東雲家で夕食を食べてから、三日が経っていた。
弥生は次の打ち合わせまでの時間を使い、相良建工への発注一覧を見ていた。上林キャピタルの執務室には、午後から使う別の案件の資料も届いている。それを机の脇へ寄せ、契約変更の記録を一件ずつ開いた。
当初の見積もりだけなら、相良を選ぶ理由はあった。工事も実際に行われ、品質や対応に大きな問題があるわけではない。利益が削られるのは、そのあとだった。
追加工事の負担。変更後の単価。支払いを早める判断。
それぞれを説明する書類には、違う担当者の名前が載っている。雪哉の名前は、どこにもなかった。
弥生は手元の紙へ目を移した。判断に関わった人間を部署ごとに書き出したものだった。その横に、雪哉との接点を記してある。
食卓で雪哉が言っていた、澄花ちゃん、という呼び方を思い出した。
大学時代から知っている相手なら、仕事の場を離れてそう呼んでもおかしくない。家を継いだ知人の会社が苦しければ、気に掛けもするだろう。
ただ、その会社だけが、取引を重ねるほど有利になっていた。
弥生は携帯電話を取り、上林側でも利用したことのある調査会社へ連絡した。担当者につながるのを待つ間、雪哉とのメッセージ画面を一度開き、閉じた。
本人に聞けば、澄花との付き合いについて何か話すかもしれない。けれど、なぜ今そんなことを聞くのかも考えるはずだった。二十年知っている相手へ、雑談のふりをして近づくのは避けたかった。
電話の向こうで挨拶を受け、弥生は用件を伝えた。
「お二人の、仕事以外での関係を確認していただきたいんです」
東雲雪哉と、相良澄花。
調査の対象を告げてから、分かっている範囲の情報を説明した。
「大学時代からの知人だという話は、本人から聞いています。現在、私的な付き合いがあるかどうかを見たい。交際の可能性も含めてです」
担当者は必要な確認をいくつかした。弥生は答え、報告は自分へ直接戻すよう頼んだ。
通話を終えたところで、打ち合わせの時刻になった。
弥生は相良の資料を閉じ、机の脇に置いていた方を開いた。次に入ってきた社員へは、いつもと同じように声をかけた。
*
報告が届いたのは、それから数日後だった。
弥生は執務室の扉を閉め、送られてきた資料を開いた。
二人が仕事以外で会っていることは、すぐに分かった。会社を離れた場所で待ち合わせ、食事をしていた。一度きりではない。
添付された写真を順に見ていくと、店を出たあとに撮られた一枚があった。雪哉の腕に澄花が手を掛けている。次の写真では、雪哉が身をかがめ、彼女に口づけていた。
弥生は画面を少し戻した。
顔も、間違えようがなかった。
同じ住居へ入り、翌朝まで過ごしたという記録もある。大学時代から面識があることは確認されていたが、交際が始まった時期については、確認できていないと記されていた。
弥生はそこへ印をつけた。発注が増え始めた時点で二人が付き合っていた、とまでは言えない。
それでも、現在の関係は十分に分かった。
画面の中の雪哉は、食卓で見た時より少し柔らかい顔をしていた。相手の話を聞きながら笑っている。その隣にいるのが、東雲建設との取引で有利な条件を得ている会社の社長だった。
弥生は椅子の背へ身体を預けた。
——女のために?
相良を助けたかったのか。澄花が守ろうとしている会社を、潰させたくなかったのか。
そう考えると、雪哉の関わり方には筋が通った。
筋が通ったところで、腹は立った。
——会社の金使うて、何してんねん。
机の上には、東雲建設へ残るはずだった利益を追った資料がある。数字の横に並ぶ日付を見て、弥生は唇を結んだ。
助けたいなら、自分の金でやればいい。
そこまで思った時、救済融資の額と、東雲社長へ条件を伝えた日のことが頭をかすめた。
弥生の手が止まる。
——……いや。僕とはちゃうやろ。
自分は上林キャピタルの代表として判断し、資金を出すための手続きを踏んだ。回収まで含め、自分が責任を負う。もし雪哉が恋人を助けるために東雲の利益を削っていたのなら、同じ話にはならない。
弥生は椅子を机へ戻した。
いま見えている関係が、そのまま取引の理由だったとは限らない。まず、日付と判断をつなぐ必要があった。
相良建工の経営状態を調べた資料を開き、発注一覧と並べた。会社を継いだ澄花は、受注と資金を必要としている。東雲側には相良を選ぶ理由があり、各部署の担当者には条件を調整する余地がある。
雪哉がその人たちへ、少しずつ相良を勧めていたとしたら。
急な変更に対応してくれたから、費用はこちらで持つ。次も頼みたいから、支払いは早める。実績があるから、また発注する。
誰か一人が大きな額を不自然に動かさなくても、それを別々の案件で繰り返せば、相良に残る利益は増える。
弥生は、担当者の名前を並べた紙へ指を置いた。
皆、雪哉と近い。
そこから、承認記録へ目を戻す。
雪哉の名前はない。
報告書を脇へ置き、以前確認したメールや社内でのやり取りを見直した。相良を優遇しろという指示は見つかっていない。各担当者が説明した理由も、それだけを聞けば通るものだった。
二人が付き合っていることは分かった。相良が有利になっていることも分かっている。
その間を、つなげるものがなかった。
雪哉に写真を見せたところで、交際を認めるだけかもしれない。相良はちゃんと仕事をしているだろう、と言われれば、それも事実だった。では誰に何を言って、この条件になったのかと聞いても、弥生には突きつけられる記録がない。
ここで相手に知られれば、次に同じ資料を見る頃には、誰もがもっと整った説明を用意しているかもしれなかった。
弥生は手元の紙に、雪哉の名前を書いた。
そこから担当者の名前へ線を引こうとして、ペン先を止めた。
*
その夜、弥生は自宅のダイニングで、同じ資料を見ていた。
食事は済んでいた。湯を沸かす音がキッチンから聞こえ、やがて瑛美が二つのカップを持ってきた。
「ここ、置いていい?」
「うん。ありがとう」
弥生が紙をずらすと、瑛美は空いた場所へカップを置いた。自分の分は少し離れたところに置き、椅子へ座る。
弥生は資料へ目を戻した。相良への支払条件が変更された一件だった。理由の欄を読み終え、次のページへ進まずにいると、瑛美がこちらを見た。
「……何か分かった?」
弥生は顔を上げた。
「まだ、分かったとは言われへん」
「相良建工のこと?」
瑛美の目は、机の上の書類へ向いていた。前にもこの名前の載った資料を見ている。弥生がここしばらく、東雲の仕事を持ち帰っていることも知っていた。
「うん」
「今日、ずっと同じところ見てるから」
弥生は開いたままのページを見下ろした。
カップへ手を伸ばすと、瑛美もそれ以上は聞かず、自分の茶を飲んだ。
東雲社長へ話せるほどの材料は、まだない。けれど、このまま一人で調べていれば、いずれどこかで雪哉の名前を出して聞かなければならなくなる。その前に、瑛美へ何も知らせないままでいいのか。
弥生はカップを置いた。
「……瑛美」
「うん」
「雪哉さんと相良さん、付き合うてるみたいや」
瑛美は口元からカップを離した。
「……誰と誰が?」
「雪哉さんと、相良澄花さん」
「お兄ちゃんが?」
「うん」
瑛美はしばらく弥生の顔を見ていた。
「……私、知らないんだけど」
「僕に言われても知らんがな」
「いつから?」
「そこまでは分からへん」
「なんで弥生の方が知ってるの」
「調べてもろうたから」
瑛美の手が、カップを置く途中で止まった。
弥生は先に、紙の資料を彼女へ向けた。
「付き合うてること自体を、どうこう言いたいんやないよ。問題は、こっちや」
発注先の欄にある相良建工の名前を指すと、瑛美はカップを置き、書類へ顔を近づけた。
「最初の見積もりは、そんなおかしない。せやけど、途中の変更を追うと、相良にええ条件が重なってる。工事費も、支払いも」
弥生は比較のために出していた別の紙を隣へ置いた。
「それ、同じ人が決めてるの?」
「違う。部署もばらばらや。ただ、判断した人は皆、雪哉さんと近い」
「お兄ちゃんの承認は?」
「ない。記録には一度も名前が出てきてへん」
瑛美は書類をめくった。理由の欄を読み、承認者の名前で目を止める。
弥生は相良の資金繰りが苦しいことを話した。雪哉が澄花を助けるつもりで周囲に相良を勧め、担当者の判断を有利な方へ動かしていた可能性がある、と。
瑛美は口を挟まずに聞いていた。
「せやけど、付き合うてるだけでは、そこまでは言えへん。相良が得してるんと、雪哉さんがそうさせたんは、別やから」
「指示した記録はないんだ」
「今のところは。担当者に聞いた理由も、一件ずつやったら筋は通る」
瑛美の指が、めくりかけた紙の端で止まった。
「……待って」
弥生は次に出そうとしていた資料を置いた。
瑛美は手元の紙を読み直した。眉を寄せたまま、少しの間、何も言わなかった。
「私、東雲にいた時、お兄ちゃんの案件で気になったことがある」
「どの案件?」
「一つじゃない。相良に頼んでた工事で、何回か」
彼女は紙を置き、テーブルの上で空いた手を動かした。別々のものを、順に並べるような動きだった。
「その時は、こんなふうには考えてなかったけど」
弥生は机の脇にあったメモ用紙を取った。
「何が気になったん」
「最初に覚えてるのは、追加工事の負担。途中で変更が入って、相良の費用をこっちがまとめて持ってたの」
瑛美は手元にある資料を確かめたが、それではないらしく、隣へ置いた。
「変更の理由は?」
「工程の都合だったと思う。急にやってもらったから、費用が増えるのは分かる。でも、増えた分を全部東雲で持つのかは、別でしょ」
弥生はうなずいた。
「それで担当の人に聞いた。『これ、全部こっちで持つんですか』って。向こうの負担にする分はないのか、内訳を確認したくて」
「何て言われた?」
「急な変更で相良が人を手配し直したとか、ほかの工事にも調整が出たとか。説明はあったよ。それで最後に、雪哉さんにも話して、これでいいということになってます、って」
弥生のペンが止まった。
「雪哉さんにも?」
「うん。だから、お兄ちゃんにも聞いたの」
瑛美は顔を上げた。
「そしたら、『急な変更で相良に無理させたんだから、こっちで持つのが筋だろ』って言われた。確かに、相良は間に合わせてくれてたし。そこで揉めて次に断られても困る、って」
弥生は聞いた言葉を書き留めた。その横に、瑛美が本人へ確認したことも記す。
瑛美は別の紙へ目を移していた。
「別の案件で、支払いを早めた時もそう。担当の人から、お兄ちゃんも勧めてるって聞いて、本人に確認した。相良が次の現場の人を確保できなかったら、こっちが困るだろ、って」
瑛美は発注一覧を取った。
「発注が続く理由を聞いた時も、実績や対応がいいって説明の中で、お兄ちゃんの名前が出た。本人に確認しても、実際ちゃんと仕事する会社だろ、って」
弥生は支払いと発注についても書き留め、その横へ同じ名前を書き足した。三つの欄を見てから、瑛美へ顔を向ける。
「それ、全部、雪哉さん本人にも聞いたんやな」
「うん。気になったから」
返事に迷いはなかった。
「担当の人がお兄ちゃんの名前を出したら、お兄ちゃんにも確認するよ。担当の人の説明と違ったら困るし」
瑛美にとっては、それだけのことだった。
別の時期に、別の担当者から、それぞれの事情を聞いている。兄に確認した説明にも、無理はなかった。それを一つにつなげる理由は、当時の彼女にはなかった。
「相良さんと付き合ってるなんて、知らなかった」
瑛美は小さく言った。
弥生はペンを置いた。
「今日の話を知らんでも、確認するところまではしてたんやろ」
「でも、そこで終わってる」
「聞いたことは、なくならへんよ」
弥生はメモを彼女の方へ少し回した。三つの欄に、同じ名前がある。
「僕が見てる承認記録には、雪哉さんの名前は出てへんかった」
瑛美は書かれた名前を見て、唇を結んだ。
この承認に関わったかどうかと、判断に影響したかどうかは、別だから。
外銀時代に聞いた言葉を、弥生は思い出した。
雪哉が承認していなくても、担当者は彼の意向を知っていた。瑛美が本人へ確かめても、その判断を肯定している。
少なくとも、何も知らずにいた相手ではなかった。
ただ、ここから先は記憶だけでは進められない。何を、いつ、誰へ話したのか。その結果、どの条件が変わったのか。相良に有利になったことと、東雲に必要だったことを、当時の資料で確かめなければならなかった。
弥生はメモの一番上を指した。
「まず、この案件を特定したい。変更前と変更後の内訳、それから、その条件にした時のやり取りを見る」
「うん。工事の名前を見れば、たぶん分かる」
瑛美は発注一覧をめくり始めた。
弥生はその手元を見た。相良の名前を見つけるたび、彼女の指が止まる。兄から聞いた説明を、今度は疑いながら思い出している。
「分かった。案件分かるだけでも助かる」
「うん」
「あとは僕が見るわ」
瑛美が顔を上げた。
「え?」
「瑛美はもうええよ。覚えてること、今聞けたし」
「なんで?」
弥生はすぐには答えられなかった。
「……雪哉さんのことやから」
彼女が手にしている資料を、自分の側へ戻そうとした。
この先、兄が何をしたのかが分かるかもしれない。知らないままにできるとは、もう思っていなかった。それでも、瑛美自身に一件ずつ見つけさせる必要はないはずだった。
「僕が確認してから——」
伸ばした手を、瑛美が掴んだ。
紙の端へ触れる前に、弥生の手は止まった。手の甲に彼女の指が掛かり、親指の付け根をぎゅっと握られている。
「今さら外さないで」
弥生は瑛美を見た。
「私が見てた案件なんだから。お兄ちゃんに確認したのも私だし、当時のことなら弥生より分かる」
彼女はまっすぐ話していた。
「書類を見ても分からないこと、たぶん、まだあるよ。私も全部覚えてるわけじゃないけど、何を聞けばいいかは一緒に考えられる。だから——」
握られたところが、温かかった。
視線が、掴まれた手へ落ちた。
弥生は指を動かさなかった。
瑛美の手はまだそこにある。こちらが何もしていなくても、離れずにいた。
「……弥生?」
呼ばれて、顔を上げた。
「聞いてる」
「ほんとに?」
「……聞いてるって」
「じゃあ、なんで返事しないの」
弥生は一度口を開き、閉じた。
瑛美の指に、少しだけ力が加わった。
「私も見る。お兄ちゃんのことだから、弥生だけに任せて、結果だけ聞くのは嫌」
今度は最後まで聞いた。
弥生は彼女の目を見たまま、うなずきかけた。瑛美はそれを待たず、一覧の方へ顔を戻した。
「この中にあると思うんだけど」
紙を取るために、手が離れた。
弥生の手だけが、テーブルの上に残った。
——離れた。
瑛美はもう、案件名を読んでいる。
弥生は空いた手を戻し、メモ用紙の端を揃えた。
彼女は兄の関わった数字を、もう一度自分で見ると言っている。そこへ進む理由も、何を確かめられるかも、自分の言葉で話した。
それを聞いてなお、見なくていいと決める言葉は、出てこなかった。
「……分かった」
瑛美が顔を向ける。
「一緒に見よ」
「うん」
瑛美はうなずき、一覧へ目を戻した。
「追加工事の件は、去年。年度末より前だったと思う」
弥生はパソコンで該当する時期の案件を開いた。瑛美が椅子を隣へ移し、画面を覗き込む。
肩が近かった。弥生はパソコンを二人の間へずらした。
弥生は次の打ち合わせまでの時間を使い、相良建工への発注一覧を見ていた。上林キャピタルの執務室には、午後から使う別の案件の資料も届いている。それを机の脇へ寄せ、契約変更の記録を一件ずつ開いた。
当初の見積もりだけなら、相良を選ぶ理由はあった。工事も実際に行われ、品質や対応に大きな問題があるわけではない。利益が削られるのは、そのあとだった。
追加工事の負担。変更後の単価。支払いを早める判断。
それぞれを説明する書類には、違う担当者の名前が載っている。雪哉の名前は、どこにもなかった。
弥生は手元の紙へ目を移した。判断に関わった人間を部署ごとに書き出したものだった。その横に、雪哉との接点を記してある。
食卓で雪哉が言っていた、澄花ちゃん、という呼び方を思い出した。
大学時代から知っている相手なら、仕事の場を離れてそう呼んでもおかしくない。家を継いだ知人の会社が苦しければ、気に掛けもするだろう。
ただ、その会社だけが、取引を重ねるほど有利になっていた。
弥生は携帯電話を取り、上林側でも利用したことのある調査会社へ連絡した。担当者につながるのを待つ間、雪哉とのメッセージ画面を一度開き、閉じた。
本人に聞けば、澄花との付き合いについて何か話すかもしれない。けれど、なぜ今そんなことを聞くのかも考えるはずだった。二十年知っている相手へ、雑談のふりをして近づくのは避けたかった。
電話の向こうで挨拶を受け、弥生は用件を伝えた。
「お二人の、仕事以外での関係を確認していただきたいんです」
東雲雪哉と、相良澄花。
調査の対象を告げてから、分かっている範囲の情報を説明した。
「大学時代からの知人だという話は、本人から聞いています。現在、私的な付き合いがあるかどうかを見たい。交際の可能性も含めてです」
担当者は必要な確認をいくつかした。弥生は答え、報告は自分へ直接戻すよう頼んだ。
通話を終えたところで、打ち合わせの時刻になった。
弥生は相良の資料を閉じ、机の脇に置いていた方を開いた。次に入ってきた社員へは、いつもと同じように声をかけた。
*
報告が届いたのは、それから数日後だった。
弥生は執務室の扉を閉め、送られてきた資料を開いた。
二人が仕事以外で会っていることは、すぐに分かった。会社を離れた場所で待ち合わせ、食事をしていた。一度きりではない。
添付された写真を順に見ていくと、店を出たあとに撮られた一枚があった。雪哉の腕に澄花が手を掛けている。次の写真では、雪哉が身をかがめ、彼女に口づけていた。
弥生は画面を少し戻した。
顔も、間違えようがなかった。
同じ住居へ入り、翌朝まで過ごしたという記録もある。大学時代から面識があることは確認されていたが、交際が始まった時期については、確認できていないと記されていた。
弥生はそこへ印をつけた。発注が増え始めた時点で二人が付き合っていた、とまでは言えない。
それでも、現在の関係は十分に分かった。
画面の中の雪哉は、食卓で見た時より少し柔らかい顔をしていた。相手の話を聞きながら笑っている。その隣にいるのが、東雲建設との取引で有利な条件を得ている会社の社長だった。
弥生は椅子の背へ身体を預けた。
——女のために?
相良を助けたかったのか。澄花が守ろうとしている会社を、潰させたくなかったのか。
そう考えると、雪哉の関わり方には筋が通った。
筋が通ったところで、腹は立った。
——会社の金使うて、何してんねん。
机の上には、東雲建設へ残るはずだった利益を追った資料がある。数字の横に並ぶ日付を見て、弥生は唇を結んだ。
助けたいなら、自分の金でやればいい。
そこまで思った時、救済融資の額と、東雲社長へ条件を伝えた日のことが頭をかすめた。
弥生の手が止まる。
——……いや。僕とはちゃうやろ。
自分は上林キャピタルの代表として判断し、資金を出すための手続きを踏んだ。回収まで含め、自分が責任を負う。もし雪哉が恋人を助けるために東雲の利益を削っていたのなら、同じ話にはならない。
弥生は椅子を机へ戻した。
いま見えている関係が、そのまま取引の理由だったとは限らない。まず、日付と判断をつなぐ必要があった。
相良建工の経営状態を調べた資料を開き、発注一覧と並べた。会社を継いだ澄花は、受注と資金を必要としている。東雲側には相良を選ぶ理由があり、各部署の担当者には条件を調整する余地がある。
雪哉がその人たちへ、少しずつ相良を勧めていたとしたら。
急な変更に対応してくれたから、費用はこちらで持つ。次も頼みたいから、支払いは早める。実績があるから、また発注する。
誰か一人が大きな額を不自然に動かさなくても、それを別々の案件で繰り返せば、相良に残る利益は増える。
弥生は、担当者の名前を並べた紙へ指を置いた。
皆、雪哉と近い。
そこから、承認記録へ目を戻す。
雪哉の名前はない。
報告書を脇へ置き、以前確認したメールや社内でのやり取りを見直した。相良を優遇しろという指示は見つかっていない。各担当者が説明した理由も、それだけを聞けば通るものだった。
二人が付き合っていることは分かった。相良が有利になっていることも分かっている。
その間を、つなげるものがなかった。
雪哉に写真を見せたところで、交際を認めるだけかもしれない。相良はちゃんと仕事をしているだろう、と言われれば、それも事実だった。では誰に何を言って、この条件になったのかと聞いても、弥生には突きつけられる記録がない。
ここで相手に知られれば、次に同じ資料を見る頃には、誰もがもっと整った説明を用意しているかもしれなかった。
弥生は手元の紙に、雪哉の名前を書いた。
そこから担当者の名前へ線を引こうとして、ペン先を止めた。
*
その夜、弥生は自宅のダイニングで、同じ資料を見ていた。
食事は済んでいた。湯を沸かす音がキッチンから聞こえ、やがて瑛美が二つのカップを持ってきた。
「ここ、置いていい?」
「うん。ありがとう」
弥生が紙をずらすと、瑛美は空いた場所へカップを置いた。自分の分は少し離れたところに置き、椅子へ座る。
弥生は資料へ目を戻した。相良への支払条件が変更された一件だった。理由の欄を読み終え、次のページへ進まずにいると、瑛美がこちらを見た。
「……何か分かった?」
弥生は顔を上げた。
「まだ、分かったとは言われへん」
「相良建工のこと?」
瑛美の目は、机の上の書類へ向いていた。前にもこの名前の載った資料を見ている。弥生がここしばらく、東雲の仕事を持ち帰っていることも知っていた。
「うん」
「今日、ずっと同じところ見てるから」
弥生は開いたままのページを見下ろした。
カップへ手を伸ばすと、瑛美もそれ以上は聞かず、自分の茶を飲んだ。
東雲社長へ話せるほどの材料は、まだない。けれど、このまま一人で調べていれば、いずれどこかで雪哉の名前を出して聞かなければならなくなる。その前に、瑛美へ何も知らせないままでいいのか。
弥生はカップを置いた。
「……瑛美」
「うん」
「雪哉さんと相良さん、付き合うてるみたいや」
瑛美は口元からカップを離した。
「……誰と誰が?」
「雪哉さんと、相良澄花さん」
「お兄ちゃんが?」
「うん」
瑛美はしばらく弥生の顔を見ていた。
「……私、知らないんだけど」
「僕に言われても知らんがな」
「いつから?」
「そこまでは分からへん」
「なんで弥生の方が知ってるの」
「調べてもろうたから」
瑛美の手が、カップを置く途中で止まった。
弥生は先に、紙の資料を彼女へ向けた。
「付き合うてること自体を、どうこう言いたいんやないよ。問題は、こっちや」
発注先の欄にある相良建工の名前を指すと、瑛美はカップを置き、書類へ顔を近づけた。
「最初の見積もりは、そんなおかしない。せやけど、途中の変更を追うと、相良にええ条件が重なってる。工事費も、支払いも」
弥生は比較のために出していた別の紙を隣へ置いた。
「それ、同じ人が決めてるの?」
「違う。部署もばらばらや。ただ、判断した人は皆、雪哉さんと近い」
「お兄ちゃんの承認は?」
「ない。記録には一度も名前が出てきてへん」
瑛美は書類をめくった。理由の欄を読み、承認者の名前で目を止める。
弥生は相良の資金繰りが苦しいことを話した。雪哉が澄花を助けるつもりで周囲に相良を勧め、担当者の判断を有利な方へ動かしていた可能性がある、と。
瑛美は口を挟まずに聞いていた。
「せやけど、付き合うてるだけでは、そこまでは言えへん。相良が得してるんと、雪哉さんがそうさせたんは、別やから」
「指示した記録はないんだ」
「今のところは。担当者に聞いた理由も、一件ずつやったら筋は通る」
瑛美の指が、めくりかけた紙の端で止まった。
「……待って」
弥生は次に出そうとしていた資料を置いた。
瑛美は手元の紙を読み直した。眉を寄せたまま、少しの間、何も言わなかった。
「私、東雲にいた時、お兄ちゃんの案件で気になったことがある」
「どの案件?」
「一つじゃない。相良に頼んでた工事で、何回か」
彼女は紙を置き、テーブルの上で空いた手を動かした。別々のものを、順に並べるような動きだった。
「その時は、こんなふうには考えてなかったけど」
弥生は机の脇にあったメモ用紙を取った。
「何が気になったん」
「最初に覚えてるのは、追加工事の負担。途中で変更が入って、相良の費用をこっちがまとめて持ってたの」
瑛美は手元にある資料を確かめたが、それではないらしく、隣へ置いた。
「変更の理由は?」
「工程の都合だったと思う。急にやってもらったから、費用が増えるのは分かる。でも、増えた分を全部東雲で持つのかは、別でしょ」
弥生はうなずいた。
「それで担当の人に聞いた。『これ、全部こっちで持つんですか』って。向こうの負担にする分はないのか、内訳を確認したくて」
「何て言われた?」
「急な変更で相良が人を手配し直したとか、ほかの工事にも調整が出たとか。説明はあったよ。それで最後に、雪哉さんにも話して、これでいいということになってます、って」
弥生のペンが止まった。
「雪哉さんにも?」
「うん。だから、お兄ちゃんにも聞いたの」
瑛美は顔を上げた。
「そしたら、『急な変更で相良に無理させたんだから、こっちで持つのが筋だろ』って言われた。確かに、相良は間に合わせてくれてたし。そこで揉めて次に断られても困る、って」
弥生は聞いた言葉を書き留めた。その横に、瑛美が本人へ確認したことも記す。
瑛美は別の紙へ目を移していた。
「別の案件で、支払いを早めた時もそう。担当の人から、お兄ちゃんも勧めてるって聞いて、本人に確認した。相良が次の現場の人を確保できなかったら、こっちが困るだろ、って」
瑛美は発注一覧を取った。
「発注が続く理由を聞いた時も、実績や対応がいいって説明の中で、お兄ちゃんの名前が出た。本人に確認しても、実際ちゃんと仕事する会社だろ、って」
弥生は支払いと発注についても書き留め、その横へ同じ名前を書き足した。三つの欄を見てから、瑛美へ顔を向ける。
「それ、全部、雪哉さん本人にも聞いたんやな」
「うん。気になったから」
返事に迷いはなかった。
「担当の人がお兄ちゃんの名前を出したら、お兄ちゃんにも確認するよ。担当の人の説明と違ったら困るし」
瑛美にとっては、それだけのことだった。
別の時期に、別の担当者から、それぞれの事情を聞いている。兄に確認した説明にも、無理はなかった。それを一つにつなげる理由は、当時の彼女にはなかった。
「相良さんと付き合ってるなんて、知らなかった」
瑛美は小さく言った。
弥生はペンを置いた。
「今日の話を知らんでも、確認するところまではしてたんやろ」
「でも、そこで終わってる」
「聞いたことは、なくならへんよ」
弥生はメモを彼女の方へ少し回した。三つの欄に、同じ名前がある。
「僕が見てる承認記録には、雪哉さんの名前は出てへんかった」
瑛美は書かれた名前を見て、唇を結んだ。
この承認に関わったかどうかと、判断に影響したかどうかは、別だから。
外銀時代に聞いた言葉を、弥生は思い出した。
雪哉が承認していなくても、担当者は彼の意向を知っていた。瑛美が本人へ確かめても、その判断を肯定している。
少なくとも、何も知らずにいた相手ではなかった。
ただ、ここから先は記憶だけでは進められない。何を、いつ、誰へ話したのか。その結果、どの条件が変わったのか。相良に有利になったことと、東雲に必要だったことを、当時の資料で確かめなければならなかった。
弥生はメモの一番上を指した。
「まず、この案件を特定したい。変更前と変更後の内訳、それから、その条件にした時のやり取りを見る」
「うん。工事の名前を見れば、たぶん分かる」
瑛美は発注一覧をめくり始めた。
弥生はその手元を見た。相良の名前を見つけるたび、彼女の指が止まる。兄から聞いた説明を、今度は疑いながら思い出している。
「分かった。案件分かるだけでも助かる」
「うん」
「あとは僕が見るわ」
瑛美が顔を上げた。
「え?」
「瑛美はもうええよ。覚えてること、今聞けたし」
「なんで?」
弥生はすぐには答えられなかった。
「……雪哉さんのことやから」
彼女が手にしている資料を、自分の側へ戻そうとした。
この先、兄が何をしたのかが分かるかもしれない。知らないままにできるとは、もう思っていなかった。それでも、瑛美自身に一件ずつ見つけさせる必要はないはずだった。
「僕が確認してから——」
伸ばした手を、瑛美が掴んだ。
紙の端へ触れる前に、弥生の手は止まった。手の甲に彼女の指が掛かり、親指の付け根をぎゅっと握られている。
「今さら外さないで」
弥生は瑛美を見た。
「私が見てた案件なんだから。お兄ちゃんに確認したのも私だし、当時のことなら弥生より分かる」
彼女はまっすぐ話していた。
「書類を見ても分からないこと、たぶん、まだあるよ。私も全部覚えてるわけじゃないけど、何を聞けばいいかは一緒に考えられる。だから——」
握られたところが、温かかった。
視線が、掴まれた手へ落ちた。
弥生は指を動かさなかった。
瑛美の手はまだそこにある。こちらが何もしていなくても、離れずにいた。
「……弥生?」
呼ばれて、顔を上げた。
「聞いてる」
「ほんとに?」
「……聞いてるって」
「じゃあ、なんで返事しないの」
弥生は一度口を開き、閉じた。
瑛美の指に、少しだけ力が加わった。
「私も見る。お兄ちゃんのことだから、弥生だけに任せて、結果だけ聞くのは嫌」
今度は最後まで聞いた。
弥生は彼女の目を見たまま、うなずきかけた。瑛美はそれを待たず、一覧の方へ顔を戻した。
「この中にあると思うんだけど」
紙を取るために、手が離れた。
弥生の手だけが、テーブルの上に残った。
——離れた。
瑛美はもう、案件名を読んでいる。
弥生は空いた手を戻し、メモ用紙の端を揃えた。
彼女は兄の関わった数字を、もう一度自分で見ると言っている。そこへ進む理由も、何を確かめられるかも、自分の言葉で話した。
それを聞いてなお、見なくていいと決める言葉は、出てこなかった。
「……分かった」
瑛美が顔を向ける。
「一緒に見よ」
「うん」
瑛美はうなずき、一覧へ目を戻した。
「追加工事の件は、去年。年度末より前だったと思う」
弥生はパソコンで該当する時期の案件を開いた。瑛美が椅子を隣へ移し、画面を覗き込む。
肩が近かった。弥生はパソコンを二人の間へずらした。
