分が、食を受け付けなくなっているという恐怖と恥辱。桜は誰にも相談できず、ほぼ点滴だけで栄養を補給していた。
そしてこの新部署へ誰よりも強い情熱を持つ彼女は「今、私が頑張らねば」と、それを周囲には絶対に悟られないよう常に毅然を装い何食わぬ顔で業務にあたっていた。
そして、それに気づく者は誰一人いなかった。

昨年新卒で採用された新人管理栄養士、潮見(しおみ) 七海(ななみ)は先輩に連れられて、あるカンファレンスに出席していた。
「潮見(しおみ)さん、相生(あいおい)室長は超厳しい人だから、いつもみたいにボーっとしたり、関係のない質問とかしちゃだめだよ!ちゃんと空気よんでね!」先輩の高島(たかしま) 幸(さち)は耳元でそう囁き七海(ななみ)を牽制している。
七海(ななみ)は、「栄養科」ではきちんと仕事はこなすものの、大切な打ち合わせ中に突然頭に浮かんだ「とんちんかんな質問」をしてみんなを困惑させたり、先輩が忙しく動き回っている時に病室で患者の足をじっと見つめているなど、「空気が読めない不思議ちゃん」という評価受けている。
「はい、わかりました・・・」と気のない返事をする七海(ななみ)
高島(たかしま)は「やれやれ」と諦めのため息をついて肩を落とした。
開始5分前、看護師、言語聴覚士、作業療法士など、十数名の出席者は、既にほぼ全員着席していたのだが、前の業務が押していた桜(さくら)は開始1分前にようやく姿を現した。
「お待たせして申し訳ありません」入り口で一礼する桜(さくら)
背筋は隙なく伸ばされ、無駄な装飾のないシンプルな白衣にグレーのタイトなスタンドカラーシャツ、透明で涼やかな瞳には、細身のメタルフレーム
そして、艶のある黒髪は肩の上で潔く揃えられたボブヘア・・・
過酷な臨床現場で培われた彼女の「鋭敏な科学者の知性」が一目でここに居る全員に伝わった。
七海(ななみ)は初めてのカンファレンスに、ついさっきまで多少は緊張している様子だったが、桜(さくら)が入室するなりその瞳は急変した。何処か遠くを見つめるようではあるのだが、鋭さをもつ独特な視線、それは桜(さくら)の姿を入室してから一瞬も逃さず追っていた。決して桜《さくら》に見惚れているわけではない何かを見定めるような鋭い眼光が瞳の奥に映っていた。
桜(さくら)は着席し、七海(ななみ)の独特な視線に気付き一瞬目を合わせたが、気にする素振りを見せずにそのままカンファレンスを始めた。
横にいた高島(たかしま)がようやく七海(ななみ)の様子に気付き彼女の肩を前後に揺すり慌てて小声で七海(ななみ)を制している。
「どうしてあなたはいつも・・・」と言いかけたその時、七海(ななみ)は静かに席を立ち一礼してカンファレンスルームを出ていった。
ちらりとそちらへ視線を向けた桜へ高島(たかしま)は小声で「大変申し訳ありません」と頭を深々と下げていた。