上林弥生の事情

追加の契約書を開いても、数字の違和感は消えなかった。

弥生は東雲建設の会議室で、発注額と案件別の原価を照らし合わせていた。依頼していた資料は、揃ったものから届いている。最初の契約、途中の変更、社内の承認。外注費が増えたところには、それぞれ説明もついていた。

工事は行われている。発注先にも実態があり、作業の報告と支払いの記録は合っていた。単価を拾ってみても、それだけで不適切と判断できるほど高いわけではない。

それでも、完了した工事に残った利益は薄かった。

「この変更の前に、ほかの業者から見積もりは取っていますか」

向かいの担当者が、手元の資料を確かめた。

「こちらには添付されていません。現場側に確認します」

「お願いします。比較した案件についても、同じものがあれば見せてください」

担当者はうなずき、確認事項を書き留めた。

自分が外からかけた圧力より前に、費用が増え始めている。その順序は、契約まで戻っても変わらなかった。ただ、なぜその条件で発注したのかは、まだ分からない。書類の揃っていることと、判断の妥当なことは別だった。

弥生は一覧に付けた印を残し、資料を閉じた。

*

週末の夕方、ホテルの大宴会場には、すでに大勢の招待客が集まっていた。

財界関係者が顔を揃えるパーティに、弥生は上林キャピタルの社長として招待されていた。瑛美は、その妻として同伴している。

上林系列ではない、都内の高級ホテルだった。受付で二人の名前を告げると、係の女性が名簿を確かめ、会場へ案内してくれる。入口で主催者への挨拶を済ませたところから、弥生は何度も呼び止められた。

「上林さん。このたびは、おめでとうございます」

「ありがとうございます」

結婚してから、二人揃ってこうした席へ出るのは初めてだった。以前なら、それぞれの親の隣や、別々の会社の関係者として会っていた相手が、今日は二人へ一緒に祝いの言葉をかける。

話題が不動産の開発計画へ移れば、弥生は調達資金と事業期間の話に応じた。瑛美も、建設費の見込みをどの時点で置くかという話から、ごく自然に会話へ入る。

「完成時の売上から逆算しても、発注までに費用が動いてしまいますから」

「そうなんですよ。予算を決めた時の数字が、半年後には使えない」

「途中で見直す前提を、最初から揃えておかないと難しいですね」

弥生が口を挟む必要はなかった。相手が別の話題へ移ると、瑛美もそれに合わせ、少し後ろに立っていた夫人へ話を振った。

互いに挨拶をして、次の相手へ移る。それを何度か繰り返したあと、弥生は瑛美へ声を落とした。

「大丈夫?」

「何が?」

「いや……疲れてへん?」

瑛美は会場の時計を見た。

「まだ一時間半だけど」

「……せやな」

瑛美は給仕から水を受け取り、一口飲んだ。弥生も同じものをもらい、並んで立つ。

ちょうどそこで、老舗食品会社の会長夫妻が近づいてきた。

「ご結婚おめでとうございます。お二人でいらっしゃると、華やかでいいですね」

会長の言葉に礼を返すと、夫人が嬉しそうに瑛美を見た。

「上林さんは、たしか新婚さんでしたよね。でしたら、糠床はお持ちですか?」

瑛美がグラスを下ろす手を、ほんのわずかに止めた。

「……いえ、まだなんです」

「それなら、今から始めるといいわ。ご夫婦と一緒に、十年、二十年って育っていくものですから」

夫人は、結婚した時に実家から分けてもらった糠床を、今も使っているのだという。毎日手を入れること、季節で置き場所を変えること。そこまで聞いたところで、会長も話に加わった。

「もう四十年以上になりますよ。家内が留守にする時は、私が混ぜるんです」

「胡瓜なら始めやすいですよ。最初は胡瓜がいいわね」

「漬ける時間も、季節で変えるんでしょうか」

瑛美が尋ねると、夫人は大きくうなずいた。夏と冬の違いから、昆布や山椒の話へ進む。二人で旅行する時の管理まで聞き終える頃には、弥生のグラスは空になっていた。

「うちの夫は、私の糠漬けが好きでね。ほかにご馳走があっても、まずそちらに箸がいくんですよ」

「本当にうまいんです。上林さんも、奥さんに作ってもらったらいい」

弥生は穏やかに笑った。

「わあ、それは素晴らしい。僕も作ってほしいなあ」

瑛美が弥生を見た。

「弥生さんがそこまで仰るなら、私、頑張りますね」

「楽しみにしてます」

「任せてください」

会長夫人は満足そうに二人を見比べた。

「新婚さんはいいわねえ」

弥生は頬を緩めたまま、会長へ糠床を分ける時の話を尋ねた。瑛美も夫人の話を聞き、時々うなずいている。二人とも、最後まで同じ顔で応じていた。

*

その次に会った不動産会社の社長は、創業した頃の話をしてくれた。

初めて手がけた建物の話から、当時の銀行との交渉へ移り、一緒に働いていた人の話になった。社長夫人は華やかな帯を締め、時々、夫が忘れた名前を補っている。

弥生は、給仕へ空のグラスを返した。話の途中だったので、飲み物の卓へ移るのはやめておいた。

「あの頃は、設計の変更一つでも自分で走り回ってね。瑛美さんは原価も見ていたんでしょう。今はどうですか」

「細かく分けて見られるようにはなっています。ただ、変更の理由まで数字だけでは分からないので、現場の方に伺うことも多かったです」

瑛美はすぐに答えた。

「そうでしょう。要するに、最後は現場なんです。私もね、ある工事で、見積もりを持って行ったら……」

社長が新しい話を始める。瑛美は笑顔で聞きながら、夫人の帯へ一度目をやった。

梅と桜の間に、細い金の線が走っていた。その下にも、花の模様が続いている。

「要するに、信用ですよ。長く仕事を続けるにはね」

弥生はうなずいた。話が銀行へ戻り、また、要するに、という言葉が出た。今度は金利の話だった。

しばらくして、社長夫妻が別の客に呼ばれ、ようやく挨拶を終えた。

瑛美が新しい水のグラスを受け取ったのと、別の会長が弥生へ話しかけたのは、ほとんど同時だった。

「上林さんは、ゴルフを?」

「ええ、以前は少し」

「それなら、今度ぜひご一緒しましょう。お父様とも何度か回ったことがあるんですよ」

「ぜひ。楽しみにしております」

弥生は笑顔で答え、相手が最近行ったコースの話を聞いた。

隣で瑛美が水を飲んでいる。視線を感じたが、弥生は会長の話へうなずいた。

「結局は、力を抜くことなんです。若い人は飛ばそうとして、どうしても腕に力が入る」

「なるほど」

会長が足の位置を変え、スイングの形を示した。弥生は半歩下がって場所を空けた。

「腰から。腕はあとです」

「勉強になります」

会長の手がもう一度動く。瑛美もグラスを脇へ避け、にこやかに話を聞いていた。

*

ホテルの車寄せへ出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。

弥生は見送りに出てきた主催者へ礼を述べ、瑛美と一緒に頭を下げた。係の人へも挨拶をし、迎えのリムジンへ向かう。

運転手が後部座席のドアを開けた。瑛美を先に乗せ、弥生も隣へ座る。ドアが閉まると、ロビーから聞こえていた人の声が遠くなった。

運転席との間には仕切りがある。車が静かに動き出し、瑛美はバッグを膝から下ろした。

弥生は襟元へ指を入れ、ネクタイを少し緩めた。

しばらく二人とも、何も言わなかった。ホテルの灯りが窓の後ろへ流れていく。

瑛美が外を見たまま、口を開いた。

「…………糠床?」

弥生は吹き出した。

思いがけず声まで出て、口元へ手をやる。瑛美はまだ窓を見ていたが、肩が小さく揺れていた。

「なんで新婚だと糠床なの?」

「知らん。僕に聞かんといて」

弥生はもう一度笑った。瑛美がようやくこちらを向き、姿勢を正す。

「『わあ、それは素晴らしい。僕も作ってほしいなあ』」

さっきの弥生と同じところで、少し首を傾けた。

「やめて」

「弥生、私の糠漬け食べたいの?」

「いらん」

「早いなあ。まだ何も漬けてないんですけど」

「どうせ瑛美作らんやろ」

「分かんないよ?そこまで言うなら、私、頑張っちゃおうかな」

「絶対作らへん」

「なんで決めつけるの」

「二十年知ってんねんで」

瑛美は口を尖らせた。けれど、そのままでいられず、また笑った。

「失礼だなあ。じゃあ、明日糠床買ってくる」

「絶対やめて」

「なんで?」

「僕、糠漬け好きちゃうもん」

「知ってる」

「知ってて言うてんの?」

「だから言ってる」

弥生は背もたれへ身体を預けた。

「嫌がらせやん」

「愛妻の手料理だよ?」

「愛妻の嫌がらせやろ」

瑛美が声を立てて笑った。弥生もつられて笑い、目元を指で押さえた。

車が交差点で止まった。窓の外では、横断歩道を渡る人たちが見える。

瑛美は一度息を整えてから、バッグの持ち手を座席の方へ倒した。

「あと、あの不動産会社の社長」

「ああ」

「長かったねえ」

「長かったなあ」

「私、途中から奥様の帯の花、数えてた」

弥生は瑛美を見た。

「何してんの」

「暇だったから」

「いくつあったん?」

「梅が二十、桜が三十二」

「めっちゃあるやん」

「あと多分、菊が十二」

「多分?」

「途中で社長に話振られたから、見失った」

瑛美が残念そうに言ったので、弥生はまた笑ってしまった。

「ちゃんと聞いてたんや」

「当たり前でしょ。値下げしたら、今度は安すぎて不安だって言われた話でしょ」

「せやったな」

「弥生は何してたの?」

「『要するに』の回数、数えてた」

「何回?」

「九回」

瑛美は少し黙ってから、笑い出した。

「一回もまとまってなかったね」

「そのたび別の話が始まんねん」

「暇だねえ」

「瑛美に言われたないわ」

笑っているうちに信号が変わった。車が走り出しても、瑛美はもう窓の外を見ていなかった。

「そういえば弥生。ゴルフのレッスン、再開しなきゃね」

「嫌や」

「今度ぜひご一緒するんでしょ?」

「あれ、僕嫌いやねん。せっかくやめたのに」

「『楽しみにしております』って、すごい笑顔だったよ」

「仕事やもん」

「じゃあ、練習しないと。最後にやったの、いつ?」

「……二年くらい前」

「全然やってないじゃん」

「せやから辞めた言うてるやん」

「クラブ、まだ持ってる?」

「実家」

「送ってもらおう」

「何で瑛美、そんな楽しそうなん」

「弥生が嫌がってるから」

瑛美は楽しそうに彼の顔を覗いた。

「じゃあ交換条件ね」

「何と?」

「弥生がレッスン再開したら、私も糠床を始める」

「ほな、一生始まらへんな」

「即答?」

「ゴルフ嫌いやもん」

「私だって、毎日糠床混ぜるの嫌だよ」

「ほな何で、頑張りますねとか言うたん」

「弥生が、作ってほしいなあって言ったからでしょ!」

「社交辞令やん」

「私も社交辞令だよ!」

瑛美が言い返し、二人で笑った。弥生は前を向いて、ほどけかけていたネクタイの結び目をもう少し下げた。

瑛美は笑いながら、肩へストールを掛け直した。その端が少し弥生の膝に載ったが、彼女は話を続けた。

「でも今日、まだマシだったよ。ほら、中学生の時。盆栽の写真」

弥生はすぐに思い出した。

「あったなあ」

「あのおじいちゃん、二時間見せてきたじゃん。これが春の姿ですって言われて、夏、秋、冬。同じ木でも、年ごとに全部あるの」

「大事にしてはったんやろ」

「分かるけど、中学生に二時間は長いでしょ。しかも弥生は途中で逃げたじゃん」

「トイレや」

「四十分、帰ってこなかった」

「お腹痛かったんや」

「嘘つけ。戻ってきた時、ケーキ持ってた」

弥生は一度口を閉じた。

「……瑛美の分も持ってきたやろ」

「口止め料でしょ」

「言い方」

「しかも、私にケーキ渡して空いた片手に写真置かれてたじゃん」

そこは、弥生もよく覚えていた。ケーキの皿を瑛美へ渡し、ようやく手が空いたところで、分厚い写真の束を渡された。

「今年の分です、って」

瑛美が先に言った。

「僕、去年のも見てへんのに」

瑛美はとうとう、口元を手で覆った。少し落ち着いたかと思うと、また笑っている。

「あの時の顔、すごかったよ。ケーキ持ってきたのに、また捕まっちゃって」

「瑛美も助けてくれへんかったやん」

「私を置いて行った人を?」

「ずっと笑うてたやろ」

「だって、あんなに困ってるんだもん」

瑛美は笑いながら手を下ろし、弥生の腕をぺし、と叩いた。

「自業自得」

返そうとした言葉が、一瞬、止まった。

痛くもなかった。上着の袖を、いつもの調子で軽く叩かれただけだった。

——触った。

瑛美はもう手を自分の膝へ戻し、まだ笑っていた。弥生が黙っているのに気づくと、目を上げる。

「何?」

「……いや」

「何それ」

「何でもない」

瑛美は少し首を傾けたが、すぐに続けた。

「あのケーキ、おいしかったよね。苺のやつ」

「……うん」

「私を置いて逃げた慰謝料だと思ったら、足りなかったけど」

「まだ言うん?」

「次は二個ね」

弥生は笑った。叩かれたところへ手をやることもせず、背もたれへ身体を預け直した。

瑛美はストールの端を自分の膝へ戻し、また別のパーティの話を始めた。弥生も覚えていた。相手が言い終わる前に、次の言葉が分かることもあった。

家に着いたと運転手から知らせが入った時にも、瑛美はまだ何か言いかけていた。

「ほら、あの人も」

「続き、降りてからな」

「忘れそう」

「そんな大事な話ちゃうやろ」

「まあ、そうだけど」

瑛美は笑ってバッグを取った。弥生も、緩めたネクタイをそのままにして、車を降りた。

*

帰宅してからも、糠床の話はしばらく続いた。

瑛美は靴を脱ぐなり、キッチンの方を見た。

「置く場所はあるね」

「買わへんのに場所探さんでええ」

「弥生のクラブも置けるかな」

「両方いらん」

弥生が上着を脱ぐと、瑛美もストールを外し、まだ笑いながら洗面所へ向かった。

風呂と着替えを済ませ、寝室へ戻る頃には、さすがに口数も減っていた。瑛美は枕元に携帯電話を置き、掛け布団を持ち上げる。

弥生が隣へ座ると、彼女の足が少し自分の側へ寄った。横になる位置も、肩が触れないところだった。

弥生は自分の枕を直した。

「電気、消すで」

「うん」

手元の照明を落とそうとすると、瑛美が顔をこちらへ向けた。

「ゴルフ、誘われたらどうするの」

「……行くよ」

「レッスンは?」

「考える」

「私も糠床、考えとくね」

暗くなった部屋で、弥生は笑った。

「ほな、どっちも考えるだけな」

「うん。おやすみ」

「おやすみ」

瑛美が向きを変え、布団の擦れる音がした。しばらくすると、呼吸がゆっくりになっていく。

弥生は目を閉じた。腕を叩かれた時に何と言い返そうとしたのか、もう思い出せなかった。頼んでもいないのに伸びてきた手と、笑っていた顔の方が、よく残っていた。

隣の枕までは、まだ少し間がある。

明日、瑛美が糠床を買ってくることはないだろう。弥生も、ゴルフの先生へ自分から連絡する気はなかった。

それでも朝になったら、どちらが先にその話を蒸し返すかは分からない。

久しぶりに、瑛美にずいぶん雑に扱われた。

思い出して、また少し笑った。