親族懇親会から数日後、上林キャピタルの執務室で、弥生は新規投資案件の報告を受けていた。
担当役員が説明を終え、手元の資料を閉じる。投資先の事業は順調で、追加の資金があれば、さらに拡大できるという。見込まれる利益も、社内の基準を満たしていた。
弥生は、一覧の下にある投資残高へ目を落とした。
「この案件だけなら、進めていいと思います。ただ、今ある投資も含めると、同じ業界へ置く資金が増えますね」
「はい。既存の二件も、今年中に追加投資を予定しています」
「三件とも、需要が伸びることを前提にしています。見通しが外れた時に、同時に追加の資金を求められる可能性はありますか」
役員が資料を開き直し、それぞれの資金計画を説明した。弥生は聞き終えてから、一つの計画へ指を置いた。
「こちらは、今の規模でも事業を続けられるんですね」
「拡大は遅れますが、継続はできます」
「では、この一件は今期の追加投資を見送ります。残る二件を進めた場合に、厳しい状況でも会社全体としてどこまで支えられるか、次の経営会議で確認しましょう」
役員はうなずき、次の報告へ移った。既存の投資先の一社は、当初の予測より売上が落ちている。費用を抑え、持ち直すまでの資金は確保できていた。
順調な会社も、苦しい会社もある。投資先ごとの報告を聞いているうちに、弥生は瑛美の言葉を思い出した。
明彦の投資会社は、最近、景気が悪いらしい。
あの夜は、自分の感覚との違いが少し気になっただけだった。どこへ投資しているかで状況は変わる。それでも、上林造船の取締役が自分で経営する会社のことなら、確認しておいて損はない。
報告が終わると、弥生は同席していた調査担当者を呼び止めた。
「そういえば、AKインベストメントを調べてもらえますか」
「上林明彦さんの会社ですね」
「ええ。最近、あまり業績が良くないらしくて。主要な投資先と、資金調達の状況を確認したいんです」
担当者が、閉じかけた手帳を開いた。
「何か、具体的な問題があるのでしょうか」
「まだ分かりません。投資先次第では苦しいこともあるでしょうし。ただ、今は造船の件で関わっているので、そちらに影響しそうな事情があるなら把握しておきたいです」
弥生は机の端へ資料を寄せた。
「直近の財務と資金繰りも、分かる範囲で。確認できたことと、見込みは分けてください」
「承知しました」
担当者が出ていくと、弥生は次の予定を確かめた。造船から依頼した比較資料も届き始めている。そちらは、次に睦月と会うまでに目を通しておくつもりだった。
*
調査結果が届いたのは、それから数日後だった。
執務室の応接テーブルへ置かれた報告書を開くと、投資先の一覧に、地方の大型リゾート開発事業があった。ほかの案件に比べ、投入した資金が大きい。
「現在の資金繰りに、最も影響している案件です」
向かいに座った担当者が説明した。
「当初の計画から建設費が膨らんでいます。工期も遅れていて、予定していた時期に資金を回収できていません」
弥生は事業計画と現況を並べたページへ目を移した。開発側が見込んでいた収益と、今の見通しには大きな開きがある。
「費用が増えた分だけでは、なさそうですね」
「はい。集客の見込みも下がっています。当初の予測自体、周辺の類似施設に比べてかなり高い水準でした」
「AK側で、その予測を検証した形跡は?」
「十分には確認できませんでした。投資判断では、開発側の提示した計画を重く見ていたようです」
弥生は、予測の根拠がまとめられた箇所を読んだ。広い地域から客を呼ぶ計画なのに、近隣の来訪者数が、そのまま施設の利用へ結びつくように扱われている。
客が来る理由より、来てもらわなければ困る人数が先に決まっているように見えた。
「これに、借入で投資を増やしたんですか」
「はい。計画が進むにつれ、投資額も増えています」
弥生はページをめくり、資金調達の推移を見た。
「……強気やなあ」
思わず出た声に、担当者が顔を上げた。弥生は資料へ目を戻す。
「費用が上がることも、工期が延びることも、開発事業では考えておくべきリスクです。その時に資金が足りなくなる計画で、ここまで投資を広げた方が問題ですね」
「現在は、追加投資に回せる余力もほとんどありません」
うまくいけば、投入した資金に見合う利益を得られたのだろう。だが、利益が入るまでに何が起こり得るかを、軽く見すぎていた。自分で検証した範囲も狭いまま、借入だけが増えている。
この間の造船の会議で、明彦が顧客を失うリスクを説明していた姿が浮かんだ。設備を増やすまでに時間がかかることも、需要が弱まる可能性も、分かっていた。
あの計画に理があることと、この投資が適切だったかは、別の話だった。
「借入は、今いくらですか」
「残高は八十億円です」
担当者が該当するページを示した。
弥生は額を見てから、返済予定へ目を移した。
「半年後に、これだけ返すんですね」
「はい。明彦さんご本人の個人保証もついています」
八十億という額より、その日付の方が気になった。開発事業の回収は、半年で立て直せる見通しにはなっていない。
弥生は椅子へ座り直した。
「借り換えの見込みはありますか」
「今のところ、返済資金を確保できる見込みは確認できていません」
「ほかの投資を処分した場合は?」
担当者は資産の一覧を開いた。売却を検討できるものはある。ただし、今の時点で現金化できそうな額を足しても、八十億には届かなかった。
弥生は、個々の資産についた説明を順に読んだ。帳簿に載っている額が、そのまま期限までに手に入るわけではない。相手を探す時間も、売るために価格を下げる可能性もある。
「この開発事業の持分を、当初の評価のまま売るのは難しいでしょうね」
「買い手が、今から同じ条件で入る理由がありませんので」
「そうですね」
報告書を一度閉じ、弥生は表紙へ手を置いた。
——景気が悪い、で済む話ちゃうな。
資金を出した先は動かせず、返す日は決まっている。会社の資産だけで届かないなら、保証した本人が何を持っているかという話になる。
「明彦さん個人の資産は、どこまで分かりますか」
「把握できたものを、後ろにまとめています」
弥生は再び報告書を開いた。
*
一覧の中に、上林造船の株式があった。
保有比率、二十一パーセント。
弥生の指が、その行で止まった。
「……株か」
宗一郎が長く率いてきた会社で、明彦は後継者と目されている。その株式は、いずれ会社を継ぐために持ち続けるものだと、何となく考えていた。
だが、売れない資産ではない。
「造船の株式評価を、確認できますか」
「グループで把握している直近の評価があります。お出しします」
担当者が手元の端末を操作し、弥生にも画面を見せた。全株式の評価額は五百億円。明彦の持分に当てはめれば、百五億円になる。
弥生は、報告書の余白へ二つの数字を書いた。
八十億円。百五億円。
「この評価で売れれば、返せる可能性はありますね」
「税金や売却にかかる費用を引いても、ということでしょうか」
「ええ。余裕があるわけではありませんが。実際にいくらで売れるかは、相手と条件次第です」
紙へ書いた百五億円を、弥生はもう一度見た。
会社の資産を少しずつ処分するより、この持分を手放す方が、返済に必要な額へ近づく。個人保証までしているなら、選択肢として考えていても不思議ではなかった。
「株主構成も、出してもらえますか」
画面が切り替わった。
上林ホールディングスが四十パーセント。宗一郎が三十、明彦が二十一、志乃が九。弥生は見慣れた名前を、今度は持分と一緒に追った。
この間の会議では、宗一郎と明彦が並んで座っていた。志乃が計画を問い直すと、どちらかが答え、もう一人がそれを補った。意見が同じというだけでなく、互いを後ろ盾にしていた。
二人の持分を合わせれば、過半数がある。
明彦が自分の株を手放せば、宗一郎の側には三十パーセントしか残らない。
——宗一郎おじさん、不利になるなあ。
会社を息子へ継がせるつもりの父が、喜ぶ話ではない。明彦も、自分が継ぐための株を売りたいとは思わないだろう。
それでも、返済日は半年後だった。
弥生は、株主構成の画面から報告書へ目を戻した。上林造船は利益を出している。その株式なら、買いたい相手はいるはずだ。誰が買うかによっては、今の仲裁にも関わってくる。
「売却交渉が始まっているという情報は、ありますか」
「現時点では確認できていません」
「では、そこも継続して見てください。保有株式の動きと、売却について接触している相手がいるか。分かる範囲で構いません」
担当者が書き留め、顔を上げた。
「明彦さんが売ると、お考えですか」
「可能性はあると思います。ただ、まだ返済に使える資産を考えた段階です。売ると決めたことも、交渉していることも、確認できていません」
弥生は報告書の余白へ、売却の可能性、と書き足した。
「新しいことが分かったら、すぐに知らせてください」
「承知しました」
担当者が出たあと、弥生は造船の資料を手元へ持ってきた。事業計画を比較するためのものと、今聞いた報告書を並べる。
会社の設備をどうするか。その議論の席にいた一人が、別の会社で返済資金を探しているかもしれない。造船の業績だけを見ていても、分からない事情だった。
次に兄と会う時には、この話から伝えよう。
弥生は二つの資料をまとめ、予定していた仕事へ戻った。
*
その夜、帰宅した弥生が着替えてリビングへ入ると、瑛美はソファで携帯電話を見ていた。
「おかえり。ご飯、食べた?」
「食べたよ。瑛美は?」
「私も。お茶いる?」
「うん」
瑛美が立ち上がり、弥生もキッチンへついていった。彼女が湯を沸かす間に、二つのカップを出す。
「そういえば、明彦さんの会社、調べるって言ってたよね」
「ああ。今日、報告もろうた」
「どうだった?」
「結構厳しいみたいや」
瑛美は手にしていた茶葉の袋を置いた。
「やっぱり、景気が悪いんだ」
「いや、景気より投資の問題やね。大きいリゾート開発にお金を入れて、それが予定通りに進んでへん」
「工事が遅れてるの?」
「うん。費用も増えてるし、見込んでたほどお客さんが来るかも怪しい。そこへ借入でお金を入れたから、返す方が先になってしもてる」
瑛美はうなずき、湯を注いだ。
「それは、家でも電話するね」
「せやな」
「奥さん、詳しいことは分からないって仰ってたけど。そこまで大変だとは、思ってないかもしれないね」
「まあ、わざわざ家で話したくないこともあるやろうしな」
瑛美は二つのカップを見下ろしたあと、片方を弥生へ寄せた。
「大丈夫なのかな」
「資産を整理したら、何とかなるかもしれん。造船の株も持ってはるから」
「それを売るの?」
「まだ分からん。ただ、借入を返すために売る可能性はある」
「……じゃあ、造船の方も変わるね」
「うん。誰が持つかで、会社の方針にも影響するし。そこは兄さんと相談するよ」
瑛美は少し考えてから、カップを持った。弥生も自分の分を取り、二人でソファへ戻った。
「瑛美が教えてくれたおかげやな」
隣へ座りながら言うと、彼女がこちらを向いた。
「私?」
「うん。あの話聞いてへんかったら、投資会社の方まで見てへんかったと思う」
「私は、奥さんとお話ししただけだよ」
「それが大事やったんよ。僕は造船の資料ばっかり読んでたし」
瑛美はカップへ口をつけた。ひと口飲んでから、少し笑う。
「少しは役に立った?」
「かなり」
「そっか。じゃあ、よかった」
彼女はそれだけ言って、弥生の隣へ座り直した。肩が触れ、そのまま離れない。弥生もお茶を飲み、カップをテーブルへ置いた。
「路花さんとのお茶、日ぃ決まったん?」
「来週。お店の候補を送っていただいてたの」
瑛美が携帯電話を持ち上げ、画面を見せた。料理の写真と、窓際の席の写真が並んでいる。
「ええな」
「でしょ。こっちのお店、ケーキがいろいろあるんだって」
「もう決めたん?」
「お店は、こっちがいいかなって。ケーキはまだ」
「そこまで聞いてへんよ」
「でも、何食べるか大事じゃん」
弥生が笑うと、瑛美も笑って画面を戻した。写真をもう一度拡大してから、携帯電話を伏せる。
「弥生には、何か買って帰ろうか」
「ええの?」
「持ち帰りもあるみたいだから。好きそうなのがあったらね」
「ほな、待ってる」
「ケーキを?」
「瑛美を」
彼女は弥生を見た。
「……そういうこと、すぐ言う」
「聞くからやろ」
瑛美は笑い、テーブルへカップを置いた。弥生の手を取って、自分の膝の上へ下ろす。
「ちゃんと帰ってくるよ」
「知ってる」
指を握り返すと、彼女が少し顔を上げた。弥生は近づいてキスをした。離れてからも、瑛美は手を放さずにいた。
「お茶、冷めちゃうね」
「まだ大丈夫やろ」
「弥生のはね。私の、もうぬるかった」
「温め直そか」
瑛美はカップへ目をやったが、すぐには動かなかった。
「……あとでいい」
弥生も立たず、彼女の手を握ったまま座っていた。しばらくして、瑛美が今度は二人で行きたい店の写真を見せてくれた。
その画面が二人とも見えるように、弥生はもう少しだけ、彼女へ肩を寄せた。
担当役員が説明を終え、手元の資料を閉じる。投資先の事業は順調で、追加の資金があれば、さらに拡大できるという。見込まれる利益も、社内の基準を満たしていた。
弥生は、一覧の下にある投資残高へ目を落とした。
「この案件だけなら、進めていいと思います。ただ、今ある投資も含めると、同じ業界へ置く資金が増えますね」
「はい。既存の二件も、今年中に追加投資を予定しています」
「三件とも、需要が伸びることを前提にしています。見通しが外れた時に、同時に追加の資金を求められる可能性はありますか」
役員が資料を開き直し、それぞれの資金計画を説明した。弥生は聞き終えてから、一つの計画へ指を置いた。
「こちらは、今の規模でも事業を続けられるんですね」
「拡大は遅れますが、継続はできます」
「では、この一件は今期の追加投資を見送ります。残る二件を進めた場合に、厳しい状況でも会社全体としてどこまで支えられるか、次の経営会議で確認しましょう」
役員はうなずき、次の報告へ移った。既存の投資先の一社は、当初の予測より売上が落ちている。費用を抑え、持ち直すまでの資金は確保できていた。
順調な会社も、苦しい会社もある。投資先ごとの報告を聞いているうちに、弥生は瑛美の言葉を思い出した。
明彦の投資会社は、最近、景気が悪いらしい。
あの夜は、自分の感覚との違いが少し気になっただけだった。どこへ投資しているかで状況は変わる。それでも、上林造船の取締役が自分で経営する会社のことなら、確認しておいて損はない。
報告が終わると、弥生は同席していた調査担当者を呼び止めた。
「そういえば、AKインベストメントを調べてもらえますか」
「上林明彦さんの会社ですね」
「ええ。最近、あまり業績が良くないらしくて。主要な投資先と、資金調達の状況を確認したいんです」
担当者が、閉じかけた手帳を開いた。
「何か、具体的な問題があるのでしょうか」
「まだ分かりません。投資先次第では苦しいこともあるでしょうし。ただ、今は造船の件で関わっているので、そちらに影響しそうな事情があるなら把握しておきたいです」
弥生は机の端へ資料を寄せた。
「直近の財務と資金繰りも、分かる範囲で。確認できたことと、見込みは分けてください」
「承知しました」
担当者が出ていくと、弥生は次の予定を確かめた。造船から依頼した比較資料も届き始めている。そちらは、次に睦月と会うまでに目を通しておくつもりだった。
*
調査結果が届いたのは、それから数日後だった。
執務室の応接テーブルへ置かれた報告書を開くと、投資先の一覧に、地方の大型リゾート開発事業があった。ほかの案件に比べ、投入した資金が大きい。
「現在の資金繰りに、最も影響している案件です」
向かいに座った担当者が説明した。
「当初の計画から建設費が膨らんでいます。工期も遅れていて、予定していた時期に資金を回収できていません」
弥生は事業計画と現況を並べたページへ目を移した。開発側が見込んでいた収益と、今の見通しには大きな開きがある。
「費用が増えた分だけでは、なさそうですね」
「はい。集客の見込みも下がっています。当初の予測自体、周辺の類似施設に比べてかなり高い水準でした」
「AK側で、その予測を検証した形跡は?」
「十分には確認できませんでした。投資判断では、開発側の提示した計画を重く見ていたようです」
弥生は、予測の根拠がまとめられた箇所を読んだ。広い地域から客を呼ぶ計画なのに、近隣の来訪者数が、そのまま施設の利用へ結びつくように扱われている。
客が来る理由より、来てもらわなければ困る人数が先に決まっているように見えた。
「これに、借入で投資を増やしたんですか」
「はい。計画が進むにつれ、投資額も増えています」
弥生はページをめくり、資金調達の推移を見た。
「……強気やなあ」
思わず出た声に、担当者が顔を上げた。弥生は資料へ目を戻す。
「費用が上がることも、工期が延びることも、開発事業では考えておくべきリスクです。その時に資金が足りなくなる計画で、ここまで投資を広げた方が問題ですね」
「現在は、追加投資に回せる余力もほとんどありません」
うまくいけば、投入した資金に見合う利益を得られたのだろう。だが、利益が入るまでに何が起こり得るかを、軽く見すぎていた。自分で検証した範囲も狭いまま、借入だけが増えている。
この間の造船の会議で、明彦が顧客を失うリスクを説明していた姿が浮かんだ。設備を増やすまでに時間がかかることも、需要が弱まる可能性も、分かっていた。
あの計画に理があることと、この投資が適切だったかは、別の話だった。
「借入は、今いくらですか」
「残高は八十億円です」
担当者が該当するページを示した。
弥生は額を見てから、返済予定へ目を移した。
「半年後に、これだけ返すんですね」
「はい。明彦さんご本人の個人保証もついています」
八十億という額より、その日付の方が気になった。開発事業の回収は、半年で立て直せる見通しにはなっていない。
弥生は椅子へ座り直した。
「借り換えの見込みはありますか」
「今のところ、返済資金を確保できる見込みは確認できていません」
「ほかの投資を処分した場合は?」
担当者は資産の一覧を開いた。売却を検討できるものはある。ただし、今の時点で現金化できそうな額を足しても、八十億には届かなかった。
弥生は、個々の資産についた説明を順に読んだ。帳簿に載っている額が、そのまま期限までに手に入るわけではない。相手を探す時間も、売るために価格を下げる可能性もある。
「この開発事業の持分を、当初の評価のまま売るのは難しいでしょうね」
「買い手が、今から同じ条件で入る理由がありませんので」
「そうですね」
報告書を一度閉じ、弥生は表紙へ手を置いた。
——景気が悪い、で済む話ちゃうな。
資金を出した先は動かせず、返す日は決まっている。会社の資産だけで届かないなら、保証した本人が何を持っているかという話になる。
「明彦さん個人の資産は、どこまで分かりますか」
「把握できたものを、後ろにまとめています」
弥生は再び報告書を開いた。
*
一覧の中に、上林造船の株式があった。
保有比率、二十一パーセント。
弥生の指が、その行で止まった。
「……株か」
宗一郎が長く率いてきた会社で、明彦は後継者と目されている。その株式は、いずれ会社を継ぐために持ち続けるものだと、何となく考えていた。
だが、売れない資産ではない。
「造船の株式評価を、確認できますか」
「グループで把握している直近の評価があります。お出しします」
担当者が手元の端末を操作し、弥生にも画面を見せた。全株式の評価額は五百億円。明彦の持分に当てはめれば、百五億円になる。
弥生は、報告書の余白へ二つの数字を書いた。
八十億円。百五億円。
「この評価で売れれば、返せる可能性はありますね」
「税金や売却にかかる費用を引いても、ということでしょうか」
「ええ。余裕があるわけではありませんが。実際にいくらで売れるかは、相手と条件次第です」
紙へ書いた百五億円を、弥生はもう一度見た。
会社の資産を少しずつ処分するより、この持分を手放す方が、返済に必要な額へ近づく。個人保証までしているなら、選択肢として考えていても不思議ではなかった。
「株主構成も、出してもらえますか」
画面が切り替わった。
上林ホールディングスが四十パーセント。宗一郎が三十、明彦が二十一、志乃が九。弥生は見慣れた名前を、今度は持分と一緒に追った。
この間の会議では、宗一郎と明彦が並んで座っていた。志乃が計画を問い直すと、どちらかが答え、もう一人がそれを補った。意見が同じというだけでなく、互いを後ろ盾にしていた。
二人の持分を合わせれば、過半数がある。
明彦が自分の株を手放せば、宗一郎の側には三十パーセントしか残らない。
——宗一郎おじさん、不利になるなあ。
会社を息子へ継がせるつもりの父が、喜ぶ話ではない。明彦も、自分が継ぐための株を売りたいとは思わないだろう。
それでも、返済日は半年後だった。
弥生は、株主構成の画面から報告書へ目を戻した。上林造船は利益を出している。その株式なら、買いたい相手はいるはずだ。誰が買うかによっては、今の仲裁にも関わってくる。
「売却交渉が始まっているという情報は、ありますか」
「現時点では確認できていません」
「では、そこも継続して見てください。保有株式の動きと、売却について接触している相手がいるか。分かる範囲で構いません」
担当者が書き留め、顔を上げた。
「明彦さんが売ると、お考えですか」
「可能性はあると思います。ただ、まだ返済に使える資産を考えた段階です。売ると決めたことも、交渉していることも、確認できていません」
弥生は報告書の余白へ、売却の可能性、と書き足した。
「新しいことが分かったら、すぐに知らせてください」
「承知しました」
担当者が出たあと、弥生は造船の資料を手元へ持ってきた。事業計画を比較するためのものと、今聞いた報告書を並べる。
会社の設備をどうするか。その議論の席にいた一人が、別の会社で返済資金を探しているかもしれない。造船の業績だけを見ていても、分からない事情だった。
次に兄と会う時には、この話から伝えよう。
弥生は二つの資料をまとめ、予定していた仕事へ戻った。
*
その夜、帰宅した弥生が着替えてリビングへ入ると、瑛美はソファで携帯電話を見ていた。
「おかえり。ご飯、食べた?」
「食べたよ。瑛美は?」
「私も。お茶いる?」
「うん」
瑛美が立ち上がり、弥生もキッチンへついていった。彼女が湯を沸かす間に、二つのカップを出す。
「そういえば、明彦さんの会社、調べるって言ってたよね」
「ああ。今日、報告もろうた」
「どうだった?」
「結構厳しいみたいや」
瑛美は手にしていた茶葉の袋を置いた。
「やっぱり、景気が悪いんだ」
「いや、景気より投資の問題やね。大きいリゾート開発にお金を入れて、それが予定通りに進んでへん」
「工事が遅れてるの?」
「うん。費用も増えてるし、見込んでたほどお客さんが来るかも怪しい。そこへ借入でお金を入れたから、返す方が先になってしもてる」
瑛美はうなずき、湯を注いだ。
「それは、家でも電話するね」
「せやな」
「奥さん、詳しいことは分からないって仰ってたけど。そこまで大変だとは、思ってないかもしれないね」
「まあ、わざわざ家で話したくないこともあるやろうしな」
瑛美は二つのカップを見下ろしたあと、片方を弥生へ寄せた。
「大丈夫なのかな」
「資産を整理したら、何とかなるかもしれん。造船の株も持ってはるから」
「それを売るの?」
「まだ分からん。ただ、借入を返すために売る可能性はある」
「……じゃあ、造船の方も変わるね」
「うん。誰が持つかで、会社の方針にも影響するし。そこは兄さんと相談するよ」
瑛美は少し考えてから、カップを持った。弥生も自分の分を取り、二人でソファへ戻った。
「瑛美が教えてくれたおかげやな」
隣へ座りながら言うと、彼女がこちらを向いた。
「私?」
「うん。あの話聞いてへんかったら、投資会社の方まで見てへんかったと思う」
「私は、奥さんとお話ししただけだよ」
「それが大事やったんよ。僕は造船の資料ばっかり読んでたし」
瑛美はカップへ口をつけた。ひと口飲んでから、少し笑う。
「少しは役に立った?」
「かなり」
「そっか。じゃあ、よかった」
彼女はそれだけ言って、弥生の隣へ座り直した。肩が触れ、そのまま離れない。弥生もお茶を飲み、カップをテーブルへ置いた。
「路花さんとのお茶、日ぃ決まったん?」
「来週。お店の候補を送っていただいてたの」
瑛美が携帯電話を持ち上げ、画面を見せた。料理の写真と、窓際の席の写真が並んでいる。
「ええな」
「でしょ。こっちのお店、ケーキがいろいろあるんだって」
「もう決めたん?」
「お店は、こっちがいいかなって。ケーキはまだ」
「そこまで聞いてへんよ」
「でも、何食べるか大事じゃん」
弥生が笑うと、瑛美も笑って画面を戻した。写真をもう一度拡大してから、携帯電話を伏せる。
「弥生には、何か買って帰ろうか」
「ええの?」
「持ち帰りもあるみたいだから。好きそうなのがあったらね」
「ほな、待ってる」
「ケーキを?」
「瑛美を」
彼女は弥生を見た。
「……そういうこと、すぐ言う」
「聞くからやろ」
瑛美は笑い、テーブルへカップを置いた。弥生の手を取って、自分の膝の上へ下ろす。
「ちゃんと帰ってくるよ」
「知ってる」
指を握り返すと、彼女が少し顔を上げた。弥生は近づいてキスをした。離れてからも、瑛美は手を放さずにいた。
「お茶、冷めちゃうね」
「まだ大丈夫やろ」
「弥生のはね。私の、もうぬるかった」
「温め直そか」
瑛美はカップへ目をやったが、すぐには動かなかった。
「……あとでいい」
弥生も立たず、彼女の手を握ったまま座っていた。しばらくして、瑛美が今度は二人で行きたい店の写真を見せてくれた。
その画面が二人とも見えるように、弥生はもう少しだけ、彼女へ肩を寄せた。
