瑛美が置いてくれた茶には、まだ湯気が残っていた。
弥生はカップへ手を伸ばさず、向かいの瑛美を見た。東雲社長へ報告すると伝えてあったから、結果を気にしているだろう。着替えて戻ってくるまで、彼女は何も聞かなかった。
「……どうだった?」
「お義兄さんやった」
瑛美の唇が動いたが、声にはならなかった。
弥生は待った。二人で調べていた時と違い、今は別の可能性を探す話ではない。兄が相良の事情を知り、東雲の判断へ働きかけていた。その結論を、自分が持って帰ってきた。
彼女の手が、テーブルから膝へ戻った。
「相良さんは……知ってたの?」
「多少気にかけてもろうてるとは思うてたみたいや。せやけど、東雲に損させてるとは知らんかったって」
相良から正式に相談した変更と、東雲が先に提示した条件を分けて話した。澄花が困っていると雪哉へ伝えた日、そのあとで条件が変わった日。瑛美が一緒に見た記録へ、聞き取りで得たことを加えていく。
瑛美は途中で口を挟まなかった。
「これ……利益供与だよね」
「うん」
「犯罪になるんじゃないの?」
「その可能性はある」
もう疑いだけの話ではない。それでも、どこへ持っていき、どう処理するかは、別に考えなければならない。
「ただ、お義父さんとは、警察には持っていかずに、東雲の中で処理する方向で話してきた」
雪哉本人への確認と処分。損害の精査、回収、相良との取引条件の見直し。東雲社長と確認した方針を順に伝えた。再建を進めながら、同じことが続かないようにする必要がある。
瑛美はうなずかず、膝の上で指を組んでいた。
「……ごめん」
「何が?」
本当に、何を謝られたのか分からなかった。
「東雲のこと、助けてもらったのに。今度は、お兄ちゃんがこんなことしてて」
瑛美は指先を握り直した。
「弥生に見つけてもらって、処理までしてもらうことになって」
「瑛美が謝ることちゃうやろ」
「そうだけど……私の家のことだから」
弥生は茶を一口飲んだ。
「僕も、もう家族やん」
本気でそう思っていた。
結婚した。瑛美は妻になった。
東雲社長は義父で、雪哉は義兄になった。
東雲の家で起きたことなら、自分にも関係がある。
それでいい。
むしろ、そうなりたかった。
ずっと。
瑛美がこちらを見た。
「弥生、もういいよ」
「……何が?」
瑛美は膝の上で手を揃えた。
「離婚しよう」
*
離婚。
離婚。
何を。
誰が。
瑛美が。
誰と。
僕と。
離婚。
瑛美が僕と離婚する。
なんで。
嫌や。
それは嫌や。
何でそんなこと言うん。
嫌や。
せえへん。
「せえへんよ」
息が苦しい。
でも声は普通に出た。
よかった。
「今すぐ決めてって言ってるんじゃない。ちゃんと考えてほしいの」
今すぐでなくても嫌や。
明日でも嫌や。
一ヶ月後でも一年後でも嫌や。
考える。
何を?
離婚するかどうか?
せえへん。
考えることない。
「今は警察に持っていかなくても、絶対に知られないとは言えないでしょ。もし刑事事件になったら、弥生の義理の兄が、ってことになるんだよ」
「分かってる」
分かっている。
そんなことは最初から分かっている。
外へ出れば東雲の信用に影響する。
上林にも説明が必要になる。
自分との姻戚関係も当然見られる。
分かっている。
それと離婚と何の関係がある。
瑛美は話す速度を落とした。
どうして。
ちゃんと聞いている。
聞いているのに。
「上林のお父さんたちにだって、隠しておけない。弥生だけのことじゃないから。私と結婚してる限り、上林の家と東雲は繋がってる」
「うん」
繋がっていたらいい。
結婚しているのだから。
「だから、そこだけでも切り離した方がいいと思う。融資したことまでなくなるわけじゃないけど、これ以上、家のことまで弥生に背負わせたくない」
切り離す。
何を。
僕と瑛美。
嫌や。
何でそこ切るん。
「上林の方だって、東雲の娘と結婚したままでいいとは思わないかもしれないし」
上林。
ああ。
上林が邪魔なんか。
それなら。
「ほな、上林出る」
瑛美が顔を上げた。
「……何言ってるの?」
「上林が瑛美と別れろ言うんやったら、上林捨てる」
それで済む。
お父さんが何と言うかは知らない。
お母さんも困るだろう。
京都の親族にも話は回る。
面倒やな。
でも、それだけだ。
「上林を、って……」
瑛美は何か考えている。
何をそんなに考えることがあるのだろう。
別れろと言われたら出ればいい。
上林の家に生まれたことは、自分で選んだわけではない。
嫌いではない。
むしろ好きだ。
お父さんもお母さんも好きだし、兄さんとも仲は悪くない。京都へ帰れば親戚もいる。子供の頃から知っている人間が何人もいる。
上林キャピタルだって、ようやく自分の手に馴染んできた。
捨てたいものなど、一つもない。
でも、瑛美と離婚するくらいならいらない。
「会社はどうするの?」
「辞める」
「上林キャピタルを?」
「うん」
「弥生、社長でしょ」
「代わりはおるよ」
僕でなければ絶対に回らない会社ではない。
後任を決めて引き継げばいい。
多少揉めるかもしれない。
知らん。
どうにかなる。
「お父さんやお母さんとは、どうするの」
「出ていけ言われたら出る」
「そんな簡単なことじゃないでしょ。家族だよ」
「分かってる」
分かっている。
お父さんもお母さんも家族だ。
大事だ。
そんなことは知っている。
「分かってないよ」
分かってる。
何で分からへんと思うん。
「弥生が上林を出ても、それで問題がなくなるわけじゃない。今の会社も家族も、全部、弥生にとって大事なものでしょ。私の家のせいで、そこまでしなくていいの」
大事だ。
全部大事だ。
だから何。
大事なものを全部持ったまま瑛美といられるなら、それが一番いい。
でも、全部捨てなければ瑛美といられないなら、全部捨てる。
それだけやん。
なんで分からへんの。
「せやから、離婚はせえへん」
瑛美が黙った。
伝わっただろうか。
離婚はしない。
それ以外なら何でもいい。
瑛美がテーブルへ手を置いた。
「お金だって、今みたいにはいかなくなるよ。弥生一人のものじゃないんだから」
金。
金ならある。
個人名義の現預金。
有価証券。
ほかにもある。
放棄する相続分を除いても、当面の生活に困るような額ではない。
足りなければまた稼げばいい。
三年しかいなかったが、外銀での実務経験がある。
そのあと上林キャピタルで代表をやった。
また外銀でポジションを探す。
今のキャリアなら、二千万。
三千万。
外銀でなくてもいい。
ファンド。
運用会社。
上林の名前がなくなって、どこまで評価が落ちるか分からない。
でも、ゼロにはならない。
三年間働いたのは僕だ。
ここで会社を回してきたのも僕だ。
仕事はある。
稼げる。
瑛美一人くらい養える。
家。
生活費。
車。
エミに今までできていたことを、金がないから諦めさせるのは嫌だ。
それくらいなら僕が稼ぐ。
できる。
いける。
何も問題ない。
「僕が稼ぐ」
「だから、そういう話じゃないって」
何が。
「瑛美には苦労させへん」
それなら問題ない。
「私の生活の話をしてるんじゃない。弥生の話をしてるの」
僕。
僕の話。
何が。
上林を出る。
会社を辞める。
家を失うかもしれない。
金はある。
仕事もできる。
瑛美はいる。
だったら。
「僕の話やったら、離婚はせえへん」
それしかない。
僕の話なら、なおさらそれしかない。
瑛美が何も言わなくなった。
どうしたら分かってもらえる。
家も会社も金も、どうにでもなる。
仕事ならまた探せる。
金ならまた稼げる。
家ならまた借りられる。
上林に戻れなくても生きていける。
瑛美だけは違う。
瑛美が僕と離婚して、僕の妻でなくなって、ここからいなくなる。
それは戻せへんやん。
無理やん。
だから嫌や。
「弥生、ちゃんと考えて」
「考えてるよ」
考えてる。
ずっと考えてる。
離婚だけは嫌や。
ほかなら何でもする。
何でも捨てる。
何でも作り直す。
瑛美さえおったらいい。
「……なんで、そこまで?」
なんで。
なんでって。
「好きやから」
それ以外に何がある。
瑛美がこちらを見ている。
「瑛美が好きやから」
好きやから。
ずっと。
ずっと好きやった。
好きで、好きで、どうしても欲しくて。
だからここにいる。
やっとここにいる。
やっと僕の妻になった。
それを。
離婚。
嫌や。
絶対嫌や。
「愛してるから」
何で分からへんの。
上林と瑛美なら瑛美に決まってる。
会社と瑛美でも瑛美。
金と瑛美でも瑛美。
そんなもの、比べることでもない。
「瑛美のためやったら、僕は何でもする」
何でも。
もうした。
瑛美は知らない。
知らなくていい。
知られたら困る。
嫌われるかもしれない。
離婚すると言われるかもしれない。
嫌や。
それだけは嫌や。
だから知らなくていい。
ここにおってくれたら、それでいい。
「でも、私のために、弥生が全部捨てるなんて——」
「僕が何捨てるかは、僕が決める」
そうや。
僕が決める。
父でもない。
母でもない。
上林でもない。
瑛美でもない。
僕が決める。
僕のものなら全部、僕が決めていい。
「瑛美と離婚するくらいやったら、上林なんかいらん」
本当にいらない。
いや、違う。
いらなくはない。
できるなら欲しい。
家族も。
会社も。
今の家も。
金も。
全部あった方がいい。
瑛美に何不自由なく暮らしてもらえる。
だから持っていたい。
でも瑛美と引き換えならいらない。
そんなもののために瑛美を手放すわけがない。
「僕が働く。僕が稼ぐ。絶対瑛美に苦労させへん」
できる。
絶対できる。
だから。
頼むから。
「せやから、離婚はせえへん」
瑛美が黙っている。
何で。
何を考えてる。
まだ離婚するつもりなん。
嫌や。
どうしたらええ。
何捨てたら納得する。
上林だけでは足りない。
会社も辞める。
資産が問題なら自分で稼ぐ。
東雲との関係が問題なら、僕が上林との関係を切る。
何でもする。
何したらここにおってくれる。
瑛美。
離婚は嫌や。
嫌や。
嫌や。
「……わ、分かった」
何が。
瑛美が言葉を詰まらせた。
まだ分からない。
「離婚しない。しないから」
離婚しない。
瑛美が。
僕と。
離婚しない。
しない。
ここにいる。
いなくならない。
弥生は息を吐いた。
肺に空気が入った。
さっきまで何か詰まっていたらしい。
「そっか」
よかった。
本当によかった。
「よかった」
テーブルの上にカップがあった。
そういえば、途中から触っていなかった。
持ち上げて口をつける。
ぬるい。
というより、もうほとんど冷めていた。
「もう冷めてもうたな」
瑛美は何も言わなかった。
自分のカップを見ている。
何やろ。
弥生も瑛美を見る。
「瑛美?」
「……うん」
返事はあった。
ならいい。
そういえば、まだ週末の話をしていなかった。
「週末、東雲で食事することになったんやけど」
瑛美がこちらを見た。
「……みんなで?」
「うん。お義父さんと話して決めた。食事のあとで、お義兄さんに今回のことを確認する」
父は、雪哉本人の口から聞きたいと言っていた。
会社で呼び出せば周囲にも気づかれる。いつもの家族の食事として呼び、そこで話す。
「お母さんは?」
「お義父さんから話してくれはる。僕らからは、雪哉には何も知らせんといてほしいって」
「普通の食事会だと思って来るんだ」
「そうなるな」
「分かった。私からは、何も言わない」
「うん」
これでいい。
あとは週末、雪哉本人に確認する。
弥生は空いたカップを二つ持って立ち上がった。
瑛美も椅子を引いた。
「置いとくだけやから、座っててええよ」
キッチンへ行き、カップへ水を入れる。
本人が何を言うか。
どこまで認めるか。
処分をどうするか。
確認しなければならないことは、まだいくつもある。
順番にやればいい。
蛇口を閉めた。
ダイニングを見ると、瑛美はまだ座っていた。
少し変な顔をしている。
さっきからどうしたんやろ。
まあ、雪哉さんのこともあるしな。
週末が終わったら、少し落ち着くだろう。
弥生はそう考えて、カップから手を離した。
離婚しない。
そのことだけは、もう決まった。
なら、何も問題なかった。
