追加の契約書を開いても、数字の違和感は消えなかった。
弥生は東雲建設の会議室で、発注額と案件別の原価を照らし合わせていた。依頼していた資料は、揃ったものから届いている。最初の契約、途中の変更、社内の承認。外注費が増えたところには、それぞれ説明もついていた。
工事は行われている。発注先にも実態があり、作業の報告と支払いの記録は合っていた。単価を拾ってみても、それだけで不適切と判断できるほど高いわけではない。
それでも、完了した工事に残った利益は薄かった。
「この変更の前に、ほかの業者から見積もりは取っていますか」
向かいの担当者が、手元の資料を確かめた。
「こちらには添付されていません。現場側に確認します」
「お願いします。比較した案件についても、同じものがあれば見せてください」
担当者はうなずき、確認事項を書き留めた。
自分が外からかけた圧力より前に、費用が増え始めている。その順序は、契約まで戻っても変わらなかった。ただ、なぜその条件で発注したのかは、まだ分からない。書類の揃っていることと、判断の妥当なことは別だった。
弥生は一覧に付けた印を残し、資料を閉じた。
*
週末の夕方、ホテルの大宴会場には、すでに大勢の招待客が集まっていた。
財界関係者が顔を揃えるパーティに、弥生は上林キャピタルの社長として招待されていた。瑛美は、その妻として同伴している。
上林系列ではない、都内の高級ホテルだった。受付で二人の名前を告げると、係の女性が名簿を確かめ、会場へ案内してくれる。入口で主催者への挨拶を済ませたところから、弥生は何度も呼び止められた。
「上林さん。このたびは、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
結婚してから、二人揃ってこうした席へ出るのは初めてだった。以前なら、それぞれの親の隣や、別々の会社の関係者として会っていた相手が、今日は二人へ一緒に祝いの言葉をかける。
話題が不動産の開発計画へ移れば、弥生は調達資金と事業期間の話に応じた。瑛美も、建設費の見込みをどの時点で置くかという話から、ごく自然に会話へ入る。
「完成時の売上から逆算しても、発注までに費用が動いてしまいますから」
「そうなんですよ。予算を決めた時の数字が、半年後には使えない」
「途中で見直す前提を、最初から揃えておかないと難しいですね」
弥生が口を挟む必要はなかった。相手が別の話題へ移ると、瑛美もそれに合わせ、少し後ろに立っていた夫人へ話を振った。
互いに挨拶をして、次の相手へ移る。それを何度か繰り返したあと、弥生は瑛美へ声を落とした。
「大丈夫?」
「何が?」
「いや……疲れてへん?」
瑛美は会場の時計を見た。
「まだ一時間半だけど」
「……せやな」
瑛美は給仕から水を受け取り、一口飲んだ。弥生も同じものをもらい、並んで立つ。
ちょうどそこで、老舗食品会社の会長夫妻が近づいてきた。
「ご結婚おめでとうございます。お二人でいらっしゃると、華やかでいいですね」
会長の言葉に礼を返すと、夫人が嬉しそうに瑛美を見た。
「上林さんは、たしか新婚さんでしたよね。でしたら、糠床はお持ちですか?」
瑛美がグラスを下ろす手を、ほんのわずかに止めた。
「……いえ、まだなんです」
「それなら、今から始めるといいわ。ご夫婦と一緒に、十年、二十年って育っていくものですから」
夫人は、結婚した時に実家から分けてもらった糠床を、今も使っているのだという。毎日手を入れること、季節で置き場所を変えること。そこまで聞いたところで、会長も話に加わった。
「もう四十年以上になりますよ。家内が留守にする時は、私が混ぜるんです」
「胡瓜なら始めやすいですよ。最初は胡瓜がいいわね」
「漬ける時間も、季節で変えるんでしょうか」
瑛美が尋ねると、夫人は大きくうなずいた。夏と冬の違いから、昆布や山椒の話へ進む。二人で旅行する時の管理まで聞き終える頃には、弥生のグラスは空になっていた。
「うちの夫は、私の糠漬けが好きでね。ほかにご馳走があっても、まずそちらに箸がいくんですよ」
「本当にうまいんです。上林さんも、奥さんに作ってもらったらいい」
弥生は穏やかに笑った。
「わあ、それは素晴らしい。僕も作ってほしいなあ」
瑛美が弥生を見た。
「弥生さんがそこまで仰るなら、私、頑張りますね」
「楽しみにしてます」
「任せてください」
会長夫人は満足そうに二人を見比べた。
「新婚さんはいいわねえ」
弥生は頬を緩めたまま、会長へ糠床を分ける時の話を尋ねた。瑛美も夫人の話を聞き、時々うなずいている。二人とも、最後まで同じ顔で応じていた。
*
その次に会った不動産会社の社長は、創業した頃の話をしてくれた。
初めて手がけた建物の話から、当時の銀行との交渉へ移り、一緒に働いていた人の話になった。社長夫人は華やかな帯を締め、時々、夫が忘れた名前を補っている。
弥生は、給仕へ空のグラスを返した。話の途中だったので、飲み物の卓へ移るのはやめておいた。
「あの頃は、設計の変更一つでも自分で走り回ってね。瑛美さんは原価も見ていたんでしょう。今はどうですか」
「細かく分けて見られるようにはなっています。ただ、変更の理由まで数字だけでは分からないので、現場の方に伺うことも多かったです」
瑛美はすぐに答えた。
「そうでしょう。要するに、最後は現場なんです。私もね、ある工事で、見積もりを持って行ったら……」
社長が新しい話を始める。瑛美は笑顔で聞きながら、夫人の帯へ一度目をやった。
梅と桜の間に、細い金の線が走っていた。その下にも、花の模様が続いている。
「要するに、信用ですよ。長く仕事を続けるにはね」
弥生はうなずいた。話が銀行へ戻り、また、要するに、という言葉が出た。今度は金利の話だった。
しばらくして、社長夫妻が別の客に呼ばれ、ようやく挨拶を終えた。
瑛美が新しい水のグラスを受け取ったのと、別の会長が弥生へ話しかけたのは、ほとんど同時だった。
「上林さんは、ゴルフを?」
「ええ、以前は少し」
「それなら、今度ぜひご一緒しましょう。お父様とも何度か回ったことがあるんですよ」
「ぜひ。楽しみにしております」
弥生は笑顔で答え、相手が最近行ったコースの話を聞いた。
隣で瑛美が水を飲んでいる。視線を感じたが、弥生は会長の話へうなずいた。
「結局は、力を抜くことなんです。若い人は飛ばそうとして、どうしても腕に力が入る」
「なるほど」
会長が足の位置を変え、スイングの形を示した。弥生は半歩下がって場所を空けた。
「腰から。腕はあとです」
「勉強になります」
会長の手がもう一度動く。瑛美もグラスを脇へ避け、にこやかに話を聞いていた。
*
ホテルの車寄せへ出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
弥生は見送りに出てきた主催者へ礼を述べ、瑛美と一緒に頭を下げた。係の人へも挨拶をし、迎えのリムジンへ向かう。
運転手が後部座席のドアを開けた。瑛美を先に乗せ、弥生も隣へ座る。ドアが閉まると、ロビーから聞こえていた人の声が遠くなった。
運転席との間には仕切りがある。車が静かに動き出し、瑛美はバッグを膝から下ろした。
弥生は襟元へ指を入れ、ネクタイを少し緩めた。
しばらく二人とも、何も言わなかった。ホテルの灯りが窓の後ろへ流れていく。
瑛美が外を見たまま、口を開いた。
「…………糠床?」
弥生は吹き出した。
思いがけず声まで出て、口元へ手をやる。瑛美はまだ窓を見ていたが、肩が小さく揺れていた。
「なんで新婚だと糠床なの?」
「知らん。僕に聞かんといて」
弥生はもう一度笑った。瑛美がようやくこちらを向き、姿勢を正す。
「『わあ、それは素晴らしい。僕も作ってほしいなあ』」
さっきの弥生と同じところで、少し首を傾けた。
「やめて」
「弥生、私の糠漬け食べたいの?」
「いらん」
「早いなあ。まだ何も漬けてないんですけど」
「どうせ瑛美作らんやろ」
「分かんないよ?そこまで言うなら、私、頑張っちゃおうかな」
「絶対作らへん」
「なんで決めつけるの」
「二十年知ってんねんで」
瑛美は口を尖らせた。けれど、そのままでいられず、また笑った。
「失礼だなあ。じゃあ、明日糠床買ってくる」
「絶対やめて」
「なんで?」
「僕、糠漬け好きちゃうもん」
「知ってる」
「知ってて言うてんの?」
「だから言ってる」
弥生は背もたれへ身体を預けた。
「嫌がらせやん」
「愛妻の手料理だよ?」
「愛妻の嫌がらせやろ」
瑛美が声を立てて笑った。弥生もつられて笑い、目元を指で押さえた。
車が交差点で止まった。窓の外では、横断歩道を渡る人たちが見える。
瑛美は一度息を整えてから、バッグの持ち手を座席の方へ倒した。
「あと、あの不動産会社の社長」
「ああ」
「長かったねえ」
「長かったなあ」
「私、途中から奥様の帯の花、数えてた」
弥生は瑛美を見た。
「何してんの」
「暇だったから」
「いくつあったん?」
「梅が二十、桜が三十二」
「めっちゃあるやん」
「あと多分、菊が十二」
「多分?」
「途中で社長に話振られたから、見失った」
瑛美が残念そうに言ったので、弥生はまた笑ってしまった。
「ちゃんと聞いてたんや」
「当たり前でしょ。値下げしたら、今度は安すぎて不安だって言われた話でしょ」
「せやったな」
「弥生は何してたの?」
「『要するに』の回数、数えてた」
「何回?」
「九回」
瑛美は少し黙ってから、笑い出した。
「一回もまとまってなかったね」
「そのたび別の話が始まんねん」
「暇だねえ」
「瑛美に言われたないわ」
笑っているうちに信号が変わった。車が走り出しても、瑛美はもう窓の外を見ていなかった。
「そういえば弥生。ゴルフのレッスン、再開しなきゃね」
「嫌や」
「今度ぜひご一緒するんでしょ?」
「あれ、僕嫌いやねん。せっかくやめたのに」
「『楽しみにしております』って、すごい笑顔だったよ」
「仕事やもん」
「じゃあ、練習しないと。最後にやったの、いつ?」
「……二年くらい前」
「全然やってないじゃん」
「せやから辞めた言うてるやん」
「クラブ、まだ持ってる?」
「実家」
「送ってもらおう」
「何で瑛美、そんな楽しそうなん」
「弥生が嫌がってるから」
瑛美は楽しそうに彼の顔を覗いた。
「じゃあ交換条件ね」
「何と?」
「弥生がレッスン再開したら、私も糠床を始める」
「ほな、一生始まらへんな」
「即答?」
「ゴルフ嫌いやもん」
「私だって、毎日糠床混ぜるの嫌だよ」
「ほな何で、頑張りますねとか言うたん」
「弥生が、作ってほしいなあって言ったからでしょ!」
「社交辞令やん」
「私も社交辞令だよ!」
瑛美が言い返し、二人で笑った。弥生は前を向いて、ほどけかけていたネクタイの結び目をもう少し下げた。
瑛美は笑いながら、肩へストールを掛け直した。その端が少し弥生の膝に載ったが、彼女は話を続けた。
「でも今日、まだマシだったよ。ほら、中学生の時。盆栽の写真」
弥生はすぐに思い出した。
「あったなあ」
「あのおじいちゃん、二時間見せてきたじゃん。これが春の姿ですって言われて、夏、秋、冬。同じ木でも、年ごとに全部あるの」
「大事にしてはったんやろ」
「分かるけど、中学生に二時間は長いでしょ。しかも弥生は途中で逃げたじゃん」
「トイレや」
「四十分、帰ってこなかった」
「お腹痛かったんや」
「嘘つけ。戻ってきた時、ケーキ持ってた」
弥生は一度口を閉じた。
「……瑛美の分も持ってきたやろ」
「口止め料でしょ」
「言い方」
「しかも、私にケーキ渡して空いた片手に写真置かれてたじゃん」
そこは、弥生もよく覚えていた。ケーキの皿を瑛美へ渡し、ようやく手が空いたところで、分厚い写真の束を渡された。
「今年の分です、って」
瑛美が先に言った。
「僕、去年のも見てへんのに」
瑛美はとうとう、口元を手で覆った。少し落ち着いたかと思うと、また笑っている。
「あの時の顔、すごかったよ。ケーキ持ってきたのに、また捕まっちゃって」
「瑛美も助けてくれへんかったやん」
「私を置いて行った人を?」
「ずっと笑うてたやろ」
「だって、あんなに困ってるんだもん」
瑛美は笑いながら手を下ろし、弥生の腕をぺし、と叩いた。
「自業自得」
返そうとした言葉が、一瞬、止まった。
痛くもなかった。上着の袖を、いつもの調子で軽く叩かれただけだった。
——触った。
瑛美はもう手を自分の膝へ戻し、まだ笑っていた。弥生が黙っているのに気づくと、目を上げる。
「何?」
「……いや」
「何それ」
「何でもない」
瑛美は少し首を傾けたが、すぐに続けた。
「あのケーキ、おいしかったよね。苺のやつ」
「……うん」
「私を置いて逃げた慰謝料だと思ったら、足りなかったけど」
「まだ言うん?」
「次は二個ね」
弥生は笑った。叩かれたところへ手をやることもせず、背もたれへ身体を預け直した。
瑛美はストールの端を自分の膝へ戻し、また別のパーティの話を始めた。弥生も覚えていた。相手が言い終わる前に、次の言葉が分かることもあった。
家に着いたと運転手から知らせが入った時にも、瑛美はまだ何か言いかけていた。
「ほら、あの人も」
「続き、降りてからな」
「忘れそう」
「そんな大事な話ちゃうやろ」
「まあ、そうだけど」
瑛美は笑ってバッグを取った。弥生も、緩めたネクタイをそのままにして、車を降りた。
*
帰宅してからも、糠床の話はしばらく続いた。
瑛美は靴を脱ぐなり、キッチンの方を見た。
「置く場所はあるね」
「買わへんのに場所探さんでええ」
「弥生のクラブも置けるかな」
「両方いらん」
弥生が上着を脱ぐと、瑛美もストールを外し、まだ笑いながら洗面所へ向かった。
風呂と着替えを済ませ、寝室へ戻る頃には、さすがに口数も減っていた。瑛美は枕元に携帯電話を置き、掛け布団を持ち上げる。
弥生が隣へ座ると、彼女の足が少し自分の側へ寄った。横になる位置も、肩が触れないところだった。
弥生は自分の枕を直した。
「電気、消すで」
「うん」
手元の照明を落とそうとすると、瑛美が顔をこちらへ向けた。
「ゴルフ、誘われたらどうするの」
「……行くよ」
「レッスンは?」
「考える」
「私も糠床、考えとくね」
暗くなった部屋で、弥生は笑った。
「ほな、どっちも考えるだけな」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
瑛美が向きを変え、布団の擦れる音がした。しばらくすると、呼吸がゆっくりになっていく。
弥生は目を閉じた。腕を叩かれた時に何と言い返そうとしたのか、もう思い出せなかった。頼んでもいないのに伸びてきた手と、笑っていた顔の方が、よく残っていた。
隣の枕までは、まだ少し間がある。
明日、瑛美が糠床を買ってくることはないだろう。弥生も、ゴルフの先生へ自分から連絡する気はなかった。
それでも朝になったら、どちらが先にその話を蒸し返すかは分からない。
久しぶりに、瑛美にずいぶん雑に扱われた。
思い出して、また少し笑った。
弥生は東雲建設の会議室で、発注額と案件別の原価を照らし合わせていた。依頼していた資料は、揃ったものから届いている。最初の契約、途中の変更、社内の承認。外注費が増えたところには、それぞれ説明もついていた。
工事は行われている。発注先にも実態があり、作業の報告と支払いの記録は合っていた。単価を拾ってみても、それだけで不適切と判断できるほど高いわけではない。
それでも、完了した工事に残った利益は薄かった。
「この変更の前に、ほかの業者から見積もりは取っていますか」
向かいの担当者が、手元の資料を確かめた。
「こちらには添付されていません。現場側に確認します」
「お願いします。比較した案件についても、同じものがあれば見せてください」
担当者はうなずき、確認事項を書き留めた。
自分が外からかけた圧力より前に、費用が増え始めている。その順序は、契約まで戻っても変わらなかった。ただ、なぜその条件で発注したのかは、まだ分からない。書類の揃っていることと、判断の妥当なことは別だった。
弥生は一覧に付けた印を残し、資料を閉じた。
*
週末の夕方、ホテルの大宴会場には、すでに大勢の招待客が集まっていた。
財界関係者が顔を揃えるパーティに、弥生は上林キャピタルの社長として招待されていた。瑛美は、その妻として同伴している。
上林系列ではない、都内の高級ホテルだった。受付で二人の名前を告げると、係の女性が名簿を確かめ、会場へ案内してくれる。入口で主催者への挨拶を済ませたところから、弥生は何度も呼び止められた。
「上林さん。このたびは、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
結婚してから、二人揃ってこうした席へ出るのは初めてだった。以前なら、それぞれの親の隣や、別々の会社の関係者として会っていた相手が、今日は二人へ一緒に祝いの言葉をかける。
話題が不動産の開発計画へ移れば、弥生は調達資金と事業期間の話に応じた。瑛美も、建設費の見込みをどの時点で置くかという話から、ごく自然に会話へ入る。
「完成時の売上から逆算しても、発注までに費用が動いてしまいますから」
「そうなんですよ。予算を決めた時の数字が、半年後には使えない」
「途中で見直す前提を、最初から揃えておかないと難しいですね」
弥生が口を挟む必要はなかった。相手が別の話題へ移ると、瑛美もそれに合わせ、少し後ろに立っていた夫人へ話を振った。
互いに挨拶をして、次の相手へ移る。それを何度か繰り返したあと、弥生は瑛美へ声を落とした。
「大丈夫?」
「何が?」
「いや……疲れてへん?」
瑛美は会場の時計を見た。
「まだ一時間半だけど」
「……せやな」
瑛美は給仕から水を受け取り、一口飲んだ。弥生も同じものをもらい、並んで立つ。
ちょうどそこで、老舗食品会社の会長夫妻が近づいてきた。
「ご結婚おめでとうございます。お二人でいらっしゃると、華やかでいいですね」
会長の言葉に礼を返すと、夫人が嬉しそうに瑛美を見た。
「上林さんは、たしか新婚さんでしたよね。でしたら、糠床はお持ちですか?」
瑛美がグラスを下ろす手を、ほんのわずかに止めた。
「……いえ、まだなんです」
「それなら、今から始めるといいわ。ご夫婦と一緒に、十年、二十年って育っていくものですから」
夫人は、結婚した時に実家から分けてもらった糠床を、今も使っているのだという。毎日手を入れること、季節で置き場所を変えること。そこまで聞いたところで、会長も話に加わった。
「もう四十年以上になりますよ。家内が留守にする時は、私が混ぜるんです」
「胡瓜なら始めやすいですよ。最初は胡瓜がいいわね」
「漬ける時間も、季節で変えるんでしょうか」
瑛美が尋ねると、夫人は大きくうなずいた。夏と冬の違いから、昆布や山椒の話へ進む。二人で旅行する時の管理まで聞き終える頃には、弥生のグラスは空になっていた。
「うちの夫は、私の糠漬けが好きでね。ほかにご馳走があっても、まずそちらに箸がいくんですよ」
「本当にうまいんです。上林さんも、奥さんに作ってもらったらいい」
弥生は穏やかに笑った。
「わあ、それは素晴らしい。僕も作ってほしいなあ」
瑛美が弥生を見た。
「弥生さんがそこまで仰るなら、私、頑張りますね」
「楽しみにしてます」
「任せてください」
会長夫人は満足そうに二人を見比べた。
「新婚さんはいいわねえ」
弥生は頬を緩めたまま、会長へ糠床を分ける時の話を尋ねた。瑛美も夫人の話を聞き、時々うなずいている。二人とも、最後まで同じ顔で応じていた。
*
その次に会った不動産会社の社長は、創業した頃の話をしてくれた。
初めて手がけた建物の話から、当時の銀行との交渉へ移り、一緒に働いていた人の話になった。社長夫人は華やかな帯を締め、時々、夫が忘れた名前を補っている。
弥生は、給仕へ空のグラスを返した。話の途中だったので、飲み物の卓へ移るのはやめておいた。
「あの頃は、設計の変更一つでも自分で走り回ってね。瑛美さんは原価も見ていたんでしょう。今はどうですか」
「細かく分けて見られるようにはなっています。ただ、変更の理由まで数字だけでは分からないので、現場の方に伺うことも多かったです」
瑛美はすぐに答えた。
「そうでしょう。要するに、最後は現場なんです。私もね、ある工事で、見積もりを持って行ったら……」
社長が新しい話を始める。瑛美は笑顔で聞きながら、夫人の帯へ一度目をやった。
梅と桜の間に、細い金の線が走っていた。その下にも、花の模様が続いている。
「要するに、信用ですよ。長く仕事を続けるにはね」
弥生はうなずいた。話が銀行へ戻り、また、要するに、という言葉が出た。今度は金利の話だった。
しばらくして、社長夫妻が別の客に呼ばれ、ようやく挨拶を終えた。
瑛美が新しい水のグラスを受け取ったのと、別の会長が弥生へ話しかけたのは、ほとんど同時だった。
「上林さんは、ゴルフを?」
「ええ、以前は少し」
「それなら、今度ぜひご一緒しましょう。お父様とも何度か回ったことがあるんですよ」
「ぜひ。楽しみにしております」
弥生は笑顔で答え、相手が最近行ったコースの話を聞いた。
隣で瑛美が水を飲んでいる。視線を感じたが、弥生は会長の話へうなずいた。
「結局は、力を抜くことなんです。若い人は飛ばそうとして、どうしても腕に力が入る」
「なるほど」
会長が足の位置を変え、スイングの形を示した。弥生は半歩下がって場所を空けた。
「腰から。腕はあとです」
「勉強になります」
会長の手がもう一度動く。瑛美もグラスを脇へ避け、にこやかに話を聞いていた。
*
ホテルの車寄せへ出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
弥生は見送りに出てきた主催者へ礼を述べ、瑛美と一緒に頭を下げた。係の人へも挨拶をし、迎えのリムジンへ向かう。
運転手が後部座席のドアを開けた。瑛美を先に乗せ、弥生も隣へ座る。ドアが閉まると、ロビーから聞こえていた人の声が遠くなった。
運転席との間には仕切りがある。車が静かに動き出し、瑛美はバッグを膝から下ろした。
弥生は襟元へ指を入れ、ネクタイを少し緩めた。
しばらく二人とも、何も言わなかった。ホテルの灯りが窓の後ろへ流れていく。
瑛美が外を見たまま、口を開いた。
「…………糠床?」
弥生は吹き出した。
思いがけず声まで出て、口元へ手をやる。瑛美はまだ窓を見ていたが、肩が小さく揺れていた。
「なんで新婚だと糠床なの?」
「知らん。僕に聞かんといて」
弥生はもう一度笑った。瑛美がようやくこちらを向き、姿勢を正す。
「『わあ、それは素晴らしい。僕も作ってほしいなあ』」
さっきの弥生と同じところで、少し首を傾けた。
「やめて」
「弥生、私の糠漬け食べたいの?」
「いらん」
「早いなあ。まだ何も漬けてないんですけど」
「どうせ瑛美作らんやろ」
「分かんないよ?そこまで言うなら、私、頑張っちゃおうかな」
「絶対作らへん」
「なんで決めつけるの」
「二十年知ってんねんで」
瑛美は口を尖らせた。けれど、そのままでいられず、また笑った。
「失礼だなあ。じゃあ、明日糠床買ってくる」
「絶対やめて」
「なんで?」
「僕、糠漬け好きちゃうもん」
「知ってる」
「知ってて言うてんの?」
「だから言ってる」
弥生は背もたれへ身体を預けた。
「嫌がらせやん」
「愛妻の手料理だよ?」
「愛妻の嫌がらせやろ」
瑛美が声を立てて笑った。弥生もつられて笑い、目元を指で押さえた。
車が交差点で止まった。窓の外では、横断歩道を渡る人たちが見える。
瑛美は一度息を整えてから、バッグの持ち手を座席の方へ倒した。
「あと、あの不動産会社の社長」
「ああ」
「長かったねえ」
「長かったなあ」
「私、途中から奥様の帯の花、数えてた」
弥生は瑛美を見た。
「何してんの」
「暇だったから」
「いくつあったん?」
「梅が二十、桜が三十二」
「めっちゃあるやん」
「あと多分、菊が十二」
「多分?」
「途中で社長に話振られたから、見失った」
瑛美が残念そうに言ったので、弥生はまた笑ってしまった。
「ちゃんと聞いてたんや」
「当たり前でしょ。値下げしたら、今度は安すぎて不安だって言われた話でしょ」
「せやったな」
「弥生は何してたの?」
「『要するに』の回数、数えてた」
「何回?」
「九回」
瑛美は少し黙ってから、笑い出した。
「一回もまとまってなかったね」
「そのたび別の話が始まんねん」
「暇だねえ」
「瑛美に言われたないわ」
笑っているうちに信号が変わった。車が走り出しても、瑛美はもう窓の外を見ていなかった。
「そういえば弥生。ゴルフのレッスン、再開しなきゃね」
「嫌や」
「今度ぜひご一緒するんでしょ?」
「あれ、僕嫌いやねん。せっかくやめたのに」
「『楽しみにしております』って、すごい笑顔だったよ」
「仕事やもん」
「じゃあ、練習しないと。最後にやったの、いつ?」
「……二年くらい前」
「全然やってないじゃん」
「せやから辞めた言うてるやん」
「クラブ、まだ持ってる?」
「実家」
「送ってもらおう」
「何で瑛美、そんな楽しそうなん」
「弥生が嫌がってるから」
瑛美は楽しそうに彼の顔を覗いた。
「じゃあ交換条件ね」
「何と?」
「弥生がレッスン再開したら、私も糠床を始める」
「ほな、一生始まらへんな」
「即答?」
「ゴルフ嫌いやもん」
「私だって、毎日糠床混ぜるの嫌だよ」
「ほな何で、頑張りますねとか言うたん」
「弥生が、作ってほしいなあって言ったからでしょ!」
「社交辞令やん」
「私も社交辞令だよ!」
瑛美が言い返し、二人で笑った。弥生は前を向いて、ほどけかけていたネクタイの結び目をもう少し下げた。
瑛美は笑いながら、肩へストールを掛け直した。その端が少し弥生の膝に載ったが、彼女は話を続けた。
「でも今日、まだマシだったよ。ほら、中学生の時。盆栽の写真」
弥生はすぐに思い出した。
「あったなあ」
「あのおじいちゃん、二時間見せてきたじゃん。これが春の姿ですって言われて、夏、秋、冬。同じ木でも、年ごとに全部あるの」
「大事にしてはったんやろ」
「分かるけど、中学生に二時間は長いでしょ。しかも弥生は途中で逃げたじゃん」
「トイレや」
「四十分、帰ってこなかった」
「お腹痛かったんや」
「嘘つけ。戻ってきた時、ケーキ持ってた」
弥生は一度口を閉じた。
「……瑛美の分も持ってきたやろ」
「口止め料でしょ」
「言い方」
「しかも、私にケーキ渡して空いた片手に写真置かれてたじゃん」
そこは、弥生もよく覚えていた。ケーキの皿を瑛美へ渡し、ようやく手が空いたところで、分厚い写真の束を渡された。
「今年の分です、って」
瑛美が先に言った。
「僕、去年のも見てへんのに」
瑛美はとうとう、口元を手で覆った。少し落ち着いたかと思うと、また笑っている。
「あの時の顔、すごかったよ。ケーキ持ってきたのに、また捕まっちゃって」
「瑛美も助けてくれへんかったやん」
「私を置いて行った人を?」
「ずっと笑うてたやろ」
「だって、あんなに困ってるんだもん」
瑛美は笑いながら手を下ろし、弥生の腕をぺし、と叩いた。
「自業自得」
返そうとした言葉が、一瞬、止まった。
痛くもなかった。上着の袖を、いつもの調子で軽く叩かれただけだった。
——触った。
瑛美はもう手を自分の膝へ戻し、まだ笑っていた。弥生が黙っているのに気づくと、目を上げる。
「何?」
「……いや」
「何それ」
「何でもない」
瑛美は少し首を傾けたが、すぐに続けた。
「あのケーキ、おいしかったよね。苺のやつ」
「……うん」
「私を置いて逃げた慰謝料だと思ったら、足りなかったけど」
「まだ言うん?」
「次は二個ね」
弥生は笑った。叩かれたところへ手をやることもせず、背もたれへ身体を預け直した。
瑛美はストールの端を自分の膝へ戻し、また別のパーティの話を始めた。弥生も覚えていた。相手が言い終わる前に、次の言葉が分かることもあった。
家に着いたと運転手から知らせが入った時にも、瑛美はまだ何か言いかけていた。
「ほら、あの人も」
「続き、降りてからな」
「忘れそう」
「そんな大事な話ちゃうやろ」
「まあ、そうだけど」
瑛美は笑ってバッグを取った。弥生も、緩めたネクタイをそのままにして、車を降りた。
*
帰宅してからも、糠床の話はしばらく続いた。
瑛美は靴を脱ぐなり、キッチンの方を見た。
「置く場所はあるね」
「買わへんのに場所探さんでええ」
「弥生のクラブも置けるかな」
「両方いらん」
弥生が上着を脱ぐと、瑛美もストールを外し、まだ笑いながら洗面所へ向かった。
風呂と着替えを済ませ、寝室へ戻る頃には、さすがに口数も減っていた。瑛美は枕元に携帯電話を置き、掛け布団を持ち上げる。
弥生が隣へ座ると、彼女の足が少し自分の側へ寄った。横になる位置も、肩が触れないところだった。
弥生は自分の枕を直した。
「電気、消すで」
「うん」
手元の照明を落とそうとすると、瑛美が顔をこちらへ向けた。
「ゴルフ、誘われたらどうするの」
「……行くよ」
「レッスンは?」
「考える」
「私も糠床、考えとくね」
暗くなった部屋で、弥生は笑った。
「ほな、どっちも考えるだけな」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
瑛美が向きを変え、布団の擦れる音がした。しばらくすると、呼吸がゆっくりになっていく。
弥生は目を閉じた。腕を叩かれた時に何と言い返そうとしたのか、もう思い出せなかった。頼んでもいないのに伸びてきた手と、笑っていた顔の方が、よく残っていた。
隣の枕までは、まだ少し間がある。
明日、瑛美が糠床を買ってくることはないだろう。弥生も、ゴルフの先生へ自分から連絡する気はなかった。
それでも朝になったら、どちらが先にその話を蒸し返すかは分からない。
久しぶりに、瑛美にずいぶん雑に扱われた。
思い出して、また少し笑った。
