上林弥生の事情


帰りの車で、弥生は右手を膝に置いていた。

赤くなった指の付け根と、伸びたシャツの襟が目に入る。瑛美が頬のことを言うと、彼はあとで冷やすと答えた。それきり、二人とも黙っていた。

何か話そうと思うたび、食卓で聞いた声が戻ってきた。

「お前、兄貴やろ!」

あんな弥生を、瑛美は知らなかった。

子供の頃には喧嘩もした。言い返せなくなって、泣いてしまうこともあった。けれど大人になってからは、兄が何を言っても、弥生はたいてい笑って受け流した。仕事の話でも、相手が声を荒らげるほど、彼の声は静かになる。

今日も、最初はそうだった。

書類を一枚ずつ置き、兄の返事を待ってから、次の記録を示していた。瑛美にも読める数字を使って、兄が何をしたのかを話した。

その人が、立ち上がって怒鳴った。

父がどれだけ仕事をしてきたか。母がそれをどう支えてきたか。瑛美が、会社をどれほど大事にしていたか。

兄に向けて言っていたことを、ひとつずつ覚えている。

雪哉のしたことには、瑛美も腹が立っていた。父の前でまだ言い訳をするのを聞いて、何度も口を挟みたくなった。それでも、弥生の声が先に上がった時には、驚いて彼を見た。

自分の家のことを、こんなふうに怒る人だったのか。

融資をして、再建に必要なことを決めて、それで済ませることもできたはずだった。兄の不正が分かってからも、弥生は父と話し、表に出さずに処理する方法を考えてくれた。

そのうえで、あんな顔をして怒った。

「他人のくせに」と兄が言った時、瑛美も聞いていた。弥生の拳が出るまでには、止めに入れなかった。

隣の彼は、窓の外を見ている。もう声を荒らげてはいない。膝に置いた右手だけが、まだ少し腫れていた。

瑛美はそこを見たまま、何と言えばいいのか考えていた。

*

帰宅して、瑛美は冷たいタオルを弥生に渡した。

「ありがとう」

弥生は受け取り、頬へ当てた。

「……ごめんな。あんなことになって」

「ううん」

それでは足りない気がしたのに、続きを言えなかった。弥生はタオルを当て直し、瑛美も着替えるために寝室へ入った。

扉を閉めずに、クローゼットの前で足を止めた。

兄の言葉が、また浮かんだ。

自分がどれだけ狂っているか、分かっているのか。

「分かってるわ!」

弥生は、少しも迷わずに答えた。

昔から、瑛美を好きだったと兄は言った。弥生も、それを否定しなかった。

七歳から、今まで。

学校の話をしていた頃も、就職して、互いの予定が合いにくくなってからも。瑛美が相談を持ちかければ、彼は話を聞いてくれた。結論が出なくても、何度同じ話をしても、途中で面倒だと言われたことはない。

大切にされているのは、知っていた。

ただ、それは自分が弥生を大切に思うのと、似たような気持ちなのだろうと考えていた。長く一緒にいたから、家族のように思ってくれている。結婚することになってからも、そこは変わらないのだと。

結婚式の夜に言ってくれた言葉まで、そういうふうに受け取った。

好きだと。愛していると。

慣れないことに身構える瑛美を、安心させようとしてくれたのだと思った。

けれど先日、離婚の話をした時も、弥生は同じことを言った。家を出ても、会社を辞めても、自分で稼ぐから別れないと。

あの時の彼は、たぶん、本当にそうするつもりだった。

瑛美はクローゼットの取っ手から、手を離した。

そこまで想っている相手から、離婚しようと言われた。

弥生には、どう聞こえただろう。

迷惑をかけたくなかった。東雲の問題から、彼の家族まで守りたかった。そのためには、自分が妻でなくなる方がいいと考えた。

では、離婚したあと、自分はどうするつもりだったのか。

実家へ戻るか、別に部屋を借りるか。仕事も探すだろう。二十年来の幼馴染なのだから、弥生と一生会えなくなるわけではない。

会う日を決めて、食事をして、それぞれの家へ帰る。

昔は、そうしていた。

でも今は、玄関が開けば弥生が帰ってくる。遅くなった日にも、着替えて食卓へ座る。寝室へ行けば、隣に彼の枕がある。

それがなくなる。

いつか弥生が、別の人と暮らすこともあるかもしれない。瑛美に手を振って別れたあと、その人の待つ家へ帰る。同じベッドで眠り、朝、隣で目を覚ます。

嫌だ、と思った。

誰かと幸せになってほしいと、言えるつもりでいた。弥生のためを思って、自分から離婚を口にしたのだから。

なのに、その家にいるのが自分ではないと考えただけで、胸の奥が苦しくなった。

一緒に暮らしたい。

明日も帰ってきてほしいし、隣で眠ってほしい。何かあった時だけ会うのではなく、何もない日にも顔を見て、どうでもいい話をしたい。

彼の隣を、ほかの人に譲りたくなかった。

廊下で足音がした。振り向くと、弥生がタオルを手に立っていた。

「タオル、洗濯に出しとくな」

「……うん。ありがとう」

弥生は洗面所へ向かった。

呼び止めたいと思った。何を言うか決まらないまま、足音が遠ざかるのを聞いた。

弥生を、愛している。

急に知らない人を好きになったような気持ちではなかった。二十年間、何度も顔を見て、一緒に笑ってきた相手だった。家族同然だと思っていたその人と、今は夫婦でいたい。

瑛美は、自分の左手を見た。

指輪はもう、そこにあった。

*

それから三日ほど、話せないまま過ぎた。

朝には、おはようと言った。弥生はいつも通りに食事を取り、出かける前には帰宅の予定を伝えてくれた。夜、瑛美が玄関へ迎えに行けば、ただいまと返ってくる。

「ごはん、食べる?」

「うん。お願いします」

そこまでは話せた。

食卓で向かい合うと、何度か目が合った。弥生も何か言いかけたように見える時があったが、結局どちらも、皿やグラスへ手を伸ばした。

父や母とは、連絡を取っていた。兄の退任も、損失の確認も、これから進めなければならない。父が兄と何を話したのか、母は詳しく書いてこなかった。

弥生も仕事を続けている。朝、シャツの袖へ腕を通すのを見て、頬の赤みが引いたことに気づいた。

あの夜のことを聞くなら、今だと思った。

けれど彼が振り返ると、瑛美はネクタイが少し曲がっていると、別のことを言ってしまった。

*

三日目の夜、弥生が先にベッドへ入った。

瑛美も携帯電話を枕元へ置き、布団の中へ身体を滑らせた。弥生は仰向けで、天井を見ていた。

「電気、消そか」

「……もうちょっと、つけてていい?」

「ええよ」

まだ話せなかった。

彼の方へ向き直った拍子に、シーツの上で指先が触れた。

弥生がこちらを見た。手は動かなかった。

瑛美も、そのままにした。指の先に、彼の手の温かさがあった。少し動かせば、もっと触れられる。

以前は、弥生の手が近づくだけで肩に力が入った。嫌ではないと伝えたくて、大丈夫だと先に言ったこともある。

今は、手を引かないでほしかった。

もう少し、触れていたかった。

「……ほな、したい?」

あの夜、弥生に聞かれたことを思い出した。

瑛美は、分からないと答えた。妻なのだから応じたいとは考えていたのに、自分がどうしたいか聞かれると、答えが出なかった。

「分かるまでええよ」

そう言って、彼は手を引いた。

それから一度も、求められていない。

最初のうちは、そのうちまた、と思っていた。弥生は忙しいし、疲れている日も多い。もう少し落ち着けば、自然とそういう夜になるのだろうと。

けれど、忙しくない夜にも何もなかった。

一緒に寝て、話をして、明かりを消した。触れられても困らないと思う日が増えてからも、弥生はそこから先へ進もうとはしなかった。

今も、指先が触れただけで待っている。

瑛美は彼の手を見た。

分かるまで、と言った通りにしていたのだ。

自分が何も言わなければ、弥生はこのまま待つのかもしれない。もう分かったことも、彼には伝わっていない。

瑛美は指を少し動かし、彼の手に重ねた。

弥生の視線が、そこへ落ちる。

「弥生、ちょっと話していい?」

「……うん。どないしたん」

弥生が身体を起こしたので、瑛美も枕から頭を上げた。布団を腰まで下げ、彼の方へ向き直る。

離れた手を、自分の膝へ置いた。

「この前、私が離婚しようって言ったでしょ」

弥生の口元が強ばった。

その変化を見て、続きの言葉がつかえた。けれど、今日はここでやめてはいけなかった。

「私、あれ取り消したい」

弥生は黙っていた。

少し遅れて、唇が動いた。

「……え?」

「離婚したくないの」

彼の目が、瑛美へ戻った。

「あの時も、しないって言ったけど。あれは、弥生が上林を出るって言うから、びっくりして……」

膝に置いた手を、一度握った。

「今は、私がしたくない」

弥生の肩が、少し下がった。

まだ何も言わずに、聞いてくれていた。

「東雲、もうぐちゃぐちゃでしょ」

「……うん」

「お兄ちゃんがあんなことして、お父さんも大変で。会社だって、お金を入れてもらったから、もう大丈夫ってわけじゃないし」

一緒に見てきた資料のことを、弥生も覚えているだろう。兄の判断を止めても、失った利益が戻るわけではない。今動いている工事も、支払いも、そのまま続く。

「これからも、弥生に迷惑かけると思う。上林の人たちにも、何か言われるかもしれない」

「瑛美、それは——」

「うん。分かってる」

瑛美は顔を上げた。

「弥生が、ちゃんと考えてくれてるのは分かってる。ただ、私の話を、最後まで聞いてほしい」

弥生は口を閉じた。

瑛美は膝の上の手を解いた。うまく話そうとして、言いたかったことから遠ざかっている気がした。

「前は、私と別れた方が、弥生のためになると思ったの」

そう考えたことは、本当だった。

「でも、私……」

声が揺れた。

泣くつもりはなかった。頬が濡れてから、涙が出たのだと分かった。

「弥生と別れたくない」

手の甲で拭ったのに、また落ちてきた。

「別々の家に帰るの、嫌なの。弥生が帰ってくるのを待ってたいし、朝も、一緒に起きたい」

弥生の顔を見ると、いっそう声が出にくくなった。困らせたくないと思っていた相手に、今は、困るかもしれないけれどそばにいてほしいと言おうとしている。

それでも、取り消す気にはならなかった。

「迷惑かけるかもしれないけど……それでも、別れたくないの」

息を吸い直した。

「私、弥生とずっと一緒にいたい」

言い終えて、彼を見た。

弥生は動かなかった。膝の上に置いていた手も、そのままだった。

待っている間にも涙が出た。瑛美は指で目元を拭い、もう一度、顔を上げた。

弥生が、ようやく口を開いた。

「……ほんまに?」

「うん」

彼の喉が動いた。

「僕と、ずっと?」

瑛美はうなずいた。

「うん。弥生と、ずっと一緒にいたい」

彼の目に涙が浮かんだ。

見ているうちに、一つ、頬へ落ちた。弥生はそれを拭かなかった。瑛美を見たまま、少し笑おうとして、唇を結んだ。

瑛美は彼へ手を伸ばした。

肩に触れて、そのまま腕を回した。布団の上で膝を寄せ、胸元へ身体を預ける。

弥生の背中が、一度大きく動いた。

それから、瑛美の腰へ腕が回った。もう片方の手が背中に触れ、ゆっくり引き寄せられる。

身体が触れたところから、温かかった。

もっと近くへ行きたくて、瑛美は彼の肩口へ顔を寄せた。弥生も頭を下げ、瑛美の肩へ額をつけた。

耳元で、息が途切れた。

背中へ回された腕に力が入る。弥生は何か言おうとしたようだったが、声になる前に、もう一度息を吸った。

瑛美も、うまく話せなかった。

肩へ回した手を下ろし、彼の背中へ置いた。薄い部屋着の向こうで、呼吸するたびに身体が動く。弥生の腕に抱かれていると、自分の息も少しずつ深くなった。

涙で彼の服を濡らしていた。それに気づいても、離れたくはなかった。

弥生の手が、瑛美の背中をゆっくり撫でた。

瑛美も同じように、彼の背を撫でた。

*

しばらくして、弥生が長く息を吐いた。

瑛美は顔を少し離した。肩に置いた腕は、そのままにしていた。

弥生の目元が赤かった。頬にも、まだ涙の跡がある。

こんな顔を最後に見たのは、いつだっただろう。

昔は、瑛美より先に泣いてしまうこともあった。そのたびに困ったり、一緒に腹を立てたりした。いつの間にか、瑛美が何を話しても、先に落ち着いて聞いてくれる人になっていた。

瑛美は指先で、彼の頬に残った涙を拭った。

「弥生が泣いてるとこ、久しぶりに見たかも」

「……うるさいな」

声が少しかすれていた。

「昔は結構泣いてたのにね」

「いつの話してんの」

その返事がおかしくて、瑛美は小さく笑った。

弥生も口元を緩めた。瑛美の目の下へ親指を当て、まだ残っていた涙を拭う。

「瑛美かて泣いてるやん」

「私はいいの」

「なんでやねん」

笑った拍子に、また少し涙が出た。弥生が拭ってくれたので、瑛美は顔を上げたまま待った。

その手が離れると、頬が少し涼しくなった。

瑛美は彼の袖をつまんだ。

「もう寝よっか」

「うん」

弥生が腕を緩めたので、瑛美もいったん手を離した。二人で枕へ頭を戻し、腰に溜まっていた布団を引き上げる。

いつもの場所へ横になった弥生を見て、瑛美は少し近づいた。

「……そっち、行っていい?」

彼は瑛美を見てから、腕を開いた。

「おいで」

瑛美はその腕の中へ入った。胸元に頬を寄せると、弥生の手が背中へ回る。

横になったままでも、思っていたより楽だった。彼の身体に沿って膝を曲げ、腰へ手を添えた。

「電気、お願いします」

「はいはい」

弥生が照明を落とした。

暗くなると、すぐ近くで布の擦れる音がした。彼の腕が戻り、瑛美の背中を抱いた。

「苦しない?」

「うん。ちょうどいい」

瑛美は少しだけ顔を動かし、頬の位置を直した。

弥生の手が、髪に触れた。ゆっくり撫でられると、目を閉じたまま、肩の力が抜けていった。

「おやすみ」

「おやすみ」

背中の手が止まってからも、腕はそこにあった。

瑛美は彼の腰に添えた手を、そのままにして眠った。