「収益の見通しは分かりました。ただ、この価格での買収は承認しません」
弥生は資料を置き、向かいの投資担当役員へ目を向けた。
「利回りは、社内の基準を超えていますが」
「ええ。ただ、一件でこれだけの資金を使えば、ほかに投資できる額は減ります。その分まで考えて、この会社を優先する理由があるかという話です」
役員は手元の一覧へ目を落とした。検討中の案件と、それぞれに必要な資金が並んでいる。
「事業拡大の余地はあります。買収後、販路を広げられれば——」
「そこには、さらに資金も人も要りますよね。今の価格では、その成果まで先に売り手へ払うことになる」
弥生は買収額の欄へ目を戻した。
「会社自体には魅力があります。価格が下がれば進めたい。ただ、ほかの投資を抑えてまで、先方の希望額を受けるつもりはありません」
役員がうなずいた。
「では、価格の交渉を続けます」
「お願いします。こちらから提示する上限は、今日の案で。まとまらなければ見送りましょう」
役員が退室したあと、弥生は残っていたメールに返信した。月曜の予定まで確かめて、パソコンを閉じる。
金曜の六時半だった。
鞄を取り、上林キャピタルの執務室を出た。廊下で会った社員へ挨拶を返し、エレベーターの中で携帯電話を開く。
『今から帰る』
送信して、画面をしまおうとしたところで返事が来た。
『了解。ごはんできてるよ』
弥生は口元を緩めた。
明日は、朝から出かける予定がない。日曜にも仕事を入れずに済んだ。瑛美と夕食を食べて、眠って、目が覚めてもまだ隣にいられる。
帰宅するだけでこれほど楽しみなのだから、休みが二日続くとなれば、なおさらだった。
車に乗り込み、運転手へ行き先を告げた。窓の外では、仕事帰りの人たちが駅へ向かっている。弥生も背もたれへ身体を預け、ネクタイを少し緩めた。
もう一度、瑛美からの返事を見る。
何を作ってくれたのか聞こうとして、やめた。家に着けば分かる。それより、早く顔が見たかった。
*
「おかえり」
リビングへ入ると、瑛美が食卓から顔を上げた。二人分の箸を並べていたところだった。
「ただいま。ええ匂いする」
「肉じゃが。先に着替えてきて」
「うん」
手を洗い、部屋着に替えて戻ると、瑛美は鍋から最後の一皿を盛っていた。弥生がその皿を受け取り、食卓へ運ぶ。
席について、二人で食べ始めた。じゃがいもは箸を入れるとほぐれ、煮汁がよく染みていた。
「おいしい」
「よかった。ちょっと煮すぎたかと思った」
「これくらいがええよ」
瑛美も一口食べ、それから弥生の皿を見た。
「……そっち、肉多くない?」
弥生は箸を止めた。
「瑛美が盛ったんやろ」
「そうだけど。最後、そっちに寄ったみたい」
「返そか?」
「いい。まだ鍋にあるし」
瑛美が立とうとしたので、弥生は小皿を取った。自分の皿から肉を少し移し、彼女の前へ置く。
「ほら」
「ありがとう。自分のじゃがいもは残すんだね」
「肉が欲しい言うたやん」
「別に文句じゃないよ。分かりやすいなと思って」
弥生は笑い、じゃがいもを一つ食べた。
三か月前、東雲建設の新しい経営体制が動き始めてから、再建は順調に進んでいた。弥生が帰宅してからも資料を開く日はあるが、夕食を一緒に食べられる日も増えている。
今夜は仕事を持ち帰っていなかった。
瑛美は明日の朝に食べるパンを買ってきたという。店に着いた時には好きなものが一つしか残っておらず、もう一つは違う種類にしたらしい。
「半分ずつにする?」
「うん。瑛美が一個食べてもええけど」
「それだと、もう一個を買った意味がないでしょ」
「僕が食べるやん」
「二つとも食べたいから聞いてるの」
「ああ、そういうこと」
瑛美が笑った。弥生も笑って、明日の朝は何時に起きるかと尋ねた。
「目が覚めたら」
「賛成」
食後の片づけを済ませ、弥生はソファへ座った。瑛美が茶の入ったカップを二つ運んできたので、一つ受け取る。彼女は隣へ腰を下ろし、背もたれへ身体を預けた。
少しすると、その肩が弥生の腕へ触れた。
カップを置き、瑛美の手に触れる。彼女も指を開き、弥生の指の間へ入れてきた。つないだ手はそのまま二人の膝の間へ落ち着いた。
テレビでは、見覚えのない町の商店街を紹介している。瑛美が何か言いかけてこちらを向き、口を閉じた。
弥生を見たまま、少し顎を上げる。
顔を近づけると、彼女は目を閉じた。唇に触れ、もう一度だけ口づけてから離れる。
「何か言おうとしてへんかった?」
「あのコロッケ、大きいねって」
弥生が画面へ目を戻すと、店の人が揚げたてのコロッケを紙に包んでいた。
「ほんまや」
「二人で一個でもよさそう」
「さっき食べたばっかりやで」
「今食べたいとは言ってないでしょ」
瑛美はそう言って、弥生の肩へ頭を寄せた。
近頃は、一緒に眠るだけで終わらない夜も多かった。早く寝ようと言い合ったはずなのに、気づけばずいぶん遅い時刻になっている。昨夜もそうだったし、今朝は弥生が起きようとすると、瑛美の方から腕を伸ばしてきた。
おかげで朝食を食べる時間が短くなった。彼女も同じテーブルで慌ただしくパンを食べ、時計を見るたびに笑っていた。弥生としては、毎朝でも構わないくらいだったが、それを言うと本当に出勤が間に合わなくなりそうだった。
肩に寄りかかる瑛美の髪へ、頬を少し近づけた。
彼女がテレビを見たまま、手を握り直す。
「なあ、瑛美」
「うん?」
「来週末、一泊だけ温泉行かへん?」
瑛美が顔を上げた。
「温泉? いいね」
「新婚旅行も、まだ行けてへんし」
結婚してから、仕事の区切りがついたらと考えているうちに、いくつか月が変わっていた。東雲建設の再建が落ち着いてきても、海外へ行けるほどの長い休暇は、当分取りにくい。
瑛美と旅行に行きたい気持ちは、ずっとあった。
「待たせてばっかりで、ごめんな」
「忙しかったもん。じゃあ、遠くに行くのはまた今度にしよう。どこにする?」
行くことはもう決まったように、瑛美が尋ねた。
弥生はテーブルへ手を伸ばし、タブレットを取った。
「箱根とか。移動で疲れへん方がええやろ」
「うん。ゆっくりできるところがいい」
瑛美が姿勢を直して画面を覗く。弥生も身体を少し彼女の方へ向け、二人の間へタブレットを置いた。
*
宿の写真を開くと、瑛美はまず食事のページを見た。
「これ、お部屋で食べられるんだね」
「うん。こっちは食事処」
「部屋の方が楽かなあ」
「僕もそっちがええ」
写真を送るたびに、刺身や焼き物の皿が現れた。瑛美は小さな器に盛られた料理を見て、これ何だろう、と指を止める。
「お品書き出てへん?」
「あ、あった。……季節によって変わります、だって」
「ほな、行ってからのお楽しみやな」
「これを食べるつもりで行くと、違うのが出てくるんだね」
「今から一品ずつ決めんでも」
「だって、おいしそうじゃん」
弥生は笑いながら、客室のページへ戻した。
一番奥のスイートには、広い居間と寝室があり、窓の向こうに緑が見えた。専用の露天風呂もついている。湯船の縁に沿って木が植えられ、隣の部屋からは見えない造りだった。
「ここ、ええな」
「広いね。窓のところの椅子、気持ちよさそう」
「そこでお茶飲めるな」
「うん」
瑛美が写真を一枚送った。露天風呂を、部屋側から撮ったものが現れる。
しばらく眺めていた彼女が、弥生を見た。
「……え、一緒にお風呂入るってこと?」
「そのつもりやったけど」
「ええ……」
思っていなかった返事に、弥生は画面から顔を上げた。
「……嫌?」
「嫌とは言ってないけど」
「ほな、何?」
瑛美はもう一度写真へ目をやった。湯船には二人で入っても十分な広さがある。弥生はそれを見て、この部屋にしようと思ったのだが、彼女は口をつぐんでいた。
一緒に入れるものと、すっかり決めていた。
少し残念だったが、風呂が別でも旅行には行ける。弥生は客室の一覧へ戻ろうとした。
「まあ、ほかも見よか。大浴場がええところとか」
「待って。嫌なんじゃないってば」
瑛美の手が、弥生の手を押さえた。
「……恥ずかしいじゃん」
弥生は彼女を見た。
「今さら?」
「今さらって何よ」
「いや、だって今さらやろ」
瑛美の頬が赤くなった。
「それとこれとは別なの」
「何が違うん?」
「お風呂って、明るいでしょ」
「うん」
「うん、じゃなくて」
瑛美は画面の湯船を指した。日中に撮られた写真で、湯の中までよく見えている。
「こういうところで、弥生と二人で座るんだよ?」
「せやな」
「……何でそんな平気なの」
二人で部屋に泊まって、一緒に湯につかる。弥生には、楽しみなことしかなかった。
寝室では自分から近づいてくるのに、風呂の写真を見ただけで、こんな顔をする。その違いは分からなかったが、耳まで赤くなっている瑛美を見ていると、尋ねたいことも途中で忘れそうだった。
——かわい。
瑛美がタブレットを持ち直した。もう別の宿を探す気はないらしく、同じ部屋の写真を一枚ずつ見ている。
弥生は黙ってその横顔を眺めた。
「……まあ、弥生とならいいけど」
最後の写真まで見てから、彼女は言った。
「ほんま?」
「うん。でも、あんまりじろじろ見ないでよ」
「それは約束できひんなあ」
「ちょっと!」
「冗談やって」
弥生が笑うと、瑛美は肩を軽く押した。押した手を戻す途中で、弥生がその指を取る。彼女も握り返してきた。
「ほな、ここにしよか」
「うん」
弥生は空いている手で、予約のページを開いた。
二人で旅行に行ける。一緒に風呂にも入れる。しかも瑛美は、それが恥ずかしいらしい。来週、湯船のそばでも同じ顔をするのかと思うと、どうしても頬が緩んだ。
「弥生、日付」
「ん?」
「来週末でしょ。そこ、明日」
弥生はカレンダーを見直した。確かに一週早いところへ指を置いている。
「……間違えた」
「もう行く気?」
「行けるなら行きたいよ」
瑛美が笑った。弥生も笑い、正しい日付を選び直した。
目当ての部屋には空きがあった。夕食と朝食のついたプランを選び、人数を二人にする。瑛美にも画面を見てもらってから、必要な情報を入力した。
確認のページで、もう一度、日付へ目をやる。
「合ってる?」
「合ってる。土曜から日曜」
「二名、一泊」
「はい」
瑛美が少し改まった声で答えるので、弥生は笑いながら予約を確定した。
完了の表示が出た。
「取れたで」
「楽しみだね」
瑛美は部屋の写真へ戻り、窓際の椅子をもう一度見た。
「着いたら、しばらくここにいたい。お茶飲んで、何もしないで」
「うん。早めに着くようにしよ」
「弥生も、仕事は置いてきてね」
「置いてくよ」
「ほんと?」
「せっかく瑛美と行くのに、仕事してる場合ちゃうやろ」
瑛美がこちらを見た。それから笑って、タブレットをテーブルへ戻す。
二人で予定を確かめているうちに、テレビの番組は変わっていた。カップの茶も冷めていたが、立ち上がる気にはならなかった。
瑛美が弥生の肩へ寄りかかり、つないだ手を自分の膝へ引き寄せる。
「一泊だと、荷物も少なくていいね」
「せやな」
「……水着、持っていっちゃだめかな」
弥生は顔を向けた。
瑛美は笑うのをこらえた顔で、こちらを見ていた。
「まだ言うてんの」
「一応聞いてみただけ」
「湯船の端と端に座ろか?」
「そんなに離れなくていい」
返事がすぐに来たので、弥生は笑ってしまった。瑛美も笑い、その肩へ額をつけた。
手を握ったまま、弥生はテーブルのタブレットへ目をやった。画面にはまだ、二人で泊まる部屋が映っている。
来週の土曜、あの窓際に瑛美が座る。お茶を飲んで、何か食べて、一緒に風呂へ入る。夜も、翌朝も、時間を気にせずそばにいられる。
今夜も明日も一緒に過ごせるのに、それでも一週間先が待ち遠しかった。
弥生は資料を置き、向かいの投資担当役員へ目を向けた。
「利回りは、社内の基準を超えていますが」
「ええ。ただ、一件でこれだけの資金を使えば、ほかに投資できる額は減ります。その分まで考えて、この会社を優先する理由があるかという話です」
役員は手元の一覧へ目を落とした。検討中の案件と、それぞれに必要な資金が並んでいる。
「事業拡大の余地はあります。買収後、販路を広げられれば——」
「そこには、さらに資金も人も要りますよね。今の価格では、その成果まで先に売り手へ払うことになる」
弥生は買収額の欄へ目を戻した。
「会社自体には魅力があります。価格が下がれば進めたい。ただ、ほかの投資を抑えてまで、先方の希望額を受けるつもりはありません」
役員がうなずいた。
「では、価格の交渉を続けます」
「お願いします。こちらから提示する上限は、今日の案で。まとまらなければ見送りましょう」
役員が退室したあと、弥生は残っていたメールに返信した。月曜の予定まで確かめて、パソコンを閉じる。
金曜の六時半だった。
鞄を取り、上林キャピタルの執務室を出た。廊下で会った社員へ挨拶を返し、エレベーターの中で携帯電話を開く。
『今から帰る』
送信して、画面をしまおうとしたところで返事が来た。
『了解。ごはんできてるよ』
弥生は口元を緩めた。
明日は、朝から出かける予定がない。日曜にも仕事を入れずに済んだ。瑛美と夕食を食べて、眠って、目が覚めてもまだ隣にいられる。
帰宅するだけでこれほど楽しみなのだから、休みが二日続くとなれば、なおさらだった。
車に乗り込み、運転手へ行き先を告げた。窓の外では、仕事帰りの人たちが駅へ向かっている。弥生も背もたれへ身体を預け、ネクタイを少し緩めた。
もう一度、瑛美からの返事を見る。
何を作ってくれたのか聞こうとして、やめた。家に着けば分かる。それより、早く顔が見たかった。
*
「おかえり」
リビングへ入ると、瑛美が食卓から顔を上げた。二人分の箸を並べていたところだった。
「ただいま。ええ匂いする」
「肉じゃが。先に着替えてきて」
「うん」
手を洗い、部屋着に替えて戻ると、瑛美は鍋から最後の一皿を盛っていた。弥生がその皿を受け取り、食卓へ運ぶ。
席について、二人で食べ始めた。じゃがいもは箸を入れるとほぐれ、煮汁がよく染みていた。
「おいしい」
「よかった。ちょっと煮すぎたかと思った」
「これくらいがええよ」
瑛美も一口食べ、それから弥生の皿を見た。
「……そっち、肉多くない?」
弥生は箸を止めた。
「瑛美が盛ったんやろ」
「そうだけど。最後、そっちに寄ったみたい」
「返そか?」
「いい。まだ鍋にあるし」
瑛美が立とうとしたので、弥生は小皿を取った。自分の皿から肉を少し移し、彼女の前へ置く。
「ほら」
「ありがとう。自分のじゃがいもは残すんだね」
「肉が欲しい言うたやん」
「別に文句じゃないよ。分かりやすいなと思って」
弥生は笑い、じゃがいもを一つ食べた。
三か月前、東雲建設の新しい経営体制が動き始めてから、再建は順調に進んでいた。弥生が帰宅してからも資料を開く日はあるが、夕食を一緒に食べられる日も増えている。
今夜は仕事を持ち帰っていなかった。
瑛美は明日の朝に食べるパンを買ってきたという。店に着いた時には好きなものが一つしか残っておらず、もう一つは違う種類にしたらしい。
「半分ずつにする?」
「うん。瑛美が一個食べてもええけど」
「それだと、もう一個を買った意味がないでしょ」
「僕が食べるやん」
「二つとも食べたいから聞いてるの」
「ああ、そういうこと」
瑛美が笑った。弥生も笑って、明日の朝は何時に起きるかと尋ねた。
「目が覚めたら」
「賛成」
食後の片づけを済ませ、弥生はソファへ座った。瑛美が茶の入ったカップを二つ運んできたので、一つ受け取る。彼女は隣へ腰を下ろし、背もたれへ身体を預けた。
少しすると、その肩が弥生の腕へ触れた。
カップを置き、瑛美の手に触れる。彼女も指を開き、弥生の指の間へ入れてきた。つないだ手はそのまま二人の膝の間へ落ち着いた。
テレビでは、見覚えのない町の商店街を紹介している。瑛美が何か言いかけてこちらを向き、口を閉じた。
弥生を見たまま、少し顎を上げる。
顔を近づけると、彼女は目を閉じた。唇に触れ、もう一度だけ口づけてから離れる。
「何か言おうとしてへんかった?」
「あのコロッケ、大きいねって」
弥生が画面へ目を戻すと、店の人が揚げたてのコロッケを紙に包んでいた。
「ほんまや」
「二人で一個でもよさそう」
「さっき食べたばっかりやで」
「今食べたいとは言ってないでしょ」
瑛美はそう言って、弥生の肩へ頭を寄せた。
近頃は、一緒に眠るだけで終わらない夜も多かった。早く寝ようと言い合ったはずなのに、気づけばずいぶん遅い時刻になっている。昨夜もそうだったし、今朝は弥生が起きようとすると、瑛美の方から腕を伸ばしてきた。
おかげで朝食を食べる時間が短くなった。彼女も同じテーブルで慌ただしくパンを食べ、時計を見るたびに笑っていた。弥生としては、毎朝でも構わないくらいだったが、それを言うと本当に出勤が間に合わなくなりそうだった。
肩に寄りかかる瑛美の髪へ、頬を少し近づけた。
彼女がテレビを見たまま、手を握り直す。
「なあ、瑛美」
「うん?」
「来週末、一泊だけ温泉行かへん?」
瑛美が顔を上げた。
「温泉? いいね」
「新婚旅行も、まだ行けてへんし」
結婚してから、仕事の区切りがついたらと考えているうちに、いくつか月が変わっていた。東雲建設の再建が落ち着いてきても、海外へ行けるほどの長い休暇は、当分取りにくい。
瑛美と旅行に行きたい気持ちは、ずっとあった。
「待たせてばっかりで、ごめんな」
「忙しかったもん。じゃあ、遠くに行くのはまた今度にしよう。どこにする?」
行くことはもう決まったように、瑛美が尋ねた。
弥生はテーブルへ手を伸ばし、タブレットを取った。
「箱根とか。移動で疲れへん方がええやろ」
「うん。ゆっくりできるところがいい」
瑛美が姿勢を直して画面を覗く。弥生も身体を少し彼女の方へ向け、二人の間へタブレットを置いた。
*
宿の写真を開くと、瑛美はまず食事のページを見た。
「これ、お部屋で食べられるんだね」
「うん。こっちは食事処」
「部屋の方が楽かなあ」
「僕もそっちがええ」
写真を送るたびに、刺身や焼き物の皿が現れた。瑛美は小さな器に盛られた料理を見て、これ何だろう、と指を止める。
「お品書き出てへん?」
「あ、あった。……季節によって変わります、だって」
「ほな、行ってからのお楽しみやな」
「これを食べるつもりで行くと、違うのが出てくるんだね」
「今から一品ずつ決めんでも」
「だって、おいしそうじゃん」
弥生は笑いながら、客室のページへ戻した。
一番奥のスイートには、広い居間と寝室があり、窓の向こうに緑が見えた。専用の露天風呂もついている。湯船の縁に沿って木が植えられ、隣の部屋からは見えない造りだった。
「ここ、ええな」
「広いね。窓のところの椅子、気持ちよさそう」
「そこでお茶飲めるな」
「うん」
瑛美が写真を一枚送った。露天風呂を、部屋側から撮ったものが現れる。
しばらく眺めていた彼女が、弥生を見た。
「……え、一緒にお風呂入るってこと?」
「そのつもりやったけど」
「ええ……」
思っていなかった返事に、弥生は画面から顔を上げた。
「……嫌?」
「嫌とは言ってないけど」
「ほな、何?」
瑛美はもう一度写真へ目をやった。湯船には二人で入っても十分な広さがある。弥生はそれを見て、この部屋にしようと思ったのだが、彼女は口をつぐんでいた。
一緒に入れるものと、すっかり決めていた。
少し残念だったが、風呂が別でも旅行には行ける。弥生は客室の一覧へ戻ろうとした。
「まあ、ほかも見よか。大浴場がええところとか」
「待って。嫌なんじゃないってば」
瑛美の手が、弥生の手を押さえた。
「……恥ずかしいじゃん」
弥生は彼女を見た。
「今さら?」
「今さらって何よ」
「いや、だって今さらやろ」
瑛美の頬が赤くなった。
「それとこれとは別なの」
「何が違うん?」
「お風呂って、明るいでしょ」
「うん」
「うん、じゃなくて」
瑛美は画面の湯船を指した。日中に撮られた写真で、湯の中までよく見えている。
「こういうところで、弥生と二人で座るんだよ?」
「せやな」
「……何でそんな平気なの」
二人で部屋に泊まって、一緒に湯につかる。弥生には、楽しみなことしかなかった。
寝室では自分から近づいてくるのに、風呂の写真を見ただけで、こんな顔をする。その違いは分からなかったが、耳まで赤くなっている瑛美を見ていると、尋ねたいことも途中で忘れそうだった。
——かわい。
瑛美がタブレットを持ち直した。もう別の宿を探す気はないらしく、同じ部屋の写真を一枚ずつ見ている。
弥生は黙ってその横顔を眺めた。
「……まあ、弥生とならいいけど」
最後の写真まで見てから、彼女は言った。
「ほんま?」
「うん。でも、あんまりじろじろ見ないでよ」
「それは約束できひんなあ」
「ちょっと!」
「冗談やって」
弥生が笑うと、瑛美は肩を軽く押した。押した手を戻す途中で、弥生がその指を取る。彼女も握り返してきた。
「ほな、ここにしよか」
「うん」
弥生は空いている手で、予約のページを開いた。
二人で旅行に行ける。一緒に風呂にも入れる。しかも瑛美は、それが恥ずかしいらしい。来週、湯船のそばでも同じ顔をするのかと思うと、どうしても頬が緩んだ。
「弥生、日付」
「ん?」
「来週末でしょ。そこ、明日」
弥生はカレンダーを見直した。確かに一週早いところへ指を置いている。
「……間違えた」
「もう行く気?」
「行けるなら行きたいよ」
瑛美が笑った。弥生も笑い、正しい日付を選び直した。
目当ての部屋には空きがあった。夕食と朝食のついたプランを選び、人数を二人にする。瑛美にも画面を見てもらってから、必要な情報を入力した。
確認のページで、もう一度、日付へ目をやる。
「合ってる?」
「合ってる。土曜から日曜」
「二名、一泊」
「はい」
瑛美が少し改まった声で答えるので、弥生は笑いながら予約を確定した。
完了の表示が出た。
「取れたで」
「楽しみだね」
瑛美は部屋の写真へ戻り、窓際の椅子をもう一度見た。
「着いたら、しばらくここにいたい。お茶飲んで、何もしないで」
「うん。早めに着くようにしよ」
「弥生も、仕事は置いてきてね」
「置いてくよ」
「ほんと?」
「せっかく瑛美と行くのに、仕事してる場合ちゃうやろ」
瑛美がこちらを見た。それから笑って、タブレットをテーブルへ戻す。
二人で予定を確かめているうちに、テレビの番組は変わっていた。カップの茶も冷めていたが、立ち上がる気にはならなかった。
瑛美が弥生の肩へ寄りかかり、つないだ手を自分の膝へ引き寄せる。
「一泊だと、荷物も少なくていいね」
「せやな」
「……水着、持っていっちゃだめかな」
弥生は顔を向けた。
瑛美は笑うのをこらえた顔で、こちらを見ていた。
「まだ言うてんの」
「一応聞いてみただけ」
「湯船の端と端に座ろか?」
「そんなに離れなくていい」
返事がすぐに来たので、弥生は笑ってしまった。瑛美も笑い、その肩へ額をつけた。
手を握ったまま、弥生はテーブルのタブレットへ目をやった。画面にはまだ、二人で泊まる部屋が映っている。
来週の土曜、あの窓際に瑛美が座る。お茶を飲んで、何か食べて、一緒に風呂へ入る。夜も、翌朝も、時間を気にせずそばにいられる。
今夜も明日も一緒に過ごせるのに、それでも一週間先が待ち遠しかった。
