忘れた涙も、私だった


10月も中旬を過ぎ、学校全体が文化祭の熱気に包まれていた。

廊下にはカットされた段ボールのくずやマスキングテープの芯が転がり、ツンとしたペンキの匂いと、体育館や音楽室から風に乗って届く吹奏楽部の管楽器の音が重なり合っている。
放課後の校舎は、どこか浮き足立った生徒たちの熱気でむせ返るようだった。

私たち2年5組の出し物は【レトロ喫茶】。
木目調の壁紙を貼り、アンティーク風の看板を絵の具で塗り、クラス全体が文化祭というお祭りの楽しさに酔いしれるように作業を進めていた。
その賑やかな輪の中に、私も「いつもの笑顔」でしっかりと混ざっていた。

「美緒、ちょっといい?」

声をかけてきたのは、クラスのシフト管理を担当している田中さんだった。
手に持ったプラスチックのバインダーを指先で強く握りしめ、彼女の顔はどこか硬く、眉間には小さなシワが寄っている。
その眉間の溝を見た瞬間、私の胸の奥で嫌なアラームが鳴り響いた。

「明日の午前中、受付の人が足りなくなっちゃって。美緒、そこ入ってくれない?」

どくん、と心臓が嫌な音を立てて跳ね上がり、そのまま冷たい氷の中に突き落とされたみたいに、全身の血が引いていくのが分かった。

明日の午前前半。
そこは、莉子たちと「絶対に一緒にステージや他の展示を回ろうね」と何週間も前から約束していた、特別な時間だった。
手帳のその日の枠には、可愛いスタンプを押して、ずっとずっと楽しみにしていた時間。

……嫌だ。

思考の底で、声にならない悲鳴が上がる。

嫌だ、絶対に入りたくない。
だって、みんなと回りたくてずっと準備を頑張ってきたんだよ。

脳内で「本当の私」が必死に叫ぶ。
断れ……っ!
「その時間は大切な約束があるから無理」って、たったの一言、言うだけだ。
私の当然の権利だし、断ったって誰も私を罰したりしないはず。

——言えっ……! 早く、『ごめんね』って言え……!

けれど、言葉を出そうと喉に力を込めた瞬間、目の前に立つ田中さんの瞳が視界に飛び込んできた。
どこか余裕がなく、不機嫌そうに濁ったその瞳。
私を品定めし、早く「イエス」と言えと無言でプレッシャーをかけてくるようなその冷たい眼差しを見た瞬間、恐ろしいほどの恐怖が私の全身の神経を麻痺させた。

ここで断ったら、田中さんは絶対に私を嫌う……。

冷や汗が制服の背中に一筋、伝っていく。
今まで「何でもいいよ」「合わせるよ」とニコニコして何でも引き受けてきた私が、急に自分の都合で断ったりしたら。
彼女はきっと、私のことを裏切り者を見るような目で見るだろう。
『結局美緒って、自分だけ美味しいところを取っていくタイプなんだね』って、心の底で軽蔑するかもしれない。

それだけじゃない。
断ったことでシフトの穴が埋まらなくなって、莉子たちに『美緒が断るから雰囲気が悪くなったじゃん』『全然気が利かないよね』なんて影で言われたら——。

想像しただけで、足元から暗い沼に引きずり込まれるような眩暈がした。
友達の輪から弾き出される恐怖。
誰からも必要とされなくなる孤独。
その巨大な怪物に睨みつけられた私は、もう指一本動かすことすらできなくなっていた。

「あ……」

私の喉から漏れたのは、かすれきった情けない声だった。
頭の中では「嫌だ」と叫ぶ私が自分の首を絞めているのに、私の顔の筋肉は、長年の調教の成果を見せつけるように、恐ろしいほどスムーズに「いつもの物分けの良い笑顔」を作り上げていく。

「うん、全然いいよ! 私、受付入るね」

自分の声じゃないみたいに明るく、親切で、気遣いに満ちた完璧なトーンが、口から勝手に滑り出ていく。

「本当!? 助かるー! 美緒なら絶対引き受けてくれると思ってたんだよね!」

田中さんの眉間のシワが一瞬で伸び、パッと輝いた笑顔を見せた。
「助かった、ありがとう!」と爽やかに去っていく彼女の背中を、私はただ棒立ちのまま見送っていた。

言えなかった。
また、言えなかった。

自分の大切な約束も、心からの楽しみも、全部自分の手でゴミ箱に投げ捨てて、私はまた「都合の良い良い子」を守りきってしまった。
自分の手で口を強く押さえると、指先が凍りついたように冷たかった。