「もうほんま疲れたわ。何なん、あれ」
風呂を済ませた弥生は、ソファへ座るなりそう言った。
隣で本を読んでいた瑛美が、顔を上げる。弥生は背もたれへ身体を預け、天井を見た。
「造船の話?」
「うん。船の話、途中でなくなったけど」
「何の話になったの」
「去年、誰が何を言うたか」
瑛美は本へ栞を挟んだ。
「去年まで戻ったんだ」
「僕、去年その場におらんのに、全員こっち見て説明してくるねん。しかも三人とも、話ちゃうし」
「三人分、聞いたの?」
「聞かされたんや」
笑った瑛美の肩へ、弥生は自分の肩を寄せた。彼女は少しだけ座り直し、そのまま隣に収まる。
「宗一郎おじさんと明彦さんが一緒で、志乃さんが反対してるんだよね」
「そう。設備増やすか、今ある設備で利益を伸ばすか。言うてることは、どっちも分かるんよ」
「じゃあ、余計に困るね」
「せやねん。資料だけ読んだら、ちゃんと会議できそうなんや。始まったら、できひん」
「資料の方が仲いいんだ」
弥生は瑛美を見た。
「ほんまそれ。紙は隣に置いても喧嘩せえへん」
瑛美が声を出して笑った。
「途中で僕に、どう思うって聞かはるんやけどな。答えてる途中で、また三人の話になるねん」
「聞いた意味ないじゃん」
「なあ。僕が何言うか、気にならへんのやったら聞かんといてほしい」
「顔には出さなかった?」
「出してへんよ」
「今、すごい顔してるけど」
「今はええやろ。エミしかおらんし」
瑛美は笑いを収めながら、弥生の前髪へ手を伸ばした。風呂上がりで下りていた髪を、指先で軽く分ける。
「次も弥生が行くの?」
「次は兄さんも来てくれはるかもしれん」
「二人で聞けば、少し楽になるね」
「兄さんに説明してる間に、僕は船の資料読めるし」
「お兄さんに全部聞かせる気?」
「一回くらいええやろ」
彼女の手が髪から離れる前に、弥生はその手を取った。膝の上へ下ろし、指を絡める。
瑛美は握り返し、閉じた本を脇のテーブルへ置いた。
「弥生が帰ってきてから、まだ一回も船の話、聞いてないよ」
「……ほんまや」
今日の話を思い出して、弥生はまた少し顔をしかめた。
「うつったんかな」
「何が?」
「船の話せえへんところ」
瑛美は、握っていた手を揺らして笑った。
*
数日後の夕方、二人は上林財閥の親族懇親会へ向かっていた。
リムジンの後部座席で、瑛美が携帯電話の画面を閉じた。弥生が横を見ると、彼女は膝の上でバッグの留め具に触れている。
「何見てたん?」
「この間、一緒に確認した名前。結婚式でお会いしたけど、ちゃんとお話しできなかった方も多かったから」
「今日で全部覚えんでもええよ。僕かて、たまに迷うし」
「あなたが迷っちゃだめでしょ」
「年に何回も会わへん人もいてはるから」
結婚から四か月余り。夫婦で財界の集まりに出ることはあったが、上林家の親族だけが集まる正式な懇親会へ、瑛美が参加するのは初めてだった。
弥生は、バッグに置かれた彼女の手へ自分の手を重ねた。
「緊張せんでええよ。お母さんも兄さんも路花さんもおるし」
「うん。分かってる」
瑛美は弥生を見て、少し笑った。
「でも、今日は私も上林家の一員として出るんでしょ。少しは緊張するよ」
弥生は重ねた手を持ち上げ、握り直した。
「僕の奥さんやもんな」
「そういうこと」
「ほな、僕の隣におってくれたらええよ」
「ずっと?」
「ずっとでもええけど」
「お義姉さんともお話ししたいんだけど」
「……そこは、どうぞ」
瑛美が笑い、バッグから手を離した。会場に着くまで、弥生の手は握ったままだった。
*
ホテルの宴会場には、すでに親族が集まっていた。丸い卓の間で何組かが立って話し、奥には料理が並んでいる。仕立てのよいスーツが、背筋を伸ばして歩く弥生の身体に馴染んでいた。隣の瑛美が親族へ会釈すると、華やかな装いに添えた繊細なジュエリーが、照明を受けて小さくきらめいた。
入口近くで弥生の母が二人に気づき、手にしていたグラスを卓へ置いた。
「エミちゃん。来てくれてありがとう」
「お招きいただいて、ありがとうございます。お母さん」
母は瑛美の顔を見て、嬉しそうに笑った。
「二人で来てもろうたら、なんや安心するわ。弥生だけやと、ちゃんとご飯食べたんかまで聞かなあかんから」
「お母さん。僕、もう二十七ですよ」
「二十七になったら、忙しい時も食べるようになるん?」
弥生が黙ると、瑛美が隣で笑った。
「今日は一緒に食べてから来ました」
「そう。ほな安心やね」
弥生の返事は、別に必要なかったらしい。
母へ挨拶に来た夫婦と、弥生が二人で言葉を交わす。その夫妻が料理の卓へ向かうと、瑛美は母へ少し声を落とした。
「お父さん、その後はいかがですか」
「落ち着いてはるよ。昨日も、今日は誰が来るんやって聞いてはった」
「気にしてはるんですね」
弥生が言うと、母はうなずいた。
「帰ったら、話してあげようと思うてる。仕事の話にならへんようにせなあかんけど」
「それ、難しそうです」
「せやから、二人の話も聞かせて。あの人も、エミちゃんの話なら喜ばはるから」
瑛美が、この間二人で箱根へ行ったことを話した。母は宿の話を聞き、途中でどこか寄ったのかと尋ねる。
「道の駅へ。弥生が肉まんを買って」
「僕の運転で行ったんですよ」
母の視線が息子へ移った。
「そうなん。エミちゃん、大丈夫やった?」
「そっちに聞くんですか」
「乗せてもろうた人に聞かな、分からへんでしょう」
瑛美は弥生を一度見てから、笑顔で母へ向き直った。
「ちゃんと着きました」
——評価、最低限やな。
母は笑い、今度は宿の食事について尋ねた。瑛美は楽しそうに答え、弥生も話へ戻った。
*
「エミちゃん。久しぶりやな」
振り返ると、睦月が妻の路花と並んで立っていた。
瑛美が二人へ挨拶し、弥生も頭を下げる。
「兄さん。路花さんも、ご無沙汰してます」
「エミさん、お会いできて嬉しいです。弥生さんとは時々お会いするのに、お二人一緒だと、なかなか」
路花が言うと、睦月が弟を見た。
「仕事終わったら、すぐ帰るからな」
「終わったんやから、帰ってええでしょう」
「悪いとは言うてへん」
「兄さんかて帰りはるやないですか」
「俺は、帰れる日にな」
路花が夫へ顔を向けた。
「今週は、帰れる日が少なかったですね」
「来週は、もう少し早う帰る」
「その言葉、先週も聞きました」
睦月は口を閉じ、それから笑った。
「……来週の予定、一緒に見てもらおか」
「そうしてください。お食事の約束、また延ばしたくないので」
瑛美が、二人はどこかへ食事に行く予定なのかと尋ねた。路花は店の名前を挙げ、予約を変えたのは今回で二度目なのだと話す。
「お仕事は仕方ないんですけど、行きたいとは言っておかないと。いつの間にか、なかったことになりそうでしょう」
「ならへんよ。覚えてる」
「では、楽しみにしています」
路花がそう返すと、睦月もうなずいた。瑛美は店の料理についてもう少し聞き、今度行ってみたいと弥生を見た。
「行こか」
弥生が答えると、兄が笑った。
「お前は早いな」
「まだ日ぃ決めてへんからですよ」
「そこも早そうやけど」
否定はしなかった。
話している間にも、親族が睦月へ父の具合を尋ねに来た。兄は落ち着いて答え、その人の家族の近況も聞いた。母のところで話していた夫婦が加わり、瑛美も結婚式以来の挨拶をする。
しばらくして人が離れると、睦月は弟へ目を向けた。
「造船の次の候補日、見た。俺も一日は行けそうや」
「助かります」
弥生の返事が早かったので、路花が少し笑った。
「大変なんですね」
「……まあ、ちょっと」
「ちょっとで済んでるか?」
兄に聞かれ、弥生は瑛美を見た。彼女は何も言わずに笑っている。
「今日は、仕事の話ええでしょう」
「せやな」
睦月はあっさりうなずき、給仕から水を受け取った。隣の路花にも一つ渡す。
兄に声をかけた別の親族が、弥生にも話を振った。二人がそちらへ向き直ると、路花は瑛美へ、少し料理を見に行きませんかと誘った。
*
「エミさんは、こちら召し上がりました?」
路花が小皿に載った前菜を示した。
「まだです。お義姉さんは?」
「さっき一つ。おいしかったので、もう一度もらおうと思って」
二人で皿を取り、会場の端の卓へ移った。兄弟は少し離れた場所で話している。弥生が一度こちらを見て、瑛美も目が合うと小さくうなずいた。
「弥生さん、ちゃんと見てますね」
路花に言われ、瑛美はフォークを持ち直した。
「今日は少し緊張するって、車で話したからだと思います」
「分かります。私も最初、気にしてました。結婚式でご挨拶した方のお顔は覚えているのに、お名前がすぐに出てこなくて」
「私も、さっきまで確認してました」
「それでも迷うんですよね。上林さんってお呼びしても、何人も振り向きそうですし」
瑛美は思わず笑った。
「それは、そうですね」
「分からなくなったら、私に聞いてください。私も分からなかったら、二人で睦月さんに聞きましょう」
「お義兄さんなら、覚えてらっしゃいますか」
「たぶん。でも、私が聞くたびに、ちゃんと答えてくれますから」
路花は兄弟の方を見た。睦月は話の相手が示した会場の奥へ目をやり、何か答えている。
「いつまで聞いてるのって、言われなくて」
その言い方に、瑛美も肩の力を抜いた。
「では、頼らせていただきます」
「ええ。お名前以外でも。お会いできる機会、これからは増やせたら嬉しいです」
「私もです」
路花が、今度は二人でお茶でもどうかと誘った。瑛美はうなずき、弥生へ向けるのとは違う、少し改まった嬉しさで笑った。
そこへ年配の女性が路花に声をかけた。瑛美も紹介され、しばらく一緒に話す。女性が路花へ見せたい写真があると携帯電話を出した時、瑛美は料理の皿を置いた。
少し先に、明彦の妻がいた。隣にいた親族との話がちょうど終わり、グラスを卓へ戻している。
あの三人の話を、家ではどんなふうに聞いているのだろう。
ソファで顔をしかめていた弥生を思い出し、瑛美はそちらへ歩いた。
*
「こんばんは。結婚式では、ありがとうございました」
声をかけると、明彦の妻が顔を上げた。
「瑛美さん。こちらこそ。あの日は、ゆっくりお話しできなくて」
彼女は瑛美のために、卓の脇を少し空けた。
「弥生さんとご一緒?」
「はい。今はお義兄さんと、あちらに」
瑛美が目を向けると、彼女も兄弟を見てうなずいた。
「お二人で来てくださるといいわね。もう新しい生活には慣れた?」
「少しずつ。もともと長く一緒にいたので、変わらないことも多いんですけど」
「小さい頃からのお付き合いですものね。食べ物の好みも、もう知ってるでしょう」
「それは、かなり」
瑛美が笑うと、彼女も笑った。卓に置かれた料理から、家で食べるものの話になり、よく行く店の話へ移った。
瑛美は、路花から聞いた店を挙げた。
「ご存じですか?今度、夫と行ってみようと思って」
「ええ、一度行ったことがあるわ。少し前だけど。あそこなら、二人でゆっくり食事できるわよ」
「そうなんですね」
「私もまた行きたいんだけど、最近は主人が、なかなか」
彼女はグラスへ手を伸ばした。
「造船のお仕事、お忙しいんですか。夫も先日、伺ったそうで」
「そうね。そちらもあるんだけど、投資会社の方も忙しいみたい」
「投資会社?」
「そう。あちらは主人が自分でやってるから、家に帰っても電話をしてたりね。最近は、景気が悪いんですって」
瑛美は彼女の顔を見た。
「そうなんですか」
「私には、詳しいことは分からないのよ。ただ、このところ大変だとは言ってるわ。あまり余裕がないみたいで」
彼女は一口、水を飲んだ。
「弥生さんも投資のお仕事でしょう。やっぱり、お忙しい?」
「日によります。遅くなることもありますけど、一緒に食事できる日もあります」
「そう。それはいいわね」
瑛美も、自宅で弥生が仕事の電話に出ることはあると話した。食事が終わったところでかかってくると、二人ともそのまま席を立つ機会を逃すことがある。
「終わるまで、お茶を飲んで待っていたり」
「うちもあるわ。私は、先に片づけちゃうけど」
「今度は私も、そうしてみます」
彼女が笑い、料理を勧めた。瑛美は空いていた小皿を取り、その話題を続けた。
会場の向こうで、明彦が宗一郎の隣へ来た。妻はその姿を見つけたが、すぐにはその場を離れず、瑛美に先ほどの店で頼んだ料理を教えてくれた。
話を終えてから、瑛美は弥生のところへ戻った。彼はもう兄と別れ、別の親族と話していた。
瑛美に気づくと、弥生は隣を空ける。
「僕の妻です。先ほどは、ご挨拶できていませんでしたね」
紹介された瑛美は、笑顔で頭を下げた。
そのあとはまた、二人で何組かと話した。弥生の母のところへも戻り、料理を食べ、路花とお茶の約束を確かめる。明彦の妻から聞いた話は、帰り際にもまだ覚えていた。
*
帰宅すると、瑛美は先に着替えに行った。弥生がネクタイを外している間に、楽な服へ替えてリビングへ戻ってくる。
「お義姉さんと、お茶に行くことになった」
「聞いたよ。路花さん、喜んではった」
「私も楽しみ。お店も教えていただいたし」
弥生は上着を置き、瑛美の隣へ座った。彼女はソファの上へ足を上げ、膝にクッションを載せる。
「あのお店、明彦さんの奥さんも行ったことあるんだって」
「そうなん」
「うん。少しお話ししたの。最近は明彦さんがお忙しくて、なかなかお食事に行けないって」
弥生は、瑛美が卓の脇で話していた姿を思い出した。
「造船の方?」
「それもあるけど、投資会社の方も。最近は景気が悪いんだって」
「……え、そうか?」
瑛美が弥生を見た。
「え?」
「いや。投資先にもよるけど、今そんな悪いか?」
「そう言ってたよ。明彦さんも大変みたい」
弥生は少し考えた。
上林キャピタルで見ている投資先には、厳しい状況の会社もある。費用が上がった事業もあれば、予定通りには進まない案件もあった。ただ、最近の環境をまとめて不景気と呼ぶのは、自分の感覚とは少し違う。
「何に投資してはるかで、違うからな」
「そこまでは聞いてない。奥さんも、詳しくは分からないって」
「ふうん……」
弥生は外したネクタイを、上着の上へ置いた。
それから瑛美の方へ向き直ると、彼女はもうクッションへ頬杖をついていた。
「疲れた?」
「少し。でも、楽しかった。お母さんともお話しできたし」
「箱根の運転の話、まだ言うてはったよ」
「何て?」
「エミちゃんが無事でよかった、って」
瑛美の口元が緩んだ。
「大事にしていただいてるね、私」
「僕の信用は、どうなってんねん」
笑った瑛美が、クッションを横へ置いた。弥生の腕へ手を添え、肩を寄せる。
「また連れて行ってね」
「……箱根?」
「箱根でも、ほかのところでも」
弥生は彼女の顔を見た。瑛美は近いところから、まだ少し笑っている。
「行こ。今度、どこがええ?」
「今日はもう、決めるのはいい」
「せやな」
彼女の肩へ腕を回すと、瑛美は顔を上げた。弥生が唇を重ね、離れたあとも、そのまま隣に座っていた。
今夜会った親族の話を、ぽつぽつとした。路花の勧めてくれた料理と、睦月の食事の約束。母に渡しておけばよかった箱根の写真は、明日送ることになった。
「お父さんにも、見ていただけるかな」
「うん。お母さんから見せてくれはるやろ」
瑛美はうなずき、弥生の肩へ頭を預けた。
弥生も背もたれへ身体を預ける。明彦の投資会社は、景気が悪いらしい。その話をもう一度思い出したが、隣で瑛美が欠伸をこらえているのを見て、時計へ目をやった。
「そろそろ寝よか」
「うん。立つの、ちょっと待って」
瑛美が腕へ置いた手に、少しだけ力が入った。
弥生は時計から目を戻し、もうしばらく、そのまま座っていた。
風呂を済ませた弥生は、ソファへ座るなりそう言った。
隣で本を読んでいた瑛美が、顔を上げる。弥生は背もたれへ身体を預け、天井を見た。
「造船の話?」
「うん。船の話、途中でなくなったけど」
「何の話になったの」
「去年、誰が何を言うたか」
瑛美は本へ栞を挟んだ。
「去年まで戻ったんだ」
「僕、去年その場におらんのに、全員こっち見て説明してくるねん。しかも三人とも、話ちゃうし」
「三人分、聞いたの?」
「聞かされたんや」
笑った瑛美の肩へ、弥生は自分の肩を寄せた。彼女は少しだけ座り直し、そのまま隣に収まる。
「宗一郎おじさんと明彦さんが一緒で、志乃さんが反対してるんだよね」
「そう。設備増やすか、今ある設備で利益を伸ばすか。言うてることは、どっちも分かるんよ」
「じゃあ、余計に困るね」
「せやねん。資料だけ読んだら、ちゃんと会議できそうなんや。始まったら、できひん」
「資料の方が仲いいんだ」
弥生は瑛美を見た。
「ほんまそれ。紙は隣に置いても喧嘩せえへん」
瑛美が声を出して笑った。
「途中で僕に、どう思うって聞かはるんやけどな。答えてる途中で、また三人の話になるねん」
「聞いた意味ないじゃん」
「なあ。僕が何言うか、気にならへんのやったら聞かんといてほしい」
「顔には出さなかった?」
「出してへんよ」
「今、すごい顔してるけど」
「今はええやろ。エミしかおらんし」
瑛美は笑いを収めながら、弥生の前髪へ手を伸ばした。風呂上がりで下りていた髪を、指先で軽く分ける。
「次も弥生が行くの?」
「次は兄さんも来てくれはるかもしれん」
「二人で聞けば、少し楽になるね」
「兄さんに説明してる間に、僕は船の資料読めるし」
「お兄さんに全部聞かせる気?」
「一回くらいええやろ」
彼女の手が髪から離れる前に、弥生はその手を取った。膝の上へ下ろし、指を絡める。
瑛美は握り返し、閉じた本を脇のテーブルへ置いた。
「弥生が帰ってきてから、まだ一回も船の話、聞いてないよ」
「……ほんまや」
今日の話を思い出して、弥生はまた少し顔をしかめた。
「うつったんかな」
「何が?」
「船の話せえへんところ」
瑛美は、握っていた手を揺らして笑った。
*
数日後の夕方、二人は上林財閥の親族懇親会へ向かっていた。
リムジンの後部座席で、瑛美が携帯電話の画面を閉じた。弥生が横を見ると、彼女は膝の上でバッグの留め具に触れている。
「何見てたん?」
「この間、一緒に確認した名前。結婚式でお会いしたけど、ちゃんとお話しできなかった方も多かったから」
「今日で全部覚えんでもええよ。僕かて、たまに迷うし」
「あなたが迷っちゃだめでしょ」
「年に何回も会わへん人もいてはるから」
結婚から四か月余り。夫婦で財界の集まりに出ることはあったが、上林家の親族だけが集まる正式な懇親会へ、瑛美が参加するのは初めてだった。
弥生は、バッグに置かれた彼女の手へ自分の手を重ねた。
「緊張せんでええよ。お母さんも兄さんも路花さんもおるし」
「うん。分かってる」
瑛美は弥生を見て、少し笑った。
「でも、今日は私も上林家の一員として出るんでしょ。少しは緊張するよ」
弥生は重ねた手を持ち上げ、握り直した。
「僕の奥さんやもんな」
「そういうこと」
「ほな、僕の隣におってくれたらええよ」
「ずっと?」
「ずっとでもええけど」
「お義姉さんともお話ししたいんだけど」
「……そこは、どうぞ」
瑛美が笑い、バッグから手を離した。会場に着くまで、弥生の手は握ったままだった。
*
ホテルの宴会場には、すでに親族が集まっていた。丸い卓の間で何組かが立って話し、奥には料理が並んでいる。仕立てのよいスーツが、背筋を伸ばして歩く弥生の身体に馴染んでいた。隣の瑛美が親族へ会釈すると、華やかな装いに添えた繊細なジュエリーが、照明を受けて小さくきらめいた。
入口近くで弥生の母が二人に気づき、手にしていたグラスを卓へ置いた。
「エミちゃん。来てくれてありがとう」
「お招きいただいて、ありがとうございます。お母さん」
母は瑛美の顔を見て、嬉しそうに笑った。
「二人で来てもろうたら、なんや安心するわ。弥生だけやと、ちゃんとご飯食べたんかまで聞かなあかんから」
「お母さん。僕、もう二十七ですよ」
「二十七になったら、忙しい時も食べるようになるん?」
弥生が黙ると、瑛美が隣で笑った。
「今日は一緒に食べてから来ました」
「そう。ほな安心やね」
弥生の返事は、別に必要なかったらしい。
母へ挨拶に来た夫婦と、弥生が二人で言葉を交わす。その夫妻が料理の卓へ向かうと、瑛美は母へ少し声を落とした。
「お父さん、その後はいかがですか」
「落ち着いてはるよ。昨日も、今日は誰が来るんやって聞いてはった」
「気にしてはるんですね」
弥生が言うと、母はうなずいた。
「帰ったら、話してあげようと思うてる。仕事の話にならへんようにせなあかんけど」
「それ、難しそうです」
「せやから、二人の話も聞かせて。あの人も、エミちゃんの話なら喜ばはるから」
瑛美が、この間二人で箱根へ行ったことを話した。母は宿の話を聞き、途中でどこか寄ったのかと尋ねる。
「道の駅へ。弥生が肉まんを買って」
「僕の運転で行ったんですよ」
母の視線が息子へ移った。
「そうなん。エミちゃん、大丈夫やった?」
「そっちに聞くんですか」
「乗せてもろうた人に聞かな、分からへんでしょう」
瑛美は弥生を一度見てから、笑顔で母へ向き直った。
「ちゃんと着きました」
——評価、最低限やな。
母は笑い、今度は宿の食事について尋ねた。瑛美は楽しそうに答え、弥生も話へ戻った。
*
「エミちゃん。久しぶりやな」
振り返ると、睦月が妻の路花と並んで立っていた。
瑛美が二人へ挨拶し、弥生も頭を下げる。
「兄さん。路花さんも、ご無沙汰してます」
「エミさん、お会いできて嬉しいです。弥生さんとは時々お会いするのに、お二人一緒だと、なかなか」
路花が言うと、睦月が弟を見た。
「仕事終わったら、すぐ帰るからな」
「終わったんやから、帰ってええでしょう」
「悪いとは言うてへん」
「兄さんかて帰りはるやないですか」
「俺は、帰れる日にな」
路花が夫へ顔を向けた。
「今週は、帰れる日が少なかったですね」
「来週は、もう少し早う帰る」
「その言葉、先週も聞きました」
睦月は口を閉じ、それから笑った。
「……来週の予定、一緒に見てもらおか」
「そうしてください。お食事の約束、また延ばしたくないので」
瑛美が、二人はどこかへ食事に行く予定なのかと尋ねた。路花は店の名前を挙げ、予約を変えたのは今回で二度目なのだと話す。
「お仕事は仕方ないんですけど、行きたいとは言っておかないと。いつの間にか、なかったことになりそうでしょう」
「ならへんよ。覚えてる」
「では、楽しみにしています」
路花がそう返すと、睦月もうなずいた。瑛美は店の料理についてもう少し聞き、今度行ってみたいと弥生を見た。
「行こか」
弥生が答えると、兄が笑った。
「お前は早いな」
「まだ日ぃ決めてへんからですよ」
「そこも早そうやけど」
否定はしなかった。
話している間にも、親族が睦月へ父の具合を尋ねに来た。兄は落ち着いて答え、その人の家族の近況も聞いた。母のところで話していた夫婦が加わり、瑛美も結婚式以来の挨拶をする。
しばらくして人が離れると、睦月は弟へ目を向けた。
「造船の次の候補日、見た。俺も一日は行けそうや」
「助かります」
弥生の返事が早かったので、路花が少し笑った。
「大変なんですね」
「……まあ、ちょっと」
「ちょっとで済んでるか?」
兄に聞かれ、弥生は瑛美を見た。彼女は何も言わずに笑っている。
「今日は、仕事の話ええでしょう」
「せやな」
睦月はあっさりうなずき、給仕から水を受け取った。隣の路花にも一つ渡す。
兄に声をかけた別の親族が、弥生にも話を振った。二人がそちらへ向き直ると、路花は瑛美へ、少し料理を見に行きませんかと誘った。
*
「エミさんは、こちら召し上がりました?」
路花が小皿に載った前菜を示した。
「まだです。お義姉さんは?」
「さっき一つ。おいしかったので、もう一度もらおうと思って」
二人で皿を取り、会場の端の卓へ移った。兄弟は少し離れた場所で話している。弥生が一度こちらを見て、瑛美も目が合うと小さくうなずいた。
「弥生さん、ちゃんと見てますね」
路花に言われ、瑛美はフォークを持ち直した。
「今日は少し緊張するって、車で話したからだと思います」
「分かります。私も最初、気にしてました。結婚式でご挨拶した方のお顔は覚えているのに、お名前がすぐに出てこなくて」
「私も、さっきまで確認してました」
「それでも迷うんですよね。上林さんってお呼びしても、何人も振り向きそうですし」
瑛美は思わず笑った。
「それは、そうですね」
「分からなくなったら、私に聞いてください。私も分からなかったら、二人で睦月さんに聞きましょう」
「お義兄さんなら、覚えてらっしゃいますか」
「たぶん。でも、私が聞くたびに、ちゃんと答えてくれますから」
路花は兄弟の方を見た。睦月は話の相手が示した会場の奥へ目をやり、何か答えている。
「いつまで聞いてるのって、言われなくて」
その言い方に、瑛美も肩の力を抜いた。
「では、頼らせていただきます」
「ええ。お名前以外でも。お会いできる機会、これからは増やせたら嬉しいです」
「私もです」
路花が、今度は二人でお茶でもどうかと誘った。瑛美はうなずき、弥生へ向けるのとは違う、少し改まった嬉しさで笑った。
そこへ年配の女性が路花に声をかけた。瑛美も紹介され、しばらく一緒に話す。女性が路花へ見せたい写真があると携帯電話を出した時、瑛美は料理の皿を置いた。
少し先に、明彦の妻がいた。隣にいた親族との話がちょうど終わり、グラスを卓へ戻している。
あの三人の話を、家ではどんなふうに聞いているのだろう。
ソファで顔をしかめていた弥生を思い出し、瑛美はそちらへ歩いた。
*
「こんばんは。結婚式では、ありがとうございました」
声をかけると、明彦の妻が顔を上げた。
「瑛美さん。こちらこそ。あの日は、ゆっくりお話しできなくて」
彼女は瑛美のために、卓の脇を少し空けた。
「弥生さんとご一緒?」
「はい。今はお義兄さんと、あちらに」
瑛美が目を向けると、彼女も兄弟を見てうなずいた。
「お二人で来てくださるといいわね。もう新しい生活には慣れた?」
「少しずつ。もともと長く一緒にいたので、変わらないことも多いんですけど」
「小さい頃からのお付き合いですものね。食べ物の好みも、もう知ってるでしょう」
「それは、かなり」
瑛美が笑うと、彼女も笑った。卓に置かれた料理から、家で食べるものの話になり、よく行く店の話へ移った。
瑛美は、路花から聞いた店を挙げた。
「ご存じですか?今度、夫と行ってみようと思って」
「ええ、一度行ったことがあるわ。少し前だけど。あそこなら、二人でゆっくり食事できるわよ」
「そうなんですね」
「私もまた行きたいんだけど、最近は主人が、なかなか」
彼女はグラスへ手を伸ばした。
「造船のお仕事、お忙しいんですか。夫も先日、伺ったそうで」
「そうね。そちらもあるんだけど、投資会社の方も忙しいみたい」
「投資会社?」
「そう。あちらは主人が自分でやってるから、家に帰っても電話をしてたりね。最近は、景気が悪いんですって」
瑛美は彼女の顔を見た。
「そうなんですか」
「私には、詳しいことは分からないのよ。ただ、このところ大変だとは言ってるわ。あまり余裕がないみたいで」
彼女は一口、水を飲んだ。
「弥生さんも投資のお仕事でしょう。やっぱり、お忙しい?」
「日によります。遅くなることもありますけど、一緒に食事できる日もあります」
「そう。それはいいわね」
瑛美も、自宅で弥生が仕事の電話に出ることはあると話した。食事が終わったところでかかってくると、二人ともそのまま席を立つ機会を逃すことがある。
「終わるまで、お茶を飲んで待っていたり」
「うちもあるわ。私は、先に片づけちゃうけど」
「今度は私も、そうしてみます」
彼女が笑い、料理を勧めた。瑛美は空いていた小皿を取り、その話題を続けた。
会場の向こうで、明彦が宗一郎の隣へ来た。妻はその姿を見つけたが、すぐにはその場を離れず、瑛美に先ほどの店で頼んだ料理を教えてくれた。
話を終えてから、瑛美は弥生のところへ戻った。彼はもう兄と別れ、別の親族と話していた。
瑛美に気づくと、弥生は隣を空ける。
「僕の妻です。先ほどは、ご挨拶できていませんでしたね」
紹介された瑛美は、笑顔で頭を下げた。
そのあとはまた、二人で何組かと話した。弥生の母のところへも戻り、料理を食べ、路花とお茶の約束を確かめる。明彦の妻から聞いた話は、帰り際にもまだ覚えていた。
*
帰宅すると、瑛美は先に着替えに行った。弥生がネクタイを外している間に、楽な服へ替えてリビングへ戻ってくる。
「お義姉さんと、お茶に行くことになった」
「聞いたよ。路花さん、喜んではった」
「私も楽しみ。お店も教えていただいたし」
弥生は上着を置き、瑛美の隣へ座った。彼女はソファの上へ足を上げ、膝にクッションを載せる。
「あのお店、明彦さんの奥さんも行ったことあるんだって」
「そうなん」
「うん。少しお話ししたの。最近は明彦さんがお忙しくて、なかなかお食事に行けないって」
弥生は、瑛美が卓の脇で話していた姿を思い出した。
「造船の方?」
「それもあるけど、投資会社の方も。最近は景気が悪いんだって」
「……え、そうか?」
瑛美が弥生を見た。
「え?」
「いや。投資先にもよるけど、今そんな悪いか?」
「そう言ってたよ。明彦さんも大変みたい」
弥生は少し考えた。
上林キャピタルで見ている投資先には、厳しい状況の会社もある。費用が上がった事業もあれば、予定通りには進まない案件もあった。ただ、最近の環境をまとめて不景気と呼ぶのは、自分の感覚とは少し違う。
「何に投資してはるかで、違うからな」
「そこまでは聞いてない。奥さんも、詳しくは分からないって」
「ふうん……」
弥生は外したネクタイを、上着の上へ置いた。
それから瑛美の方へ向き直ると、彼女はもうクッションへ頬杖をついていた。
「疲れた?」
「少し。でも、楽しかった。お母さんともお話しできたし」
「箱根の運転の話、まだ言うてはったよ」
「何て?」
「エミちゃんが無事でよかった、って」
瑛美の口元が緩んだ。
「大事にしていただいてるね、私」
「僕の信用は、どうなってんねん」
笑った瑛美が、クッションを横へ置いた。弥生の腕へ手を添え、肩を寄せる。
「また連れて行ってね」
「……箱根?」
「箱根でも、ほかのところでも」
弥生は彼女の顔を見た。瑛美は近いところから、まだ少し笑っている。
「行こ。今度、どこがええ?」
「今日はもう、決めるのはいい」
「せやな」
彼女の肩へ腕を回すと、瑛美は顔を上げた。弥生が唇を重ね、離れたあとも、そのまま隣に座っていた。
今夜会った親族の話を、ぽつぽつとした。路花の勧めてくれた料理と、睦月の食事の約束。母に渡しておけばよかった箱根の写真は、明日送ることになった。
「お父さんにも、見ていただけるかな」
「うん。お母さんから見せてくれはるやろ」
瑛美はうなずき、弥生の肩へ頭を預けた。
弥生も背もたれへ身体を預ける。明彦の投資会社は、景気が悪いらしい。その話をもう一度思い出したが、隣で瑛美が欠伸をこらえているのを見て、時計へ目をやった。
「そろそろ寝よか」
「うん。立つの、ちょっと待って」
瑛美が腕へ置いた手に、少しだけ力が入った。
弥生は時計から目を戻し、もうしばらく、そのまま座っていた。
