上林弥生の事情


玄関の鍵が開く音に、瑛美は携帯電話から顔を上げた。

時計は、もうすぐ十二時になるところだった。『今から帰る』という連絡を受けてから、リビングの明かりはつけたままにしていた。

「おかえり。遅かったね」

廊下へ出ると、弥生が靴を脱いでいた。朝、瑛美が整えたネクタイは緩められ、結び目が少し下がっている。

「ただいま。まだ起きてたん」

「うん。ごはん、温めるね」

「先食べといて言うたやん」

「食べたよ。弥生の分だけ残してある」

弥生は鞄を置き、上着を脱いだ。受け取ろうとした瑛美に、首を横に振る。

「自分でやるよ。ごはんも、温めるだけやろ」

「お味噌汁もあるから。着替えてきていいよ」

「……ほな、お願い」

弥生が脇を通る時、瑛美は身体を少し横へずらした。廊下は二人で立っていても狭くない。それでも、彼の腕が近づくと、肘を自分の方へ引いていた。

弥生が寝室へ入ってから、瑛美はキッチンへ戻った。

冷蔵庫から肉じゃがの器を取り出し、電子レンジへ入れる。小鍋に残した味噌汁を火にかけ、弥生の席へ箸を置いた。

これくらいは、自分がしておきたかった。

弥生は朝から東雲建設へ行き、こんな時間まで働いて帰ってきた。もともと自分の会社の仕事もある。瑛美が辞めた会社のために、今度は彼が時間を使っている。

退職するまで、瑛美も帰宅が遅くなる日はあった。数字を見直しているうちに、予定の時刻を過ぎることもある。だから、忙しい日に食事の用意まで考えずに済むのは、きっと助かるはずだった。

レンジが鳴った。布巾を使って器を取り出し、まだ温まりきっていない中央のじゃがいもを外側へ移す。もう一度、短い時間を設定して戻した。

結婚の話を父から聞いた時、驚かなかったわけではない。

けれど、相手が弥生だと分かって、ほっとしたのも本当だった。

二十年間、家を行き来してきた。弥生がどんな人かは知っている。機嫌を損ねないように言葉を選ばなければならない相手ではなかったし、困っていればいつも話を聞いてくれた。知らない人と暮らすことを考えるより、ずっと安心できた。

ただ、父の話を聞くまで、弥生と夫婦になることを具体的に考えたことはなかった。

弥生も同じだったのだろうと思っている。

昔から付き合いのある家を見捨てられず、助ける方法を考えてくれた。そのために結婚が必要なら、そこまで引き受けてしまうのが弥生なのだろう。

父から聞いた説明を、瑛美はそのまま受け取った。弥生なら、そういうことをしてくれる人だと思えた。

温め直した器を食卓へ運ぶと、着替えを済ませた弥生が戻ってきた。

「もうできる?」

「うん。座ってて」

味噌汁をよそい、ごはんと一緒に出した。弥生が手を合わせたのを見届けてから、瑛美も向かいへ座る。

「いただきます」

弥生は汁椀を持ち上げた。一口飲んで、息をつく。

「おいしい。ありがとう」

「よかった。ごはん、足りなかったら言ってね」

「うん」

器を並べ終えるまでは、何か忘れていないか気になった。弥生が食べ始めると、ようやく落ち着いて座っていられた。

自分のしたことが役に立ったと分かるのは、嬉しかった。

会社の資金繰りを直すことも、銀行に支援を納得してもらうことも、今の瑛美にはできない。弥生はそれをしてくれる。そのうえで、瑛美が不自由なく暮らせる家まで用意してくれた。

朝食を作ることや、遅く帰ってきた日に食事を出すことなら、自分にもできる。妻になったのだから、それくらいはきちんとしたかった。

「今日、東雲どうだった?」

弥生は箸を止め、瑛美を見た。

「まだ何とも言われへんよ。見るもん多いし」

「そっか。初日だもんね」

「うん。資料も、これから揃えてもらうもんがある」

瑛美はうなずいた。聞きたいことはあったが、帰ってきたばかりの弥生に、ここでも仕事の話をさせ続けたくはなかった。

弥生が再び箸を動かしてから、瑛美は膝の上で手を重ねた。

「……ありがとうね」

「何が?」

「東雲のこと」

弥生は小さく笑った。

「今さら何言うてんの」

「だって、弥生、本当はここまでしなくてもよかったでしょ」

箸が、器の上で止まった。

「……何が?」

「東雲を助けるために、結婚までしてくれたこと」

弥生は黙っていた。

瑛美は彼の顔を見てから、少し言葉を足した。

「お父さんから聞いてるよ。昔から親しくしてるだけじゃ、上林のお金は出せないって。弥生が助けたいと思ってくれても、それだけじゃ理由にならないんでしょ」

「……うん」

「親戚になれば、これからも支援する理由ができるからって」

弥生は箸を置いた。

そうしなければ、東雲を助けられなかったのだろう。融資を頼まれただけでも大変なのに、上林家への説明も、結婚も、その後の立て直しも引き受けてくれた。弥生自身に、ほかの予定や考えがあったかもしれないのに。

「だから……弥生には、本当に悪いなって思ってる」

「何で瑛美が謝んの」

「だって、弥生まで巻き込んじゃったから」

弥生の目が、瑛美から外れた。食卓に並んだ器を見たまま、しばらく何も言わなかった。

責めているようには見えない。けれど、いつものようにすぐ返ってくる言葉がなく、瑛美は重ねた指を握り直した。

「私が弥生と結婚するの、嫌だったって話じゃないよ」

そこは間違えてほしくなかった。

「相手が弥生でよかったと思ってる。本当に」

弥生が顔を上げた。

「……そっか」

「うん。だから、弥生にばっかり大変な思いをさせたくないの」

彼がまた箸を取るまで、瑛美は待った。

「ちゃんと食べてね。冷めちゃうから」

「うん。食べる」

弥生は肉じゃがを一口食べた。瑛美も手を解き、水の入ったグラスを少し彼の方へ寄せた。

結婚式の夜にも、弥生はずいぶん気を遣ってくれた。

瑛美が身を固くすると、動きを止めた。痛くないかと聞き、返事を待ってくれた。その時に「好き」とも、「愛してる」とも言ってくれた。

あの状況で、自分を安心させようとしてくれたのだと思っている。

弥生なら、事情があって結婚した妻に、愛されていないと感じさせたままではいられないだろう。瑛美を大切に思ってくれているのは、昔から知っていた。その気持ちを、夫としての言葉で伝えてくれたのだと思えば、少しも不自然ではなかった。

嘘を言われたとは思わない。そういうところまで、弥生は優しい。

だから自分も、妻として応えたいと思った。

弥生は男の人で、今は自分の夫だ。夫婦なら、そういうこともする。男性は女性よりしたくなるものだと、結婚前に読んだ記事には書かれていた。自分の感覚だけで考えてはいけないのだろうと思った。

経験がなかったから、触れられるとまだ身構えてしまう。初めての夜も、次に何があるのか分からず、身体に力が入った。それでも、弥生が相手なのだから、嫌だとは思わなかった。

今、彼の一番近くにいるのは自分だった。それも、食事を用意するのと同じように、妻になった自分がすることなのだと思っていた。

向かいで弥生が、最後の一口を食べ終えた。

「ごちそうさま。遅いのに、ありがとう」

「いえいえ。お風呂、入ってきて」

瑛美は席を立ち、空になった器へ手を伸ばした。

*

浴室を出ても、食卓で聞いた言葉が耳に残っていた。

弥生は髪を拭きながら、寝室の扉を開けた。先に入浴を済ませていた瑛美は、ベッドへ座って携帯電話を見ている。

弥生に気づくと、画面を消した。

「もう寝る?」

「うん」

タオルを置き、枕元の充電器へ携帯電話をつないだ。瑛美は掛け布団を持ち上げ、自分の側へ横になる。弥生が隣へ入っても、肩が触れないくらいの間があった。

東雲を助けるために、結婚までしてくれた。

瑛美は、そのつもりで毎朝起きていた。

食事を作り、帰宅を待ち、何かできることがないかと探していた。弥生が引き受けた負担に、自分もできる限り応えようとしていた。

二人の結婚について、あれほどきちんと筋道を立てて考えているとは思わなかった。

その筋道を作ったのは、弥生だった。

父親に説明したことを、娘がそのまま信じている。何も間違えていなかった。瑛美は、聞いた話から当然のことを考えただけだった。

——巻き込まれたん、僕なんや。

会社が支援を必要とする時期を選び、父親へ条件を持っていった。娘を巻き込むなと言われても、取り下げなかった。

その娘が、今は自分へ申し訳ないと言う。

弥生は顔を横へ向けた。瑛美もまだこちらを見ていた。

近くにいると、触れたかった。部屋着の袖から出た腕にも、枕へ広がりかけた髪にも、目がいく。今日一日、仕事をしている間も、帰れば瑛美がいると思っていた。

食卓で何を聞いたあとでも、その気持ちは変わらない。

弥生は彼女の頬へ手を伸ばした。

指が触れる直前、瑛美の顎がわずかに引かれた。肩も上がる。けれど、避けきろうとはせず、そのまま待った。

弥生の手が止まると、瑛美は彼の顔を見た。

「……大丈夫だよ」

そう言って、少しだけ顔を戻した。

初夜にも、同じ返事を聞いた。あの時も瑛美は大丈夫と言い、弥生は何度も確かめながら、その先へ進んだ。

今夜は、手を動かせなかった。

「……嫌なん?」

「嫌じゃないよ」

返事は早かった。

「ほんまに?」

「うん。弥生だし」

それから瑛美は、布団の端へ視線を落とした。

「まだ慣れないだけ。……夫婦になったんだから、ちゃんとするよ」

ちゃんと。

弥生は、伸ばしていた手をシーツへ下ろした。

彼女は嘘をついているのではないのだろう。嫌かと聞けば嫌ではなく、できるかと聞けば大丈夫だった。弥生が望むなら、応じるつもりでここにいる。

そういう返事なら、いくらでももらえそうだった。

「瑛美」

呼ぶと、彼女が目を上げた。

弥生は笑わず、その目を見た。

「……ほな、したい?」

瑛美の唇が、わずかに開いた。

声は出なかった。さっきまでのようにはうなずかず、弥生を見ている。

弥生は待った。

気まずそうにしていれば、普段なら自分から何か言っていた。冗談にしてしまうこともできた。疲れたから今日は寝ようと、こちらの都合にすることもできる。

けれど、今それを言えば、瑛美は自分の返事をしないまま済ませられる。

したいのか。

それだけは、妻として何ができるかを考える代わりに、瑛美自身に答えてほしかった。

彼女の目が一度、弥生の手へ落ちた。何もしていない手を見てから、また顔へ戻ってくる。

弥生は視線を外さなかった。

長い間があった。瑛美は何か言いかけて唇を閉じ、やがて小さな声を出した。

「……分からない」

弥生は息をついた。

「そっか」

近づけていた身体を、自分の枕の方へ戻した。シーツについた手も引く。

「ほな、分かるまでええよ」

瑛美は少しの間、弥生を見ていた。

「……うん」

肩が下がった。布団をつまんでいた指が解け、胸元の布の皺が緩む。

その変化を、弥生は見てしまった。

——僕とは、したないんや。

そう思ったあとで、分からないと言っただけだと、自分に言い直した。

それでも、しなくていいと分かって彼女がほっとしたのは見えた。弥生が手を引いたあとで、ようやく息を深く吸った。

欲しかったのは、そういう顔ではなかった。

初めての夜、瑛美を抱けたことが嬉しかった。二十年間、自分の隣にいても、それだけはできなかった相手だった。髪を撫で、抱き寄せ、彼女の返事を聞くたびに、ようやくここまで来たと思った。

今も抱きたい。できるなら、こちらを見ている瑛美へ、もう一度手を伸ばしたい。

けれど、自分が男で、夫だから、瑛美がその相手をする。それでは、何のために瑛美と結婚したのか分からなかった。

自分だけが満足したあと、彼女がようやく力を抜くような夜を、これからも重ねたいわけではない。

瑛美も触れてほしかったのだと思いたかった。夫になったからではなく、弥生だから。

言葉にできずにいる間、瑛美の指は、布団の上で動かずにいた。

「電気、消そか」

「うん。お願いします」

弥生は仰向けになり、照明を落とした。

暗くなってから、瑛美が向きを変える音がした。身体がぶつからないよう、寝返りも小さい。

「おやすみ」

「……おやすみなさい」

それから、何も話さなかった。

弥生は天井を見ていた。

さっき、瑛美は分からないと言うまでに、ずいぶん時間がかかった。

弥生を嫌だと思っていない。それは信じたかった。ただ、自分がしたいかどうかも分からないまま、応じようとしていた。弥生に聞かれなければ、何も言わずに。

断られたことより、その方があとになって堪えた。

瑛美は昔から、弥生の言うことを何でも聞く人ではなかった。誘えばいつでも来るわけではないし、疲れている時に付き合わせようとすれば、今日は嫌だと言った。弥生が何を言っても、気が進まなければ首を横に振る。それで翌日から会わなくなるわけでも、話せなくなるわけでもなかった。

その相手が今は、自分の気持ちも分からないと言うのをためらう。

触れられると身構えるくせに、弥生が止まれば、大丈夫と先に言う。

今日の食卓で理由を知ってしまったから、もう、慣れていないだけだとは思えなかった。

東雲を助けてもらった。結婚までしてもらった。だから自分も、妻としてちゃんとしなければ。

彼女がそう考えるたび、弥生へ言わなくなることがある。

弥生は掛け布団の下で、指を曲げた。

抱けなくても、手を繋いで眠るだけでよかった。それすら嫌なら、何もしなくていい。瑛美が自分の方へ手を出してくれれば、それだけで今夜は眠れそうだった。

けれど、手を繋ごうとも言えなかった。

頼めば、瑛美は差し出すだろう。夕食を温めるのと同じように、弥生が望むなら、そうしてくれる。

その手を取ってからも、きっと考えてしまう。

本当に繋ぎたかったのか。それとも、自分がそうしてほしいと言ったからなのか。

何も頼まなければ、瑛美から伸びてくる手はなかった。

弥生は曲げた指を解き、そのまま自分の身体の脇へ置いた。

隣にいることは、譲れない。

明日もここで一緒に目を覚まし、同じ家へ帰ってきたい。そのためにしたことを、瑛美に話すつもりもなかった。

ただ、夫になれば、今までより近くへ行けると思っていた。

妻になった瑛美が何をしてくれても、それは自分に返すためなのかもしれない。そんなことを、一つずつ考えなければならなくなるとは思わなかった。

隣の呼吸が、少しずつ落ち着いていく。

弥生は顔を横へ向けた。暗さに目が慣れ、瑛美の枕の輪郭が見えた。手を伸ばせば届くところで、彼女はもう眠りかけていた。

——好きやって言うたやん。

思ったところで、いつ言ったのかを思い出した。

結婚式の夜。初めて夫婦として触れ合っている時だった。瑛美が緊張しているのを見ながら、好きだと、愛していると伝えた。

あの時の言葉だけで、二十年間の気持ちが分かったはずだと思う方が無理だった。

瑛美にとっては、夫になった弥生が、慣れない妻を安心させるために言った言葉だったのかもしれない。今日の話を聞いた今なら、その受け取り方も分かった。

ならば、起きている時に言えばいい。

明日の朝、食卓でもいい。何もしていない時に、瑛美の目を見て、彼女と結婚したかったのだと伝えればいい。

東雲を助けるために引き受けたのではない。

瑛美が好きだから、結婚したかった。

そのあとで、いつから、と聞かれるかもしれない。なぜ今まで言わなかったのか。どうして、父親へ持っていった融資の条件が先だったのか。

言えないことを避けながら、伝えられることはあるはずだった。

それでも、瑛美がどんな顔で聞くのかを考えると、その先が続かなかった。

親しい幼馴染として大切にされているのは、知っている。相手が自分でよかったとも言ってくれた。

その瑛美に、今度は自分が好きだから選んでほしいと言う。

結婚した今も、そこだけは何も変わっていなかった。

弥生は瑛美の枕を見ていた。ほどなく呼吸が一定になり、彼女は眠った。

明日の朝になれば、向かいに座る相手は、二十年前から知っている瑛美だ。聞いてもらいたい言葉は、もう分かっている。

東雲建設を傾けるより、ずっと簡単なはずだった。

けれど弥生は、その一言を口にする明日の自分を、どうしても思い描けなかった。