上林弥生の事情


瑛美がわずかに眉を寄せたので、弥生は動きを止めた。

「痛くない?」

顔を覗き込むと、枕に頬をつけていた瑛美が目を上げる。ベッド脇の照明だけを残した部屋で、その返事を待つ数秒がひどく長かった。

「……うん、大丈夫」

「ほんまに?」

瑛美は小さくうなずいた。シーツの端を握る指には、まだ力が入っている。

弥生は彼女の頬にかかった髪を払い、それ以上近づかずに待った。

「無理せんといてな。しんどかったら、言うて」

「うん」

瑛美はうなずいたあと、目を伏せた。

弥生はひとまず息をつく。彼女の指がシーツを離したのを確かめてから、もう一度、額に口づけをした。

その夜、二人は初めて夫婦として同じベッドで過ごした。

そのあと、瑛美が身体を起こした。弥生が背中に手を添えようとすると、彼女は先にベッドの端へ移り、寝間着を手に取った。

「お風呂、入ってくるね」

こちらを振り返った顔には小さな笑みがあった。弥生は伸ばしかけた手を下ろした。

「うん。ゆっくり入っといで」

そう言って見送った。

*

シャワーの音が止まってから、しばらく経っていた。

弥生はベッドの背に身体を預け、枕元の時計を見た。まだ起きて待っていたことを瑛美が気にしないよう、手元にはホテルの案内冊子を開いている。載っているレストランはどれも知っていたし、さっきから同じページのままだった。

披露宴が終わるまで、瑛美は何度も衣装を替え、大勢の人に挨拶をした。ようやく一人になれたのだから、長くなるのも無理はない。

冊子を一枚めくる。

廊下の向こうにある浴室の扉は、閉まったままだった。

もう一度、時計を見た。

——長ない?

のぼせているのかもしれない。具合が悪いなら、声をかけた方がいい。

弥生は冊子を閉じ、ベッドから足を下ろしかけた。

そこで、瑛美がここへ来てから何度か見せた表情を思い出した。隣へ座った時。肩に触れようとした時。嫌がったわけではない。ただ、弥生が近づくたび、彼女は次に何があるのかを待つように、少し身を固くした。

浴室でようやく気を抜いているのだとしたら。

戻ってくるまで、もう少し一人でいたいのだとしたら。

弥生は足を戻した。

さっきも、瑛美は拒まなかった。大丈夫だと言った。けれど、妻になったその日に、大丈夫ではないと自分へ言えるのかまでは、分からなかった。

手の中で冊子の角が曲がり、弥生は指を緩めた。

閉じた浴室の扉を見つめながら、弥生は、瑛美の父に結婚の条件を伝えた日のことを思い出していた。

*

数か月前、東雲建設の社長室には、来客用の茶が二つ用意されていた。

弥生の前の茶は手つかずだった。向かいに座る東雲社長も、湯呑みに触れないまま、テーブルへ広げられた資料を見ていた。

「こちらが、今お預かりしてる資金繰り表をもとにした試算です」

弥生は資料の一か所を指した。

「入金の予定が動かへんとしても、月末の支払いには足りません。そこを越えられたとして、次の返済までにもう一度、資金が要ります」

「分かっている」

東雲社長の声に苛立ちはなかった。何度も見直した数字を、また見せられている人の声だった。

「売却を進めている資産もある」

「はい。ただ、今の予定では間に合いません。買い手の方が決済を早めてくれはるなら別ですけど、そこはまだ確約が取れてへんと聞いてます」

東雲社長は黙った。

弥生は次の紙を、その上へ重ねた。

「上林キャピタルとして、救済融資を行う用意があります。当面の支払いだけやのうて、その先の資金繰りも含めてです」

東雲社長の視線が、資料から弥生へ移った。

「……この額を?」

「はい」

「本当に、出してもらえるのか」

「そのつもりで来てます」

東雲社長はもう一度、紙面へ目を落とした。指先で一行を追い、それからゆっくりと背もたれへ身体を戻す。

このところ銀行を回るたびに、追加の資料と時間を求められていた。検討するという返事はあっても、必要な日までに必要な金額が出るという回答はない。それを弥生も知っていた。

「そうか。上林が……」

東雲社長が言いかけたところで、弥生は続けた。

「ただ、無条件いうわけにはいきません」

東雲社長の肩が、わずかに戻った。

「もちろんだ。条件を聞こう」

弥生は資料を置いたまま、膝の上で手を組んだ。

「今回の支援については、うちでも慎重な意見が出てます。今の東雲にこの規模の資金を出して、回収できるんか。代表が個人的な付き合いで判断してるんやないか、と」

「君と私の付き合いのことか」

「はい。昔からようしていただいてるんは、皆知ってますから」

幼い頃から、東雲家で夕食を食べた回数など覚えていない。瑛美を迎えに行って、そのまま上がることもあった。東雲社長が帰宅すると、二人で広げていたものを片づけ、挨拶をした。

その頃と同じ相手に向かって、弥生は言った。

「僕が東雲社長と昔から付き合いがあるいうだけで、これだけの金は動かせません。僕個人の金やありませんから」

「それは分かる」

東雲社長はうなずいた。

「では、上林側が納得する条件というのは?」

「両家で、姻戚関係を結ぶことです」

「……姻戚?」

「僕と瑛美です」

空調の音が聞こえた。

東雲社長はしばらく弥生を見ていた。聞き間違いではないと確かめるように、眉間へ深い皺が寄る。

「弥生くん。それはどういう意味だ」

「僕と瑛美が結婚する。その前提で、上林が東雲の支援に入ります」

「会社の話に、瑛美を巻き込むのはやめてくれ」

返事は早かった。

東雲社長は資料から手を離した。

「融資の条件なら聞く。経営について要求があるなら、それも話そう。だが、娘の結婚は別だ」

「お気持ちは分かります」

「分かるなら、なぜそんな条件を出す」

弥生は声の調子を変えなかった。

「上林が継続して支援する理由を、はっきりさせるためです」

東雲社長は短く息を吐いた。

「瑛美は、東雲建設のために結婚させるつもりで育てた娘じゃない。二十七になるまで、本人の好きにさせてきた。これからもそうするつもりだ」

「はい」

「君との結婚が嫌だと言っているんじゃない。君と瑛美が自分たちでそういう話になったのなら、私は何も言わない。だが、これは違う」

弥生はうなずいた。

その先を待つ東雲社長に、撤回の言葉は返さなかった。

「……結婚すれば、東雲の返済能力が変わるとでもいうのか」

「そこは変わりません。返済できる会社に戻していく必要があるんは、どちらにしても同じです」

「ならば」

「せやけど、立て直すまで支え続けるんかどうかは、変わります」

弥生はテーブルの資料へ視線を落とした。

「一度お金を入れて終わり、とはいかへんでしょう。今の支払いを越えても、信用が戻らへんかったら、また資金に困る。取引先にも銀行にも、上林がどこまで東雲を支えるつもりなんか、見られます」

東雲社長は否定しなかった。

「必要な規模の資金を、必要な時期までに用意する。そのうえで、今後も支援する意思を示す。うちが入るんやったら、そこまでやらな意味がありません」

「それは、結婚を条件にしなくてもできる話だ」

「支援の方法としては、できます」

弥生は認めた。

「ただ、その判断を上林に通すには、今より強い理由が要ります」

東雲社長の唇が結ばれた。

「僕は東雲を助けたいと思ってます。瑛美の実家ですから」

弥生はまっすぐ東雲社長を見た。

「せやけど、それだけでは上林を納得させられません。両家が姻戚になるんやったら、話は変わります。今後も上林が東雲を支える、明確な理由ができます」

湯呑みからは、もう湯気が上がっていなかった。

「他の金融機関から、間に合う回答が得られるなら、それもええと思います。資産の売却が間に合うんやったら、その方がええでしょう」

弥生は一度言葉を切った。

「今、どちらも確約がない。信用不安が広がれば、条件はもっと悪うなります。決済を待ってくれてる先にも、いつまでも待っていただけるわけやありません」

東雲社長はテーブルの端に置かれた資金繰り表を見た。

弥生が最初に示した支払日には赤い印がついていた。

「上林が入れば、資金だけやのうて、対外的な信用も補えます。……それが一番確実なんは、分かってはるでしょう」

東雲社長は答えなかった。

弥生も、返事を急かさず待った。

書類に並べたことは、どれも事実だった。追加融資は難航している。売却は間に合わない。上林には金があり、東雲には時間がない。

銀行との話がまとまらなくなった経緯も、取引先の態度が変わった理由も、この資料には載せていなかった。

いま必要なのは、これからの話だった。

「私は決めない」

やがて東雲社長が言った。

「瑛美の結婚を、私が会社のために決めるつもりはない」

「もちろんです。決めるんは瑛美です」

弥生がそう返すと、東雲社長は顔を上げた。

「……瑛美に断られたら、どうする」

「その時は、融資がなくなるだけです」

東雲社長の指が止まった。

弥生は、返済の期日を確認する時と同じ声で答えていた。

「……それを、瑛美に選ばせるのか」

「はい」

「東雲が今どういう状況なのか、分かった上で?」

「もちろんです」

東雲社長は弥生を見たまま、ゆっくりと言った。

「それは、選択とは言わないだろう」

弥生は黙っていた。

聞こえなかったわけではない。その指摘について、考える時間が必要だったわけでもない。

父親が会社のために娘を差し出すことを拒んでも、瑛美が会社のために結婚を選べば、同じところへ着く。瑛美が家族と東雲建設をどれだけ大切にしているか、弥生は知っている。

東雲社長も知っていた。

だから、この条件を持ってきた。

弥生は組んだ手を解かず、向かいの男の視線を受けた。

東雲社長の目から、それまで残っていた戸惑いが消えていく。代わりに、契約の相手を測る時の慎重さが表れた。

「……本気なんだな」

「こんな話、冗談ではしません」

返事を聞いて、東雲社長は背もたれから身体を起こした。

目の前にいるのは、二十年前から知っている弥生だった。声も、話す時に少し首を傾ける癖も変わらない。子供の頃にも、言われたことにはこうして真面目に答えた。

今目の前にいる弥生は、東雲社長が何を言っても、条件を取り下げる気はない。それを、黙って座っているだけで伝えていた。

東雲社長は資料を引き寄せた。融資の概要を一枚ずつめくり、最後まで目を通す。弥生はその間、何も言わなかった。

会社を救うつもりで作った案だった。資金を出したあとは、本気で立て直す。東雲社長が気にする箇所も、問われるだろう点も、検討してきていた。

この話さえ進めば、止められるものは止められる。

弥生は東雲社長の手元を見ながら待った。

「瑛美には、私から話す」

最後の紙を置いて、東雲社長が言った。

「だが、これは承諾ではない。君の条件を受け入れるかどうかは、瑛美が決める」

「はい」

「私から結婚しろとは言わない」

「分かりました」

「……弥生くん」

呼び止めるような声に、弥生は目を上げた。

東雲社長は何かを言いかけ、それをやめた。膝の上へ戻した手を、きつく握っている。

弥生は一度、頭を下げた。

「お願いします」

それ以上は迫らなかった。

先方へ残す資料を揃え、自分の控えだけを鞄へ収める。椅子から立ち上がる時にも、退出の挨拶にも、普段と違うところはなかった。

東雲社長は立たなかった。

弥生が扉の前で振り返って会釈すると、座ったまま、わずかにうなずいた。

*

扉の開く音に、弥生は顔を上げた。

寝室へ戻ってきた瑛美は、髪を乾かし終えていた。ホテルの寝間着の袖口を直しながら、こちらを見る。

「ごめん、長くなっちゃった」

「のぼせてへん?」

「うん、大丈夫。先に寝ててくれてよかったのに」

「そっか」

弥生は冊子を枕元へ置いた。

瑛美はベッドの脇まで来て、掛け布団を少し持ち上げた。弥生が隣を空けても、すぐには入ってこなかった。彼の顔を一度見てから、肩が触れない位置へ静かに横になる。

弥生は自分の方へ身体を寄せた。

「電気、消してええ?」

「うん。お願いします」

瑛美が横になるのを待って、照明を落とした。

窓には厚いカーテンが引かれている。目が慣れるまでは、天井の輪郭も見えなかった。隣で寝返りを打つ気配がして、衣擦れの音が小さく響いた。

「今日は疲れたやろ。よう寝て」

「弥生も、ちゃんと寝てね」

「うん」

「……おやすみなさい」

「おやすみ」

話はそこで終わった。

瑛美の呼吸が落ち着くまで、思っていたほど時間はかからなかった。長い一日だった。弥生も疲れているはずなのに、目を閉じても眠れない。

そっと顔を横へ向けた。

瑛美は弥生の方を向いて眠っていた。枕に頬が少し押され、片手が顔の近くに出ている。眠っている時まできちんとしてはいられないらしく、その手の袖口は折れたままだった。

直そうとして、弥生は手を伸ばしかけた。けれど、袖口へ触れる前に止まった。

起こしたら悪い。

そう思ってから、昔はそんなことを気にしなかったと気づく。両家で食事をした帰り、迎えの車で瑛美が眠ってしまえば、家に着いたところで肩を叩いた。「着いたで」と声をかけるのに、ためらったことなどなかった。

今夜は、寝間着の袖に触れるだけのことができない。

瑛美が結婚を断れば、融資はなくなる。

あの日、父親を前にしても、その条件を変える気はなかった。瑛美は受け入れ、今日、二人は夫婦として皆に祝われた。

望んだ通りに、瑛美は隣にいる。

それなのに、目を覚ました彼女がまた身を固くするかもしれないと思うと、伸ばした手を先へ進められなかった。

弥生は手を引き戻した。瑛美の袖口は、折れたままにしておいた。