上林弥生の事情

「進水式、代わりに行ってきてくれへんか」

上林ホールディングスの執務室で、睦月が招待状を差し出した。弥生は受け取り、上林造船の社名と日付を見た。

「お父さんが行く予定やったんですか」

「そう。俺もその日は、こっちの会議を外せへん。造船には、お前に頼むと伝えてある」

「分かりました。予定、調整します」

弥生は式次第へ目を移した。会議の資料では何度も見た造船所だが、実際に足を運ぶのは初めてだった。

「お前、進水式は行ったことあったか?」

「いえ。初めてです」

「ほな、見てくるとええ。現地の人にも会えるしな。エミちゃんも一緒にどうやって、宗一郎おじさんが」

「瑛美もですか」

「うん。本人の都合がよかったら、二人で」

「ほな、帰ったら聞いてみます」

「一人で行ってくれって言うた時より、嬉しそうやな」

「……顔に出てました?」

睦月が笑い、机の上の書類へ手を戻した。

宗一郎と明彦の株式については、引き続き調査を進めている。兄とも連絡を取り合っていたが、二人まとめて売るという仮説を裏付ける報告は、まだなかった。

弥生は招待状をしまい、兄へ挨拶して部屋を出た。

*

その夜、招待状を見せると、瑛美はすぐに日付を確かめた。

「行きたい。私も一緒に行っていいの?」

「うん。宗一郎おじさんが、瑛美もどうぞって。長崎の造船所やねんけど、日程は大丈夫?」

「大丈夫。じゃあ、お返事しておいて。久しぶりだなあ」

弥生は、ソファへ座りかけたところで彼女を見た。

「久しぶり?」

「進水式。前にお父さんと行ったことあるの」

「造船の?」

「船の進水式だからね」

「いや、上林造船のっていう意味や」

瑛美は笑い、招待状を弥生へ返した。

「違う会社。東雲は港の工事もするし、造船所の施設を造ったり、改修したりすることもあるから。そのお付き合いで」

「へえ。僕、初めてやねん」

「そうなんだ。じゃあ、楽しみだね」

瑛美が隣へ座った。弥生は式次第を二人の間に置き、並んで目を通す。

「進水式って、何するんやろ」

「船を海に浮かべるの」

「それは知ってる」

「じゃあ、大丈夫だね」

「もうちょっと教えてくれてもええやん」

瑛美は肩を揺らして笑った。紙へ指を置き、命名のあとにある支綱切断の文字を示す。

「船主さん側の方が綱を切って、それから船が動くんだよ。私が見た時は、船台から海へ滑り降りていった。すごい迫力だった」

「あんな大きいもんが、滑るんか」

「うん。動画で見るより、ずっと大きく感じると思う」

瑛美は携帯電話を取り出し、以前の写真を見せてくれた。大きな船の前に立つ彼女を、父が撮ったものだった。今より少し短い髪が、海からの風で頬へかかっている。

「今度は、弥生も一緒に撮ろうね」

「うん」

弥生が答えると、瑛美は写真をもう一度見てから、携帯電話を伏せた。

彼女が隣で楽しみにしているだけで、日付を確認する時の気分が変わった。

*

当日の造船所には、海から風が吹いていた。

車を降りると、弥生はまず船台の方を見た。大きな船体が、周囲の建物や人を小さく見せている。会議資料に載っていた写真より、ずっと高いところに船の縁があった。

「……大きいな」

隣で瑛美がうなずいた。

「ね」

受付を済ませ、案内された控室で関係者へ挨拶した。船主側の来賓や取引先が集まり、上林造船の役員たちがそれぞれ応対している。

宗一郎は二人を見ると、話していた相手へ断って近づいてきた。

「よう来たな。瑛美さんも、遠いところありがとう」

「お招きいただいて、ありがとうございます」

瑛美が頭を下げ、弥生も続いた。

「今日は父の代理で参りました。父も、出席できひんことを残念がってました。よろしくお伝えするようにと」

「今は身体を休めてもらう方が大事や。弥生くんらが来てくれたら、十分やから」

宗一郎はそう答え、そばにいた船主側の関係者へ二人を紹介した。弥生は上林キャピタルの代表として名乗り、瑛美も隣で挨拶する。

明彦も加わり、今日進水する船の建造経緯を話した。取引先の問いに答え、宗一郎が昔の取引の話を補う。会議室で向かい合っていた時より、会話はずっと滑らかだった。

挨拶を終え、式の会場へ移動するまで少し時間ができた。指定された通路から船台が見えるところで、弥生はまた足を止めた。

瑛美も隣に並び、船体を見上げる。

「あの船、まだ全部完成してるわけじゃないんだよ」

「え、そうなん?」

「浮かべてから、岸壁で仕上げるところもあるの。艤装工事っていうんだけど」

弥生は船から、少し先にある岸壁へ目を移した。そちらにも船が泊まり、クレーンや作業用の設備が並んでいる。

「あっちで、続きをやるんか」

「そう。だから船を造るところだけじゃなくて、岸壁の設備も必要になるの」

「なるほどなあ。浮かべたら、そのままお渡しするんかと思うてた」

「まだ試運転もあるしね」

「瑛美、よう知ってるな」

「前に来た時、教えてもらったんだよ」

弥生はもう一度船台を見た。

「あれ、どうやって止めてあるん?」

「そこまでは知らない」

返事が早かったので、弥生は彼女へ顔を戻した。

「急に終わったな、解説」

「船を造る仕事はしてないもん」

瑛美は近くにいた案内係へ、その仕組みを尋ねた。弥生も一緒に説明を聞き、礼を言った。

「私も勉強になりました」

歩き始めてから瑛美が言ったので、弥生も笑い、二人で来賓席へ向かった。

*

式が始まると、弥生は配られた式次第を膝へ置いた。

船の名前が告げられ、覆いが外される。船体に記された文字へ顔を上げている間に、進水準備が進んだ。

支綱を切る役を務める船主側の女性が、斧を持って所定の位置へ立った。会場の声が静まり、弥生も船へ視線を戻す。

斧が振り下ろされた。

船首のくす玉が開き、色のついたテープが風へ広がった。その向こうで、船体が動いた。

最初は、背景のクレーンがずれたように見えた。次の瞬間には、巨大な船が船台を滑っていると分かった。船尾から海へ入っていくにつれ、音が大きくなり、水面に白い波が広がる。

弥生は思わず、膝に置いていた紙を握った。

「……おお」

拍手が起きた。弥生も手をたたき、船が海に浮かぶまで目で追った。

隣の瑛美も拍手をしていた。こちらへ一度顔を向けて笑うと、すぐに船へ戻る。

あれだけのものが、ついさっきまで陸にあった。

船体の揺れが収まり、海上で待っていたタグボートが近づいた。弥生はその動きを見ながら、隣へ少し顔を寄せた。

「写真、撮るの忘れてた」

「私も」

瑛美が小声で答えた。

「二回目でも?」

「見ちゃうんだよ」

弥生はうなずき、もう一度船を見た。携帯電話を出すより、今はそちらを見ていたかった。

*

閉式後、二人が控室へ戻る通路を歩いていると、横の扉から志乃が出てきた。

濃紺のパンツスーツに、低い踵の靴を履いている。隣の社員と何か確認していたが、二人に気づくと足を止めた。

「弥生さん。今日はありがとうございます」

「こちらこそ、お招きいただいて。無事の進水、おめでとうございます」

弥生が答えると、志乃は瑛美へ目を向けた。

「瑛美さんも。お越しいただけて嬉しいです」

「ありがとうございます。とても迫力がありました」

隣にいた社員が志乃へ一礼し、先に控室へ入った。志乃は持っていた式次第を閉じ、二人へ向き直る。

「お父様は、その後いかがですか」

「落ち着いてます。しばらくは、休んでもろうてますけど」

「そうですか。よろしくお伝えください」

弥生がうなずくと、志乃は瑛美にも笑顔を向けた。

「この間の懇親会でも、ゆっくりお話しできませんでしたね」

「はい。今日はお会いできてよかったです」

「進水式は、初めて?」

「以前、父と別の造船会社さんへ伺ったことがあります。東雲がお仕事でお付き合いしていた会社で」

「東雲建設さんは、港湾工事も手がけていらっしゃるものね」

「はい。造船所の施設整備に関わることもあります」

志乃は通路の窓から見える岸壁へ、一度目を向けた。

「新しく造るだけでなく、古い設備を使いながら改修する話も多いでしょう」

「そうですね。工事する間も、止められないところがあるので。予定が変わると、工事の順番から組み直すこともあります」

「ええ。こちらは一隻の工程が動くと、次の船にも響くの。設備を直す期間だけ取れば済むわけではなくて」

瑛美がうなずいた。

「工事を小さく分けると、稼働は続けやすくなりますけど、その分、費用が増えることもありますよね。人や機材を何度も入れ直したり」

志乃の目が、瑛美へ戻った。

「よくご存じね。現場にもいらしたの?」

「いえ。私は経営管理の方でした。予算と実績に差が出た時に、説明を聞いていたんです。工事が遅れたから増えた費用なのか、もともとの見積もりに入っていなかったものなのか。その区別がつかないと、次の予算も変わらないので」

志乃が小さくうなずいた。

「それは、こちらも同じだわ。現場へ確認しに行くと、設備そのものより、材料を置く場所や運ぶ順番が原因だったりするの」

「そういうのって、設備を新しくしても残るんですか」

「残ることはある。だから、何を変えれば、どの作業が減るのかまで見たいのよ。ただ、新しい設備でないとできない仕事もあるから、そこは分けて考えないといけないけれど」

瑛美は窓の外を見て、また志乃へ顔を戻した。

「実際に見ると、運ぶ距離だけでも大変そうですね。私、資料で見ていた時は、ここまで広い場所を想像していませんでした」

「そうでしょう。事務所から歩くだけでも、結構かかるの」

志乃が笑った。会議室では見なかった、話の続きが出てきそうな笑い方だった。

弥生は二人の話を聞きながら、瑛美の横顔を見た。

家で東雲建設の資料を一緒に読んでいた時と同じように、彼女は相手の説明から、もう一つ確かめたいことを見つけていく。志乃も、その問いに答えるのを面倒がってはいなかった。

——ええ感じやな。

そう思ったところで、志乃が尋ねた。

「今も、そういうお仕事を?」

「いえ。結婚した時に東雲を退職して、今は働いていないんです」

「……辞めたの?」

志乃の視線が、弥生へ移った。

「なぜ瑛美さんを辞めさせたの? こんなに優秀なのに」

——え、僕?

弥生は、瑛美の方へ向けていた顔を戻した。

「いえ、僕が辞めさせたということでは——」

「上林家へ入るなら、仕事を続けるのは難しいということ?」

「そういう決まりは、ありませんけど」

志乃は弥生を見たままだった。ついさっきまで聞いていた、設備の話をする声とも違う。

会議なら、何を確かめられているか分かる。今は否定を一つ返すたびに、その次の質問が来た。

瑛美が二人の間へ、少し手を上げた。

「あ、それは、ガバナンスの面で少し難しかったんです」

志乃の顔がそちらへ向いた。

「当時、上林キャピタルから東雲へ救済融資を受けていて、弥生も社外取締役として再建に関わることになっていたので。私が経営管理の部門に残ると、融資元の代表の妻でも、東雲の社員でもあることになりますよね」

「扱う情報も、重なるわね」

「はい。どの立場で何を知っているのか、仕事の話を誰にどこまでしていいのか。その辺りを、整理しないといけなくて」

志乃はうなずいたが、すぐには言葉を返さなかった。瑛美は続ける。

「辞めなければいけない決まりがあったわけではありません。別の部署へ移ることも考えられたと思います。ただ、あの頃は私も、結婚したら上林家の妻としてきちんとしなきゃ、という気持ちが強かったので」

弥生は彼女の横顔を見た。瑛美は、志乃へ落ち着いて話していた。

「いろいろ重なって、退職しました。弥生に、仕事を辞めろと言われたわけではないんです」

「……そういう事情だったのね」

志乃は式次第を片手へ持ち替えた。それから、また弥生を見る。

「でも、瑛美さんがまた働きたがったら、どうするの?」

「瑛美の好きなようにしてもらいます。働きたいと思ったら、働いたらええですし」

そう答えはしたが、弥生の本音は違うところにあった。

瑛美を独占したい。

社交なら夫として隣にいられるが、仕事となれば、自分の知らない相手との繋がりが増える。せっかく自分の妻になった彼女を、また他人と分け合いたくはない。

働きたいと言われれば止めない。ただ、言われずに済むなら、その方がずっとよかった。

視線を上げると、志乃は弥生を見ていた。うなずいてはくれたが、まだ何か聞かれる気がして、弥生は言葉を足そうとした。

「僕としては——」

「なら、いいんだけど」

——終わり?

志乃は瑛美へ向き直った。

「少し話しただけでも、きちんと仕事を見てきた方だと分かるから。もったいないと思ったの」

「ありがとうございます」

瑛美が答えると、志乃は控室の方を見た。中から社員が顔を出し、来賓の名前を告げる。

「すぐ行きます」

社員へ答えてから、志乃は二人へ頭を下げた。

「失礼します。瑛美さん、またお話ししましょう」

「はい。ぜひ」

弥生も挨拶した。志乃は社員と一緒に控室へ入り、すぐに別の来賓を迎える声が聞こえた。

通路に残った弥生は、瑛美を見た。

彼女もこちらを見ていた。

「……何の確認やったん、今の」

「私が働きたいって言った時の確認」

「それは分かるけど」

瑛美が口元へ手をやった。

「弥生、急に聞かれて、ちょっと困ってたでしょ」

——笑うてるやん。

弥生は控室の入口を見てから、もう少し声を落とした。

「会議の時は、普通に話せるんですけどね」

「どうして敬語になったの」

「まだ戻ってへんのや」

瑛美は、今度は声を出して笑った。

*

控室へ戻ると、二人は何組かの来賓と話した。

弥生が取引先へ挨拶する間、瑛美もその妻と進水式の感想を交わした。式の前に挨拶した上林造船の幹部たちも加わり、今日の船や、次の建造予定の話をした。

志乃が会場を回ってきた時には、その幹部の一人が、来賓への説明を終えたところだった。

「専務、先ほどはありがとうございました」

「こちらこそ。あとで、船主さん側のご予定も確認させてください」

「承知しました」

志乃は瑛美へも小さく会釈し、次の来賓のところへ移った。

ほどなく、弥生たちも話の輪を離れた。瑛美が持っていたグラスを、入口近くの返却台へ置く。弥生が隣で自分のグラスを下ろした時、窓際から声が聞こえた。

「せっかくの進水式なんだから、もう少し綺麗な格好をすればいいのにね」

先ほどまで一緒に話していた幹部だった。隣の男が、志乃の去った方へ目を向ける。

「あの人は、いつもああだから。女なんだから、もう少し愛想よくしてくれてもいいんだけど」

「明彦さんは、ああいうところがうまいよ。話してても気持ちがいい」

「この前の会議でも、最後は専務が細かいことを言い出して——」

弥生は、グラスから手を離した。

会議で明彦の設備増強案を支持していた幹部たちだった。今話しているのは、工事の順序でも、受注の見込みでもない。

——その服で、仕事できてはるやろ。

志乃は来賓へ礼を尽くしていたし、笑ってもいた。それでも足りないらしい。

隣を見ると、瑛美が眉をしかめていた。弥生は彼女へ小さくうなずき、二人で控室を出た。

外へ出る通路で、人の声が遠くなった。

「志乃さんがさっき怒ってた理由、私、分かるよ」

瑛美が言った。

「うん?」

「仕事のことじゃなくて、女だからって、ああいうこと言われるんでしょ」

「……せやな」

前の会議で宗一郎が口にした言葉を、弥生は思い出した。志乃の計画に、性別を持ち出して答えた時のことだった。

「自分がずっとそう言われてたら、結婚して仕事を辞めた私のことも、心配になると思う」

弥生はうなずいた。

瑛美と仕事の話をしていた時の志乃は、その説明をよく聞いていた。瑛美が何を見て、何を分かっているかを知ったあとだからこそ、退職したという返事に驚いたのだろう。

それで、いきなり自分のところへ来た。

「心配してくれはったんは、分かるよ」

「うん」

「せやけど、僕、あそこまで詰められることやった?」

瑛美がこちらを見た。

「やってないと思う」

「でしょう?」

「だから、私からも説明したんだよ」

「助かりました」

「また敬語」

瑛美に笑われ、弥生も口元を緩めた。

「……助かったよ。ほんまに」

「どういたしまして」

瑛美が弥生の腕へそっと手を添えた。弥生はその手に自分の手を重ね、息をついた。