上林弥生の事情

「もうほんま疲れたわ。何なん、あれ」

風呂を済ませた弥生は、ソファへ座るなりそう言った。

隣で本を読んでいた瑛美が、顔を上げる。弥生は背もたれへ身体を預け、天井を見た。

「造船の話?」

「うん。船の話、途中でなくなったけど」

「何の話になったの」

「去年、誰が何を言うたか」

瑛美は本へ栞を挟んだ。

「去年まで戻ったんだ」

「僕、去年その場におらんのに、全員こっち見て説明してくるねん。しかも三人とも、話ちゃうし」

「三人分、聞いたの?」

「聞かされたんや」

笑った瑛美の肩へ、弥生は自分の肩を寄せた。彼女は少しだけ座り直し、そのまま隣に収まる。

「宗一郎おじさんと明彦さんが一緒で、志乃さんが反対してるんだよね」

「そう。設備増やすか、今ある設備で利益を伸ばすか。言うてることは、どっちも分かるんよ」

「じゃあ、余計に困るね」

「せやねん。資料だけ読んだら、ちゃんと会議できそうなんや。始まったら、できひん」

「資料の方が仲いいんだ」

弥生は瑛美を見た。

「ほんまそれ。紙は隣に置いても喧嘩せえへん」

瑛美が声を出して笑った。

「途中で僕に、どう思うって聞かはるんやけどな。答えてる途中で、また三人の話になるねん」

「聞いた意味ないじゃん」

「なあ。僕が何言うか、気にならへんのやったら聞かんといてほしい」

「顔には出さなかった?」

「出してへんよ」

「今、すごい顔してるけど」

「今はええやろ。エミしかおらんし」

瑛美は笑いを収めながら、弥生の前髪へ手を伸ばした。風呂上がりで下りていた髪を、指先で軽く分ける。

「次も弥生が行くの?」

「次は兄さんも来てくれはるかもしれん」

「二人で聞けば、少し楽になるね」

「兄さんに説明してる間に、僕は船の資料読めるし」

「お兄さんに全部聞かせる気?」

「一回くらいええやろ」

彼女の手が髪から離れる前に、弥生はその手を取った。膝の上へ下ろし、指を絡める。

瑛美は握り返し、閉じた本を脇のテーブルへ置いた。

「弥生が帰ってきてから、まだ一回も船の話、聞いてないよ」

「……ほんまや」

今日の話を思い出して、弥生はまた少し顔をしかめた。

「うつったんかな」

「何が?」

「船の話せえへんところ」

瑛美は、握っていた手を揺らして笑った。

*

数日後の夕方、二人は上林財閥の親族懇親会へ向かっていた。

リムジンの後部座席で、瑛美が携帯電話の画面を閉じた。弥生が横を見ると、彼女は膝の上でバッグの留め具に触れている。

「何見てたん?」

「この間、一緒に確認した名前。結婚式でお会いしたけど、ちゃんとお話しできなかった方も多かったから」

「今日で全部覚えんでもええよ。僕かて、たまに迷うし」

「あなたが迷っちゃだめでしょ」

「年に何回も会わへん人もいてはるから」

結婚から四か月余り。夫婦で財界の集まりに出ることはあったが、上林家の親族だけが集まる正式な懇親会へ、瑛美が参加するのは初めてだった。

弥生は、バッグに置かれた彼女の手へ自分の手を重ねた。

「緊張せんでええよ。お母さんも兄さんも路花さんもおるし」

「うん。分かってる」

瑛美は弥生を見て、少し笑った。

「でも、今日は私も上林家の一員として出るんでしょ。少しは緊張するよ」

弥生は重ねた手を持ち上げ、握り直した。

「僕の奥さんやもんな」

「そういうこと」

「ほな、僕の隣におってくれたらええよ」

「ずっと?」

「ずっとでもええけど」

「お義姉さんともお話ししたいんだけど」

「……そこは、どうぞ」

瑛美が笑い、バッグから手を離した。会場に着くまで、弥生の手は握ったままだった。

*

ホテルの宴会場には、すでに親族が集まっていた。丸い卓の間で何組かが立って話し、奥には料理が並んでいる。仕立てのよいスーツが、背筋を伸ばして歩く弥生の身体に馴染んでいた。隣の瑛美が親族へ会釈すると、華やかな装いに添えた繊細なジュエリーが、照明を受けて小さくきらめいた。

入口近くで弥生の母が二人に気づき、手にしていたグラスを卓へ置いた。

「エミちゃん。来てくれてありがとう」

「お招きいただいて、ありがとうございます。お母さん」

母は瑛美の顔を見て、嬉しそうに笑った。

「二人で来てもろうたら、なんや安心するわ。弥生だけやと、ちゃんとご飯食べたんかまで聞かなあかんから」

「お母さん。僕、もう二十七ですよ」

「二十七になったら、忙しい時も食べるようになるん?」

弥生が黙ると、瑛美が隣で笑った。

「今日は一緒に食べてから来ました」

「そう。ほな安心やね」

弥生の返事は、別に必要なかったらしい。

母へ挨拶に来た夫婦と、弥生が二人で言葉を交わす。その夫妻が料理の卓へ向かうと、瑛美は母へ少し声を落とした。

「お父さん、その後はいかがですか」

「落ち着いてはるよ。昨日も、今日は誰が来るんやって聞いてはった」

「気にしてはるんですね」

弥生が言うと、母はうなずいた。

「帰ったら、話してあげようと思うてる。仕事の話にならへんようにせなあかんけど」

「それ、難しそうです」

「せやから、二人の話も聞かせて。あの人も、エミちゃんの話なら喜ばはるから」

瑛美が、この間二人で箱根へ行ったことを話した。母は宿の話を聞き、途中でどこか寄ったのかと尋ねる。

「道の駅へ。弥生が肉まんを買って」

「僕の運転で行ったんですよ」

母の視線が息子へ移った。

「そうなん。エミちゃん、大丈夫やった?」

「そっちに聞くんですか」

「乗せてもろうた人に聞かな、分からへんでしょう」

瑛美は弥生を一度見てから、笑顔で母へ向き直った。

「ちゃんと着きました」

——評価、最低限やな。

母は笑い、今度は宿の食事について尋ねた。瑛美は楽しそうに答え、弥生も話へ戻った。

*

「エミちゃん。久しぶりやな」

振り返ると、睦月が妻の路花と並んで立っていた。

瑛美が二人へ挨拶し、弥生も頭を下げる。

「兄さん。路花さんも、ご無沙汰してます」

「エミさん、お会いできて嬉しいです。弥生さんとは時々お会いするのに、お二人一緒だと、なかなか」

路花が言うと、睦月が弟を見た。

「仕事終わったら、すぐ帰るからな」

「終わったんやから、帰ってええでしょう」

「悪いとは言うてへん」

「兄さんかて帰りはるやないですか」

「俺は、帰れる日にな」

路花が夫へ顔を向けた。

「今週は、帰れる日が少なかったですね」

「来週は、もう少し早う帰る」

「その言葉、先週も聞きました」

睦月は口を閉じ、それから笑った。

「……来週の予定、一緒に見てもらおか」

「そうしてください。お食事の約束、また延ばしたくないので」

瑛美が、二人はどこかへ食事に行く予定なのかと尋ねた。路花は店の名前を挙げ、予約を変えたのは今回で二度目なのだと話す。

「お仕事は仕方ないんですけど、行きたいとは言っておかないと。いつの間にか、なかったことになりそうでしょう」

「ならへんよ。覚えてる」

「では、楽しみにしています」

路花がそう返すと、睦月もうなずいた。瑛美は店の料理についてもう少し聞き、今度行ってみたいと弥生を見た。

「行こか」

弥生が答えると、兄が笑った。

「お前は早いな」

「まだ日ぃ決めてへんからですよ」

「そこも早そうやけど」

否定はしなかった。

話している間にも、親族が睦月へ父の具合を尋ねに来た。兄は落ち着いて答え、その人の家族の近況も聞いた。母のところで話していた夫婦が加わり、瑛美も結婚式以来の挨拶をする。

しばらくして人が離れると、睦月は弟へ目を向けた。

「造船の次の候補日、見た。俺も一日は行けそうや」

「助かります」

弥生の返事が早かったので、路花が少し笑った。

「大変なんですね」

「……まあ、ちょっと」

「ちょっとで済んでるか?」

兄に聞かれ、弥生は瑛美を見た。彼女は何も言わずに笑っている。

「今日は、仕事の話ええでしょう」

「せやな」

睦月はあっさりうなずき、給仕から水を受け取った。隣の路花にも一つ渡す。

兄に声をかけた別の親族が、弥生にも話を振った。二人がそちらへ向き直ると、路花は瑛美へ、少し料理を見に行きませんかと誘った。

*

「エミさんは、こちら召し上がりました?」

路花が小皿に載った前菜を示した。

「まだです。お義姉さんは?」

「さっき一つ。おいしかったので、もう一度もらおうと思って」

二人で皿を取り、会場の端の卓へ移った。兄弟は少し離れた場所で話している。弥生が一度こちらを見て、瑛美も目が合うと小さくうなずいた。

「弥生さん、ちゃんと見てますね」

路花に言われ、瑛美はフォークを持ち直した。

「今日は少し緊張するって、車で話したからだと思います」

「分かります。私も最初、気にしてました。結婚式でご挨拶した方のお顔は覚えているのに、お名前がすぐに出てこなくて」

「私も、さっきまで確認してました」

「それでも迷うんですよね。上林さんってお呼びしても、何人も振り向きそうですし」

瑛美は思わず笑った。

「それは、そうですね」

「分からなくなったら、私に聞いてください。私も分からなかったら、二人で睦月さんに聞きましょう」

「お義兄さんなら、覚えてらっしゃいますか」

「たぶん。でも、私が聞くたびに、ちゃんと答えてくれますから」

路花は兄弟の方を見た。睦月は話の相手が示した会場の奥へ目をやり、何か答えている。

「いつまで聞いてるのって、言われなくて」

その言い方に、瑛美も肩の力を抜いた。

「では、頼らせていただきます」

「ええ。お名前以外でも。お会いできる機会、これからは増やせたら嬉しいです」

「私もです」

路花が、今度は二人でお茶でもどうかと誘った。瑛美はうなずき、弥生へ向けるのとは違う、少し改まった嬉しさで笑った。

そこへ年配の女性が路花に声をかけた。瑛美も紹介され、しばらく一緒に話す。女性が路花へ見せたい写真があると携帯電話を出した時、瑛美は料理の皿を置いた。

少し先に、明彦の妻がいた。隣にいた親族との話がちょうど終わり、グラスを卓へ戻している。

あの三人の話を、家ではどんなふうに聞いているのだろう。

ソファで顔をしかめていた弥生を思い出し、瑛美はそちらへ歩いた。

*

「こんばんは。結婚式では、ありがとうございました」

声をかけると、明彦の妻が顔を上げた。

「瑛美さん。こちらこそ。あの日は、ゆっくりお話しできなくて」

彼女は瑛美のために、卓の脇を少し空けた。

「弥生さんとご一緒?」

「はい。今はお義兄さんと、あちらに」

瑛美が目を向けると、彼女も兄弟を見てうなずいた。

「お二人で来てくださるといいわね。もう新しい生活には慣れた?」

「少しずつ。もともと長く一緒にいたので、変わらないことも多いんですけど」

「小さい頃からのお付き合いですものね。食べ物の好みも、もう知ってるでしょう」

「それは、かなり」

瑛美が笑うと、彼女も笑った。卓に置かれた料理から、家で食べるものの話になり、よく行く店の話へ移った。

瑛美は、路花から聞いた店を挙げた。

「ご存じですか?今度、夫と行ってみようと思って」

「ええ、一度行ったことがあるわ。少し前だけど。あそこなら、二人でゆっくり食事できるわよ」

「そうなんですね」

「私もまた行きたいんだけど、最近は主人が、なかなか」

彼女はグラスへ手を伸ばした。

「造船のお仕事、お忙しいんですか。夫も先日、伺ったそうで」

「そうね。そちらもあるんだけど、投資会社の方も忙しいみたい」

「投資会社?」

「そう。あちらは主人が自分でやってるから、家に帰っても電話をしてたりね。最近は、景気が悪いんですって」

瑛美は彼女の顔を見た。

「そうなんですか」

「私には、詳しいことは分からないのよ。ただ、このところ大変だとは言ってるわ。あまり余裕がないみたいで」

彼女は一口、水を飲んだ。

「弥生さんも投資のお仕事でしょう。やっぱり、お忙しい?」

「日によります。遅くなることもありますけど、一緒に食事できる日もあります」

「そう。それはいいわね」

瑛美も、自宅で弥生が仕事の電話に出ることはあると話した。食事が終わったところでかかってくると、二人ともそのまま席を立つ機会を逃すことがある。

「終わるまで、お茶を飲んで待っていたり」

「うちもあるわ。私は、先に片づけちゃうけど」

「今度は私も、そうしてみます」

彼女が笑い、料理を勧めた。瑛美は空いていた小皿を取り、その話題を続けた。

会場の向こうで、明彦が宗一郎の隣へ来た。妻はその姿を見つけたが、すぐにはその場を離れず、瑛美に先ほどの店で頼んだ料理を教えてくれた。

話を終えてから、瑛美は弥生のところへ戻った。彼はもう兄と別れ、別の親族と話していた。

瑛美に気づくと、弥生は隣を空ける。

「僕の妻です。先ほどは、ご挨拶できていませんでしたね」

紹介された瑛美は、笑顔で頭を下げた。

そのあとはまた、二人で何組かと話した。弥生の母のところへも戻り、料理を食べ、路花とお茶の約束を確かめる。明彦の妻から聞いた話は、帰り際にもまだ覚えていた。

*

帰宅すると、瑛美は先に着替えに行った。弥生がネクタイを外している間に、楽な服へ替えてリビングへ戻ってくる。

「お義姉さんと、お茶に行くことになった」

「聞いたよ。路花さん、喜んではった」

「私も楽しみ。お店も教えていただいたし」

弥生は上着を置き、瑛美の隣へ座った。彼女はソファの上へ足を上げ、膝にクッションを載せる。

「あのお店、明彦さんの奥さんも行ったことあるんだって」

「そうなん」

「うん。少しお話ししたの。最近は明彦さんがお忙しくて、なかなかお食事に行けないって」

弥生は、瑛美が卓の脇で話していた姿を思い出した。

「造船の方?」

「それもあるけど、投資会社の方も。最近は景気が悪いんだって」

「……え、そうか?」

瑛美が弥生を見た。

「え?」

「いや。投資先にもよるけど、今そんな悪いか?」

「そう言ってたよ。明彦さんも大変みたい」

弥生は少し考えた。

上林キャピタルで見ている投資先には、厳しい状況の会社もある。費用が上がった事業もあれば、予定通りには進まない案件もあった。ただ、最近の環境をまとめて不景気と呼ぶのは、自分の感覚とは少し違う。

「何に投資してはるかで、違うからな」

「そこまでは聞いてない。奥さんも、詳しくは分からないって」

「ふうん……」

弥生は外したネクタイを、上着の上へ置いた。

それから瑛美の方へ向き直ると、彼女はもうクッションへ頬杖をついていた。

「疲れた?」

「少し。でも、楽しかった。お母さんともお話しできたし」

「箱根の運転の話、まだ言うてはったよ」

「何て?」

「エミちゃんが無事でよかった、って」

瑛美の口元が緩んだ。

「大事にしていただいてるね、私」

「僕の信用は、どうなってんねん」

笑った瑛美が、クッションを横へ置いた。弥生の腕へ手を添え、肩を寄せる。

「また連れて行ってね」

「……箱根?」

「箱根でも、ほかのところでも」

弥生は彼女の顔を見た。瑛美は近いところから、まだ少し笑っている。

「行こ。今度、どこがええ?」

「今日はもう、決めるのはいい」

「せやな」

彼女の肩へ腕を回すと、瑛美は顔を上げた。弥生が唇を重ね、離れたあとも、そのまま隣に座っていた。

今夜会った親族の話を、ぽつぽつとした。路花の勧めてくれた料理と、睦月の食事の約束。母に渡しておけばよかった箱根の写真は、明日送ることになった。

「お父さんにも、見ていただけるかな」

「うん。お母さんから見せてくれはるやろ」

瑛美はうなずき、弥生の肩へ頭を預けた。

弥生も背もたれへ身体を預ける。明彦の投資会社は、景気が悪いらしい。その話をもう一度思い出したが、隣で瑛美が欠伸をこらえているのを見て、時計へ目をやった。

「そろそろ寝よか」

「うん。立つの、ちょっと待って」

瑛美が腕へ置いた手に、少しだけ力が入った。

弥生は時計から目を戻し、もうしばらく、そのまま座っていた。