上林弥生の事情


週末、弥生と瑛美は夕食に招かれて東雲家を訪れた。

玄関を上がるなり、瑛美は奥へ向かって声をかけた。

「ただいま」

「おかえり。弥生くんも、いらっしゃい」

母の声に、弥生も挨拶を返した。瑛美が脱いだ靴を揃えていると、先に廊下へ出た彼女が振り返る。

「手、洗ってくるね」

そのまま洗面所へ消えた背中を見送り、弥生は持ってきた菓子の箱を母へ渡した。

「これ、よかったら皆さんで」

「あら、ありがとう。でも、毎回そんなに気を遣わなくていいのよ」

「僕も食べたいんで、あとで出してもろたら嬉しいです」

母は笑い、箱を受け取った。

通い慣れた廊下には、何度も見た絵が掛かっていた。洗面所の場所を聞く必要も、食事までどこで待つか迷うこともない。七歳で東京へ来てから、ここで夕飯を食べた回数など数えたこともなかった。

ダイニングへ入ると、東雲の社長が椅子から立ち上がった。

「よく来たね、弥生くん。忙しいところ、ありがとう」

「こちらこそ、呼んでいただいて。お義父さんも、お忙しいでしょう」

「今日はもう仕事は終わりだ。まあ、座ってくれ」

勧められた席は、前にも座ったことのある場所だった。弥生が腰を下ろすと、社長は冷えた茶の入ったグラスを自分の手で寄せてくれた。

「お茶でよかったかな」

「ありがとうございます」

たまには、こういうこともあったかもしれない。

弥生は礼を言って、グラスを取った。

*

「弥生くん、これ好きだったでしょう」

食卓へ運ばれてきたのは、揚げ出し豆腐だった。薄く揚がった衣にだしが染みていて、上に大根おろしが載っている。

「覚えててくれはったんですか」

「よく食べてたもの。瑛美、そっちのお皿も渡して」

「はい」

母に小皿を渡した瑛美は、自分の席へ戻る前に煮物を覗き込んだ。

「これ、ちょっともらっていい?」

「座ってから食べなさい」

「一個だけ」

「その一個を待てって言われてるんだろ」

最後に席へついた雪哉が、妹の椅子を引いた。瑛美は兄を一度睨み、それでも素直に座る。

「お兄ちゃんも、さっき食べてたじゃん」

「俺は味見」

「私も味見」

「二人とも、もう始めるわよ」

五人で挨拶をして、食事が始まった。

弥生は揚げ出し豆腐を一口食べた。だしの味も、生姜の量も、覚えているものとほとんど変わらない。

「おいしいです。これ、ほんまに好きなんです」

「よかった。まだあるから、おかわりしてね」

「弥生、口のところ」

隣で瑛美が自分の唇の端を指した。弥生が紙ナプキンを当てると、彼女はうなずき、何事もなかったように煮物へ箸を伸ばした。

家では食卓へ出す順番まで気にしていた彼女が、ここでは母に皿を渡し、兄と言い合い、好きなものから食べている。弥生も二つ目の豆腐へ箸を入れた。

社長から声がかかったのは、その時だった。

「弥生くん。この前の、地方の改修事業の件だけどね」

弥生は箸を置いた。以前から採算が悪く、再建の検討項目にも入っていた事業だった。

「今ある工事を終えるとして、その先をどうするか。君は、縮小した方がいいと思うか」

「新しく引き受ける範囲は、絞った方がええと思います。今の受け方やと、仕事が増えても利益が残りませんし」

「ただ、あそこをやめると困る会社もあるんだよな」

雪哉が口を挟んだ。

「昔から付き合ってる業者が多いし、うちの仕事を見込んで人を確保してくれてるところもある。次がないです、じゃ済まないだろ」

「それはそうですね。受けてる分は最後までやるし、次の仕事を探してもらう時間も要ります」

弥生は社長と雪哉へ、順に目を向けた。

「せやけど、今の東雲に、全部をそのまま続ける余裕はありません。単価を変えられるんか、受け方を変えられるんか。そこを相談しても難しい分は、区切りをつけなあかんと思います」

社長は一度、目を伏せた。

「そうだな。弥生くんの言う通りだ」

弥生は続きの言葉を待った。

だが、社長は箸を取り、皿へ手を伸ばしただけだった。

*

まだ大学生だった頃にも、この食卓で似た話をした。

投資や経営の勉強を始めたばかりで、公開されている会社の数字を比べるのが面白かった。東雲の決算資料も読み、気になったところを夕食の席で尋ねたことがある。

「この事業、ずっと利益が少ないですよね。やめた方がええんやないですか?」

社長はすぐに返事をしなかった。弥生が資料で見た数字を挙げると、途中で箸を置いた。

「数字だけを見るな、弥生くん」

「でも、利益が出えへんかったら、会社そのものが続きませんよね」

「利益を見なくていいとは言っていない。君は今、そこで誰が何をしているのか、一つでも知っていて言っているか」

答えられなかった。

「長く働いている社員も、うちの仕事を請けている会社もいる。やめるなら、その先まで考えなければならない。数字が悪いから切る、それだけで済むと思うな」

「そこまで全部、引き受けるんですか」

「全部引き受けられないから、考えるんだろう」

声が強くなり、弥生は口を閉じた。

社長はそのあとも、すぐには話を終わらせてくれなかった。なぜ利益が少ないのか、改善できる余地はないのか。弥生が数字から答えられることを聞き、その答えでは足りないところを指摘した。

「投資をするつもりなら、その向こうにいる人間も見なさい」

他所の家の子供へ、こんなに言わなくてもいいのに。

帰りに瑛美へこぼすと、彼女は笑った。

「弥生のこと、他所の子だと思ってないんじゃない?」

その時は、少し迷惑だと思った。

働き始めてから、数字を直すにも、契約を変えるにも、誰かと話さなければ先へ進まないことを知った。引き継いだ会社で何かを決める時も、あの食卓で答えられなかった問いが、別の形で戻ってきた。

今なら、もう少しまともに返せる。

弥生は目の前の社長を見た。

*

「すぐに取引を終えるんやなくて、まず条件を見直す話をしたいんです。縮小するにしても、時期と順番は現場と詰めなあきません」

社長はうなずいた。

「もちろんだ。君がそこまで考えて判断するなら、それでいいだろう」

「親父、俺が同じこと言ったら、絶対そんな素直に聞かないだろ」

雪哉が笑いながら言った。

「お前と弥生くんは違う」

「ずいぶんな言い方だな」

「弥生くんには、今も東雲のために動いてもらっている。君の判断は、私も信頼しているよ」

最後の言葉は、弥生に向けられていた。

「……ありがとうございます」

反論されたいわけではなかった。今の提案が昔と同じだとも思っていない。仕事をしてきた年月を認めてもらえることは、嬉しいはずだった。

それでも、昔ならもう一つか二つ、質問が飛んできた気がする。答えに詰まっても待ってはくれず、足りないと思えば、遠慮なくそう言われた。

社長は穏やかな顔で、弥生へ食事を勧めた。

——僕、もうこの人に怒ってもらわれへんのかな。

「はい、仕事の話はそこまで」

母が焼き魚の皿を食卓の中央へ置いた。

「せっかくみんなで食事してるのに。冷めちゃうでしょう」

「私も今、同じこと思ってた」

瑛美が言うと、雪哉が肩をすくめる。

「お前は先に食べてただろ」

「食べちゃいけなかった?」

「何も言ってない」

「言ったじゃん」

弥生は置いていた箸を取り直した。母がこちらを向き、まだ半分ほど残っている豆腐の皿を見た。

「弥生くんも遠慮しないで食べてね」

「はい。遠慮してへんつもりやったんですけど」

「足りなかったら言って」

「瑛美、食べたいんやったら、もう一つもらったら?」

瑛美へ小声で言うと、彼女は魚を取り分ける手を止めた。

「食べたいなんて言ってませんけど」

「さっきから、僕の皿見てるやん」

「生姜、足りるかなって見ただけ」

言いながら、瑛美は薬味の小皿を弥生の方へ押した。

*

仕事の話が終わると、母は雪哉の帰りが遅いことをぼやいた。

「夕飯いらないなら、もう少し早く連絡してくれると助かるんだけど」

「急に予定が入ることもあるんだよ」

「毎回、急に?」

瑛美がすかさず口を挟んだ。

「お母さんに連絡くらいできるでしょ。食べるか食べないかだけなんだから」

「お前まで言うなよ」

「昔からそうじゃん。待ってる人がいるんだから、ちゃんとして」

弥生はグラスへ手を伸ばした。自分も何度か言われたことがあるので、ここでは黙って飲むことにした。

雪哉がそれを見逃さなかった。

「弥生、お前も言われてるだろ」

「僕の方へ振らんといてください」

「ほら、やっぱり」

「やっぱりじゃない。今はお兄ちゃんの話」

瑛美が兄へ向き直ると、雪哉は笑って椅子の背にもたれた。

「お前はいいよな。もう東雲出たんだから」

「何がいいの」

「こっちは毎日、会社でも家でも怒られてるんだぞ」

「連絡しないからでしょ。それと会社は別」

「そっちは何かあっても、王子様に守ってもらえるし」

雪哉が顎で弥生を示した。瑛美の顔が、見るからに嫌そうになった。

「誰が王子様よ」

「僕も初めて聞きましたわ、その役」

弥生が言うと、母が小さく笑った。社長も、箸を持ったまま口元を緩めている。

「いいじゃん、金もあって、優しくて。俺が弥生に色目使ったって、融資してもらえないからな」

瑛美の箸が止まった。

「……それ、どういう意味?」

雪哉はまだ笑っていた。

「だから、俺には王子様がいないって話」

「私がいたから、弥生が東雲にお金出したって言ってんの?」

弥生はグラスを置いた。

「いや、そういう意味じゃない。例えだって」

「何の例え?」

瑛美は箸を箸置きへ戻した。音は静かだったが、その顔を見て、弥生は口を開いた。

「瑛美、別に僕は——」

「何百億ってお金動かすのに、女に色目使われたくらいで判断変えるような馬鹿だって言ってんの?」

雪哉の笑顔が消えた。

「そこまで言ってねえだろ」

「言ってるのと一緒でしょ!」

予想していた方へは、怒らなかった。

瑛美は弥生を見もしないで、兄へ身を乗り出している。

「東雲にお金出してくれたのは、立て直せるって判断したからでしょ。弥生がそんなことも考えずに、自分の会社のお金使うと思ってるわけ?」

——あかん。

弥生は膝の上で、片手を握った。

立て直せるとは判断した。資金を入れるだけの見込みもある。そこは嘘ではない。

だが、瑛美がいなければ、東雲を追い込むことも、救済に結婚を結びつけることもなかった。

「瑛美、僕は気にしてへんよ」

「弥生は黙ってて」

「いや、僕の話やろ」

「そうだよ。だから怒ってるの」

まともに目を合わせられなかった。嬉しいのも確かで、それがいっそう困る。

——それ以上は、ほんまにあかん。

雪哉が片手を上げた。

「悪かったって。例えが悪かった」

「例えでも弥生に失礼でしょ」

「だから悪かったって言ってるだろ。弥生、ごめんな」

「いえ、僕はほんまに気にしてませんから」

できるだけはっきり答えた。ここで終わってくれればよかった。

雪哉は瑛美へ顔を戻した。

「ほら、本人が気にしてないって言ってんだから、いいだろ」

終わらない言い方だった。

「よくない」

「なんでお前が本人より怒ってんだよ」

「お兄ちゃんが、何が悪かったか分かってないから!」

「そんな大げさに取るなよ。ただの冗談だろ」

「弥生の仕事を馬鹿にしといて、冗談で済ませないでよ」

瑛美の声に、母が名前を呼んだ。雪哉は息をつき、片手を振った。

「馬鹿にしてねえって。お前が勝手にそう取ってるだけだろ」

瑛美が立ち上がった。

弥生が椅子を引くより早く、瑛美の手が雪哉のシャツを掴んだ。胸元に皺が寄り、雪哉が椅子の背から身体を起こす。

「おい、伸びるだろ」

「弥生に、ちゃんと謝って」

「さっき謝っただろ!」

弥生は二人の間へ入り、瑛美の手首にそっと手を添えた。

「瑛美、瑛美。やめとき」

「弥生は座ってて」

「僕を立たせてんの、そっちやで。手、離そ」

雪哉が瑛美の指を外そうとすると、彼女はさらに握り込んだ。弥生はその動きを見て、雪哉へ顔を向ける。

「お義兄さん、動かんといてください。僕が離しますから」

「お前、昔からこいつ甘やかしすぎなんだよ」

「弥生を馬鹿にしたのはお兄ちゃんでしょ!」

「瑛美、手ぇ離してから言お。ほら、皿に当たる」

彼女の肘が食卓へ近づく前に、小皿を奥へずらした。今度は母が立ち上がった。

「二人とも、いい加減にしなさい!」

瑛美の指がようやく緩んだ。弥生がその手をシャツから離すと、雪哉は胸元を見下ろし、布を伸ばした。

「瑛美、座りなさい。雪哉も、謝るならちゃんと謝りなさい」

母に言われ、二人は揃って黙った。

社長が深く息をつく。

「食事中だぞ」

「……ごめんなさい」

瑛美が椅子へ戻った。雪哉も謝り、ずれていた皿を直す。

弥生は二人が落ち着いたのを確かめてから、母へ頭を下げた。

「お騒がせしました」

「弥生くんは謝らなくていいの。昔から、毎回止めさせて」

「いや、僕も一緒に怒られてた時、ありますし」

「そうね。男の子二人で喧嘩してた時もあったわね」

雪哉が弥生を見た。

「お前、意外と引かなかったよな」

「そっちもでしょう」

答えると、雪哉は少し笑った。弥生も笑い、椅子へ戻る。誰が誰の服を掴んでいても、最後にはこの母の声で止まった。

隣の瑛美はまだ眉を寄せていたが、弥生がずらした小皿を元の位置へ戻してくれた。

*

食事が再開してしばらくすると、母が雪哉へ尋ねた。

「それで、明日の夕飯はどうするの。今のうちに聞いておくけど」

「明日は遅くなる。食べてくるから、いらない」

「分かりました。最初からそう言えばいいのよ」

雪哉はうなずいてから、父へ顔を向けた。

「明日の現場の打ち合わせ、少し長くなるかもしれない。協力会社の人の手配も確認するから」

「来月の工程か」

「そう。澄花ちゃんのところも、先に人数を押さえておきたいって言ってたし」

弥生は、取ろうとしていた煮物をそのまま皿へ移した。

澄花ちゃん。

取引先の資料で、社長の名前はすでに見ていた。

「澄花ちゃんって、お兄ちゃんの大学時代の同級生だよね」

瑛美が尋ねた。さっきまでの怒りは声に残っておらず、箸も動いている。

「そう。大学一緒」

「今、相良建工の社長さんなんだよね。若いのにすごいよね」

「親父さんのあと継いだんだよ。あいつも大変なんだよな」

雪哉はごく普通に答えた。

母も名前を聞き返さなかった。

「お父様の代から働いている方もいらっしゃるんでしょう。若い人がまとめるのは、大変でしょうね」

「そうなんだよ。人を減らせば楽になるってわけでもないし。仕事が取れても、その分ちゃんと人を出さなきゃいけないから」

「お父さんの会社、自分が継いで潰したくないもんね」

瑛美が言うと、雪哉はうなずいた。

「そこは、本人もずっと言ってる」

弥生は口の中のものを飲み込んだ。母が魚を勧めてくれたので、礼を言って取り分ける。

相良建工の社長と、雪哉は大学の頃から知り合いだった。

発注先の社長だから知っているのだと思っていた。順序が逆かもしれなかった。

だからといって、契約変更の理由が分かったわけではない。同級生の会社へ仕事を頼むことも、その経営を気にかけることも、それだけならおかしくはなかった。

「弥生くんも、若い社員が入ると気を遣う?」

母に聞かれ、弥生は顔を上げた。

「僕より年上の人の方が多いんで、気ぃ遣われる方かもしれません」

「お前も、もう若いって言ってもらえなくなるぞ」

雪哉が言うと、瑛美がすぐに返した。

「お兄ちゃんが先でしょ」

「三つしか違わねえよ」

「三つも違う」

弥生は笑いながら、二人の間へ薬味の皿を戻した。

相良の支払いを早めた人は、相手の資金繰りを考慮したと言っていた。雪哉は今、その会社を継いだ女性の苦労を、ごく自然に話している。

弥生は澄花について尋ねなかった。

ただ、次に相良の資料を開く時、会社の数字と契約だけを見ていては足りないと思った。

*

帰る時、母は残った菓子をいくつか包んでくれた。

「持ってきたもん、持って帰ってしもてええんですか」

「食べたかったんでしょう。瑛美と一緒に食べてね」

「はい。ありがとうございます」

玄関まで見送ってくれた社長へも礼を言い、二人で外へ出た。門の前には、迎えのリムジンが停まっていた。

運転手が後部座席のドアを開ける。瑛美が乗り込むのを待って、弥生もその隣へ腰を下ろした。

「お願いします」

弥生が声をかけると、運転手は一礼してドアを閉めた。

車が走り出し、窓の外の門が遠ざかる。瑛美はシートへ背を預け、息をついた。

「ほんと、お兄ちゃん余計なこと言うんだから」

「まだ怒ってんの」

「だって、失礼でしょ」

弥生は菓子の袋を膝の上へ置いた。

「まあまあ。僕は別に気にしてへんし」

「弥生は気にしなさすぎなの」

「僕が怒るより先に、そっちが怒ってもうたやん」

「弥生が怒らないからだよ」

瑛美はまだ兄への文句を続けていた。弥生が悪いと言われるより、ずっと返事に困る。

「庇ってくれたんは、嬉しかったよ」

「別に、庇ったっていうか。あんなの、違うんだから」

瑛美は当然のことのように言うと、弥生の手元の袋を見た。

「そのお菓子、一個だけ、今日食べてもいいかな」

「ええよ。僕も食べる」

「さっきも食べたけど」

「そっちもやろ」

窓の外を街の灯りが流れていく。

弥生は相良の話をしなかった。家へ帰れば、また資料を開く。

相良に有利な条件を認めた人たちは、雪哉と親しかった。その雪哉は、相良の社長とも大学時代から付き合いがある。

昔からの知人の会社だから、気にかけているだけなのか。それとも、その関係が東雲の取引条件にまで影響しているのか。

まだ分からない。相良建工の数字だけでなく、雪哉と相良澄花の間に何があるのかも、確かめる必要があった。