エレベーターの扉が開くと、弥生は廊下の案内を見上げた。待合スペースを示す矢印に従い、足早に角を曲がる。
窓際の椅子に母が座っていた。その隣に立っていた睦月が、こちらへ顔を向ける。整えた黒髪も端正な顔立ちも、弥生によく似ていた。
「兄さん。お父さんは?ご容態、どうなんですか」
兄が一歩近づいてきた。
「大丈夫や。軽い脳梗塞やったそうやけど、命に別状はない」
「……そうですか」
「大きな後遺症も残らへん見込みやって。さっき、先生から話を聞いたところや」
弥生は兄の顔を見たまま、うなずいた。ようやく息を吐く。
上林キャピタルの執務室で、父が倒れたと知らされたのは一時間ほど前だった。午後の予定を秘書に任せ、車に乗った。都内の病院へ向かう間にも連絡は来ていたが、検査中という言葉から先のことが分からず、何度も携帯電話を確かめていた。
「……よかった」
声に出すと、母も小さくうなずいた。
「弥生、心配かけてしもたね」
「お母さんも、大丈夫ですか」
「うん。私は大丈夫。睦月も、ずっと一緒にいてくれたし」
「お父さん、もう話せはるんですか」
「話せるよ。私が来た時には、もう分かってはった」
「今は病室や。あとで顔を見に行ける」
兄の言葉に、弥生は廊下の奥へ目を向けた。
「兄さんは、いつからこっちに?」
「昼過ぎやな。俺も会社から来た」
睦月の携帯電話が震えた。兄は画面を一度見てから、弥生へ顔を戻した。
「会社には、俺から連絡してある。お前のところは?」
「出る前に、今日の予定は任せてきました」
「そうか。ほな、今はここにおったらええ」
弥生はうなずいて椅子へ座った。窓の外には、向かいの建物の屋上が見えた。そこまで目をやってから、母へ向き直る。
「お母さん、何か飲まはりましたか」
「さっき、お茶をもろうたよ」
「そうですか」
それ以上聞くことがなくなっても、すぐには落ち着かなかった。母と一緒に座り、兄が会社からの電話に短く答えるのを聞いていた。
やがて看護師が来て、面会できると知らせてくれた。弥生は母と兄の後について病室へ向かった。
*
病室の扉を開けると、父がこちらを見た。
ベッドの背を少し起こし、白い掛け布団の上へ片手を置いている。いつもより顔色は悪かったが、目が合うと、弥生の名前を呼んだ。
「お前も来たんか」
「来ますよ。倒れはったって聞いたんですから」
ベッドのそばへ行き、父の顔をもう一度見た。父は、何をそんなに見ているのかというように眉を動かした。
「仕事はどうした」
「任せてきました。具合は、どうですか」
「今は落ち着いとる」
答える声を聞いて、弥生はベッド脇の椅子へ腰を下ろした。母が向こう側へ座り、睦月は足元に立った。
「先生のお話、聞きました。しばらく休まなあかんそうですね」
「ああ。退院しても、すぐ仕事に戻るなと言われた」
父はそこで、睦月を見た。
「会社の方は、どうするつもりや」
「しばらくは俺が見ます。お父さんは、今は休んどいてください」
「そう簡単に言うてもな。お前にも、今抱えとる仕事があるやろ」
「ありますけど、引き継げるものは引き継ぎます。今まで見てきた案件も多いですし、急に何も分からんところから始めるわけやありません」
父は息子を見上げ、しばらく黙っていた。睦月はその視線を受けたまま、言葉を続ける。
「大きな判断が要るものは、役員とも相談します。お父さんが気にしてはる案件も、こちらで進めますから」
「僕も兄さんのお手伝いします。お父さんは、仕事のこと気にせんといてください」
弥生が言うと、父の目がこちらへ移った。
「お前ら、二人揃って同じこと言うんやな」
「そら、同じこと考えてますから」
睦月が答えた。母も父へ向き直る。
「ほんまに。今は身体のことを一番に考えてくださいね」
「分かっとる」
「家に帰ってからもですよ。退院したら済んだと思わんといてください」
父が口を閉じた。弥生は兄と一度目を合わせ、すぐに父へ視線を戻した。
療養には、三か月ほどかかるという。入院を終えても、当分は自宅で休むことになる。父がそれだけ長く会社を離れるのは、弥生の記憶にはなかった。
「三か月、か」
父が掛け布団へ目を落とした。
「長いな」
「せっかく休むんですから、途中で戻ってこようとせんといてくださいよ」
睦月の言葉に、父は少しだけ口元を緩めた。
「戻らんでもええようにするんは、お前らの仕事やぞ」
「はい」
兄がうなずいたので、弥生も同じように答えた。
父は二人の顔を順に見た。それから、布団の上に置いていた手を少し動かす。
「分かった。任せる」
睦月の肩がわずかに下がった。
「何かあれば、こちらからご報告します」
「そうしてくれ」
母が椅子を少し引き寄せ、父の手元へ目をやった。
「ほな、もう会社の話は終わりにしましょう」
父は反論せず、ベッドへ背を預けた。弥生も座り直し、面会に来る前より長く息を吐いた。
「瑛美ちゃんは知っとるんか」
父に聞かれて、顔を上げた。
「はい。病院に着く前に連絡しました。心配してましたよ」
「そうか。大丈夫やと伝えといてくれ」
「帰ったら、ちゃんと話します」
父はうなずいた。母が、弥生たちは週末に箱根へ行っていたのだと話すと、どこへ泊まった、と尋ねてくる。
宿の話をし、温泉に入ったことを話した。仕事を持っていかなかったと言うと、父は、それでええ、と短く答えた。
弥生はその声を聞きながら、もう一度、布団の上の父の手を見た。来る途中に何度も考えてしまったことは、口に出さずに済んだ。
*
自宅へ戻ったのは、夜になってからだった。
玄関で靴を脱いでいると、瑛美が廊下へ出てきた。
「おかえり。お義父さん、大丈夫だった?」
「うん。軽い脳梗塞やったらしいけど、命に別状はないって。普通に話もできたよ」
「そっか。よかった……」
瑛美は息を吐き、弥生が上着を脱ぐのを待ってから、リビングへ戻った。
テーブルには二人分のグラスがあった。弥生は鞄を置き、差し出された水を飲んだ。
「しばらく入院するの?」
「うん。退院しても、家で休むことになる。三か月くらいは仕事せんと、療養するようにって」
「でも、その方が安心だよね。お義母さんは?」
「落ち着いてはった。兄さんが先に行って、一緒にいてくれたから」
瑛美がうなずいた。弥生もグラスを置き、椅子へ座る。
「上林ホールディングスはどうするの? お義父さんが、三か月いないんでしょ」
「当面は兄さんが見る。もともと、実務はかなり任されてはったしな」
「そっか。睦月さんがいるもんね」
「今日も、僕が着いた時には会社へ連絡してはった。お父さんにも、任せるって言うてもろうたし」
「弥生も忙しくなる?」
「多少はな。でも、兄さんがおるし、大丈夫やろ。僕は手の足りひんところを手伝う」
瑛美は向かいの椅子へ座った。
「私も、落ち着いたらお見舞いに行きたい。今は疲れちゃうかな」
「お母さんに聞いとく。お父さんも、瑛美に大丈夫やって伝えといてくれって言うてたよ」
「うん。ありがとう」
弥生が携帯電話を取り出すと、母から連絡が届いていた。今夜は父も休めそうだという。瑛美にもそれを伝え、二人で遅い夕食の支度をした。
*
数日後、上林ホールディングス本社の会議室には、傘下の主要な事業会社の代表が集まっていた。各社の計画を持ち寄り、上林財閥全体の事業方針を決める経営会議だった。上林キャピタルを率いる弥生も、その一人として出席していた。
上林ホールディングスの代表取締役副社長である睦月は、父がいつも座っていた席についた。三十二歳の兄の顔つきには、弟に残る幼さはなかった。
弥生はテーブルを挟んだ斜め向かいで、手元の資料を開いた。父の療養中も、既に承認された投資や各社の事業計画を止めることはない。その方針を、兄は冒頭で伝えた。
議題の一つは、海外事業への追加投資だった。担当役員が、複数のグループ会社から出ている計画を説明する。同じ市場に向けた投資だが、会社ごとの収益予測だけでは、全体にいくら資金を置くことになるのかが見えにくかった。
「この二件は、別々に判断するべきではないと思います」
睦月が資料から顔を上げた。
「一方の計画が遅れれば、もう一方の収益にも影響します。グループ全体で、そのリスクを引き受けてまで進めるかという話です」
担当役員がうなずき、当初から想定していた連携について補足した。
「キャピタルは、資金面ではどう見ていますか」
兄に促され、弥生は開いていたページへ目を戻した。
「投資余力はあります。ただ、同じ前提で二社が収益を見込んでいる分、市場が想定を下回った時の影響も重なります。両方へ一度に資金を入れるより、先行する一件の結果を見て、次を判断する方がいいと思います」
睦月は担当役員といくつか言葉を交わしたあと、投資を段階的に進める方針を示した。先に進める事業と、次の判断を行う時期が決まる。
父へ確認するために結論を保留する者は、いなかった。兄が次の議題へ移ると、弥生も資料をめくった。
会議が終わり、出席者が席を立ち始めたところで、睦月がこちらを見た。
「弥生、あと少し時間あるか」
「はい」
「部屋で話したいことがある」
弥生は資料を鞄へしまい、兄と一緒に会議室を出た。
*
睦月の執務室へ入ると、兄は机に置かれていた薄いファイルを取った。
応接用のテーブルへ置き、向かいに座る。弥生も鞄を脇へ下ろした。
「お父さん、昨日はどうでした?」
「変わらへんよ。俺が顔出したら、もう退院したあとのこと考えてはった」
「仕事ですか」
「いや。家におるなら、何して過ごそうかって」
「それは、ええですね」
「せやろ。お母さんも、いろいろ考えてはるみたいやし」
兄が笑ったので、弥生も少し笑った。母が家での過ごし方を考えているなら、父が勝手に仕事へ戻る心配は、いくらか減りそうだった。
睦月はテーブルへ手を置き、ファイルを弥生の方へ寄せた。
「それで、頼みたいことがあるんやけど」
「はい」
「宗一郎おじさんのところ、まだ揉めてるんや」
弥生はファイルの表紙を見た。株式会社上林造船、と印字されている。
「ああ……造船ですか」
「そう。志乃さんとの件や」
「まだ続いてはるんですか」
「前よりひどなってるらしい」
宗一郎と長女の志乃が、経営方針を巡って対立していることは聞いていた。長男の明彦も父の側につき、話がまとまらない。父が一度、双方の言い分を聞きに行くつもりだというところまでは、弥生も知っていた。
「お父さんが行く予定やったんやけど、当分無理やろ。俺も、今はこっちを空けられへん」
「まあ、そうですね」
「悪いけど、お前、一度行ってきてくれへんか」
弥生は兄の顔へ目を戻した。
「僕ですか」
「うん。現地で、三人の話を聞いてきてほしい」
ファイルを開くと、会社の概況と直近の業績があった。弥生は売上から利益へ目を移し、その先のページをめくった。
上林造船は、長く宗一郎が率いてきた有力分家の中核企業だった。グループ内の商社や貿易会社とも関係が深く、単独の利益だけで重要性を測れる会社ではない。
その利益も、十分に大きかった。
「会社の業績は、ええんですね」
「せや。せやから余計に、揉めたままにしとけへん。今は役員も社員も、どちらにつくかいう話になってる」
弥生は資料から顔を上げた。
「社内まで?」
「宗一郎おじさんと明彦さんを支持する人もおるし、志乃さんの言うことが正しいと思ってる人もおる。経営の話をするたびに、そっちへ引っ張られるらしい」
「……それは、困りますね」
「まず、何で折り合わへんのかを聞いてきてほしい。俺が聞いてる話も、お父さんが受けてた連絡も、双方の言い分が混じってるからな」
兄はファイルの端へ指を置いた。
「お前なら、造船の数字も見られるやろ」
「親子喧嘩に数字が要ります?」
「経営方針で揉めてるんやから、要るやろ」
「……それはそうですけど」
睦月が笑った。弥生はもう一度資料へ目を落としたが、数字を見ていればそれで済む仕事ではなさそうだった。
子供の頃から会っている親族の顔が、順に浮かぶ。宗一郎の話を聞けば、志乃にも聞かなければならない。明彦を抜きにしても、収まらないだろう。
「僕が行って、すぐ仲直りしはるとは思えませんよ」
「そこまで一度に頼んでへん。まずは話を聞いて、どうしたら会社として進められるか、考えてくれたらええ」
「兄さんには、途中でご相談しますからね」
「もちろん。俺も、お前に任せたから終わりとは思ってへんよ」
弥生はファイルを閉じた。
親族の揉め事へ入るのは、気が進まなかった。だが、病室で父に協力すると言ったばかりだ。兄が抱える仕事の一つを、こちらへ回せるなら、その方がいい。
睦月がこちらを見る。
「頼めるか?」
「兄さんに頼まれたら、断れませんやん」
「助かるわ」
「その代わり、宗一郎おじさんには先に言うといてください。僕が勝手に口出しに来たと思われても困りますし」
「分かってる。俺から話しておく。志乃さんと明彦さんにも、時間を取ってもらおう」
弥生は携帯電話で予定を開いた。翌週の前半なら、まとまった時間が取れそうだった。候補を二つ伝えると、睦月も手元の予定を確かめる。
「このどちらかで、向こうに聞いてみる」
「お願いします。資料は、持って帰ってもええですか」
「お前の分や。足りひんものは、あとで送る」
弥生はファイルを鞄へ入れ、席を立った。兄も立ち上がり、次の予定がある机へ戻る。
「ほな、行ってきます」
「うん。頼むな」
弥生はうなずき、執務室の扉を開けた。
