自宅を出る時、弥生が持っていたのは小さな旅行鞄一つだった。パソコンも資料も入れていない。瑛美の鞄と一緒に車へ積み、運転席の扉を開けると、彼女が顔を上げた。
「今日、弥生が運転するの?」
「うん。嫌?」
「嫌じゃないけど。いつも運転手さんいるから」
普段の移動には運転手付きのリムジンを使っている。自分の車を運転するのは、たいてい休日だった。
「今日は二人で行きたかったし」
瑛美は少し笑い、助手席の扉へ手をかけた。
「ふうん。じゃあ、よろしくお願いします」
「はいはい」
二人でシートベルトを締め、宿の行き先を確かめてから車を出した。
首都高速へ上がると、窓の外を建物が流れ始めた。瑛美が音楽を選び、聞き覚えのある曲が車内に流れる。
「これ、懐かしいね」
「よう聴いてたな」
「弥生、次の曲も覚えてる?」
「何やったっけ」
瑛美は答えずに、再生する曲を一つ先へ送った。弥生がすぐに曲名を言うと、彼女は満足そうに笑った。
東名高速に入ってからも、瑛美は時々曲を変えては、これ覚えてる、と尋ねてきた。
サービスエリアで休憩に寄ると、車を降りた瑛美が売店の方へ足を止めた。
「弥生、肉まん売ってる」
「食べる?」
「うん。でも、宿のご飯食べられなくなるから、二人で一個ね」
「せやな」
一個だけ買い、建物の外で並んで座った。瑛美が紙を剥がし、肉まんを両手で割る。白い皮の間から湯気が出て、彼女は一度手を止めた。
「熱い」
「気いつけて」
「はい、半分」
差し出された方を受け取ると、少しだけ大きかった。
「こっち、多ない?」
「うまく割れなかった。いいよ、そのままで」
弥生が一口食べる横で、瑛美は切り口へ息を吹きかけていた。ひと口かじって、うなずく。
「おいしい。半分にしてよかったね」
「一個食べたかったんちゃう?」
「ほかにも食べたくなるから。一個ずつ買ってたら、きりないでしょ」
彼女の目が、売店の看板へ戻った。
「……もう見てるやん」
「見るだけ」
瑛美が笑った。二人とも残りを食べ終え、飲み物を買って車へ戻った。
厚木方面を過ぎ、箱根の山道へ入ると、窓の外に木々が増えた。曲がるたびに日が差したり陰ったりして、瑛美は膝の上の鞄から手を離し、窓の外を眺めていた。
弥生は前の車との間を空け、カーブに合わせて速度を落とした。普段走る都内の道と違って、先が見通せないところが多い。
曲がり角の向こうから、大きな路線バスが現れた。
「うわ、バス近っ!」
すでに落としていた速度をさらに緩める。瑛美も前を見て、背もたれから少し身体を起こした。
「ほんとだ。怖いね。弥生、大丈夫?」
「任せろ」
「……ほんとに?」
「大丈夫やって」
バスはゆっくり近づいてきた。弥生は車の位置を確かめながら、ゆっくりすれ違った。大きな車体が窓の外を占めて、やがて後ろへ抜けていく。
ミラーで離れていくのを見届けて、息を吐いた。
「……近かったなあ」
「運転してる人が『近っ!』って言うと、不安になるんだけど」
「ほんまに近かったやろ」
「そうだけど」
瑛美は笑い、また背もたれへ身体を預けた。
その先のカーブにも同じように速度を落として入った。瑛美は窓の外を眺め、見つけたものを時々話してくれた。弥生は前を見たまま相槌を打った。
宿の敷地へ入ると、瑛美が案内の看板を指した。車を停め、二人で鞄を持って降りる。
「お疲れさま。ありがとう」
「うん。着いたな」
弥生が車の鍵をしまうと、瑛美がその手を取った。二人で玄関へ向かい、宿の人に迎えられた。
*
部屋へ案内されると、瑛美は大きな窓の前で足を止めた。
「あ、これ」
写真で見ていた椅子が、二脚並んでいる。低いテーブルを挟み、それぞれ庭へ向けて少し斜めに置かれていた。窓の外には木の床が続き、その先の露天風呂から湯気が上がっている。
係の人から部屋と食事の説明を聞き、夕食は六時半に頼んだ。扉が閉まると、瑛美はさっそく窓際の椅子へ座った。
「どう?」
「いい。深く座れる」
背もたれに身体を預け、膝を揃えて少し足を伸ばす。弥生も隣の椅子へ座ると、思ったより低い座面に腰が沈んだ。
テーブルには茶と、小さな饅頭が用意されていた。湯呑みを取った瑛美が、窓の外を眺めながら一口飲む。
「写真より、緑が近いね」
「せやな。あっちの窓、開けられるんちゃう?」
弥生が立って窓を少し開けると、涼しい空気が入ってきた。庭の葉が擦れる音に混じって、湯船へ注ぐ湯の音も聞こえる。
椅子へ戻り、饅頭の包みを開いた。瑛美はまだ自分の分を手にしたまま、庭を見ていた。
「何もしないって、贅沢だね」
「今、饅頭食べてるけど」
「それは何もしないに入るの」
「ほな、僕は得意やわ」
瑛美が笑った。包みを開けて一口食べ、残りを小さな皿へ置く。
「おいしい。お茶に合う」
「帰りに買って帰ろか」
「明日でいいよ。今はここにいたい」
「うん」
弥生も湯呑みを取り、背もたれへ身体を預けた。
椅子の間は、手を伸ばせば届くくらいだった。瑛美の手が肘掛けの端へ出てきたので、弥生もそちらへ手を置く。指先が触れ、彼女がこちらを見ずに指を曲げた。
庭の奥で、小さな鳥が枝から枝へ移った。瑛美がその行き先を目で追い、弥生は彼女の横顔を眺めていた。
茶を飲み終えても、二人とも立たなかった。しばらくして、瑛美が欠伸をこらえるように唇を閉じる。
「眠いん?」
「気持ちいいんだもん。この椅子」
「先に寝る?」
瑛美は少し考え、それから窓の外の湯船へ目をやった。
「……お風呂、入ろうかな」
「うん。入ろ」
弥生が立つと、彼女はつないでいた手を一度見てから、椅子を離れた。
*
露天風呂へは、室内の浴室から出られるようになっていた。
窓の向こうに、石で囲まれた長方形の湯船がある。庭との境には木が植えられ、枝葉の間から見えるのは空と山の斜面だけだった。屋根が半分ほど張り出しているが、午後の光は水面まで届いている。
弥生がタオルを取り、浴室へ向かおうとすると、瑛美に呼び止められた。
「待って。私が先に入る」
「僕が先入って待ってよかと思ったんやけど」
「私が後に入ったら、絶対見るでしょ」
弥生は足を止めた。
「……何を?」
「何を、じゃないでしょ」
瑛美がこちらを見た。耳が少し赤い。弥生は笑うのをこらえ、タオルを一枚渡した。
「分かった。ほな、先どうぞ」
瑛美は一人で浴室へ入り、扉を閉めた。弥生は着替えを椅子に置き、窓際へ戻った。
中から短く湯の音が聞こえ、しばらくすると、庭へ出るガラス戸が開いた。髪をまとめた瑛美が、湯船へ向かう。
彼女は縁にタオルを置いた。片足を湯へ入れ、底を確かめるようにしてから、もう片方の足を下ろす。
弥生は窓越しに、その後ろ姿を最初から最後まで見ていた。
午後の光に、華奢な肩から背中にかけての肌が透き通るように白く見えた。彼女が身体を沈めるにつれて、その細い背中が湯の向こうへ隠れていく。肩までつかり、ようやく落ち着いたらしい瑛美が、縁に手を置いた。
——いや、普通に見えるけど。
この順番なら見られずに済むと思ったのだろうか。瑛美は湯船へ入ることに気を取られ、部屋の方を一度も振り返らなかった。
彼女がこちらを向く直前、弥生は部屋の床の間へ視線を移した。
「弥生、もういいよ」
「うん」
何事もなかったように返事をして、浴室へ入った。服を脱ぎ、軽く身体を流してから外へ出る。
瑛美は湯船の向こう側に座り、肩まで沈んでいた。湯は透明で、空の色と木の影が表面をゆっくり動いている。
弥生が湯へ入り、腰を下ろすと、広がった波が彼女のところまで届いた。
「熱うない?」
「大丈夫。ちょうどいい」
「外、思ったより涼しいな」
「お湯に入ると平気だね」
瑛美は顎を少し上げ、息を吐いた。湯に隠れていた両肩が、わずかに出る。
弥生も腕を縁へ載せ、身体を伸ばした。湯が背中に回ると、ここへ来て初めて、肩に力が入っていたことに気づいた。
「弥生、すごく楽そう」
「楽やもん」
「さっきも、椅子から動かなかったし」
「瑛美もやろ」
「私はあそこに座りたくて来たんだから」
「僕も、ここに入りたくて来たんやけど」
彼女は笑い、それから湯船の縁へ目を向けた。
「二人で入っても広いね」
「写真のとおりやな」
瑛美が座っている場所から弥生までは、手を伸ばしても届かない。彼女は庭を見上げていたが、ほどなく腰を浮かせた。湯を揺らしながらこちらへ来て、隣に座る。
水面が落ち着くと、二人の肩の間には、ほんの少ししか隙間がなかった。
「……さっきまで、あんなに恥ずかしがってたのに」
「入っちゃえば平気」
「そうなん?」
「うん。それに、弥生だし」
それだけ言って、瑛美はまた庭へ顔を向けた。
弥生はすぐには返事ができず、縁に載せていた腕を湯の中へ戻した。すくった湯を掌から落としながら、隣の肩へ目をやる。
彼女が身体を寄せ、その肩が触れた。
「……近うない?」
「予約した時、端と端に座ろうかって言ってたじゃん」
「うん」
「そんなに離れなくていいって言ったでしょ」
「……言うてたな」
「だから。これくらいがいい」
瑛美は座り直し、弥生の腕へ自分の腕を沿わせた。
——あかん。
せっかく湯につかって緩んだ身体に、別のところから力が入る。本人はもう恥ずかしくないらしいが、弥生はそれどころではなくなっていた。
湯の中で彼女の手を探した。指に触れると、瑛美も掌をこちらへ向けたので、そのまま指を絡める。
「何?」
「別に」
瑛美はつないだ手を一度見下ろし、少し笑った。
濡れた髪をまとめているせいで、いつもより顔が近く見える。こめかみに残った細い髪が、頬に貼りついていた。弥生が空いた手でそれを払うと、彼女は目を細めた。
そのまま頬に触れ、こちらへ顔を向ける。
瑛美は弥生を見てから、少し顎を上げた。閉じた瞼へ庭の葉の影がかかる。弥生は身を屈め、唇へ口づけた。
離れると、彼女がゆっくり目を開けた。
「……お風呂、いいね」
「うん」
「部屋についてるのにして、よかった」
弥生はうなずいた。もう一度顔を近づけると、瑛美の指が湯の中で握り返してきた。
今度は少し長く、唇を重ねた。
離れたあとも、瑛美は顔を近づけたままでいた。その頬に触れる親指をゆっくり動かすと、彼女は肩の力を抜き、弥生へ寄りかかった。
「もうちょっと、このままでいていい?」
「ええよ」
弥生は手を下ろし、彼女の背へ腕を回した。
二人の動きで揺れた湯が、縁へ寄せては戻ってくる。耳元には湯の流れる音があり、庭からは時々、葉の擦れる音がした。
瑛美が弥生の肩へ頬を寄せる。その重みを受け、弥生も少しだけ座り直した。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
庭を眺めているうちに、向こうの石に載っていた木漏れ日が、少し横へ移った。瑛美がつないだ手を動かし、弥生の親指の付け根を指先でなぞる。
「弥生」
「うん?」
「また来ようね」
「ここ?」
「ここでもいいし、別のところでも。二人で」
「うん。行こ」
彼女はうなずき、それで決まったというように、また肩へ頬を戻した。
先の予定を聞かなくてもよかった。弥生も何月にするか考えず、瑛美の手を握り直した。
やがて彼女が顔を上げ、湯船の縁へ手をついた。
「そろそろ出ようかな。顔、熱くなってきた」
「せやな」
弥生も腕を解いた。瑛美はタオルの置いてある側へ移り、片手を伸ばす。
「弥生も出る?」
「うん」
「じゃあ、先にどうぞ」
今度はあっさり順番を譲られた。弥生は笑いそうになりながら、縁に手をついた。
瑛美はその後ろで、気持ちよかったね、と満足そうに言っていた。
*
夕食の支度が整う頃には、庭に薄暗い影が広がっていた。
二人は浴衣姿で食卓につき、運ばれてきた料理を眺めた。小さな器が盆の上に並び、瑛美は渡されたお品書きと、一つずつ見比べている。
「これ、写真にあったやつだ」
弥生が顔を向けると、彼女は浅い器に盛られた和え物を指した。
「中身は違うけど、この器、覚えてる」
「器の方なん?」
「料理は変わるって書いてあったでしょ」
「よう覚えてるなあ」
「何が入ってるか気になったんだもん」
箸を取り、一口食べる。瑛美がうなずいたので、弥生も同じものを食べた。口に入れるとだしの風味があり、あとから胡麻の香りが残った。
「おいしいね」
「うん。何やったん?」
瑛美はお品書きをもう一度読んだ。
「……名前を見ても、作り方は分からない」
「ほな、もう一口食べよ」
彼女が笑った。弥生も箸を戻し、注いでもらった酒を少し飲んだ。
次の料理が来るまで、庭の灯りがついたことや、昼に座っていた椅子の話をした。瑛美はあそこから夜の庭も見たいという。食事が済んだらそうしようと答えると、彼女は小さな杯を取り、弥生のものへ軽く寄せた。
焼き物が運ばれると、二人はまた皿へ目を向けた。瑛美が魚の身へ箸を入れ、ひと口分を取る。弥生は付け合わせを先に食べた。
「それ、おいしい?」
「うん」
「何?」
「食べてみたらええやん。同じのあるで」
瑛美が自分の皿を見る。
「弥生の、もうなくなってる」
「食べたからな」
「私が聞くまでに、全部?」
「一口やったやん」
瑛美は自分の分を食べ、何も言わずにうなずいた。それから魚へ戻る。
「……もう一個あってもよかったね」
「せやろ」
弥生は笑い、酒を注ぎ足した。
料理は食べ終える頃を見計らって、一品ずつ届いた。途中で瑛美がもうお腹いっぱいかもしれないと言ったが、炊き込みご飯の蓋が開くと、すぐに茶碗を手に取った。
「食べられそう?」
「少しだけ」
そう答えた分は綺麗になくなり、最後の甘味まで二人で食べた。
食卓が片づくと、瑛美は椅子を離れ、窓際へ向かった。
昼に開けた窓は閉めてあった。硝子に室内の灯りが映り、その向こうで、庭の木が下から淡く照らされている。
「夜は全然違うね」
弥生も隣へ座った。食事の間に少し崩れた浴衣の襟を直し、背もたれへ身体を預ける。
瑛美は湯船の方を眺めていた。
「あとでもう一回、入ろうかな」
「入ろ」
「返事、早いね」
「温泉来たんやし」
「うん。……もうちょっと、お腹が落ち着いたらね」
弥生はうなずき、肘掛けへ手を置いた。瑛美の指が、昼と同じようにそこへ伸びてきた。
*
夜の湯船では、庭の灯りが細く揺れていた。
昼間に見えていた山も空も、今は暗い。瑛美は湯へ入ると、初めから弥生の隣に座った。肩が触れる場所で落ち着き、長く息を吐く。
「暗いと、ずっと入ってられそう」
「のぼせるで」
「そうだね。昼も気づいたら熱くなってたし」
二人で見上げた空は、屋根と木々の間に小さく開いていた。星はよく見えなかったが、瑛美はしばらくそこを眺めていた。
部屋へ戻ると、それぞれ湯上がりの支度を済ませた。弥生が水を飲みながら窓のそばに立っていると、瑛美も洗面所から戻ってきた。下ろした髪が、浴衣の肩にかかっている。
彼女は卓上のグラスへ水を注ぎ、半分ほど飲んだ。それから弥生のそばへ来て、同じように庭を見た。
「昼も夜も入れたね」
「うん。明日の朝も入れるよ」
「起きられたらね」
弥生が笑うと、瑛美はその腕へ自分の腕を添えた。
窓に、二人の姿が並んで映っていた。彼女がそちらを見て笑い、少し顔を上げる。弥生は手にしていたグラスを置いた。
頬へ触れる前から、瑛美はもうこちらを向いていた。
口づけると、彼女の手が浴衣の袖を握った。一度離れて顔を見る。目が合い、瑛美がわずかに笑ったので、弥生はもう一度唇を重ねた。
背へ腕を回すと、彼女も弥生の肩へ手を置いた。さっきまで見ていた庭が、すぐ後ろにある。湯の音は窓を閉めた部屋まで、かすかに聞こえていた。
瑛美の唇が離れ、頬が弥生の胸元へ触れた。
弥生はその髪へ頬を寄せた。
「……そろそろ、向こう行こか」
瑛美は小さくうなずいた。握っていた袖を離し、弥生の手を取る。
寝室へ入って、弥生は灯りを落とした。瑛美がベッドの端へ腰を下ろし、隣を少し空ける。そこへ座ると、彼女はすぐに顔を向けてきた。
唇を重ねながら肩を抱き寄せ、ゆっくり身体を横たえる。瑛美の髪が枕へ広がり、頬にかかった。弥生が指で払うと、彼女はその手を取り、指先へ頬を寄せた。
「弥生」
「うん」
何か言うのかと待ったが、瑛美はただ、こちらへ腕を伸ばした。
弥生は身を寄せ、その腕の中でまた口づけた。
抱き合っているうちに、彼女の笑い声が、少しずつ近く、小さくなる。唇が離れるたびに顔を見て、また互いの手を探した。
枕元の灯りを消したあとも、瑛美の腕は弥生の背に回ったままだった。
*
瑛美が目を覚ました時、カーテンの隙間が明るくなっていた。
隣では、弥生がこちらを向いて眠っている。掛け布団から片腕が出ていて、手は二人の枕の間にあった。
瑛美は枕元の時計を見た。七時になったばかりだった。
朝食までは、まだ時間がある。身を起こしかけて、やめた。布団を肩まで引き上げ、隣の顔を眺める。
昨夜、寝る前に何時だったかは、結局確かめなかった。弥生が最後に言ったのは、おやすみ、だったと思う。瑛美も同じことを返してから、もう一度その胸元へ寄った。
今は目を閉じているせいで、顔を見ていても弥生には分からない。起こさない程度に近づき、枕へ頬をつけた。
彼の前髪が、少し乱れていた。
指先で直そうとすると、弥生の眉がわずかに動いた。瑛美は手を止めたが、彼はゆっくり目を開けた。
「おはよう」
「……おはよ」
弥生は瑛美を見て、それからカーテンの方へ目を向けた。
「何時?」
「まだ七時」
「朝ごはんは?」
「八時半」
彼はうなずいた。少し考えるように目を閉じ、そのままこちらへ手を伸ばす。
「もうちょい寝よか」
「うん」
瑛美は自分から、その腕の中へ戻った。
弥生の手が背へ回り、身体を引き寄せる。胸元へ頬をつけると、彼の顎が髪へ触れた。
「朝のお風呂は?」
瑛美が尋ねると、少し間が空いた。
「……あとで」
声がもう眠そうだった。瑛美は笑い、弥生の腰へ腕を回した。
カーテンの向こうでは、湯が流れている。昨夜と同じ音を聞きながら、目を閉じた。
弥生の掌が背中で一度動き、それから静かになった。瑛美も、頬を寄せた場所から動かなかった。
