上林弥生の事情

AKインベストメントの調査報告を受け取ってから数日後、弥生は睦月とともに、上林造船の東京本社を訪れた。

上階の会議室へ案内されると、宗一郎が二人を迎えた。明彦はその隣に座り、志乃は向かい側で資料を開いている。

「今日は二人とも来てくれたんか。忙しいやろうに」

「宗一郎おじさん。お時間いただいて、ありがとうございます」

睦月が挨拶し、弥生も頭を下げた。

「お父さんの方は、どうや」

「落ち着いてます。今はお母さんの言うことも聞いて、休んでくれてはります」

「それはええことや。あの人も、なかなか休まんからな」

宗一郎が笑い、二人へ席を勧めた。弥生は兄の隣に腰を下ろした。前回は一人で座った側に、今日は二つ、カップが置かれている。

「前回のお話は、弥生から聞いています。追加でお送りいただいた資料も、拝見しました」

睦月がファイルを開いた。弥生も、設備投資の比較資料を取り出す。AKインベストメントの報告書は別にして、鞄へ残した。そちらは、この協議を終えてから兄へ話すつもりだった。

「本日は、事業方針について判断できるところまで進めたいと思います。まず、条件を揃えた試算から確認させてください」

明彦と志乃が、それぞれ手元のページをめくった。宗一郎も、テーブルへ資料を広げる。

——今日は、ちゃんと始まったな。

弥生もペンを取った。

*

同じ需要を置いて比較すると、設備増強案は、稼働が安定したあとに大きく利益を伸ばす。一方、志乃の案は既存設備の改善を先行させ、少ない投資で早く収益を上げる。新しい設備と人員が予定通りに動くかどうかで、増強案の優位は変わった。

「立ち上げが長引いた場合でも、会社として資金を確保できる範囲ですね」

弥生が尋ねると、明彦はうなずいた。

「そこは確認している。今の利益があるうちに手を打つべきだと思う。苦しくなってからでは、設備を増やす余力もなくなる」

「その余力を、一度に使う必要があるかという話です」

志乃が別の表を示した。

「既存設備の改善でも、取れる仕事は増えます。先にこちらを進めて、その結果と受注の見通しを見ながら、増強の規模を決められます」

「その間に、取れなくなる仕事がある」

明彦は顧客の一覧へ指を置いた。

「この引き合いは、そこまで待ってくれない。見送れば、次も同じ顧客から来るとは限らないだろう」

睦月が二つの資料を見比べた。

「造船だけでなく、商社側の取引への影響も確認したいですね。受注を断った場合に、グループ全体で何を失うか。それによって、先行して投資する意味も変わります」

「そうなんや」

宗一郎がうなずいた。

「うちで船を造って終わりやない。商社も含めて付き合うてる相手やからな」

「その関係を守るために、どの受注を優先するべきかは、私も確認したいです」

志乃が答えた。睦月はうなずき、次に、投資を段階的に進められる範囲を尋ねた。

弥生は、説明された費用と工程をメモした。全部を一度に進める方が効率のよい部分もあれば、後から判断できる部分もある。二つの案の間で、どこまで組み合わせられるかを考える余地はあった。

——いけるんちゃうか、今日。

そう思ったところで、宗一郎が志乃を見た。

「せやから、お前も最初から明彦の話を聞いてたらええんや」

弥生のペンが止まった。

「聞いています。その上で、順序と規模を検討したいと言っています」

「明彦の計画は、何でも先に止めようとするやろ」

「反対することと、確認することを同じにしないでください」

「言い方の問題だよ」

明彦が資料から手を離した。

「お前がそういう態度だから、現場まで、どちらにつくかという話になる」

「現場の懸念を、私についた人間の意見だと扱うからでしょう。今日の資料にも、責任者の確認を載せています」

「そもそも、誰を責任者として確認に呼んだんだ?」

——あ。そっち行くんや。

志乃が名前と担当を挙げると、明彦は、その人選に偏りがあると言った。宗一郎も、以前は自分へ直接報告していた人間だと口を挟む。

睦月は、二人の言葉が途切れたところで顔を上げた。

「宗一郎社長。確認者について必要があれば追加で伺います。まずは先ほどの試算について、どの前提に異論があるのか、確認させてください」

「前提だけの話ではないんだよ」

明彦が答えた。

「この先、誰が責任を持って経営するかということだ。父のあとを継ぐ人間が、今から方針を出している。それを専務が毎回止めるようでは——」

「継ぐと決まったから、計画も通るんですか」

志乃が問い返し、明彦がそちらへ向き直る。

——兄さんの質問も、通らへん。

弥生が隣を見ると、ちょうど睦月もこちらを見た。

兄の口元には、先ほどまでと同じ穏やかな表情が残っていた。ただ、資料から外れた目が、弥生のところで止まっている。普段ならすぐに次の問いを出す兄が、わずかな間、何も言わなかった。

——なんやこれ、って顔してはる。

弥生は眉をほんの少しだけ上げた。

——ね。言うたでしょう。

睦月が目を伏せ、弥生も資料へ戻った。向かいでは、明彦が後継者としての責任を語り、志乃が専務としての責任を返していた。

——二人で来ても、人数が増えるだけなんか。

弥生は、まだ答えのない項目へ、小さく印をつけた。

*

「任せる方にも、考えがあるんや」

宗一郎が、二人の間へ言葉を入れた。

「これだから女は、どうしても守りに入る。会社を大きくする時に、それでは任せられへん」

志乃が口を開きかけた。それを遮ったのは弥生だった。

「……女性だから、何なんですか?」

弥生が言うと、宗一郎がこちらを向いた。

「何や?」

弥生はペンを置いた。声の調子は、試算を尋ねていた時と変えなかった。

「志乃さんの判断が間違っているというなら、その根拠を伺いたいんです。性別は関係ないでしょう」

明彦が椅子へ座り直した。

「君は、志乃の案がいいと思ってるのか?」

「まだ判断していません。設備を増やす方が有利な条件も、段階的に進める方が有利な条件もあります。そこを確認しているところです」

弥生は、開いたままの比較表を示した。

「人員の立ち上げに、どれだけ期間を見込むべきか。見送った受注が、ほかの取引にどこまで影響するか。性別では、その答えは出ません」

隣で睦月もうなずいた。

「私も同じ考えです。まず、設備投資の是非を判断しましょう。そのために、本日のお時間をいただいています」

宗一郎は二人を見たあと、資料へ目を落とした。

「……せやな。そこを決めなあかん」

弥生が比較表へ視線を戻そうとした時、志乃と目が合った。彼女は、少し意外そうにこちらを見ていた。

だが、それは一瞬だった。志乃は自分の資料を引き寄せ、立ち上げ期間の確認結果を示した。

「ここについて、異論があるなら伺います。必要なら、確認した責任者と一緒にお話しします」

明彦が、期間を長く見積もりすぎている箇所を指した。今度は、志乃もその指摘に答えた。

しばらくは、数字の話が続いた。

しかし、どこまでを先に決めるかと睦月が尋ねると、宗一郎は明彦に任せればいいと言い、志乃は判断の根拠が決まっていないと返した。また、誰が決めるべきかという話になる。

弥生はメモの同じ項目へ、二つ目の印をつけた。

——印だけ増えていくな。

結局、増強する範囲も、先行して改善を進める範囲も、合意には至らなかった。睦月が次に確認する事項をまとめ、商社側への照会は上林ホールディングスで引き受けると伝えた。

「試算の前提に異論がある箇所は、代わりに採用する条件も添えてお送りください。同じ条件で比較できるよう、こちらで整理します」

弥生もそう伝えた。志乃がうなずき、明彦は分かったと答えた。

持ち帰る確認事項は増えた。決まった方針は、なかった。

*

「今日はありがとうございました」

睦月が席を立ち、弥生も続いた。宗一郎が廊下まで送ってくれる。

「また、お父さんにもよろしくな」

「伝えます。宗一郎おじさんも、お身体気ぃつけてください」

睦月が答え、弥生も穏やかに挨拶した。エレベーターの扉が閉まってからも、二人は並んで立ったまま、何も言わなかった。

玄関を出ると、リムジンが待っていた。運転手へ礼を言い、後部座席へ乗り込む。弥生が鞄を脇へ置く間に、睦月も座り直した。

扉が閉まり、車が静かに走り出した。

三秒後。

「はああああ……」

二人の肩が、ほとんど同時にがっくり落ちた。長いため息まで重なって、弥生は背もたれへ沈み込んだ姿勢のまま、兄を見た。

睦月も、同じような姿勢でこちらを見ていた。

「……兄さん」

「……何や」

「どうでした?」

兄はしばらく黙っていた。

「お前、よう一人で行ったな」

「でしょう?」

「あれ、毎回なんか?」

「前回も、だいたいあんな感じでした」

睦月は、もう一度息を吐いた。

「資料は、ちゃんとしてるんやけどな」

「僕もそう言うたでしょう。読み終わった時は、会議できると思うんです」

「最初は、できてたな」

「ええ。途中までは」

二人とも、それ以上をすぐには言わなかった。弥生は窓の外へ目を向け、睦月は膝へ置いたファイルを見下ろす。

「次は、個別に聞く時間を取ろう。あの三人が揃ってると、誰が質問しても途中で変わる」

「お願いします。二人で来たら、何とかなるかと思たんですけど」

「俺も思うてた」

睦月が言ったので、弥生は少し笑った。

「兄さんまで同じ顔してはりましたよ」

「顔には出してへんやろ」

「ええ。僕には分かりましたけど」

兄も短く笑った。ファイルを脇へ置き、ようやく背を起こす。

弥生も座り直した。

「それで、兄さん。もう一件、ご報告があるんです」

*

鞄から報告書を出し、睦月へ渡した。

「明彦さんの投資会社を調べました。AKインベストメントです」

「そっちで何かあったんか?」

「この間の懇親会で、瑛美が奥さんと話したんです。最近、投資会社の方が大変やって聞いたそうで。造船にも影響するかもしれんと思て、確認しました」

睦月が報告書を開いた。

「地方の大型リゾート開発に、借入でかなりお金を入れてはります。費用は増えて、工事も遅れてる。収益の見込みも甘くて、予定してた資金を回収できてません」

「借入は?」

「八十億です。返済期限は半年後。明彦さんが、個人保証してはります」

兄の指が、ページの途中で止まった。

「……八十億か。思うたより大きいな」

「会社の資産を処分しても、期限までに届く見込みはありません。借り換えで返せる見込みも、今のところ確認できてへんので」

「本人の資産を使うことになるな」

「はい。それで、気になったんが、造船の株です」

睦月が次のページをめくった。弥生は、明彦の持分を示す行へ指を置いた。

「二十一パーセント。造船の全株式評価が五百億ですから、百五億相当です。この評価で売れたら、税金なんかを引いても、返せる可能性はあります」

「跡を継ぐための株を、返済に使うんか」

「そうならん方が、明彦さんかてええでしょう。ただ、半年でほかにお金を用意できひんかったら、売ることも考えはると思います」

睦月は、個人資産の一覧へ目を戻した。

「もう話を進めてはるんか?」

「そこは、まだ分かりません。売却について接触してる相手がいてへんか、引き続き見てもろうてます」

兄はうなずき、株主構成のページを開いた。弥生も、そこへ目を落とす。

宗一郎が三十パーセント。明彦が二十一。志乃が九。そして、上林ホールディングスが四十だった。

「明彦さんが株を売らはったら、宗一郎おじさんの持株は三十パーセントです。志乃さんは九。本家の四十パーセントが効いてきます」

「そうやな」

「これを機に、どっちも本家に歩み寄ってくれはるとええんですけどね」

今は宗一郎と明彦で過半数を持っている。明彦の株が別の相手へ移れば、宗一郎だけでは押し切れなくなる。志乃も、自分だけで方針を決められるわけではない。

会社として話を進めるために、本家と協議する意味は、今より大きくなるはずだった。

「外部の株主と組まれると、厄介やぞ」

睦月が言った。

「宗一郎おじさんの三十と、買い手の二十一。今と同じ数は作れる」

「それなんですよ。せやから、売却先も気になるんです。変なところに渡らんとええんですけど」

弥生は、報告書へつけていたメモを示した。売却の可能性、とだけ書いた箇所を、睦月が見た。

兄はすぐには返事をしなかった。明彦の名前から宗一郎の名前へ、指をゆっくり移す。

「……いや、待て。そもそも、あの父子が分かれるか?」

「……はい?」

弥生は顔を上げた。

「あれだけ志乃さんと跡目争いしてはるんやで。明彦さんが株を手放したら、宗一郎おじさんまで不利になるやろ」

兄の指は、宗一郎の持分に置かれていた。

「株を売らな返せへんとしても、おじさんは、自分と息子が不利になる売り方で納得するか?」

会議室で並んでいた二人の姿が浮かんだ。

明彦が継ぐ。宗一郎は、そう言った。明彦が計画を出し、宗一郎が任せればいいと言う。志乃が反対すると、二人で答えていた。

弥生は、個人保証をした明彦が何を売れば返せるかを考えていた。だが、明彦はその株を使って、父と一緒に会社を動かそうとしている。

父が残り、息子が持分を手放す。それだけの話にする必要は、なかった。

「……兄さん」

「うん」

「二人まとめて売らはるとしたら?」

睦月の指が止まった。

「……五十一パーセントか」

「はい」

二人は顔を見合わせた。

窓の外を、大きな交差点が流れていった。弥生は、膝の上で重ねていた手をほどいた。背は、もうシートについていなかった。

「二十一だけやったら、買う側もほかの株主との関係を考えなあきません。せやけど、五十一なら」

「最初から、経営の主導権を取れる」

睦月が言葉を継いだ。

本家が四十パーセントを持っていても、志乃の九を合わせても、届かない。

弥生は報告書を見た。八十億円を返すための資産として見ていた株が、宗一郎の持分と並ぶだけで、違う意味を持っていた。

「売る相手と、経営についても話をつけるつもりなら……自分らの株を持ち続けることに、こだわらへんかもしれませんね」

「本家や志乃さんと話すより、相手と話す方が都合がええと考えるか」

睦月は株主構成を見たまま言った。

「あり得へんとは、言えません」

弥生は答えた。

宗一郎が息子の借金を知っているかどうかも、まだ確認していない。二人が株を売ると決めた証拠もない。それでも、明彦一人の資金繰りだけを追っていては、見落とす可能性があった。

「……弥生。これ、ちゃんと調べなあかんな」

「はい。まだ仮説ですけど、もし本当に動いてはるんやったら、早めに把握せんと」

睦月が報告書を弥生へ戻した。

「任せる。俺も、ホールディングスの方で確認できることを見とく」

「お願いします。こちらは、明彦さんだけやなく、宗一郎おじさんの動きも含めて調べます」

弥生はメモを取り出し、二十一パーセントの隣へ、三十と書いた。その下に、五十一。

睦月も携帯電話を出して、予定を開いた。

「何か分かったら、すぐに聞かせてくれ」

「はい」

車が信号で止まった。弥生は、調査担当者へ送る連絡を打ち始めた。