AKインベストメントの調査報告を受け取ってから数日後、弥生は睦月とともに、上林造船の東京本社を訪れた。
上階の会議室へ案内されると、宗一郎が二人を迎えた。明彦はその隣に座り、志乃は向かい側で資料を開いている。
「今日は二人とも来てくれたんか。忙しいやろうに」
「宗一郎おじさん。お時間いただいて、ありがとうございます」
睦月が挨拶し、弥生も頭を下げた。
「お父さんの方は、どうや」
「落ち着いてます。今はお母さんの言うことも聞いて、休んでくれてはります」
「それはええことや。あの人も、なかなか休まんからな」
宗一郎が笑い、二人へ席を勧めた。弥生は兄の隣に腰を下ろした。前回は一人で座った側に、今日は二つ、カップが置かれている。
「前回のお話は、弥生から聞いています。追加でお送りいただいた資料も、拝見しました」
睦月がファイルを開いた。弥生も、設備投資の比較資料を取り出す。AKインベストメントの報告書は別にして、鞄へ残した。そちらは、この協議を終えてから兄へ話すつもりだった。
「本日は、事業方針について判断できるところまで進めたいと思います。まず、条件を揃えた試算から確認させてください」
明彦と志乃が、それぞれ手元のページをめくった。宗一郎も、テーブルへ資料を広げる。
——今日は、ちゃんと始まったな。
弥生もペンを取った。
*
同じ需要を置いて比較すると、設備増強案は、稼働が安定したあとに大きく利益を伸ばす。一方、志乃の案は既存設備の改善を先行させ、少ない投資で早く収益を上げる。新しい設備と人員が予定通りに動くかどうかで、増強案の優位は変わった。
「立ち上げが長引いた場合でも、会社として資金を確保できる範囲ですね」
弥生が尋ねると、明彦はうなずいた。
「そこは確認している。今の利益があるうちに手を打つべきだと思う。苦しくなってからでは、設備を増やす余力もなくなる」
「その余力を、一度に使う必要があるかという話です」
志乃が別の表を示した。
「既存設備の改善でも、取れる仕事は増えます。先にこちらを進めて、その結果と受注の見通しを見ながら、増強の規模を決められます」
「その間に、取れなくなる仕事がある」
明彦は顧客の一覧へ指を置いた。
「この引き合いは、そこまで待ってくれない。見送れば、次も同じ顧客から来るとは限らないだろう」
睦月が二つの資料を見比べた。
「造船だけでなく、商社側の取引への影響も確認したいですね。受注を断った場合に、グループ全体で何を失うか。それによって、先行して投資する意味も変わります」
「そうなんや」
宗一郎がうなずいた。
「うちで船を造って終わりやない。商社も含めて付き合うてる相手やからな」
「その関係を守るために、どの受注を優先するべきかは、私も確認したいです」
志乃が答えた。睦月はうなずき、次に、投資を段階的に進められる範囲を尋ねた。
弥生は、説明された費用と工程をメモした。全部を一度に進める方が効率のよい部分もあれば、後から判断できる部分もある。二つの案の間で、どこまで組み合わせられるかを考える余地はあった。
——いけるんちゃうか、今日。
そう思ったところで、宗一郎が志乃を見た。
「せやから、お前も最初から明彦の話を聞いてたらええんや」
弥生のペンが止まった。
「聞いています。その上で、順序と規模を検討したいと言っています」
「明彦の計画は、何でも先に止めようとするやろ」
「反対することと、確認することを同じにしないでください」
「言い方の問題だよ」
明彦が資料から手を離した。
「お前がそういう態度だから、現場まで、どちらにつくかという話になる」
「現場の懸念を、私についた人間の意見だと扱うからでしょう。今日の資料にも、責任者の確認を載せています」
「そもそも、誰を責任者として確認に呼んだんだ?」
——あ。そっち行くんや。
志乃が名前と担当を挙げると、明彦は、その人選に偏りがあると言った。宗一郎も、以前は自分へ直接報告していた人間だと口を挟む。
睦月は、二人の言葉が途切れたところで顔を上げた。
「宗一郎社長。確認者について必要があれば追加で伺います。まずは先ほどの試算について、どの前提に異論があるのか、確認させてください」
「前提だけの話ではないんだよ」
明彦が答えた。
「この先、誰が責任を持って経営するかということだ。父のあとを継ぐ人間が、今から方針を出している。それを専務が毎回止めるようでは——」
「継ぐと決まったから、計画も通るんですか」
志乃が問い返し、明彦がそちらへ向き直る。
——兄さんの質問も、通らへん。
弥生が隣を見ると、ちょうど睦月もこちらを見た。
兄の口元には、先ほどまでと同じ穏やかな表情が残っていた。ただ、資料から外れた目が、弥生のところで止まっている。普段ならすぐに次の問いを出す兄が、わずかな間、何も言わなかった。
——なんやこれ、って顔してはる。
弥生は眉をほんの少しだけ上げた。
——ね。言うたでしょう。
睦月が目を伏せ、弥生も資料へ戻った。向かいでは、明彦が後継者としての責任を語り、志乃が専務としての責任を返していた。
——二人で来ても、人数が増えるだけなんか。
弥生は、まだ答えのない項目へ、小さく印をつけた。
*
「任せる方にも、考えがあるんや」
宗一郎が、二人の間へ言葉を入れた。
「これだから女は、どうしても守りに入る。会社を大きくする時に、それでは任せられへん」
志乃が口を開きかけた。それを遮ったのは弥生だった。
「……女性だから、何なんですか?」
弥生が言うと、宗一郎がこちらを向いた。
「何や?」
弥生はペンを置いた。声の調子は、試算を尋ねていた時と変えなかった。
「志乃さんの判断が間違っているというなら、その根拠を伺いたいんです。性別は関係ないでしょう」
明彦が椅子へ座り直した。
「君は、志乃の案がいいと思ってるのか?」
「まだ判断していません。設備を増やす方が有利な条件も、段階的に進める方が有利な条件もあります。そこを確認しているところです」
弥生は、開いたままの比較表を示した。
「人員の立ち上げに、どれだけ期間を見込むべきか。見送った受注が、ほかの取引にどこまで影響するか。性別では、その答えは出ません」
隣で睦月もうなずいた。
「私も同じ考えです。まず、設備投資の是非を判断しましょう。そのために、本日のお時間をいただいています」
宗一郎は二人を見たあと、資料へ目を落とした。
「……せやな。そこを決めなあかん」
弥生が比較表へ視線を戻そうとした時、志乃と目が合った。彼女は、少し意外そうにこちらを見ていた。
だが、それは一瞬だった。志乃は自分の資料を引き寄せ、立ち上げ期間の確認結果を示した。
「ここについて、異論があるなら伺います。必要なら、確認した責任者と一緒にお話しします」
明彦が、期間を長く見積もりすぎている箇所を指した。今度は、志乃もその指摘に答えた。
しばらくは、数字の話が続いた。
しかし、どこまでを先に決めるかと睦月が尋ねると、宗一郎は明彦に任せればいいと言い、志乃は判断の根拠が決まっていないと返した。また、誰が決めるべきかという話になる。
弥生はメモの同じ項目へ、二つ目の印をつけた。
——印だけ増えていくな。
結局、増強する範囲も、先行して改善を進める範囲も、合意には至らなかった。睦月が次に確認する事項をまとめ、商社側への照会は上林ホールディングスで引き受けると伝えた。
「試算の前提に異論がある箇所は、代わりに採用する条件も添えてお送りください。同じ条件で比較できるよう、こちらで整理します」
弥生もそう伝えた。志乃がうなずき、明彦は分かったと答えた。
持ち帰る確認事項は増えた。決まった方針は、なかった。
*
「今日はありがとうございました」
睦月が席を立ち、弥生も続いた。宗一郎が廊下まで送ってくれる。
「また、お父さんにもよろしくな」
「伝えます。宗一郎おじさんも、お身体気ぃつけてください」
睦月が答え、弥生も穏やかに挨拶した。エレベーターの扉が閉まってからも、二人は並んで立ったまま、何も言わなかった。
玄関を出ると、リムジンが待っていた。運転手へ礼を言い、後部座席へ乗り込む。弥生が鞄を脇へ置く間に、睦月も座り直した。
扉が閉まり、車が静かに走り出した。
三秒後。
「はああああ……」
二人の肩が、ほとんど同時にがっくり落ちた。長いため息まで重なって、弥生は背もたれへ沈み込んだ姿勢のまま、兄を見た。
睦月も、同じような姿勢でこちらを見ていた。
「……兄さん」
「……何や」
「どうでした?」
兄はしばらく黙っていた。
「お前、よう一人で行ったな」
「でしょう?」
「あれ、毎回なんか?」
「前回も、だいたいあんな感じでした」
睦月は、もう一度息を吐いた。
「資料は、ちゃんとしてるんやけどな」
「僕もそう言うたでしょう。読み終わった時は、会議できると思うんです」
「最初は、できてたな」
「ええ。途中までは」
二人とも、それ以上をすぐには言わなかった。弥生は窓の外へ目を向け、睦月は膝へ置いたファイルを見下ろす。
「次は、個別に聞く時間を取ろう。あの三人が揃ってると、誰が質問しても途中で変わる」
「お願いします。二人で来たら、何とかなるかと思たんですけど」
「俺も思うてた」
睦月が言ったので、弥生は少し笑った。
「兄さんまで同じ顔してはりましたよ」
「顔には出してへんやろ」
「ええ。僕には分かりましたけど」
兄も短く笑った。ファイルを脇へ置き、ようやく背を起こす。
弥生も座り直した。
「それで、兄さん。もう一件、ご報告があるんです」
*
鞄から報告書を出し、睦月へ渡した。
「明彦さんの投資会社を調べました。AKインベストメントです」
「そっちで何かあったんか?」
「この間の懇親会で、瑛美が奥さんと話したんです。最近、投資会社の方が大変やって聞いたそうで。造船にも影響するかもしれんと思て、確認しました」
睦月が報告書を開いた。
「地方の大型リゾート開発に、借入でかなりお金を入れてはります。費用は増えて、工事も遅れてる。収益の見込みも甘くて、予定してた資金を回収できてません」
「借入は?」
「八十億です。返済期限は半年後。明彦さんが、個人保証してはります」
兄の指が、ページの途中で止まった。
「……八十億か。思うたより大きいな」
「会社の資産を処分しても、期限までに届く見込みはありません。借り換えで返せる見込みも、今のところ確認できてへんので」
「本人の資産を使うことになるな」
「はい。それで、気になったんが、造船の株です」
睦月が次のページをめくった。弥生は、明彦の持分を示す行へ指を置いた。
「二十一パーセント。造船の全株式評価が五百億ですから、百五億相当です。この評価で売れたら、税金なんかを引いても、返せる可能性はあります」
「跡を継ぐための株を、返済に使うんか」
「そうならん方が、明彦さんかてええでしょう。ただ、半年でほかにお金を用意できひんかったら、売ることも考えはると思います」
睦月は、個人資産の一覧へ目を戻した。
「もう話を進めてはるんか?」
「そこは、まだ分かりません。売却について接触してる相手がいてへんか、引き続き見てもろうてます」
兄はうなずき、株主構成のページを開いた。弥生も、そこへ目を落とす。
宗一郎が三十パーセント。明彦が二十一。志乃が九。そして、上林ホールディングスが四十だった。
「明彦さんが株を売らはったら、宗一郎おじさんの持株は三十パーセントです。志乃さんは九。本家の四十パーセントが効いてきます」
「そうやな」
「これを機に、どっちも本家に歩み寄ってくれはるとええんですけどね」
今は宗一郎と明彦で過半数を持っている。明彦の株が別の相手へ移れば、宗一郎だけでは押し切れなくなる。志乃も、自分だけで方針を決められるわけではない。
会社として話を進めるために、本家と協議する意味は、今より大きくなるはずだった。
「外部の株主と組まれると、厄介やぞ」
睦月が言った。
「宗一郎おじさんの三十と、買い手の二十一。今と同じ数は作れる」
「それなんですよ。せやから、売却先も気になるんです。変なところに渡らんとええんですけど」
弥生は、報告書へつけていたメモを示した。売却の可能性、とだけ書いた箇所を、睦月が見た。
兄はすぐには返事をしなかった。明彦の名前から宗一郎の名前へ、指をゆっくり移す。
「……いや、待て。そもそも、あの父子が分かれるか?」
「……はい?」
弥生は顔を上げた。
「あれだけ志乃さんと跡目争いしてはるんやで。明彦さんが株を手放したら、宗一郎おじさんまで不利になるやろ」
兄の指は、宗一郎の持分に置かれていた。
「株を売らな返せへんとしても、おじさんは、自分と息子が不利になる売り方で納得するか?」
会議室で並んでいた二人の姿が浮かんだ。
明彦が継ぐ。宗一郎は、そう言った。明彦が計画を出し、宗一郎が任せればいいと言う。志乃が反対すると、二人で答えていた。
弥生は、個人保証をした明彦が何を売れば返せるかを考えていた。だが、明彦はその株を使って、父と一緒に会社を動かそうとしている。
父が残り、息子が持分を手放す。それだけの話にする必要は、なかった。
「……兄さん」
「うん」
「二人まとめて売らはるとしたら?」
睦月の指が止まった。
「……五十一パーセントか」
「はい」
二人は顔を見合わせた。
窓の外を、大きな交差点が流れていった。弥生は、膝の上で重ねていた手をほどいた。背は、もうシートについていなかった。
「二十一だけやったら、買う側もほかの株主との関係を考えなあきません。せやけど、五十一なら」
「最初から、経営の主導権を取れる」
睦月が言葉を継いだ。
本家が四十パーセントを持っていても、志乃の九を合わせても、届かない。
弥生は報告書を見た。八十億円を返すための資産として見ていた株が、宗一郎の持分と並ぶだけで、違う意味を持っていた。
「売る相手と、経営についても話をつけるつもりなら……自分らの株を持ち続けることに、こだわらへんかもしれませんね」
「本家や志乃さんと話すより、相手と話す方が都合がええと考えるか」
睦月は株主構成を見たまま言った。
「あり得へんとは、言えません」
弥生は答えた。
宗一郎が息子の借金を知っているかどうかも、まだ確認していない。二人が株を売ると決めた証拠もない。それでも、明彦一人の資金繰りだけを追っていては、見落とす可能性があった。
「……弥生。これ、ちゃんと調べなあかんな」
「はい。まだ仮説ですけど、もし本当に動いてはるんやったら、早めに把握せんと」
睦月が報告書を弥生へ戻した。
「任せる。俺も、ホールディングスの方で確認できることを見とく」
「お願いします。こちらは、明彦さんだけやなく、宗一郎おじさんの動きも含めて調べます」
弥生はメモを取り出し、二十一パーセントの隣へ、三十と書いた。その下に、五十一。
睦月も携帯電話を出して、予定を開いた。
「何か分かったら、すぐに聞かせてくれ」
「はい」
車が信号で止まった。弥生は、調査担当者へ送る連絡を打ち始めた。
上階の会議室へ案内されると、宗一郎が二人を迎えた。明彦はその隣に座り、志乃は向かい側で資料を開いている。
「今日は二人とも来てくれたんか。忙しいやろうに」
「宗一郎おじさん。お時間いただいて、ありがとうございます」
睦月が挨拶し、弥生も頭を下げた。
「お父さんの方は、どうや」
「落ち着いてます。今はお母さんの言うことも聞いて、休んでくれてはります」
「それはええことや。あの人も、なかなか休まんからな」
宗一郎が笑い、二人へ席を勧めた。弥生は兄の隣に腰を下ろした。前回は一人で座った側に、今日は二つ、カップが置かれている。
「前回のお話は、弥生から聞いています。追加でお送りいただいた資料も、拝見しました」
睦月がファイルを開いた。弥生も、設備投資の比較資料を取り出す。AKインベストメントの報告書は別にして、鞄へ残した。そちらは、この協議を終えてから兄へ話すつもりだった。
「本日は、事業方針について判断できるところまで進めたいと思います。まず、条件を揃えた試算から確認させてください」
明彦と志乃が、それぞれ手元のページをめくった。宗一郎も、テーブルへ資料を広げる。
——今日は、ちゃんと始まったな。
弥生もペンを取った。
*
同じ需要を置いて比較すると、設備増強案は、稼働が安定したあとに大きく利益を伸ばす。一方、志乃の案は既存設備の改善を先行させ、少ない投資で早く収益を上げる。新しい設備と人員が予定通りに動くかどうかで、増強案の優位は変わった。
「立ち上げが長引いた場合でも、会社として資金を確保できる範囲ですね」
弥生が尋ねると、明彦はうなずいた。
「そこは確認している。今の利益があるうちに手を打つべきだと思う。苦しくなってからでは、設備を増やす余力もなくなる」
「その余力を、一度に使う必要があるかという話です」
志乃が別の表を示した。
「既存設備の改善でも、取れる仕事は増えます。先にこちらを進めて、その結果と受注の見通しを見ながら、増強の規模を決められます」
「その間に、取れなくなる仕事がある」
明彦は顧客の一覧へ指を置いた。
「この引き合いは、そこまで待ってくれない。見送れば、次も同じ顧客から来るとは限らないだろう」
睦月が二つの資料を見比べた。
「造船だけでなく、商社側の取引への影響も確認したいですね。受注を断った場合に、グループ全体で何を失うか。それによって、先行して投資する意味も変わります」
「そうなんや」
宗一郎がうなずいた。
「うちで船を造って終わりやない。商社も含めて付き合うてる相手やからな」
「その関係を守るために、どの受注を優先するべきかは、私も確認したいです」
志乃が答えた。睦月はうなずき、次に、投資を段階的に進められる範囲を尋ねた。
弥生は、説明された費用と工程をメモした。全部を一度に進める方が効率のよい部分もあれば、後から判断できる部分もある。二つの案の間で、どこまで組み合わせられるかを考える余地はあった。
——いけるんちゃうか、今日。
そう思ったところで、宗一郎が志乃を見た。
「せやから、お前も最初から明彦の話を聞いてたらええんや」
弥生のペンが止まった。
「聞いています。その上で、順序と規模を検討したいと言っています」
「明彦の計画は、何でも先に止めようとするやろ」
「反対することと、確認することを同じにしないでください」
「言い方の問題だよ」
明彦が資料から手を離した。
「お前がそういう態度だから、現場まで、どちらにつくかという話になる」
「現場の懸念を、私についた人間の意見だと扱うからでしょう。今日の資料にも、責任者の確認を載せています」
「そもそも、誰を責任者として確認に呼んだんだ?」
——あ。そっち行くんや。
志乃が名前と担当を挙げると、明彦は、その人選に偏りがあると言った。宗一郎も、以前は自分へ直接報告していた人間だと口を挟む。
睦月は、二人の言葉が途切れたところで顔を上げた。
「宗一郎社長。確認者について必要があれば追加で伺います。まずは先ほどの試算について、どの前提に異論があるのか、確認させてください」
「前提だけの話ではないんだよ」
明彦が答えた。
「この先、誰が責任を持って経営するかということだ。父のあとを継ぐ人間が、今から方針を出している。それを専務が毎回止めるようでは——」
「継ぐと決まったから、計画も通るんですか」
志乃が問い返し、明彦がそちらへ向き直る。
——兄さんの質問も、通らへん。
弥生が隣を見ると、ちょうど睦月もこちらを見た。
兄の口元には、先ほどまでと同じ穏やかな表情が残っていた。ただ、資料から外れた目が、弥生のところで止まっている。普段ならすぐに次の問いを出す兄が、わずかな間、何も言わなかった。
——なんやこれ、って顔してはる。
弥生は眉をほんの少しだけ上げた。
——ね。言うたでしょう。
睦月が目を伏せ、弥生も資料へ戻った。向かいでは、明彦が後継者としての責任を語り、志乃が専務としての責任を返していた。
——二人で来ても、人数が増えるだけなんか。
弥生は、まだ答えのない項目へ、小さく印をつけた。
*
「任せる方にも、考えがあるんや」
宗一郎が、二人の間へ言葉を入れた。
「これだから女は、どうしても守りに入る。会社を大きくする時に、それでは任せられへん」
志乃が口を開きかけた。それを遮ったのは弥生だった。
「……女性だから、何なんですか?」
弥生が言うと、宗一郎がこちらを向いた。
「何や?」
弥生はペンを置いた。声の調子は、試算を尋ねていた時と変えなかった。
「志乃さんの判断が間違っているというなら、その根拠を伺いたいんです。性別は関係ないでしょう」
明彦が椅子へ座り直した。
「君は、志乃の案がいいと思ってるのか?」
「まだ判断していません。設備を増やす方が有利な条件も、段階的に進める方が有利な条件もあります。そこを確認しているところです」
弥生は、開いたままの比較表を示した。
「人員の立ち上げに、どれだけ期間を見込むべきか。見送った受注が、ほかの取引にどこまで影響するか。性別では、その答えは出ません」
隣で睦月もうなずいた。
「私も同じ考えです。まず、設備投資の是非を判断しましょう。そのために、本日のお時間をいただいています」
宗一郎は二人を見たあと、資料へ目を落とした。
「……せやな。そこを決めなあかん」
弥生が比較表へ視線を戻そうとした時、志乃と目が合った。彼女は、少し意外そうにこちらを見ていた。
だが、それは一瞬だった。志乃は自分の資料を引き寄せ、立ち上げ期間の確認結果を示した。
「ここについて、異論があるなら伺います。必要なら、確認した責任者と一緒にお話しします」
明彦が、期間を長く見積もりすぎている箇所を指した。今度は、志乃もその指摘に答えた。
しばらくは、数字の話が続いた。
しかし、どこまでを先に決めるかと睦月が尋ねると、宗一郎は明彦に任せればいいと言い、志乃は判断の根拠が決まっていないと返した。また、誰が決めるべきかという話になる。
弥生はメモの同じ項目へ、二つ目の印をつけた。
——印だけ増えていくな。
結局、増強する範囲も、先行して改善を進める範囲も、合意には至らなかった。睦月が次に確認する事項をまとめ、商社側への照会は上林ホールディングスで引き受けると伝えた。
「試算の前提に異論がある箇所は、代わりに採用する条件も添えてお送りください。同じ条件で比較できるよう、こちらで整理します」
弥生もそう伝えた。志乃がうなずき、明彦は分かったと答えた。
持ち帰る確認事項は増えた。決まった方針は、なかった。
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「今日はありがとうございました」
睦月が席を立ち、弥生も続いた。宗一郎が廊下まで送ってくれる。
「また、お父さんにもよろしくな」
「伝えます。宗一郎おじさんも、お身体気ぃつけてください」
睦月が答え、弥生も穏やかに挨拶した。エレベーターの扉が閉まってからも、二人は並んで立ったまま、何も言わなかった。
玄関を出ると、リムジンが待っていた。運転手へ礼を言い、後部座席へ乗り込む。弥生が鞄を脇へ置く間に、睦月も座り直した。
扉が閉まり、車が静かに走り出した。
三秒後。
「はああああ……」
二人の肩が、ほとんど同時にがっくり落ちた。長いため息まで重なって、弥生は背もたれへ沈み込んだ姿勢のまま、兄を見た。
睦月も、同じような姿勢でこちらを見ていた。
「……兄さん」
「……何や」
「どうでした?」
兄はしばらく黙っていた。
「お前、よう一人で行ったな」
「でしょう?」
「あれ、毎回なんか?」
「前回も、だいたいあんな感じでした」
睦月は、もう一度息を吐いた。
「資料は、ちゃんとしてるんやけどな」
「僕もそう言うたでしょう。読み終わった時は、会議できると思うんです」
「最初は、できてたな」
「ええ。途中までは」
二人とも、それ以上をすぐには言わなかった。弥生は窓の外へ目を向け、睦月は膝へ置いたファイルを見下ろす。
「次は、個別に聞く時間を取ろう。あの三人が揃ってると、誰が質問しても途中で変わる」
「お願いします。二人で来たら、何とかなるかと思たんですけど」
「俺も思うてた」
睦月が言ったので、弥生は少し笑った。
「兄さんまで同じ顔してはりましたよ」
「顔には出してへんやろ」
「ええ。僕には分かりましたけど」
兄も短く笑った。ファイルを脇へ置き、ようやく背を起こす。
弥生も座り直した。
「それで、兄さん。もう一件、ご報告があるんです」
*
鞄から報告書を出し、睦月へ渡した。
「明彦さんの投資会社を調べました。AKインベストメントです」
「そっちで何かあったんか?」
「この間の懇親会で、瑛美が奥さんと話したんです。最近、投資会社の方が大変やって聞いたそうで。造船にも影響するかもしれんと思て、確認しました」
睦月が報告書を開いた。
「地方の大型リゾート開発に、借入でかなりお金を入れてはります。費用は増えて、工事も遅れてる。収益の見込みも甘くて、予定してた資金を回収できてません」
「借入は?」
「八十億です。返済期限は半年後。明彦さんが、個人保証してはります」
兄の指が、ページの途中で止まった。
「……八十億か。思うたより大きいな」
「会社の資産を処分しても、期限までに届く見込みはありません。借り換えで返せる見込みも、今のところ確認できてへんので」
「本人の資産を使うことになるな」
「はい。それで、気になったんが、造船の株です」
睦月が次のページをめくった。弥生は、明彦の持分を示す行へ指を置いた。
「二十一パーセント。造船の全株式評価が五百億ですから、百五億相当です。この評価で売れたら、税金なんかを引いても、返せる可能性はあります」
「跡を継ぐための株を、返済に使うんか」
「そうならん方が、明彦さんかてええでしょう。ただ、半年でほかにお金を用意できひんかったら、売ることも考えはると思います」
睦月は、個人資産の一覧へ目を戻した。
「もう話を進めてはるんか?」
「そこは、まだ分かりません。売却について接触してる相手がいてへんか、引き続き見てもろうてます」
兄はうなずき、株主構成のページを開いた。弥生も、そこへ目を落とす。
宗一郎が三十パーセント。明彦が二十一。志乃が九。そして、上林ホールディングスが四十だった。
「明彦さんが株を売らはったら、宗一郎おじさんの持株は三十パーセントです。志乃さんは九。本家の四十パーセントが効いてきます」
「そうやな」
「これを機に、どっちも本家に歩み寄ってくれはるとええんですけどね」
今は宗一郎と明彦で過半数を持っている。明彦の株が別の相手へ移れば、宗一郎だけでは押し切れなくなる。志乃も、自分だけで方針を決められるわけではない。
会社として話を進めるために、本家と協議する意味は、今より大きくなるはずだった。
「外部の株主と組まれると、厄介やぞ」
睦月が言った。
「宗一郎おじさんの三十と、買い手の二十一。今と同じ数は作れる」
「それなんですよ。せやから、売却先も気になるんです。変なところに渡らんとええんですけど」
弥生は、報告書へつけていたメモを示した。売却の可能性、とだけ書いた箇所を、睦月が見た。
兄はすぐには返事をしなかった。明彦の名前から宗一郎の名前へ、指をゆっくり移す。
「……いや、待て。そもそも、あの父子が分かれるか?」
「……はい?」
弥生は顔を上げた。
「あれだけ志乃さんと跡目争いしてはるんやで。明彦さんが株を手放したら、宗一郎おじさんまで不利になるやろ」
兄の指は、宗一郎の持分に置かれていた。
「株を売らな返せへんとしても、おじさんは、自分と息子が不利になる売り方で納得するか?」
会議室で並んでいた二人の姿が浮かんだ。
明彦が継ぐ。宗一郎は、そう言った。明彦が計画を出し、宗一郎が任せればいいと言う。志乃が反対すると、二人で答えていた。
弥生は、個人保証をした明彦が何を売れば返せるかを考えていた。だが、明彦はその株を使って、父と一緒に会社を動かそうとしている。
父が残り、息子が持分を手放す。それだけの話にする必要は、なかった。
「……兄さん」
「うん」
「二人まとめて売らはるとしたら?」
睦月の指が止まった。
「……五十一パーセントか」
「はい」
二人は顔を見合わせた。
窓の外を、大きな交差点が流れていった。弥生は、膝の上で重ねていた手をほどいた。背は、もうシートについていなかった。
「二十一だけやったら、買う側もほかの株主との関係を考えなあきません。せやけど、五十一なら」
「最初から、経営の主導権を取れる」
睦月が言葉を継いだ。
本家が四十パーセントを持っていても、志乃の九を合わせても、届かない。
弥生は報告書を見た。八十億円を返すための資産として見ていた株が、宗一郎の持分と並ぶだけで、違う意味を持っていた。
「売る相手と、経営についても話をつけるつもりなら……自分らの株を持ち続けることに、こだわらへんかもしれませんね」
「本家や志乃さんと話すより、相手と話す方が都合がええと考えるか」
睦月は株主構成を見たまま言った。
「あり得へんとは、言えません」
弥生は答えた。
宗一郎が息子の借金を知っているかどうかも、まだ確認していない。二人が株を売ると決めた証拠もない。それでも、明彦一人の資金繰りだけを追っていては、見落とす可能性があった。
「……弥生。これ、ちゃんと調べなあかんな」
「はい。まだ仮説ですけど、もし本当に動いてはるんやったら、早めに把握せんと」
睦月が報告書を弥生へ戻した。
「任せる。俺も、ホールディングスの方で確認できることを見とく」
「お願いします。こちらは、明彦さんだけやなく、宗一郎おじさんの動きも含めて調べます」
弥生はメモを取り出し、二十一パーセントの隣へ、三十と書いた。その下に、五十一。
睦月も携帯電話を出して、予定を開いた。
「何か分かったら、すぐに聞かせてくれ」
「はい」
車が信号で止まった。弥生は、調査担当者へ送る連絡を打ち始めた。
