上林弥生の事情


東雲雪哉の辞任届は、前日のうちに届いていた。

取締役会の席で、東雲社長が今日付の退任を報告した。弥生は資料に添えられた本人の署名を確かめ、引き継ぎの予定へ目を移した。

損失の精査と各部署への聞き取りは、引き続き進める。必要な公表の内容も、法務と監査の確認を経て整理されていた。

相良建工との取引については、担当部署から是正の進捗が報告された。今後は契約後の変更も案件ごとに集約し、当初の見積もりから条件がどう変わったかを追えるようにする。

澄花も協議に応じていた。相良が引き受けられる仕事と、価格を見直す必要のある仕事を分け、改めて見積もりを出しているという。

弥生はその報告を聞き、次に資金繰り表を開いた。

「この入金が一か月動いた場合、どこまで対応できますか」

財務担当者が予備の資金枠と支払予定を示す。弥生は説明を聞き、次回も確認する箇所へ印をつけた。

整理する契約も、返す金も残っていた。それでも、支払日が来るたびに資金を探し回る状況からは、抜け出しつつある。新しく受ける工事の採算を見直す協議も、取引先と進み始めていた。

弥生は次回の確認事項を書き終え、資料を閉じた。

*

会議が終わり、弥生が鞄へ資料を入れていると、東雲社長から声がかかった。

「弥生くん。少し、いいかな」

「はい」

社長室へ移り、向かいの椅子へ座った。机には、先ほどの会議で使ったものと同じ資料が置かれていた。

社長は損失の一覧を開き、確認中の欄へ目を落とした。

「雪哉には、ここが決まるまで何度でも話を聞くことになる。辞めたから、それで終わりにはできない」

「そうですね。本人にしか分からへん経緯も、まだありますし」

「担当していた仕事の引き継ぎは、きちんとさせるつもりだ」

社長は紙をめくった。現場の進捗と、次の人員手配が記されたページだった。

「こういうことは、分かっていたんだよ。どこで人が足りなくなるか、どの会社へ頼めば間に合うか。私が聞く前に、準備していることもあった」

「僕も、そこは頼りにしてました」

「だから、任せた」

社長は手を止めた。

「任せて、私は全体の数字だけ見ていた。今回の条件が、どう重なっていたのかまで確かめていなかった」

弥生は黙って聞いた。

「息子のことだから、という理由で処理は変えられない。それは、他の役員にも伝えてある」

「はい」

「ただ、あいつがこの先どうするのかは、父親としても話す。会社から外したから、もう私には関係ないとは言えないからね」

社長は一覧を閉じた。弥生も、膝の上で組んでいた手を解いた。

「君は、雪哉と話したか」

「仕事の確認は、担当の方を通してます。それ以外は、まだ」

「そうか」

「今、二人で会うても、何を話したらええんか分かりません」

社長はうなずいた。それから、弥生の右手を見た。

「まだ痛む?」

「……いえ。もう大丈夫です」

答えてから、弥生は手を膝へ戻した。

仕事の話をしている間は、資料を出せた。聞かれたことにも答えられた。だが、あの夜のこととなると、自分の声ばかり思い出す。

義父母の食卓で怒鳴り、雪哉を殴った。帰る前に謝ったものの、そのあと顔を合わせたのは、会社の打ち合わせばかりだった。

「あの日のことは、改めてお詫びせなあかんと思ってました。お義母さんにも、怖い思いをさせてしもうて」

「妻は、二人ともいい大人なのに、と言っていたよ」

「……はい」

社長は椅子の背へ身体を預けた。

「雪哉のことは、私が叱るべきだった」

弥生は顔を上げた。

「君が怒った理由は分かる。東雲のために言ってくれたことも、分かっている」

社長はそこで一度、言葉を切った。

「だからといって、君まで殴っていいわけじゃない」

背筋が自然に伸びた。

「すみません」

「瑛美にも止めさせて。私たちは、君に雪哉を殴ってくれと頼んだわけじゃないぞ」

「はい。ほんまに、そこは……」

言い訳になる言葉しか出てきそうになく、弥生は口を閉じた。

大学生の頃にも、この人の前で、こうして座っていた。数字だけで事業をやめればいいと言い、答えられないことをいくつも聞かれた。

今も、社長は弥生が顔を上げるまで待っていた。

「もう、せえへんようにします」

「そうしてくれ。次は私が、君まで叱らなきゃならなくなる」

弥生は少し黙った。

「……もう叱られてますけど」

社長が口を閉じ、それから短く息を漏らした。

「そうだな」

弥生も小さく笑った。社長は机の茶を取り、一口飲んだ。

こちらも湯呑みへ手を伸ばした。まだ温かかった。

「来週、地方の改修事業について、先方と話す予定です」

弥生が言うと、社長は湯呑みを戻した。

「縮小する分の、人と仕事の移し先は?」

「現場と詰めてます。一度に終えるんやのうて、今の工事が区切りになるところから。先方にも準備してもらう時間を取りたいと思てます」

「その予定も、先に見せてくれるか。長く付き合ってきた相手だ。私から話した方がいいところもある」

「はい。お願いします」

社長は手元へ日程を書き込んだ。弥生も鞄から手帳を取り出し、次に会う時刻を確かめた。

*

帰宅した時には、夕食の用意ができていた。

瑛美と向かい合って食べ、二人で食器を片づけた。弥生が着替えてリビングへ戻ると、彼女はソファで茶を飲んでいた。

隣へ座ると、瑛美がカップをテーブルへ置いた。その肩が弥生の腕へ触れ、やがて頭が寄りかかってくる。

弥生は背もたれに置いた腕を、彼女の肩へ回した。

「今日、取締役会だったんだよね」

「うん。雪哉の辞任届も出た。今日付で退任や」

瑛美はうなずいた。

「損失の方は?」

「まだ詰めてる。必要な費用まで損にするわけにはいかへんし、何をどこまで負担してもらうかは、法務と確認中」

「お兄ちゃんが払う分は、資金繰りに入れてないよね」

「入れてへん。回収できる前提で支払い組んだら、また困るやろ」

「うん」

瑛美が姿勢を直した。弥生の腕の中で少し上体を起こし、こちらを見る。

「相良の現場は続けるの?」

「今やってる工事は、基本続ける。替える方が時間も金もかかるところが多いし。条件は見直すけど、先に手配してもろた分まで急に変えるんは無理やからな」

「資材の先払いがあるところは、そこが終わるまで見ないとね」

「そう。追加工事も、その都度、費用を分けて協議する」

「最初の見積もりは、ちゃんと比べてたもんね。途中で変わった分を追わないと、また同じになる」

弥生はうなずいた。瑛美は少し考えてから、再び肩へ頭を戻した。

「東雲は、どう?」

「次の返済分は確保できてる。入金と支払いを見直しても、当面、金が足りひん月はない。あとは、新しく受ける仕事でちゃんと利益残すことやな」

「まだ忙しそう」

「仕事はあるよ。せやけど、何を直したらええかは分かってきた」

肩口で、瑛美がゆっくり息をついた。

「お父さん、疲れてた?」

「疲れてはると思う。せやけど、今日はよう話してくれはったよ。来週の協議も一緒に入ってもらう」

「そっか」

「僕も叱られたし」

瑛美が顔を上げた。

「殴ったこと?」

「うん」

「それは、叱られるでしょ」

「分かってる。ちゃんと謝りました」

「昔も言ってたね、それ」

「いつの話やねん」

瑛美は少し笑い、弥生の膝に手を置いた。彼がそこへ手を重ねると、指がゆるく握り返される。

「私、まだお兄ちゃんと普通に話せる気がしない」

笑みが薄れたあとで、瑛美は言った。

「うん」

「辞めたから、もういいよとも思えないし。でも、お父さんたちが話してることは、気になる」

「僕も、仕事以外ではまだ話してへん」

「……そっか」

二人とも、しばらく何も言わなかった。

瑛美はテーブルのカップへ目をやり、空いている手で取った。一口飲んでから、弥生の方へも寄せる。

「弥生、飲む?」

「もらう」

受け取って飲むと、少しぬるくなっていた。カップをテーブルへ戻し、ソファへ身体を預ける。

瑛美が肩へ頬を寄せ直した。

「明日は早い?」

「朝から上林の方。八時半には出るつもり」

「じゃあ今日は、もう寝よう。最近、ずっと遅いもん」

「うん。今日はもう仕事せえへんよ」

「ほんと?」

「ほんま」

瑛美はつないだ手を一度持ち上げ、それから離した。カップを流しへ運ぶために立ち上がったので、弥生も隣から腰を上げた。

*

寝室で、弥生は枕元へ携帯電話を置いた。

瑛美がベッドへ上がり、掛け布団を持ち上げる。弥生も隣へ入ると、彼女はその方へ向き直った。

頬にかかった髪を払うと、瑛美の手が弥生の袖に触れた。

顔を近づけ、唇へ口づける。

瑛美は目を閉じた。離れかけた時、袖をつまんでいた指が少し引いたので、弥生はもう一度、同じところへ口づけた。

今度は彼女も顔を上げ、自然に応えた。

「……弥生」

声が近かった。

「うん」

瑛美が肩へ腕を回した。抱き寄せると、彼女も身体を寄せ、頬を弥生の首元へつけた。

その背中を撫でながら、弥生は少し顔を離した。目が合うと、瑛美の頬が赤くなった。それでも、肩へ置いた腕は緩まなかった。

弥生が口を開くより先に、彼女から唇が触れた。

短い口づけのあと、瑛美は照れたように目を伏せた。弥生は額を寄せ、彼女がまたこちらを見るのを待った。

「……今日は、触ってほしい」

小さな声だった。

弥生はうなずき、背中の手に少し力を込めた。

「うん」

それ以上話そうとすると、声がうまく出そうになかった。

瑛美を抱いたのは、結婚した夜以来だった。

ベッド脇の照明を残した部屋で、彼女の顔が近くにあった。名前を呼ぶ声も、肩へ触れる手も、自分へ向いている。

瑛美がわずかに眉を寄せたので、弥生は動きを止めた。

「痛くない?」

枕に頬をつけていた瑛美が、目を上げた。

「……うん、大丈夫」

弥生が顔を覗き込むと、瑛美はシーツの上へ手を伸ばした。そこについていた彼の手に触れ、指の間へ自分の指を差し入れる。

握り返すと、彼女の手にも力が入った。

「無理せんといてな」

「うん」

瑛美はつないだ手を少し引き、弥生を見た。

唇に触れると、彼女も顔を近づけてきた。口づけの合間に息をつき、また、自分から触れる。

弥生はもう片方の手で、彼女の髪を撫でた。

何度か名前を呼ばれた。そのたびに返事をして、指を握り直した。

*

照明を落とそうと身体を起こすと、瑛美の手が背中へ触れた。

「電気?」

「うん」

「お願いします」

弥生は明かりを消し、隣へ戻った。瑛美が布団を少し持ち上げてくれたので、その下へ入る。

横になると、彼女が近づいた。

枕の上で髪が広がり、寝間着の袖口が片方だけ折れている。弥生は指先でそれを直し、そのまま腕を撫でた。

瑛美は少しくすぐったそうに肩を動かした。

「もう寝るよ」

「うん」

手を戻しかけると、彼女の指が追ってきた。

掌に触れて、そのまま握る。弥生も握り返し、二人の間へ置いた。

「おやすみ」

「おやすみ」

瑛美はつないだ手を胸元へ少し引き寄せ、目を閉じた。

弥生も彼女の方へ顔を向け、手をつないだまま眠った。