「じゃあ、先に寝るね」
「うん。おやすみ」
瑛美が廊下へ消えてから、弥生は手元の紙を重ねた。大野、野口、宮原、長谷川。彼女が知っている関係を、もっと聞くことはできた。雪哉とどのくらい親しいのか、普段どんな仕事の話をしているのか。相良建工のことを、雪哉が口にしたことはなかったか。
だが、今それを聞けば、瑛美も理由を考えるだろう。
弥生が気にしているのは相良なのか、それとも兄なのか。
まだ、雪哉が何かをしたと示せるものはない。分かったのは、相良へ有利な判断をした人たちが、雪哉とも親しいということだけだった。
閉じかけたパソコンを、そのままにした。
寝室の扉が閉まる音を聞いてから、弥生は重ねた資料をもう一度広げた。
*
一覧へ書き加える前に、瑛美が話したことを別のメモへ残した。
誰と誰が親しいか。それが、相良を優遇する理由になったか。二つを同じ欄へ入れてはいけない。
大野たちが似た考え方をするから、雪哉とも気が合うのかもしれない。仕事のよい協力会社を評価し、現場が必要とするなら費用を負担し、余裕のない相手には早く払う。それを繰り返した結果、相良への条件が偏った可能性もある。
雪哉が相良を評価していたとしても、不自然な条件までは知らなかったのかもしれない。
弥生は、聞き取りで書いた言葉を読み返した。
長谷川は、早く払っても金額を増やしたわけではないと言っていた。その一件だけを見れば、そのとおりだった。東雲全体の現金がどれだけ早く出ているのかまでは、同じ紙から見えない。
雪哉も、それと同じところにいる可能性はある。
——雪哉さんやなかったらええんやけど。
そう思った途端、弥生はメモを打つ手を止めた。
雪哉を知らない社外の人間がこの一覧を見たなら、相良と承認者たちの関係を調べるだろう。そこへ同じ役員の名前が何度も出てくれば、その役員がどこまで関わったかを確かめる。
二十年知っていることは、それをやめる理由にはならなかった。
子供の頃、雪哉と喧嘩した帰りにも、次に東雲家へ行けばまた一緒に遊んでいた。瑛美を交えて、さっきまで何を争っていたのか忘れるような話をした。大人になってからも、弥生にとっては、昔からそこにいる年上の相手だった。
その男が、会社の金を外へ流しているかもしれない。
紙へ目を落とすと、疑うには足りないものと、調べずにおくには多すぎるものが、同じところに並んでいた。
——違うと思いたいから、違う前提で見るんは一番あかん。
弥生は止めていた手を動かした。
雪哉が関わっていない可能性は残す。その一方で、関わっていた場合に何が起こるかを考えなければならなかった。
最初に浮かんだのは、上林の名前だった。
東雲の創業家の長男が、特定の会社へ不当に利益を移していたとする。経営危機に陥ったその会社へ、上林キャピタルが救済資金を出した。その代表は、東雲社長の娘と結婚している。
自分なら、その関係を調べる。
上林は救済前にどこまで確認していたのか。知っていて金を出したのか。婚姻があったから、問題を見ないことにしたのか。
知らなかったと答えれば、それで終わる話でもない。巨額の資金を入れた判断と、現在の管理を問われる。東雲だけでなく、上林キャピタルの信用にも関わる。
さらに、救済と婚姻の時期が近すぎた。
両者に関係があるのかと聞かれたら、ないとは言えない。
その順序を、弥生自身が作った。
画面の隅に映った自分の名字を見て、父と話した時のことを思い出した。
あの時も、父が最初に見たのは、息子の結婚だけではなかった。
*
実家の部屋で、父は読みかけの書類を伏せた。
「話いうんは?」
弥生は向かいへ腰を下ろした。救済の内容は、すでに父も把握していた。その説明のために来たわけではない。
「瑛美と結婚します」
父の指が、書類の端で止まった。
「……今か」
「はい」
父は弥生の顔を見た。相手の名前を聞き返すことも、なぜ瑛美なのかと尋ねることもなかった。
「瑛美ちゃんにも、話はしてあるんやな」
「承諾してもろてます」
父は一度うなずいた。それから、伏せていた書類を脇へ寄せた。
「今は、やめといた方がええ」
声は穏やかだった。弥生も姿勢を変えず、父を見た。
「東雲のことやったら、再建の見込みはあります」
「見込みがあるから、資金を入れるんやろ。それは聞いてる」
父はそこで言葉を切った。
「瑛美ちゃんがあかん言うてるんと違うで。お前があの子のこと、昔から特別に思てんのも、今さらや」
弥生は返事をしなかった。否定しても意味がないことだった。
「せやけど、何で今や」
父の手が、脇へ寄せた書類に触れた。
「東雲は資金が足りひん。そこへ、お前の会社が金を出す。同じ時に、お前が瑛美ちゃんと結婚する。外から見たら、ひと続きの話になるやろ」
「時期が近いんは、分かってます」
「近いだけやったらええ。これから東雲に何かあった時、資金を出した側が、創業家の身内でもあるんや。お前がどう説明しても、そういう目で見られる」
父は、弥生へ声を荒らげなかった。聞き逃す余地のない言葉を、普段と同じ調子で置いていく。
「東雲が落ち着いてからでも遅ないやろ」
弥生は膝の上で指を揃えた。
父の言うことは正しかった。救済を入れ、資金繰りを立て直し、経営が安定してから結婚する。その方が、婚姻と投資判断を同じものとして見られる余地は減る。
ただ、それでは弥生の欲しい結果にならない。
再建したあとで瑛美へ求婚すれば、彼女には断る自由がある。東雲家にも、別の相手を選ぶ余地が戻る。
その余地を残せなかったから、今がある。
——今やないとあかんのや。
口には出さなかった。
「せやけど、再建を待つつもりはありません」
父はしばらく黙っていた。
「何も今、東雲と家まで繋がんでもええやろ。あちらも、この時期に縁談まで進めるんは大変や」
「そこは、向こうにも確認してます」
「お前が気にせえへんかったら済む話と違うで」
「承知してます」
父は息をつき、椅子へ少し身体を預けた。
瑛美と結婚したいかどうかを聞かれているのではなかった。相手への気持ちを語ったところで、父の懸念には答えられない。
東雲の経営が悪くなった理由も、救済に婚姻を結びつけた本当の狙いも、父へ話すことはできなかった。
「お前一人の話で済むんやったら、好きにしたらええ」
父が言った。
「せやけど、お前は上林キャピタルの代表で、その前に上林本家の人間や。お前が結婚したら、家と家が繋がる。今の東雲とや」
「はい」
「資金のことだけやない。東雲の経営に問題が出たら、上林も知らん顔はできひん。お前が妻の実家を助けるつもりで動いたことが、上林全体の判断に見えることもある」
弥生はうなずいた。
「そこは、分かって言うてんのか」
「分かってます」
父の目が、弥生から離れなかった。
「それでも、今、結婚するんやな」
「はい」
「東雲の問題で、上林まで巻き込まれたら、どうする」
弥生は間を置かなかった。
「その時は僕が責任取ります」
部屋の外で、人の歩く音がした。父はそちらを見ず、弥生の顔を見ていた。
弥生も、続きを言わなかった。瑛美が好きだから認めてほしい、どうしても結婚したいから許してほしい。そう頼むための話ではなかった。
結婚する。その判断で生じるものを、自分が引き受ける。
それを伝えに来ていた。
父は、脇へ寄せた書類を引き戻した。
「賛成したわけやないで」
「はい」
「今、家を繋ぐことには、懸念がある。それは変わらへん」
「承知してます」
父は書類を開かず、その上へ手を置いた。
「今言うたこと、忘れんようにな」
弥生は父へ頭を下げた。
「忘れません」
*
指を伸ばした先に、瑛美が置いたグラスがあった。
弥生は残っていた水を飲み、テーブルへ戻した。父の声を思い出しても、その時の自分の返事は変わらなかった。
——最悪やな。
結婚して、まだ間もない。父が懸念したことが、こんなに早く現実になるかもしれなかった。
知られれば、言わんこっちゃないと思われるだろう。それは仕方がない。反対された時も、父の指摘が間違っているとは思っていなかった。
ただ、叱られて済む話ではなかった。
弥生が会社の代表として会う相手の中には、弥生の実績を知る前から、上林の人間ならと時間を空けてくれた人がいる。大きな資金を動かす時も、信用は自分一人で積み上げたものではなかった。
二十五歳で代表になった時、外銀で働いた三年間が役に立った。それは確かだった。だが、その三年間の実務経験だけで、今の席と資本を手に入れたわけではない。
外へ仕事を覚えに行けたことも、戻った時に任される会社があったことも、上林に生まれた自分へ用意されていたものだった。
それを使って、瑛美と結婚した。
手元の資料に目を戻す。救済資金を入れたのも、今ここで内部の数字を見られるのも、弥生が上林キャピタルの代表であり、東雲の社外取締役だからだった。
この立場を使う時だけ上林の人間で、都合が悪くなれば個人の結婚だと言うことはできない。
——僕が欲しがった縁や。
父の懸念を退けたのは自分だった。東雲を救うことと瑛美を妻にすることを、同じ話にしたのも自分だった。
——それで上林に泥つけるんは筋が違う。
弥生は画面に出した一覧を保存した。相良への支払額が並ぶシートと、聞き取りの内容は、別々に残した。
まだ事実を確かめる段階だ。家を守ると言いながら、確認の取れていない疑念を持ち込み、それを家の判断にしてしまうわけにはいかなかった。
そこまで考えてから、弥生は寝室へ続く廊下を見た。
扉は閉まっている。
雪哉が関与していれば、瑛美も無関係ではいられない。
不正をした取締役の妹で、東雲社長の娘。結婚する直前まで、経営管理の仕事をしていた。案件の予算も原価も見ていたのだから、何かを知っていたのではないかと考える人はいるだろう。
何も知らなかったとしても、それを一人ずつ説明して回ることはできない。
しかも、今は上林の妻だった。
東雲の家族は知っていたのか。上林へは話していたのか。その二つの問いが、瑛美のところで繋がってしまう。
——瑛美まで巻き込まれる。
弥生はグラスの位置を少しずらした。さっき瑛美は、資料が濡れない場所を選んで水を置いてくれた。そのあとで、見覚えのある名前を見つけただけだった。
兄の知り合いが多いと言った時の顔には、何の疑いもなかった。
ここで兄について聞き続ければ、彼女は考える。何か知っていることがないか、自分が見ていた数字におかしなところはなかったか。そうして、まだ形にもなっていない疑念へ、自分から近づいてくるかもしれない。
今は、そこへ呼ぶべきではなかった。
*
弥生は携帯電話を手に取った。
東雲の社長へ相談すれば、雪哉を疑っている理由を話すことになる。証拠もないまま息子を疑わせるには、まだ早かった。社長が確認を始めれば、雪哉の耳にも入るだろう。
父へ伝えることも考えた。一度話せば、上林として調査が始まる。今ある資料と人間関係だけで、自分の手を離れて疑いが広がるのは避けたかった。
「その時は僕が責任取ります」
自分の言葉を思い出し、携帯電話を伏せた。
弥生はパソコンへ向き直った。翌日求める資料のメモを開き、各案件の担当役員と承認履歴を加える。雪哉の分だけを取り寄せるようなことはしない。
相良への発注が増えた時期から、誰がどの案件に関わったかをたどる。相良側の経営状態と、支払いを急いだ事情を誰が伝えたのかも確かめる。
雪哉でなければいい。
そう思いながらも、彼に不利な記録が出る可能性を外さず、必要な資料を書き足した。
まず、事実を押さえる。どう処理するかは、そのあとだ。
メモを保存し、相良の契約書を開いた。携帯電話は伏せたままだった。
確かめるまでは、父にも、東雲の社長にも、瑛美にも言わない。
その先に雪哉がいるかどうかを、一人で調べることにした。
