翌週の前半、弥生は上林造船の東京本社を訪ねた。
受付で名前を告げると、すぐに上階へ案内された。廊下の壁には、これまでに建造した船の写真が並んでいる。会議室の扉が開くと、七十代の宗一郎が奥の席から顔を上げた。背もたれにゆったりと身体を預けた姿には、長年この会社を率いてきた人の風格があった。
「よう来たな。お父さんの具合はどうや」
「おかげさまで、落ち着いてます。昨日も普通に話せました」
「そうか。しばらくは、休んでもらわなあかんな」
「はい。本人はもう退院後のこと考えてはりますけど、お母さんもいてくれますし」
宗一郎は、それなら安心やな、と笑った。
上林造船が東京へ経営拠点を移したのは、宗一郎の父の代だった。本家より早くこの街に根づいた会社である。京都で子供時代を過ごした宗一郎には故郷の言葉が残っているが、東京で生まれ育った明彦と志乃は標準語を話す。
「今日は、お時間いただいてありがとうございます。宗一郎おじさん」
「睦月くんから聞いとるよ。お父さんの代わりやな」
「はい。まずは皆さんのお話を伺って、兄に持ち帰ろうと思てます」
「まあ、すぐに分かる話でもない。造船は、数字だけ見てても分からんことが多いからな」
隣に座る明彦が、椅子へ背を預けた。四十代後半の男で、父ほどの重みはないものの、着慣れたスーツ姿と堂々とした物腰には、役員らしい貫禄がある。
「いい機会だよ。投資会社にいると、現物を造る事業を見る機会は少ないだろう。勉強になるんじゃないか」
「実際の事業について、詳しく伺えればと思っています」
弥生は穏やかに答え、勧められた席についた。
——勉強。まあ、勉強にはなるやろな。人間関係の。
弥生は笑顔のまま、資料を取り出した。
事前に届いた資料は、設備を増強して生産能力を広げる案と、既存設備の改善を優先する案に分かれていた。同じ会社の計画とは思えないほど、先の見通しが違う。
「志乃も、もう来る」
宗一郎がそう言ったところで、扉が開いた。
濃い色のパンツスーツを着た志乃が、手にした資料をテーブルへ置いた。四十代前半の女性で、髪をひとつに結い、化粧もきちんとしている。弥生が立つと、こちらへ短く頭を下げる。微笑は挨拶に添える程度で、すぐに手元の資料へ目を戻した。
「お待たせしました。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。お忙しいところ、ありがとうございます」
「資料は、ご覧いただいていますか」
「はい。両方の案を拝見しました」
「では、重なる説明は省きます。確認したい点から伺った方が早いでしょう」
志乃は向かいの席についた。明彦が、その手元を見る。
「もう少し、挨拶くらいしたらどうだ。本家から来てもらってるんだから」
「挨拶はしました。今日は事業計画の話でしょう」
「そういう態度のことを言ってるんだよ」
「私の態度を話すために、弥生さんに来ていただいたわけではないと思いますけど」
——早い早い。まだ挨拶や。資料、一ページも開いてへんぞ。
弥生は椅子へ座り直し、資料を開いた。
「本日は、二つの案で判断が分かれている点を確認させてください。まず、設備増強の計画からお願いします」
宗一郎がうなずき、明彦の方へ手を向けた。志乃もそれ以上は言わず、自分の資料をめくった。
*
「既存の設備では、これ以上の受注を取れない」
明彦は、建造予定を並べたページを開いた。
「今ある仕事で埋まっているから、新しい引き合いがあっても納期が合わない。この状態を続ければ、顧客は他社へ流れる。今の利益が高いからといって、それを将来も守れるとは限らない」
弥生は、事前に印をつけていた箇所へ目を落とした。
「増強した設備が稼働する時点で、どの程度の受注を確保できると見ていますか」
「既存の顧客からの更新需要が中心だ。グループの商社経由で来ている引き合いもある。それをここにまとめている」
ページをめくると、顧客ごとの見通しがあった。確定した注文と、まだ相談の段階にあるものは分けられている。
宗一郎が、その一覧へ指を置いた。
「設備は、注文をもろうてから用意するんでは遅い。今までかて、先に金を入れたから取れた仕事がある。造れる時期を約束できへん会社に、船は頼めんやろ」
「整備に時間がかかる点は、承知しています。需要が想定を下回った場合の試算も、確認させてください」
明彦が別の表を出した。稼働率を落とした場合には利益も減るが、直ちに資金が足りなくなる計画ではなかった。
「好調が永遠に続くとは思ってない。ただ、下がるかもしれないという理由だけで見送っていたら、いつまでたっても増やせない」
「増やすこと自体に反対しているわけではありません」
志乃が口を挟んだ。
「設備と同じ速度で、人を増やせるのかという話をしています。この計画は、稼働初年度から既存設備に近い生産性を置いている。採用できた人数だけで、その通りにはなりません」
彼女が示したのは、職種ごとの人員計画だった。
「教える側は、今の建造も担当します。新しい設備へ熟練者を移せば、既存の工程も変わる。その間の遅れと費用を、もう少し見る必要があります」
「立ち上げの費用は入れてある」
「入っています。ただ、その期間で十分かを確認したいんです」
弥生は二つの表を並べた。費用が抜けているわけではない。同じ作業に、どれだけ時間が必要だと考えるかが違っていた。
「志乃さんの案では、既存設備の改善を先行させていますね。こちらで増える利益は、生産量よりも船種の構成によるところが大きいのでしょうか」
「はい。全部の注文を取るより、私たちの設備と技術で利益を残せる仕事へ寄せます。工程の改善で空けられる枠もありますが、そこへ単純に同じ仕事を詰めるつもりはありません」
「収益性の高い船へ絞った場合、顧客の数は減りますか」
「一定の偏りは出ます。それはリスクです。ただ、設備を広げて固定費を増やすリスクと、比較するべきだと思います」
志乃はためらわずに答えた。その案にも、需要が弱まった場合の試算がついている。
明彦が、志乃の資料へ目を向けた。
「利益率のいい仕事だけを選べる間は、それでいい。だが、顧客がまとめて発注したい時に、都合のいい部分だけ引き受けますと言えるか? 取引全体を失う可能性もある」
「今も全てを引き受けているわけではないでしょう。何を残すかを、受注のたびに考えるんです」
「その都度断っておいて、設備が空いたら戻ってきてくれというわけにはいかないだろう」
弥生はペンを止め、二人の説明を聞いた。
「両案とも、顧客との関係が収益に影響しますね。今の試算では、断った場合に失う取引の範囲が、同じ条件で見られていないように思います」
「だから、数字だけでは分からんと言うたんや」
宗一郎が身を乗り出した。
「長い付き合いの相手には、苦しい時にも仕事を回してもろうた。その関係を続けるんも、経営のうちや。志乃は、その辺りを軽う見すぎとる」
志乃が顔を上げた。
「軽く見ていません。関係を守るために、どこまで費用を負担するのか、決めたいんです」
「決めたら、その通りにいく話か?」
「決めずに進めるよりは、判断できます」
「お前は、そうやって何でも先に線を引こうとする」
宗一郎の指が、資料から離れた。
*
「この会社をここまで大きくしたんは、誰やと思ってる」
声は大きくなかった。しかし、その言葉に志乃の表情が変わった。
「お父さんの実績を否定しているわけではありません」
「それなら、もう少し人の話を聞いたらどうや」
「計画を確認するたびに、その話へ戻るから進まないんでしょう」
弥生は、開いていた人員計画へ指を置いた。
「設備の立ち上げ期間について、まず——」
「お前はいつもそうだ」
——はい、僕の番終了。
明彦が志乃へ向き直った。
「父さんの判断に従うことを、自分が負けたと思ってる。会社のための議論を、何でも自分の評価につなげるなよ」
「私の評価の話を始めたのは、そちらです。私は計画の話をしていました」
弥生は、口を閉じた。ペン先を紙から少し浮かせたまま、次の切れ目を待つ。
「お前にはまだ、最後に決める人間の気持ちは分からん」
宗一郎は背もたれへ身体を戻した。
「女は、どうしても守る方へ考えが寄る。大きく出なあかん時まで、細かい心配ばかりしてたら経営はできへん」
——女だからなんやねん。
さっきまで人員計画の話だった。
——どこで曲がったん。戻って。
「それは、何の根拠ですか」
志乃の声が低くなった。
「私が男だったら、この計画に反対しても同じことを言いますか」
「ほら、すぐそういう話にする」
明彦がため息をついた。
——先に言うたん、そっちやろ。
「女だから任せてもらえない、ということにしたいんだろう。専務として任されてる仕事だってある。それ以上を欲しがる前に、今の立場でやるべきことがあるんじゃないのか」
「今の立場で、事業計画について意見を出しています。専務は黙っていた方がいいということですか」
「そういう言い方をするなと言ってるんだよ」
弥生は二人の声が途切れたところで、顔を上げた。
「事業計画については、それぞれ確認すべき点があります。まず、その点を整理してもよろしいでしょうか」
宗一郎がこちらを見た。
「弥生くん。お前のところも、睦月くんが上を継ぐやろ。任される側には、任される側の役目がある」
——兄さんまで持ち出すんやめてもろて。
「今日は、兄から事業方針の確認を頼まれて来ています」
「うん。せやから、志乃にも分かってもらいたいんや。会社には順序いうもんがある」
「順序の問題なら、どうして兄さんの計画は最初から通す前提なんですか」
志乃が宗一郎へ問い返した。明彦が、自分の案に父が賛成するのは妥当だと答える。
弥生の前で、三人はまた話し始めた。
以前の役員会で何を言われたか。誰の提案が先に検討されたか。現場の意見を誰が代弁しているのか。志乃が、担当者の説明を聞かずに結論を出したと言えば、明彦は、志乃が事前に人を集めて反対させたのだと言う。
「私が言わせたことにすれば、聞かなくて済みますものね」
「実際、お前に話を通してからでないと、こちらへ報告しない人間がいるだろう」
「同じ内容を、そちらにも出しています」
「出せばええという話やない。現場が二つに分かれてどうするんや」
宗一郎がそう言うと、志乃は、それなら同じ場で聞けばいい、と返した。
弥生は、追加の説明を全員が共有できるようにしようと提案した。宗一郎もうなずいた。
——戻った。
弥生は人員計画を手元へ寄せた。だが明彦が、これまで共有できなかった理由を話し始めると、志乃がその説明に異議を唱えた。
——戻ってへん。
「去年の件だって、そうでした。私が出した資料を——」
——去年。そっちには戻るんかい。
弥生は静かに腕時計へ目を落とした。それから、向かいの志乃、斜め向かいの明彦、奥の宗一郎を順に見た。
——二十分経ったなぁ……。
人員計画について口を挟みかけてから、二十分。同じ箇所に、ペン先の跡が二つ増えていた。
——何しに来たんや、僕。親戚の喧嘩、最前列で見るため?
茶へ手を伸ばすと、もうぬるかった。一口飲んで戻す。その間に明彦が弥生を見た。
「君なら分かるだろう。組織で仕事をする以上、上の方針に従うことは必要だ」
「決定した方針を実行することは、必要だと思います。ただ、今回の計画はまだ——」
「だから、決めようとしてるんだよ。ところが志乃は」
「決めるための検討を、従わないという話に変えないでください」
——聞いて。お願い。
弥生はカップから手を離した。三人とも、こちらを見ていなかった。
——帰りたい。僕おらんでも成立してるやろ、これ。
兄への報告を頭の中でまとめてみた。三人は仲が悪い。とても悪い。
——知ってるわ、って言われるな。
「皆さん」
少し間を置いて、弥生はもう一度呼びかけた。
「追加でお願いしたい資料について、確認させてください」
明彦が言葉を止めた。志乃も口を閉じ、宗一郎がこちらを向く。
*
弥生は、開いていた二つの計画を中央へ寄せた。
「設備増強案については、受注枠を確保できないことで顧客を失う可能性と、設備の整備に時間がかかる点を重く見ている。既存設備を優先する案では、人員の立ち上がりと固定費の増加を抑え、受注内容を選んで利益を残す。その違いだと理解しています」
三人の顔を見て、続けた。
「ただ、同じ需要を前提にした場合に、両案でいくら利益と現金が残るのかは、今の資料では比較できません」
明彦が、テーブルへ肘を置いた。
「それで、君はどちらが正しいと思うんだ?」
「今の資料だけでは、判断できません」
「両方の説明を聞いた上でも?」
「はい。設備を増やさなければ失う仕事はあります。一方で、増やした設備を十分に動かせない期間が長くなれば、利益は変わります。どちらの影響を大きく見るべきか、確認したいです」
明彦は少し口元を引いたが、反論はしなかった。
弥生はメモへ三つの項目を書き、全員が見える位置へ置いた。
「需要の見通し、人員の立ち上げ期間、顧客との取引が変わる範囲。この三点について条件を揃え、両方の案を試算していただけますか。需要が弱まった場合も、同じ下がり方でお願いします」
「うちが出した見通しを使うんか?」
宗一郎に聞かれ、弥生は顔を上げた。
「一つに決める必要はありません。社長の見通しでも、志乃さんの見通しでも、両案を計算してください。どの条件なら増強する方が有利なのか、逆なら何が変わるのかを見たいです」
志乃がメモを見た。
「人員については、現場の責任者にも確認します。立ち上げ期間は、私の見込みだけで決めたくありません」
「その確認結果を、こちらにも回してくれ」
明彦が言った。志乃の指が、資料の端で止まる。
弥生はその間に、言葉を継いだ。
「全員へ同じ資料をお送りいただけますか。追加のご意見も、それに対するものとしてまとめられればと思います」
志乃は少し考えてから、うなずいた。
「分かりました」
「こちらの顧客の見通しも、そうするよ」
明彦が答えると、宗一郎は椅子の上で組んでいた手をほどいた。
「それで、いつ決められる」
「資料が揃った時点で、次の協議をお願いしたいです。判断が遅れることで失う引き合いがあれば、その時期も明記してください」
宗一郎はしばらく黙っていた。それから、明彦へ資料を渡す。
「分かった。出せるものから出そう」
弥生は、それぞれの資料を用意できる時期を確かめた。次の協議で確認する内容を書き、三人へ伝える。今度は、最後まで話せた。
窓の外へ一度目をやると、向かいの建物の影が移動していた。会議が始まってから、一時間以上が過ぎている。
——今の話、五分で済んだな。
弥生は時計から目を戻した。
——残りの一時間、何やったん。
メモをしまい、弥生は席を立った。
「本日はありがとうございました。兄にも、今日のお話を報告します」
宗一郎が、父によろしくと声をかけた。弥生も頭を下げる。
「伝えます。宗一郎おじさんも、お身体気ぃつけてください」
「ああ。お前もな」
明彦は次の予定を確かめながら、志乃は資料をまとめながら、それぞれ挨拶を返した。三人の間で、会議のあとに交わす言葉はなかった。
*
車に乗り、ドアが閉まってから、弥生は息を吐いた。
本社の玄関が窓の後ろへ流れていく。膝の上に置いたメモには、次に必要な資料が並んでいた。最後の一行まで目で追ってから、携帯電話を手に取る。
——三人とも、仲悪すぎるやろ。
もう別々の部屋にいてくれへんかな。僕が回るから。
睦月へ連絡を入れると、ほどなく電話がつながった。
「終わったか」
「はい。今、出ました」
「どうやった?」
「設備を増やすか、今の設備で利益を伸ばすかという話です。どちらも理はあります。ただ、試算の前提が違うんで、条件を揃えた資料をお願いしてきました」
兄がいくつか質問し、弥生はメモを見ながら答えた。資料が届いたら共有すると伝えると、睦月も、こちらで確認すると応じた。
「親子の方は?」
弥生は窓の外へ目をやった。
「……兄さんが聞いてはったより、仲悪いかもしれません」
「そんなにか」
「途中から設備の話がなくなって、去年、誰が何を言うたかという話になりました」
電話の向こうで、兄が短く息を吐いた。
「よう戻してきたな」
「戻すまでが長いんです。資料はようできてるのに、話し始めたら進まへん」
睦月が少し笑った。
「苦労かけるな」
「次は兄さんも来てくれはります?」
「日程が合えばな」
「ほんまに調整しますよ」
「分かってる。先に候補を送ってくれ」
弥生も小さく笑い、電話を切った。
次の会議の日程を確認するよう、秘書へ連絡を入れた。三人へ送る資料の依頼も、今日中にまとめておく。
携帯電話をしまうと、車はちょうど信号で止まった。弥生は背へ身体を預け、もう一度だけ息を吐いた。
次は、もう少し静かに話せるといい。
——無理やろな。
せめて船の話はしてほしい。
受付で名前を告げると、すぐに上階へ案内された。廊下の壁には、これまでに建造した船の写真が並んでいる。会議室の扉が開くと、七十代の宗一郎が奥の席から顔を上げた。背もたれにゆったりと身体を預けた姿には、長年この会社を率いてきた人の風格があった。
「よう来たな。お父さんの具合はどうや」
「おかげさまで、落ち着いてます。昨日も普通に話せました」
「そうか。しばらくは、休んでもらわなあかんな」
「はい。本人はもう退院後のこと考えてはりますけど、お母さんもいてくれますし」
宗一郎は、それなら安心やな、と笑った。
上林造船が東京へ経営拠点を移したのは、宗一郎の父の代だった。本家より早くこの街に根づいた会社である。京都で子供時代を過ごした宗一郎には故郷の言葉が残っているが、東京で生まれ育った明彦と志乃は標準語を話す。
「今日は、お時間いただいてありがとうございます。宗一郎おじさん」
「睦月くんから聞いとるよ。お父さんの代わりやな」
「はい。まずは皆さんのお話を伺って、兄に持ち帰ろうと思てます」
「まあ、すぐに分かる話でもない。造船は、数字だけ見てても分からんことが多いからな」
隣に座る明彦が、椅子へ背を預けた。四十代後半の男で、父ほどの重みはないものの、着慣れたスーツ姿と堂々とした物腰には、役員らしい貫禄がある。
「いい機会だよ。投資会社にいると、現物を造る事業を見る機会は少ないだろう。勉強になるんじゃないか」
「実際の事業について、詳しく伺えればと思っています」
弥生は穏やかに答え、勧められた席についた。
——勉強。まあ、勉強にはなるやろな。人間関係の。
弥生は笑顔のまま、資料を取り出した。
事前に届いた資料は、設備を増強して生産能力を広げる案と、既存設備の改善を優先する案に分かれていた。同じ会社の計画とは思えないほど、先の見通しが違う。
「志乃も、もう来る」
宗一郎がそう言ったところで、扉が開いた。
濃い色のパンツスーツを着た志乃が、手にした資料をテーブルへ置いた。四十代前半の女性で、髪をひとつに結い、化粧もきちんとしている。弥生が立つと、こちらへ短く頭を下げる。微笑は挨拶に添える程度で、すぐに手元の資料へ目を戻した。
「お待たせしました。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。お忙しいところ、ありがとうございます」
「資料は、ご覧いただいていますか」
「はい。両方の案を拝見しました」
「では、重なる説明は省きます。確認したい点から伺った方が早いでしょう」
志乃は向かいの席についた。明彦が、その手元を見る。
「もう少し、挨拶くらいしたらどうだ。本家から来てもらってるんだから」
「挨拶はしました。今日は事業計画の話でしょう」
「そういう態度のことを言ってるんだよ」
「私の態度を話すために、弥生さんに来ていただいたわけではないと思いますけど」
——早い早い。まだ挨拶や。資料、一ページも開いてへんぞ。
弥生は椅子へ座り直し、資料を開いた。
「本日は、二つの案で判断が分かれている点を確認させてください。まず、設備増強の計画からお願いします」
宗一郎がうなずき、明彦の方へ手を向けた。志乃もそれ以上は言わず、自分の資料をめくった。
*
「既存の設備では、これ以上の受注を取れない」
明彦は、建造予定を並べたページを開いた。
「今ある仕事で埋まっているから、新しい引き合いがあっても納期が合わない。この状態を続ければ、顧客は他社へ流れる。今の利益が高いからといって、それを将来も守れるとは限らない」
弥生は、事前に印をつけていた箇所へ目を落とした。
「増強した設備が稼働する時点で、どの程度の受注を確保できると見ていますか」
「既存の顧客からの更新需要が中心だ。グループの商社経由で来ている引き合いもある。それをここにまとめている」
ページをめくると、顧客ごとの見通しがあった。確定した注文と、まだ相談の段階にあるものは分けられている。
宗一郎が、その一覧へ指を置いた。
「設備は、注文をもろうてから用意するんでは遅い。今までかて、先に金を入れたから取れた仕事がある。造れる時期を約束できへん会社に、船は頼めんやろ」
「整備に時間がかかる点は、承知しています。需要が想定を下回った場合の試算も、確認させてください」
明彦が別の表を出した。稼働率を落とした場合には利益も減るが、直ちに資金が足りなくなる計画ではなかった。
「好調が永遠に続くとは思ってない。ただ、下がるかもしれないという理由だけで見送っていたら、いつまでたっても増やせない」
「増やすこと自体に反対しているわけではありません」
志乃が口を挟んだ。
「設備と同じ速度で、人を増やせるのかという話をしています。この計画は、稼働初年度から既存設備に近い生産性を置いている。採用できた人数だけで、その通りにはなりません」
彼女が示したのは、職種ごとの人員計画だった。
「教える側は、今の建造も担当します。新しい設備へ熟練者を移せば、既存の工程も変わる。その間の遅れと費用を、もう少し見る必要があります」
「立ち上げの費用は入れてある」
「入っています。ただ、その期間で十分かを確認したいんです」
弥生は二つの表を並べた。費用が抜けているわけではない。同じ作業に、どれだけ時間が必要だと考えるかが違っていた。
「志乃さんの案では、既存設備の改善を先行させていますね。こちらで増える利益は、生産量よりも船種の構成によるところが大きいのでしょうか」
「はい。全部の注文を取るより、私たちの設備と技術で利益を残せる仕事へ寄せます。工程の改善で空けられる枠もありますが、そこへ単純に同じ仕事を詰めるつもりはありません」
「収益性の高い船へ絞った場合、顧客の数は減りますか」
「一定の偏りは出ます。それはリスクです。ただ、設備を広げて固定費を増やすリスクと、比較するべきだと思います」
志乃はためらわずに答えた。その案にも、需要が弱まった場合の試算がついている。
明彦が、志乃の資料へ目を向けた。
「利益率のいい仕事だけを選べる間は、それでいい。だが、顧客がまとめて発注したい時に、都合のいい部分だけ引き受けますと言えるか? 取引全体を失う可能性もある」
「今も全てを引き受けているわけではないでしょう。何を残すかを、受注のたびに考えるんです」
「その都度断っておいて、設備が空いたら戻ってきてくれというわけにはいかないだろう」
弥生はペンを止め、二人の説明を聞いた。
「両案とも、顧客との関係が収益に影響しますね。今の試算では、断った場合に失う取引の範囲が、同じ条件で見られていないように思います」
「だから、数字だけでは分からんと言うたんや」
宗一郎が身を乗り出した。
「長い付き合いの相手には、苦しい時にも仕事を回してもろうた。その関係を続けるんも、経営のうちや。志乃は、その辺りを軽う見すぎとる」
志乃が顔を上げた。
「軽く見ていません。関係を守るために、どこまで費用を負担するのか、決めたいんです」
「決めたら、その通りにいく話か?」
「決めずに進めるよりは、判断できます」
「お前は、そうやって何でも先に線を引こうとする」
宗一郎の指が、資料から離れた。
*
「この会社をここまで大きくしたんは、誰やと思ってる」
声は大きくなかった。しかし、その言葉に志乃の表情が変わった。
「お父さんの実績を否定しているわけではありません」
「それなら、もう少し人の話を聞いたらどうや」
「計画を確認するたびに、その話へ戻るから進まないんでしょう」
弥生は、開いていた人員計画へ指を置いた。
「設備の立ち上げ期間について、まず——」
「お前はいつもそうだ」
——はい、僕の番終了。
明彦が志乃へ向き直った。
「父さんの判断に従うことを、自分が負けたと思ってる。会社のための議論を、何でも自分の評価につなげるなよ」
「私の評価の話を始めたのは、そちらです。私は計画の話をしていました」
弥生は、口を閉じた。ペン先を紙から少し浮かせたまま、次の切れ目を待つ。
「お前にはまだ、最後に決める人間の気持ちは分からん」
宗一郎は背もたれへ身体を戻した。
「女は、どうしても守る方へ考えが寄る。大きく出なあかん時まで、細かい心配ばかりしてたら経営はできへん」
——女だからなんやねん。
さっきまで人員計画の話だった。
——どこで曲がったん。戻って。
「それは、何の根拠ですか」
志乃の声が低くなった。
「私が男だったら、この計画に反対しても同じことを言いますか」
「ほら、すぐそういう話にする」
明彦がため息をついた。
——先に言うたん、そっちやろ。
「女だから任せてもらえない、ということにしたいんだろう。専務として任されてる仕事だってある。それ以上を欲しがる前に、今の立場でやるべきことがあるんじゃないのか」
「今の立場で、事業計画について意見を出しています。専務は黙っていた方がいいということですか」
「そういう言い方をするなと言ってるんだよ」
弥生は二人の声が途切れたところで、顔を上げた。
「事業計画については、それぞれ確認すべき点があります。まず、その点を整理してもよろしいでしょうか」
宗一郎がこちらを見た。
「弥生くん。お前のところも、睦月くんが上を継ぐやろ。任される側には、任される側の役目がある」
——兄さんまで持ち出すんやめてもろて。
「今日は、兄から事業方針の確認を頼まれて来ています」
「うん。せやから、志乃にも分かってもらいたいんや。会社には順序いうもんがある」
「順序の問題なら、どうして兄さんの計画は最初から通す前提なんですか」
志乃が宗一郎へ問い返した。明彦が、自分の案に父が賛成するのは妥当だと答える。
弥生の前で、三人はまた話し始めた。
以前の役員会で何を言われたか。誰の提案が先に検討されたか。現場の意見を誰が代弁しているのか。志乃が、担当者の説明を聞かずに結論を出したと言えば、明彦は、志乃が事前に人を集めて反対させたのだと言う。
「私が言わせたことにすれば、聞かなくて済みますものね」
「実際、お前に話を通してからでないと、こちらへ報告しない人間がいるだろう」
「同じ内容を、そちらにも出しています」
「出せばええという話やない。現場が二つに分かれてどうするんや」
宗一郎がそう言うと、志乃は、それなら同じ場で聞けばいい、と返した。
弥生は、追加の説明を全員が共有できるようにしようと提案した。宗一郎もうなずいた。
——戻った。
弥生は人員計画を手元へ寄せた。だが明彦が、これまで共有できなかった理由を話し始めると、志乃がその説明に異議を唱えた。
——戻ってへん。
「去年の件だって、そうでした。私が出した資料を——」
——去年。そっちには戻るんかい。
弥生は静かに腕時計へ目を落とした。それから、向かいの志乃、斜め向かいの明彦、奥の宗一郎を順に見た。
——二十分経ったなぁ……。
人員計画について口を挟みかけてから、二十分。同じ箇所に、ペン先の跡が二つ増えていた。
——何しに来たんや、僕。親戚の喧嘩、最前列で見るため?
茶へ手を伸ばすと、もうぬるかった。一口飲んで戻す。その間に明彦が弥生を見た。
「君なら分かるだろう。組織で仕事をする以上、上の方針に従うことは必要だ」
「決定した方針を実行することは、必要だと思います。ただ、今回の計画はまだ——」
「だから、決めようとしてるんだよ。ところが志乃は」
「決めるための検討を、従わないという話に変えないでください」
——聞いて。お願い。
弥生はカップから手を離した。三人とも、こちらを見ていなかった。
——帰りたい。僕おらんでも成立してるやろ、これ。
兄への報告を頭の中でまとめてみた。三人は仲が悪い。とても悪い。
——知ってるわ、って言われるな。
「皆さん」
少し間を置いて、弥生はもう一度呼びかけた。
「追加でお願いしたい資料について、確認させてください」
明彦が言葉を止めた。志乃も口を閉じ、宗一郎がこちらを向く。
*
弥生は、開いていた二つの計画を中央へ寄せた。
「設備増強案については、受注枠を確保できないことで顧客を失う可能性と、設備の整備に時間がかかる点を重く見ている。既存設備を優先する案では、人員の立ち上がりと固定費の増加を抑え、受注内容を選んで利益を残す。その違いだと理解しています」
三人の顔を見て、続けた。
「ただ、同じ需要を前提にした場合に、両案でいくら利益と現金が残るのかは、今の資料では比較できません」
明彦が、テーブルへ肘を置いた。
「それで、君はどちらが正しいと思うんだ?」
「今の資料だけでは、判断できません」
「両方の説明を聞いた上でも?」
「はい。設備を増やさなければ失う仕事はあります。一方で、増やした設備を十分に動かせない期間が長くなれば、利益は変わります。どちらの影響を大きく見るべきか、確認したいです」
明彦は少し口元を引いたが、反論はしなかった。
弥生はメモへ三つの項目を書き、全員が見える位置へ置いた。
「需要の見通し、人員の立ち上げ期間、顧客との取引が変わる範囲。この三点について条件を揃え、両方の案を試算していただけますか。需要が弱まった場合も、同じ下がり方でお願いします」
「うちが出した見通しを使うんか?」
宗一郎に聞かれ、弥生は顔を上げた。
「一つに決める必要はありません。社長の見通しでも、志乃さんの見通しでも、両案を計算してください。どの条件なら増強する方が有利なのか、逆なら何が変わるのかを見たいです」
志乃がメモを見た。
「人員については、現場の責任者にも確認します。立ち上げ期間は、私の見込みだけで決めたくありません」
「その確認結果を、こちらにも回してくれ」
明彦が言った。志乃の指が、資料の端で止まる。
弥生はその間に、言葉を継いだ。
「全員へ同じ資料をお送りいただけますか。追加のご意見も、それに対するものとしてまとめられればと思います」
志乃は少し考えてから、うなずいた。
「分かりました」
「こちらの顧客の見通しも、そうするよ」
明彦が答えると、宗一郎は椅子の上で組んでいた手をほどいた。
「それで、いつ決められる」
「資料が揃った時点で、次の協議をお願いしたいです。判断が遅れることで失う引き合いがあれば、その時期も明記してください」
宗一郎はしばらく黙っていた。それから、明彦へ資料を渡す。
「分かった。出せるものから出そう」
弥生は、それぞれの資料を用意できる時期を確かめた。次の協議で確認する内容を書き、三人へ伝える。今度は、最後まで話せた。
窓の外へ一度目をやると、向かいの建物の影が移動していた。会議が始まってから、一時間以上が過ぎている。
——今の話、五分で済んだな。
弥生は時計から目を戻した。
——残りの一時間、何やったん。
メモをしまい、弥生は席を立った。
「本日はありがとうございました。兄にも、今日のお話を報告します」
宗一郎が、父によろしくと声をかけた。弥生も頭を下げる。
「伝えます。宗一郎おじさんも、お身体気ぃつけてください」
「ああ。お前もな」
明彦は次の予定を確かめながら、志乃は資料をまとめながら、それぞれ挨拶を返した。三人の間で、会議のあとに交わす言葉はなかった。
*
車に乗り、ドアが閉まってから、弥生は息を吐いた。
本社の玄関が窓の後ろへ流れていく。膝の上に置いたメモには、次に必要な資料が並んでいた。最後の一行まで目で追ってから、携帯電話を手に取る。
——三人とも、仲悪すぎるやろ。
もう別々の部屋にいてくれへんかな。僕が回るから。
睦月へ連絡を入れると、ほどなく電話がつながった。
「終わったか」
「はい。今、出ました」
「どうやった?」
「設備を増やすか、今の設備で利益を伸ばすかという話です。どちらも理はあります。ただ、試算の前提が違うんで、条件を揃えた資料をお願いしてきました」
兄がいくつか質問し、弥生はメモを見ながら答えた。資料が届いたら共有すると伝えると、睦月も、こちらで確認すると応じた。
「親子の方は?」
弥生は窓の外へ目をやった。
「……兄さんが聞いてはったより、仲悪いかもしれません」
「そんなにか」
「途中から設備の話がなくなって、去年、誰が何を言うたかという話になりました」
電話の向こうで、兄が短く息を吐いた。
「よう戻してきたな」
「戻すまでが長いんです。資料はようできてるのに、話し始めたら進まへん」
睦月が少し笑った。
「苦労かけるな」
「次は兄さんも来てくれはります?」
「日程が合えばな」
「ほんまに調整しますよ」
「分かってる。先に候補を送ってくれ」
弥生も小さく笑い、電話を切った。
次の会議の日程を確認するよう、秘書へ連絡を入れた。三人へ送る資料の依頼も、今日中にまとめておく。
携帯電話をしまうと、車はちょうど信号で止まった。弥生は背へ身体を預け、もう一度だけ息を吐いた。
次は、もう少し静かに話せるといい。
——無理やろな。
せめて船の話はしてほしい。
