上林弥生の事情


社長室の扉が閉まってから、弥生は鞄の中の資料を取り出した。

東雲社長は向かいに座り、その束を見ていた。再建に関する報告のため、二人で時間を取ることは珍しくなかった。ただ、今日は先に、誰にも同席を求めないでほしいと伝えてある。

「お義父さん。相良建工との取引について、分かったことがあります」

弥生は案件を並べた一覧を、一番上に置いた。

「雪哉さんが、関わってはりました」

社長の視線が、紙から弥生へ上がった。

「……どういうことだ」

「順に、お話しします」

当初の発注には理由があり、相良の仕事にも大きな問題はない。偏りが見えたのは、そのあとの契約変更や支払条件だった。

追加費用を東雲が全額負担した案件と、通常の支払日より早く精算した案件を示した。判断した部署は違う。それぞれの承認者には、現場を止めないため、次の人員を確保するためという説明があった。

「一件ずつやったら、判断としてはあり得ます。せやけど、相良にだけ、こういう条件が重なってました」

社長は一覧を読み、添付した承認記録をめくった。

「そこに雪哉さんの名前はありません。ただ、判断に関わった方は、皆、雪哉さんと親しい方です」

宮原が承認した追加工事。長谷川が支払いを早めた案件。瑛美が在籍中に疑問を持ち、担当者と雪哉本人に確認していたことも話した。

娘の名前が出た時、社長の手が止まった。それでも、口は挟まなかった。

弥生は相良への聞き取りの記録を出した。

「雪哉さんと相良社長は、交際されてます。相良社長ご本人にも確認しました。あの二件の頃にも、付き合うてはったそうです」

相良から、費用の全額負担や支払いの前倒しを正式に依頼したことはない。その前に、澄花が恋人へ会社の窮状を話していた。

届いたメッセージの記録を、東雲側の処理日と並べた。

月末の支払いが厳しいと話した三日後に、支払いが早められている。追加工事で利益が残らないと伝えたあとには、費用を全額負担する連絡が入った。その判断について、担当者は雪哉の意向を知っており、瑛美が尋ねても、本人はそれでよいと答えていた。

社長は二つの日付を見比べた。紙を持っていた手が下がり、膝の上へ置かれる。

「相良社長は、東雲で正当に判断した条件やと聞いていたそうです。仕事で返すつもりやった、と」

返事はなかった。

弥生は聞き取りの記録を置き、話を終えた。机の上には、社長が途中まで読んだ資料が開いていた。

しばらくして、社長が顔を上げた。

「……間違いないんだな」

「はい。もう、偶然では説明できません」

社長はもう一度、一覧へ目を落とした。

雪哉に何を任せていたかも、東雲の資金がどれほど苦しかったかも、この人は知っている。弥生がそこまで言い添える必要はなかった。

窓の向こうで、車の列がゆっくり動いていた。社長は紙の角を揃えたが、ずれた一枚に気づかず、そのまま手を離した。

*

「警察には?」

声は低かった。弥生へ向けられた目には、頼むような色はなかった。

「今の段階で、持っていくつもりはありません」

弥生は答えた。

「まず雪哉さん本人に確認して、東雲の中で処分と是正を進めたいと思てます。損害の額も詰めて、回収できる分は回収する。相良との取引条件も、そのままにはできません」

社長は黙って聞いていた。

「今、表に出して取引や資金調達に響いたら、再建まで止まってしまいます。会社のためには、その方がええと判断しました」

「雪哉を、今のまま置いておくことはできない」

「はい」

返事をすると、社長は開いていた資料を閉じた。

「関わった部署も、確認し直す必要があるな」

「そう思います。誰がどこまで把握していたかは、分けて確かめなあきません」

「分かった」

社長は短くうなずいた。閉じた資料の上へ手を置き、次の言葉が出るまで、少し時間を置いた。

「君に、ここまでさせることになるとは思わなかった」

弥生は顔を上げた。

「資金を入れてもらって、立て直しも任せて、そのうえ……私の息子のことまで」

社長の指が、資料の表紙を押さえた。

「……ありがとう」

この部屋で、以前にも向かい合って座った。

その時に持ってきたのは、救済融資の条件だった。今、礼を言っている相手が、娘を巻き込むなと告げた声も覚えていた。

弥生は机の上の資料を見た。

「東雲を立て直すために来てますから」

そう答えた。

*

「雪哉とは、家で話そう」

社長は資料を自分の側へ寄せた。

「会社で呼び出せば、周りも気にする。週末に、みんなで食事をすることにする」

弥生はうなずいた。

「妻には、私から話す。瑛美には、君から伝えてくれるか」

「はい。帰ったら話します」

「雪哉には、何も知らせないでくれ。いつもの食事だと思って来させる」

資料を片づける弥生の手を、社長は見ていた。

「その場で、本人から聞きたい。何を考えて、こんなことをしたのか」

「……はい」

弥生も聞きたかった。

澄花を助けたいというところまでは、分かる。そのために東雲が何を失うか、雪哉にも分かっていたはずだった。

立ち上がると、社長も席を立った。扉の前で、もう一度声がかかる。

「弥生くん。瑛美のことも、頼む」

弥生は振り返った。

「分かりました」

廊下へ出てから、鞄を持ち直した。

今日、まだ伝えなければならない相手がいた。

*

瑛美は、弥生が帰ってくる音を聞いて、ダイニングの椅子から立ち上がった。

相良建工へ話を聞きに行ったことも、今日は父へ報告すると言っていたことも知っていた。帰りが何時になるかは聞いたが、結果をメッセージで尋ねる気にはなれなかった。

廊下で顔を合わせると、弥生はいつものように、ただいまと言った。

「おかえり」

その顔からは、何も分からなかった。

弥生が着替えて戻ってくるのを待ち、瑛美は食卓の向かいへ座った。用意していた茶を彼の前へ置く。

「……どうだった?」

弥生はカップを取らず、こちらを見た。

「お義兄さんやった」

瑛美はうなずこうとして、できなかった。

一緒に資料を見ていた時から、その可能性を考えていた。兄の名前が記録にないことが、何もしていない証拠にはならないとも、もう分かっていた。

それでも、声に出して答えを聞くと、次に言うつもりだったことを忘れた。

弥生は待っていた。

瑛美はテーブルへ置いた手を、膝へ戻した。

「相良さんは……知ってたの?」

「多少気にかけてもろうてるとは思うてたみたいや。せやけど、東雲に損させてるとは知らんかったって」

相良から頼んだ変更と、東雲から提示した条件は違っていた。東雲が条件を変える前から、雪哉は相良の苦しい事情を聞いていた。

弥生の説明を聞きながら、瑛美は、一緒に見た支払いの記録を思い出した。

兄は次の人員を確保するためだと言った。その時にはもう、相良が人を押さえる金にも困っていると知っていた。

「これ……利益供与だよね」

「うん」

「犯罪になるんじゃないの?」

「その可能性はある」

弥生は言葉を濁さなかった。

「ただ、お義父さんとは、警察には持っていかずに、東雲の中で処理する方向で話してきた」

処分を決め、損害を確かめ、取引を見直す。弥生は順に話した。

兄を今の立場へ置いておくつもりは、父にもないらしかった。

瑛美は膝の上で、指を組んだ。

警察へ行かないと聞いても、よかったとは言えなかった。兄の名前が表に出なければ、それでなくなる問題ではない。削られた利益も、先に出ていった現金も、東雲の帳簿に残っている。

それを確かめていたのは、向かいの弥生だった。

「……ごめん」

弥生が顔を上げた。

「何が?」

「東雲のこと、助けてもらったのに。今度は、お兄ちゃんがこんなことしてて」

瑛美は組んだ指を解き、また握った。

「弥生に見つけてもらって、処理までしてもらうことになって」

「瑛美が謝ることちゃうやろ」

「そうだけど……私の家のことだから」

弥生は茶を一口飲んだ。

「僕も、もう家族やん」

カップを戻しながら、穏やかに言った。

その言葉を聞いて、瑛美は彼を見た。

家族だから、今度のことも無関係ではいられない。それが弥生にとってどれほど困ることか、本人は今も口にしなかった。

「弥生、もういいよ」

「……何が?」

瑛美は膝の上で手を揃えた。

「離婚しよう」

*

弥生の手が、カップの脇で止まった。

表情がなくなったように見えた。怒った顔にはならなかった。ただ、さっきまで口元にあった柔らかさが、消えていた。

「せえへんよ」

返事は、すぐだった。

瑛美は少し息を吸った。

「今すぐ決めてって言ってるんじゃない。ちゃんと考えてほしいの」

弥生は何も言わず、こちらを見ていた。

「今は警察に持っていかなくても、絶対に知られないとは言えないでしょ。もし刑事事件になったら、弥生の義理の兄が、ってことになるんだよ」

「分かってる」

声が低かった。

いつもなら、何が心配なのか聞いて、順に答えてくれる。さっきまでそうやって話していたはずだった。

瑛美は、話す速度を少し落とした。

「上林のお父さんたちにだって、隠しておけない。弥生だけのことじゃないから。私と結婚してる限り、上林の家と東雲は繋がってる」

「うん」

「だから、そこだけでも切り離した方がいいと思う。融資したことまでなくなるわけじゃないけど、これ以上、家のことまで弥生に背負わせたくない」

弥生の目が、離れなかった。

瑛美はテーブルの上のカップを見た。まだ茶が残っている。どちらも、手を伸ばさなかった。

「上林の方だって、東雲の娘と結婚したままでいいとは思わないかもしれないし」

「ほな、上林出る」

瑛美は顔を上げた。

「……何言ってるの?」

「上林が瑛美と別れろ言うんやったら、上林捨てる」

聞き間違いではなかった。

弥生は姿勢を変えず、同じ声で言った。冗談を言う時の顔でも、わざと大げさなことを言って瑛美を困らせる時の顔でもなかった。

「上林を、って……」

口にしてから、瑛美は続きを探した。

弥生が言っているのは、一つの会社の名前ではない。父も母も、京都にいる親戚も、自分たちが子供の頃から出入りしてきたあの家も含まれている。

弥生はその家族と、普通に仲がよかった。父親と意見が合わないことがあっても、帰る家がなくなるような話にはならなかった。

その弥生が、今は何も迷わずに、捨てると言っていた。

「会社はどうするの?」

「辞める」

「上林キャピタルを?」

「うん」

「弥生、社長でしょ」

「代わりはおるよ」

瑛美は口を閉じた。代表を辞めれば済むと、本気で言っているらしかった。

「お父さんやお母さんとは、どうするの」

「出ていけ言われたら出る」

「そんな簡単なことじゃないでしょ。家族だよ」

「分かってる」

「分かってないよ」

少し声が強くなった。弥生の顔は変わらなかった。

「弥生が上林を出ても、それで問題がなくなるわけじゃない。今の会社も家族も、全部、弥生にとって大事なものでしょ。私の家のせいで、そこまでしなくていいの」

「せやから、離婚はせえへん」

そこへ戻った。

瑛美はテーブルへ片手を置いた。何から話せば分かってもらえるのか考え、弥生が返した言葉を一つずつ思い返した。

家が問題なら、家を出る。会社が問題なら、辞める。

どれも、瑛美が望んでいることではなかった。

「お金だって、今みたいにはいかなくなるよ。弥生一人のものじゃないんだから」

「僕が稼ぐ」

「だから、そういう話じゃないって」

「瑛美には苦労させへん」

「私の生活の話をしてるんじゃない。弥生の話をしてるの」

弥生はわずかに顎を引いた。

「僕の話やったら、離婚はせえへん」

瑛美は返す言葉を失った。

目の前の人は、こちらの言葉を聞いている。家も会社も金も、それぞれ何を指しているか分かっている。

分かったうえで、どれも捨てるか、自分でどうにかすると答えていた。

「弥生、ちゃんと考えて」

「考えてるよ」

いつもと同じ返事だった。

けれど、顔は違った。黒い目がいつもより大きく見え、こちらが視線を下げても、待っている気配があった。怒鳴られたわけでも、近づかれたわけでもないのに、瑛美は椅子の背へ身体を戻せなかった。

「……なんで、そこまで?」

ようやく、聞いた。

「好きやから」

弥生は言った。

瑛美は彼を見た。返事をしようとすると、その前に、もう一度声がした。

「瑛美が好きやから」

淡々と、理由を探して言っているようには見えなかった。

「愛してるから」

瑛美の手が、テーブルの上で止まった。

「瑛美のためやったら、僕は何でもする」

その声は静かだった。

上林を捨てると告げた時から、声の大きさはほとんど変わっていない。瑛美は彼の顔を見ていたが、目を合わせ続けるのが難しくなり、少し視線を落とした。

弥生は、そのまま待っていた。

好きだと言われたことを、聞き流したつもりはない。大切に思ってくれていることも知っている。

けれど、今は、それで自分の家も仕事も手放すと言っている。

「でも、私のために、弥生が全部捨てるなんて——」

「僕が何捨てるかは、僕が決める」

瑛美は顔を上げた。

「瑛美と離婚するくらいやったら、上林なんかいらん」

弥生の手は、カップの脇に置かれたままだった。動きもしない手へ目をやってから、瑛美はもう一度、彼の顔を見た。

「僕が働く。僕が稼ぐ。絶対瑛美に苦労させへん」

弥生は、こちらの返事を待った。

瑛美が何も言えずにいると、また同じ結論が返ってきた。

「せやから、離婚はせえへん」

勢いで口にして、あとで言い過ぎたと笑うつもりなら、もうどこかで表情を緩めているはずだった。

弥生は本当に、そうする。

瑛美は初めて、そう思った。

これ以上説得を続けても、離婚以外のものを手放す話が増えるだけだった。自分の心配を取り除くために、そう言っているのではない。離婚するという答えだけが、最初からどこにもなかった。

「……わ、分かった」

言葉が少しつかえた。

弥生は動かなかった。

「離婚しない。しないから」

口にした途端、弥生が息をついた。

「そっか」

口元が緩んだ。

「よかった」

声まで、元に戻っていた。

瑛美はまだ、テーブルに手を置いたままだった。弥生はカップを取り、残っていた茶を飲んだ。

「もう冷めてもうたな」

いつもの調子で、そう言った。

瑛美は返事ができず、自分のカップを見た。

——今の、何だったの。

ついさっきまで上林を捨てると言っていた人が、今は茶の温度を気にしている。

瑛美が顔を上げると、弥生もこちらを見た。もう、見慣れた顔だった。

「瑛美?」

「……うん」

瑛美は手を膝へ戻した。

弥生って、こんな人だっただろうか。

そう思っても、今の顔を見ていると、確かめる言葉が出なかった。

「週末、東雲で食事することになったんやけど」

弥生は空いたカップを、テーブルの端へ置いた。

瑛美は一拍遅れて、その言葉を聞き直した。

「……みんなで?」

「うん。お義父さんと話して決めた。食事のあとで、お義兄さんに今回のことを確認する」

瑛美はうなずいた。兄のことを話していたのを思い出すまでに、少し時間がかかった。

「お母さんは?」

「お義父さんから話してくれはる。僕らからは、雪哉には何も知らせんといてほしいって」

「普通の食事会だと思って来るんだ」

「そうなるな」

弥生は落ち着いて答えた。

「分かった。私からは、何も言わない」

「うん」

それで話は済んだらしかった。

弥生がカップを二つ持って立ち上がる。瑛美は手伝おうとして椅子を引いたが、彼は先にキッチンへ向かった。

「置いとくだけやから、座っててええよ」

蛇口から水が流れる音がした。

瑛美は座り直し、何もなくなったテーブルを見た。兄のしたことも、父がこれから言い渡すことも、考えなければならないはずだった。

けれど今は、さっきの弥生の顔が、何度も浮かんだ。