進水式を終えた弥生と瑛美は、そのまま長崎市内のホテルに一泊した。
翌朝、客室の窓からは、日に照らされた港が見えた。朝食のテーブルには卵料理とパン、切り分けられた果物が並び、瑛美はコーヒーを飲みながら外を眺めていた。
「今日も晴れてよかったね」
「うん。歩くにはええな」
弥生はパンにバターを塗り、彼女を見た。
「どこ行きたい?」
「グラバー園と、眼鏡橋。あと、ちゃんぽん食べたい」
「ほな、午前中にグラバー園行こか。大浦天主堂もすぐ近くやし。昼は中華街でええ?」
「うん。そこから眼鏡橋?」
「そう。途中は路面電車で移動したらええと思う。荷物はここに預けて、帰りに取りに戻ろ」
瑛美はカップを置いた。
「ちゃんぽんのお店も決めてるの?」
「二軒ほど調べてあるよ。片方混んでたら、もう一軒の方行けるし」
「え、いつの間に?」
「昨日の夜」
「私、先に寝ちゃったもんね」
瑛美は少し笑い、窓の方へ向けていた椅子を戻した。
「じゃあ、今日は弥生にお任せでいい?」
「もちろん」
「頼りにしてます」
「任せとき」
返事をしてから、弥生はナイフを置き、コーヒーを飲んだ。
——よし。
朝食を終えて身支度をする間に、弥生は帰りの空港までの移動をもう一度確かめた。携帯電話をしまうと、瑛美も靴を履き終えていた。昨日の式で履いていたものとは違う、歩きやすそうな靴だった。
「準備できた?」
「うん。今日はいっぱい歩けるよ」
彼女がつま先を一度上げて見せたので、弥生はうなずき、部屋の扉を開けた。
*
南山手の坂は、地図で見ていたより急だった。
土産物店の並ぶ道へ入った時には、二人ともまだ店先を眺める余裕があった。瑛美はカステラの看板を見上げ、弥生は大浦天主堂の方角を確かめた。手を繋いで歩き始め、しばらくすると、会話の間が長くなった。
坂の先に見える白い建物は、さっきから、あまり大きくなっていない気がする。
「……弥生、まだ登るの?」
「もうちょっとやと思う」
「さっきもそう言ってた」
「さっきよりは近づいてるやろ」
瑛美は顔を上げ、道の先を見た。それから隣の弥生を見る。
「ねえ、おぶってよ〜」
「僕もおぶってほしいわ」
「誰に?」
「瑛美に」
「無理だよ」
「僕も無理や」
二人とも足を止めた。
笑うと、息が余計に切れた。弥生は空いている手で額を押さえ、瑛美は繋いだ手を軽く引いた。
「朝、任せときって言ってたのに」
「道は合うてる」
「うん。合ってるんだろうね」
「坂のきつさまでは、画面に出てへんかったんや」
「長崎、坂が多いって書いてなかった?」
「書いてあった」
「読んだ?」
「読んだよ。読んだのと、登るのは違うやろ」
瑛美がまた笑った。弥生も、道の先を見て息をついた。
——確かに書いてあったな。
徒歩何分という表示ばかり見ていた。ホテルを出る時には、十分余裕のある予定だと思っていたのに、まだ最初の目的地にも着いていない。
「ちょっと、ゆっくり行こか」
「うん。急がなくていいもんね」
歩き出すと、瑛美が繋いだ手を前後に小さく振った。
「弥生、普段、歩かなさすぎじゃない?」
「瑛美も一緒に止まってたやん」
「私はおぶってもらう予定だったから」
「今初めて聞いたわ、その予定」
大浦天主堂の前まで来て、二人は建物を見上げた。白い壁の上へ尖った塔が伸び、その向こうに青空があった。瑛美が携帯電話を取り出し、弥生は少し横へ退いた。
「弥生も入って」
「僕も?」
「昨日、船と撮れなかったでしょ。今日は忘れないように」
弥生は戻り、階段の端に立った。画面越しに瑛美が笑う。
「もうちょっと、元気そうにして」
「元気やで」
「顔が、坂登ってきましたって言ってる」
「登ってきたからな」
彼女が笑うので、つられて笑ったところを撮られた。
拝観を終えて外へ出ると、二人はグラバー園へ向かった。入口で弥生が入園料を払い、案内図を受け取る。園内を上へ運んでくれる動く歩道を見つけた時には、二人揃ってそちらを見た。
「乗ろ」
「うん」
瑛美の返事は早かった。
足を止めたまま景色が下へ移っていく。弥生は隣の瑛美を見た。彼女もこちらを見て、何も言わずにうなずいた。
降りた先からは、港と、その周りに広がる街が見えた。坂を歩いていた時には建物の間から少しずつしか見えなかった海が、今は大きく開けている。
「……すごいね」
瑛美が柵のそばへ寄った。弥生も並び、港を行く船を目で追った。
「ここまで来たら、登ってよかったと思うな」
「最後は乗せてもらったけどね」
「そこは黙っとこ」
園内の洋館を見て回り、庭を抜ける頃には、また足が重くなっていた。空いたベンチを見つけると、弥生がそちらを指した。瑛美はうなずき、隣へ座ると長く息を吐いた。
「座ると、もう動きたくなくなるね」
「ちゃんぽん食べに行かへんの?」
「行く」
「ほな、もう少ししたら動こ」
弥生が渡した水を飲み、瑛美は膝の上へ携帯電話を置いた。先ほど撮った写真を見せてくる。白い建物の前で、弥生が笑っていた。
「ほら。元気そうに撮れた」
「撮る人に笑われたからな」
「笑ってないよ」
「笑うてたやろ」
「正直、今も笑ってる」
「知ってる」
瑛美は肩を弥生の腕へ寄せ、そのまま港の方へ顔を向けた。弥生も背もたれへ身体を預けた。
庭を歩く人たちが、ゆっくり二人の前を通っていった。海から吹いてきた風に瑛美の髪が揺れ、弥生の頬へ触れる。彼女が髪を耳へかけ直すと、弥生は少しだけ肩を下げた。瑛美も座り直し、さっきより楽な姿勢で寄りかかった。
しばらく、二人とも動かなかった。
*
坂を下り、路面電車で移動した先には、中華街の赤い門があった。
弥生が調べていた店の一つで席に着くと、瑛美はちゃんぽんを、弥生は皿うどんを頼んだ。運ばれてきた丼から湯気が上がり、瑛美は写真を一枚撮ってから箸を取る。
「一口ずつ交換しよう」
「ええよ」
弥生が皿を少し寄せると、彼女はまずそちらを食べた。
「これもおいしい。迷ったんだよね」
「ほな、半分ずつにする?」
「うん。でも、最初はちゃんぽん食べる」
言いながら、まだ皿うどんを取っている。
「最初、もう始まってるけど」
瑛美は箸を止めて笑い、丼を二人の間へずらした。
食事を終えて弥生が会計を済ませると、店の外で待っていた瑛美が手を差し出した。
「ごちそうさま。じゃあ、眼鏡橋?」
「うん。今度は坂、登らんでええはずや」
「はずなんだ」
「慎重になってるねん」
*
中島川の水面には、石造りの橋のアーチが映っていた。
川沿いから眺めると、橋の下の二つの丸が、確かに眼鏡のように見えた。瑛美は欄干へ手を置き、少し顔を傾けた。
「ほんとに眼鏡だ」
「せやな」
「名前つけた人、絶対、見てすぐ言ったよね」
「『眼鏡や』って?」
「うん」
二人で橋の写真を撮ってから、瑛美は川のそばへ下りる階段を見つけた。
「ハートストーン、探していい?」
「ハートストーン?」
「石垣にハートの形の石があるんだって。写真で見たの」
「へえ」
「どの辺かは、見ないで来た。自分で見つけたいから」
瑛美は階段を下り、川沿いの通路から石垣を見上げた。弥生も後ろに続く。水はすぐ横をゆっくり流れ、上の通りを行く人の声が聞こえていた。
「こういう石の中に、一個だけ?」
「いくつかあるみたい。でも、ちゃんとハートの形のがあるの」
瑛美は目の高さにある石から、順に見ていた。弥生も、何となく隣の石へ目を移す。
——あ、あった。
色の違う石の間に、上が二つに分かれ、下の尖った石が収まっていた。脳内で向きを直す必要もなく、普通にハートだった。
弥生は瑛美を見た。
彼女はもう少し先の方を眺めている。顔を近づけて確かめ、首をかしげてから、また次へ移った。
——まあ、そのうち見つけるやろ。
弥生は口を閉じたまま、石垣へ視線を戻した。
「あ、これかな」
瑛美が一つの石を指した。上は二つに分かれていたが、下は平らだった。
「下が尖ってへんな」
瑛美は石の下の縁へ目をやった。
「ほんとだ。写真のは、もっとはっきりハートの形だったんだよね」
瑛美は写真の形を指で宙へ描き、また石垣を見た。
「先に見つけたら、言うてええの?」
「見つけても、すぐ言わないで」
「ほな、僕、何したらええねん」
「一緒にいて」
瑛美は石を見たまま答えた。
弥生は少しだけ彼女の横顔を見て、それから石垣へ目を戻した。
「……おるよ」
「でも、全然見つからなかったら教えて」
「注文多いな」
「そこは臨機応変に」
言いながら、瑛美は一歩進んだ。
次の一歩で、ハートの石の前に来た。目は、もう少し高いところを見ている。そのまま、また一歩進んだ。
——……ん?
弥生は、石と彼女を見比べた。
瑛美はさらに先へ進み、こちらを振り返った。
「この辺にはないのかな」
——あれ、瑛美?
さっき、目の前にあったけど。
「もう少し向こう見てみようかな」
彼女が歩きかけたので、弥生は笑いそうになりながら、後ろの石垣へ顔を向けた。
「瑛美、あの辺とかありそうやけど」
「え、どこ?」
「ほら、あの辺」
「さっき見たよ?」
「もう一回見てみたら?」
瑛美は戻ってきた。弥生の隣に立ち、示された辺りへ目をやる。
「上じゃなくて、もうちょっと下……」
途中で声が止まった。
「あった!」
瑛美が石を指した。
「お、ほんまや」
「ほら、これ。ちゃんとハートでしょ」
「うん。綺麗な形やな」
瑛美は石を見て笑った。それから、隣の弥生を見た。
「……弥生、先に見つけてた?」
「何で?」
「ありそう、の場所が正確すぎる」
「勘がええねん」
「絶対、知ってたでしょ」
「見つけても、すぐ言わんといてって言うたやん」
瑛美の口が、少し開いた。
「やっぱり!」
「僕はまだ、どっちとも言うてへんよ」
「今のは言ってるのと一緒だよ」
弥生は笑い、ハートの石へ目を戻した。瑛美もつられて笑い、指先で石の形をなぞった。
「いつから?」
「瑛美が、さっきの石見つける前」
「最初じゃない」
「うん」
「もう、黙って見てたんだ」
「一緒におったやろ」
瑛美は彼の腕を軽くたたき、もう一度ハートを見た。
*
「二人で撮ろう。弥生が撮って」
瑛美は携帯電話を差し出した。
「何で?」
「弥生の方が腕長いでしょ。その方が背景まで入るから」
「なるほどな」
弥生は受け取り、画面を自分たちへ向けた。石垣を背に立ち、腕を伸ばす。瑛美が肩を寄せてきたので、少し顔をそちらへ傾けた。
画面に二人の顔が収まった。
「撮るで」
シャッターを押して腕を下ろすと、瑛美が覗き込んだ。
「……へた!」
「えっ、何が?」
「ハートが切れてる!」
弥生は写真を見た。二人はちゃんと写っていた。ハートの石は、下の尖ったところだけが端にあった。
「僕らはちゃんと写ってるやん」
「ハートストーンと撮るんでしょ!」
「せやったな」
「何のために探したの」
瑛美は笑いながら、立つ位置を少しずらした。
「ここにあるから。これも入れてね」
「分かった」
今度は画面の中にハートを見つけてから、二人の顔を見る。瑛美がこちらへ寄った。弥生も寄ると、画面から石が消えた。
——どこ行った。
腕を横へ動かすと、今度は自分の顔が半分になった。
「弥生、もうちょっと、こっち」
「どっち?」
「携帯を、そっち。顔はこっち」
「別々に言うて」
二人とも笑ってしまい、画面が揺れた。
「よかったら、お撮りしましょうか?」
声をかけてくれたのは、通路を歩いてきた年配の女性だった。小さな手提げを持ち、二人へ穏やかに笑っている。
弥生は携帯電話を下ろした。
「ありがとうございます。お願いしてもよろしいですか」
「ええ。そこ、ハートと一緒に撮りたいんでしょう?」
「はい。なかなか入らなくて」
瑛美も笑い、女性へ頭を下げた。
携帯電話を渡すと、女性は石の位置を確かめ、少し離れたところに立った。
「お二人で、片手ずつハートを作ってみませんか。その中に、石のハートが入るように」
「ああ、なるほど」
弥生は瑛美を見た。彼女は小さく笑い、左手を上げた。弥生も右手を上げ、二人で指を曲げる。指先と親指を合わせると、胸の前にハートの形ができた。
女性の指示で立つ場所と手の高さを少し調整し、顔を寄せた。
「そうそう。いいですね。撮りますよ」
二度、シャッターの音がした。
「もう一枚、普通のも撮っておきましょうか」
「ありがとうございます」
手を下ろして並び、そちらも撮ってもらった。女性が携帯電話を返してくれると、弥生と瑛美は揃って礼を言った。
「この近くにお住まいなんですか?」
「ええ。よくここを通るんです」
「素敵なところですね。おかげさまで、いい記念になりました」
瑛美が言うと、女性は嬉しそうに笑った。
「楽しんでいってくださいね」
二人はもう一度頭を下げ、歩いていく背中を見送った。
女性が階段を上がってから、瑛美が弥生の手元を覗き込んだ。
「見せて」
弥生は撮ってもらった写真を開いた。
二人の手で作ったハートの中に、石のハートが収まっていた。顔も、途中で切れてはいない。肩をぴったり寄せ、二人ともずいぶん楽しそうに笑っていた。
「……すごい写真撮れたね」
「ほんまやな」
「私たち、こんなポーズするんだ」
「僕も初めて知ったわ」
二人で写真を拡大した。合わせた指も、ちょうどよく写っている。
「ねえ、これ、すごいバカップルじゃない?」
「まあ、否定はせえへんな」
「弥生、すごい笑顔だよ」
「瑛美もやろ」
「私はいいの」
「何でやねん」
瑛美は声を出して笑った。弥生も笑い、次の、普通に並んだ写真へ送った。
「こっちもええな」
「うん。でも、ハートの方がいい」
「すごいバカップルやのに?」
「記念だから。弥生も送ってほしいでしょ?」
「うん」
返事が早かったらしく、瑛美がこちらを見て、また笑った。
携帯電話を返すと、彼女は二枚とも送ってくれた。弥生の携帯電話が震える。受け取った写真を確かめてからしまうと、瑛美はもう、空いた手をこちらへ伸ばしていた。
*
帰りの飛行機が離陸して、しばらくすると、瑛美は眠っていた。
飲み物をもらうまでは起きていた。今日はよく歩いたね、と言って水を飲み、背もたれへ身体を預けたあとは、もう一言も話していない。弥生が顔を向けても気づかず、頭が少しこちらへ傾いていた。
弥生は自分の携帯電話を開いた。
大浦天主堂の前で笑っている自分。グラバー園から見た港。洋館のそばに立つ瑛美。昼のちゃんぽんと皿うどん。水面に丸く映った眼鏡橋。
次の写真へ進むと、ハートの尖ったところだけが入った自撮りもあった。瑛美は、あれまで送ってきたらしい。
その次に、二人で手のハートを作った写真が出てきた。
——……ほんま、何やこれ。
弥生は画面を少し近づけた。
二人とも、満面の笑みだった。
隣を見ると、瑛美はまだ眠っていた。膝に置いた手も、さっきから動いていない。
弥生はもう一度写真へ目を戻し、ふっと微笑んだ。
翌朝、客室の窓からは、日に照らされた港が見えた。朝食のテーブルには卵料理とパン、切り分けられた果物が並び、瑛美はコーヒーを飲みながら外を眺めていた。
「今日も晴れてよかったね」
「うん。歩くにはええな」
弥生はパンにバターを塗り、彼女を見た。
「どこ行きたい?」
「グラバー園と、眼鏡橋。あと、ちゃんぽん食べたい」
「ほな、午前中にグラバー園行こか。大浦天主堂もすぐ近くやし。昼は中華街でええ?」
「うん。そこから眼鏡橋?」
「そう。途中は路面電車で移動したらええと思う。荷物はここに預けて、帰りに取りに戻ろ」
瑛美はカップを置いた。
「ちゃんぽんのお店も決めてるの?」
「二軒ほど調べてあるよ。片方混んでたら、もう一軒の方行けるし」
「え、いつの間に?」
「昨日の夜」
「私、先に寝ちゃったもんね」
瑛美は少し笑い、窓の方へ向けていた椅子を戻した。
「じゃあ、今日は弥生にお任せでいい?」
「もちろん」
「頼りにしてます」
「任せとき」
返事をしてから、弥生はナイフを置き、コーヒーを飲んだ。
——よし。
朝食を終えて身支度をする間に、弥生は帰りの空港までの移動をもう一度確かめた。携帯電話をしまうと、瑛美も靴を履き終えていた。昨日の式で履いていたものとは違う、歩きやすそうな靴だった。
「準備できた?」
「うん。今日はいっぱい歩けるよ」
彼女がつま先を一度上げて見せたので、弥生はうなずき、部屋の扉を開けた。
*
南山手の坂は、地図で見ていたより急だった。
土産物店の並ぶ道へ入った時には、二人ともまだ店先を眺める余裕があった。瑛美はカステラの看板を見上げ、弥生は大浦天主堂の方角を確かめた。手を繋いで歩き始め、しばらくすると、会話の間が長くなった。
坂の先に見える白い建物は、さっきから、あまり大きくなっていない気がする。
「……弥生、まだ登るの?」
「もうちょっとやと思う」
「さっきもそう言ってた」
「さっきよりは近づいてるやろ」
瑛美は顔を上げ、道の先を見た。それから隣の弥生を見る。
「ねえ、おぶってよ〜」
「僕もおぶってほしいわ」
「誰に?」
「瑛美に」
「無理だよ」
「僕も無理や」
二人とも足を止めた。
笑うと、息が余計に切れた。弥生は空いている手で額を押さえ、瑛美は繋いだ手を軽く引いた。
「朝、任せときって言ってたのに」
「道は合うてる」
「うん。合ってるんだろうね」
「坂のきつさまでは、画面に出てへんかったんや」
「長崎、坂が多いって書いてなかった?」
「書いてあった」
「読んだ?」
「読んだよ。読んだのと、登るのは違うやろ」
瑛美がまた笑った。弥生も、道の先を見て息をついた。
——確かに書いてあったな。
徒歩何分という表示ばかり見ていた。ホテルを出る時には、十分余裕のある予定だと思っていたのに、まだ最初の目的地にも着いていない。
「ちょっと、ゆっくり行こか」
「うん。急がなくていいもんね」
歩き出すと、瑛美が繋いだ手を前後に小さく振った。
「弥生、普段、歩かなさすぎじゃない?」
「瑛美も一緒に止まってたやん」
「私はおぶってもらう予定だったから」
「今初めて聞いたわ、その予定」
大浦天主堂の前まで来て、二人は建物を見上げた。白い壁の上へ尖った塔が伸び、その向こうに青空があった。瑛美が携帯電話を取り出し、弥生は少し横へ退いた。
「弥生も入って」
「僕も?」
「昨日、船と撮れなかったでしょ。今日は忘れないように」
弥生は戻り、階段の端に立った。画面越しに瑛美が笑う。
「もうちょっと、元気そうにして」
「元気やで」
「顔が、坂登ってきましたって言ってる」
「登ってきたからな」
彼女が笑うので、つられて笑ったところを撮られた。
拝観を終えて外へ出ると、二人はグラバー園へ向かった。入口で弥生が入園料を払い、案内図を受け取る。園内を上へ運んでくれる動く歩道を見つけた時には、二人揃ってそちらを見た。
「乗ろ」
「うん」
瑛美の返事は早かった。
足を止めたまま景色が下へ移っていく。弥生は隣の瑛美を見た。彼女もこちらを見て、何も言わずにうなずいた。
降りた先からは、港と、その周りに広がる街が見えた。坂を歩いていた時には建物の間から少しずつしか見えなかった海が、今は大きく開けている。
「……すごいね」
瑛美が柵のそばへ寄った。弥生も並び、港を行く船を目で追った。
「ここまで来たら、登ってよかったと思うな」
「最後は乗せてもらったけどね」
「そこは黙っとこ」
園内の洋館を見て回り、庭を抜ける頃には、また足が重くなっていた。空いたベンチを見つけると、弥生がそちらを指した。瑛美はうなずき、隣へ座ると長く息を吐いた。
「座ると、もう動きたくなくなるね」
「ちゃんぽん食べに行かへんの?」
「行く」
「ほな、もう少ししたら動こ」
弥生が渡した水を飲み、瑛美は膝の上へ携帯電話を置いた。先ほど撮った写真を見せてくる。白い建物の前で、弥生が笑っていた。
「ほら。元気そうに撮れた」
「撮る人に笑われたからな」
「笑ってないよ」
「笑うてたやろ」
「正直、今も笑ってる」
「知ってる」
瑛美は肩を弥生の腕へ寄せ、そのまま港の方へ顔を向けた。弥生も背もたれへ身体を預けた。
庭を歩く人たちが、ゆっくり二人の前を通っていった。海から吹いてきた風に瑛美の髪が揺れ、弥生の頬へ触れる。彼女が髪を耳へかけ直すと、弥生は少しだけ肩を下げた。瑛美も座り直し、さっきより楽な姿勢で寄りかかった。
しばらく、二人とも動かなかった。
*
坂を下り、路面電車で移動した先には、中華街の赤い門があった。
弥生が調べていた店の一つで席に着くと、瑛美はちゃんぽんを、弥生は皿うどんを頼んだ。運ばれてきた丼から湯気が上がり、瑛美は写真を一枚撮ってから箸を取る。
「一口ずつ交換しよう」
「ええよ」
弥生が皿を少し寄せると、彼女はまずそちらを食べた。
「これもおいしい。迷ったんだよね」
「ほな、半分ずつにする?」
「うん。でも、最初はちゃんぽん食べる」
言いながら、まだ皿うどんを取っている。
「最初、もう始まってるけど」
瑛美は箸を止めて笑い、丼を二人の間へずらした。
食事を終えて弥生が会計を済ませると、店の外で待っていた瑛美が手を差し出した。
「ごちそうさま。じゃあ、眼鏡橋?」
「うん。今度は坂、登らんでええはずや」
「はずなんだ」
「慎重になってるねん」
*
中島川の水面には、石造りの橋のアーチが映っていた。
川沿いから眺めると、橋の下の二つの丸が、確かに眼鏡のように見えた。瑛美は欄干へ手を置き、少し顔を傾けた。
「ほんとに眼鏡だ」
「せやな」
「名前つけた人、絶対、見てすぐ言ったよね」
「『眼鏡や』って?」
「うん」
二人で橋の写真を撮ってから、瑛美は川のそばへ下りる階段を見つけた。
「ハートストーン、探していい?」
「ハートストーン?」
「石垣にハートの形の石があるんだって。写真で見たの」
「へえ」
「どの辺かは、見ないで来た。自分で見つけたいから」
瑛美は階段を下り、川沿いの通路から石垣を見上げた。弥生も後ろに続く。水はすぐ横をゆっくり流れ、上の通りを行く人の声が聞こえていた。
「こういう石の中に、一個だけ?」
「いくつかあるみたい。でも、ちゃんとハートの形のがあるの」
瑛美は目の高さにある石から、順に見ていた。弥生も、何となく隣の石へ目を移す。
——あ、あった。
色の違う石の間に、上が二つに分かれ、下の尖った石が収まっていた。脳内で向きを直す必要もなく、普通にハートだった。
弥生は瑛美を見た。
彼女はもう少し先の方を眺めている。顔を近づけて確かめ、首をかしげてから、また次へ移った。
——まあ、そのうち見つけるやろ。
弥生は口を閉じたまま、石垣へ視線を戻した。
「あ、これかな」
瑛美が一つの石を指した。上は二つに分かれていたが、下は平らだった。
「下が尖ってへんな」
瑛美は石の下の縁へ目をやった。
「ほんとだ。写真のは、もっとはっきりハートの形だったんだよね」
瑛美は写真の形を指で宙へ描き、また石垣を見た。
「先に見つけたら、言うてええの?」
「見つけても、すぐ言わないで」
「ほな、僕、何したらええねん」
「一緒にいて」
瑛美は石を見たまま答えた。
弥生は少しだけ彼女の横顔を見て、それから石垣へ目を戻した。
「……おるよ」
「でも、全然見つからなかったら教えて」
「注文多いな」
「そこは臨機応変に」
言いながら、瑛美は一歩進んだ。
次の一歩で、ハートの石の前に来た。目は、もう少し高いところを見ている。そのまま、また一歩進んだ。
——……ん?
弥生は、石と彼女を見比べた。
瑛美はさらに先へ進み、こちらを振り返った。
「この辺にはないのかな」
——あれ、瑛美?
さっき、目の前にあったけど。
「もう少し向こう見てみようかな」
彼女が歩きかけたので、弥生は笑いそうになりながら、後ろの石垣へ顔を向けた。
「瑛美、あの辺とかありそうやけど」
「え、どこ?」
「ほら、あの辺」
「さっき見たよ?」
「もう一回見てみたら?」
瑛美は戻ってきた。弥生の隣に立ち、示された辺りへ目をやる。
「上じゃなくて、もうちょっと下……」
途中で声が止まった。
「あった!」
瑛美が石を指した。
「お、ほんまや」
「ほら、これ。ちゃんとハートでしょ」
「うん。綺麗な形やな」
瑛美は石を見て笑った。それから、隣の弥生を見た。
「……弥生、先に見つけてた?」
「何で?」
「ありそう、の場所が正確すぎる」
「勘がええねん」
「絶対、知ってたでしょ」
「見つけても、すぐ言わんといてって言うたやん」
瑛美の口が、少し開いた。
「やっぱり!」
「僕はまだ、どっちとも言うてへんよ」
「今のは言ってるのと一緒だよ」
弥生は笑い、ハートの石へ目を戻した。瑛美もつられて笑い、指先で石の形をなぞった。
「いつから?」
「瑛美が、さっきの石見つける前」
「最初じゃない」
「うん」
「もう、黙って見てたんだ」
「一緒におったやろ」
瑛美は彼の腕を軽くたたき、もう一度ハートを見た。
*
「二人で撮ろう。弥生が撮って」
瑛美は携帯電話を差し出した。
「何で?」
「弥生の方が腕長いでしょ。その方が背景まで入るから」
「なるほどな」
弥生は受け取り、画面を自分たちへ向けた。石垣を背に立ち、腕を伸ばす。瑛美が肩を寄せてきたので、少し顔をそちらへ傾けた。
画面に二人の顔が収まった。
「撮るで」
シャッターを押して腕を下ろすと、瑛美が覗き込んだ。
「……へた!」
「えっ、何が?」
「ハートが切れてる!」
弥生は写真を見た。二人はちゃんと写っていた。ハートの石は、下の尖ったところだけが端にあった。
「僕らはちゃんと写ってるやん」
「ハートストーンと撮るんでしょ!」
「せやったな」
「何のために探したの」
瑛美は笑いながら、立つ位置を少しずらした。
「ここにあるから。これも入れてね」
「分かった」
今度は画面の中にハートを見つけてから、二人の顔を見る。瑛美がこちらへ寄った。弥生も寄ると、画面から石が消えた。
——どこ行った。
腕を横へ動かすと、今度は自分の顔が半分になった。
「弥生、もうちょっと、こっち」
「どっち?」
「携帯を、そっち。顔はこっち」
「別々に言うて」
二人とも笑ってしまい、画面が揺れた。
「よかったら、お撮りしましょうか?」
声をかけてくれたのは、通路を歩いてきた年配の女性だった。小さな手提げを持ち、二人へ穏やかに笑っている。
弥生は携帯電話を下ろした。
「ありがとうございます。お願いしてもよろしいですか」
「ええ。そこ、ハートと一緒に撮りたいんでしょう?」
「はい。なかなか入らなくて」
瑛美も笑い、女性へ頭を下げた。
携帯電話を渡すと、女性は石の位置を確かめ、少し離れたところに立った。
「お二人で、片手ずつハートを作ってみませんか。その中に、石のハートが入るように」
「ああ、なるほど」
弥生は瑛美を見た。彼女は小さく笑い、左手を上げた。弥生も右手を上げ、二人で指を曲げる。指先と親指を合わせると、胸の前にハートの形ができた。
女性の指示で立つ場所と手の高さを少し調整し、顔を寄せた。
「そうそう。いいですね。撮りますよ」
二度、シャッターの音がした。
「もう一枚、普通のも撮っておきましょうか」
「ありがとうございます」
手を下ろして並び、そちらも撮ってもらった。女性が携帯電話を返してくれると、弥生と瑛美は揃って礼を言った。
「この近くにお住まいなんですか?」
「ええ。よくここを通るんです」
「素敵なところですね。おかげさまで、いい記念になりました」
瑛美が言うと、女性は嬉しそうに笑った。
「楽しんでいってくださいね」
二人はもう一度頭を下げ、歩いていく背中を見送った。
女性が階段を上がってから、瑛美が弥生の手元を覗き込んだ。
「見せて」
弥生は撮ってもらった写真を開いた。
二人の手で作ったハートの中に、石のハートが収まっていた。顔も、途中で切れてはいない。肩をぴったり寄せ、二人ともずいぶん楽しそうに笑っていた。
「……すごい写真撮れたね」
「ほんまやな」
「私たち、こんなポーズするんだ」
「僕も初めて知ったわ」
二人で写真を拡大した。合わせた指も、ちょうどよく写っている。
「ねえ、これ、すごいバカップルじゃない?」
「まあ、否定はせえへんな」
「弥生、すごい笑顔だよ」
「瑛美もやろ」
「私はいいの」
「何でやねん」
瑛美は声を出して笑った。弥生も笑い、次の、普通に並んだ写真へ送った。
「こっちもええな」
「うん。でも、ハートの方がいい」
「すごいバカップルやのに?」
「記念だから。弥生も送ってほしいでしょ?」
「うん」
返事が早かったらしく、瑛美がこちらを見て、また笑った。
携帯電話を返すと、彼女は二枚とも送ってくれた。弥生の携帯電話が震える。受け取った写真を確かめてからしまうと、瑛美はもう、空いた手をこちらへ伸ばしていた。
*
帰りの飛行機が離陸して、しばらくすると、瑛美は眠っていた。
飲み物をもらうまでは起きていた。今日はよく歩いたね、と言って水を飲み、背もたれへ身体を預けたあとは、もう一言も話していない。弥生が顔を向けても気づかず、頭が少しこちらへ傾いていた。
弥生は自分の携帯電話を開いた。
大浦天主堂の前で笑っている自分。グラバー園から見た港。洋館のそばに立つ瑛美。昼のちゃんぽんと皿うどん。水面に丸く映った眼鏡橋。
次の写真へ進むと、ハートの尖ったところだけが入った自撮りもあった。瑛美は、あれまで送ってきたらしい。
その次に、二人で手のハートを作った写真が出てきた。
——……ほんま、何やこれ。
弥生は画面を少し近づけた。
二人とも、満面の笑みだった。
隣を見ると、瑛美はまだ眠っていた。膝に置いた手も、さっきから動いていない。
弥生はもう一度写真へ目を戻し、ふっと微笑んだ。
