瑛美の記憶を社内資料と照合すると、追加工事の負担も、支払いを早めた案件も特定できた。担当者が説明した理由は、彼女の覚えている内容と合っている。ただ、正式な承認記録には、やはり雪哉の名前はなかった。
担当者は雪哉の意向を知っていた。瑛美が本人へ確認しても、相良に有利な判断を肯定している。残るのは、雪哉が相良の事情をいつ、誰から聞き、その判断へ働きかけたのかという点だった。
相良から条件変更を求めたのか。それとも、東雲が先に持ちかけたのか。東雲側の資料だけでは、その経緯を確かめきれない。
最後に足りない材料を得るため、弥生は相良建工へ直接、話を聞きに行くことにした。
取引先への聞き取りは、東雲建設の再建に伴う契約確認として申し入れた。
利益率が落ちた案件について、条件変更と発注の経緯を確かめたい。相良との取引は複数の現場にまたがるため、社長にも話を聞きたいと伝えると、数日後に時間を取ってもらえた。
相良建工の事務所は、東雲の本社とはずいぶん違った。
受付の奥から電話の声が聞こえていた。壁の予定表には現場ごとの人員が書き込まれ、入口の脇に、安全靴を履いた社員が二人立っている。一人は図面を畳みながら、午後の搬入時刻を確かめていた。
応接室へ案内される途中、事務の女性が一枚の紙を持ってきた。
「社長、こちらの資材、来月からまた上がるそうです」
相良澄花は紙へ目を落とし、眉を寄せた。
「もう発注してある分も?」
「そこは今、確認しています」
「分かった。返事が来たら教えて。見積もりも直さないと」
女性を見送ってから、澄花は弥生へ向き直った。
「失礼しました。お待たせしてしまって」
「いえ。お忙しいところ、お時間をいただきありがとうございます」
差し出された名刺には、代表取締役、相良澄花とあった。弥生も名刺を渡し、勧められた椅子へ座った。
澄花は机に資料を置いたが、すぐには開かなかった。
「上林社長が、直接いらっしゃるとは思いませんでした」
「複数の案件に関わることなので、僕から伺いたくて」
「……瑛美さんとは、ご結婚されたんですよね」
「はい」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
祝いの言葉のあとにも、彼女の表情は緩まなかった。弥生は受け取った名刺を脇へ置き、確認する案件の一覧を出した。
「まず、こちらの工事からお願いできますか」
*
追加工事の契約書を見せると、澄花は自分の資料から同じ案件を探した。
「この追加費用について、御社から東雲建設へ、全額の負担を申し入れたものですか」
「いえ。増えた費用の内訳は出しましたが、全部持っていただくようお願いしたわけではありません」
「費用の分担について、交渉はありましたか」
「確認はありました。何人を何日手配したか、とか。ただ、こちらも一部を負担するという話にはならなかったと思います」
澄花が、打ち合わせの記録を弥生へ向けた。
「急な変更に対応してもらったので、東雲で持ちます、と。こちらは、そのご提示を受けた形です」
東雲側の記録とも合っていた。
弥生は記録を読み、日付を控えた。
「分かりました。では、こちらの支払いについては」
別の契約書へ移ると、澄花はうなずいた。
「通常の支払日より、早く入れていただいた分ですね」
「御社から前倒しを依頼されましたか」
「いいえ。完成の確認が済んだので、先に精算できますと連絡をいただきました」
澄花は当時の記録を確かめ、付け足した。
「それより前にも、支払いの相談はしていません。……助かったのは、確かですけど」
弥生は次の紙を出した。単価の改定だった。
今度は澄花が、先に口を開いた。
「それは、こちらから相談しました」
値上がり前後の資材価格を並べた表が出てきた。最初の見積もりからどこが変わったか、相良が吸収できる範囲はどこまでか。東雲とのやり取りも残っている。
「最初に出した金額では、応じていただけませんでした。人件費の分は一度見直して、資材の分と分けています」
「こちらは、東雲側の記録とも合っています」
弥生が答えると、澄花の肩がわずかに下がった。
「この変更そのものを、問題にしているわけではありません。事情と交渉の経緯を確認したかったんです」
「……はい」
継続して仕事を請けた理由を聞くと、現場の担当者から次も頼みたいと言われたものと、相良から空く人員を知らせたものがあった。そのどちらでもないまま、東雲から新しい工事の連絡が来た時期もある。
弥生は相良が出した見積もりと、東雲の発注日を照らし合わせた。仕事を取りに行った記録も、価格を交渉した記録も、澄花は隠さず出していた。
ただ、追加費用の全額負担と支払いの前倒しについては、相良から求めた記録がなかった。
*
「この支払いがあった頃、御社の資金繰りはかなり厳しかったですか」
澄花の手が止まった。
弥生は契約書へ指を置いたまま、返事を待った。彼女は一度、閉じた扉へ目をやった。
「……はい。厳しかったです」
「東雲建設には、そのことを伝えていましたか」
「会社としては、話していません」
言い終えたあとで、澄花は口を閉じた。自分でも、言葉の残り方に気づいたようだった。
弥生は声を変えなかった。
「では、東雲雪哉さんには?」
澄花がこちらを見た。
数秒の間があってから、机に置いていた手を自分の方へ引く。
「……話したことは、あります」
「どのようなお話を?」
「会社のことです。ただ、正式な相談というわけではなくて」
澄花は資料へ目を落とした。
「父から会社を継いで、取引先もそのまま残ってくれると思っていたんです。でも、父だから頼んでいた仕事もあったんだと、あとになって分かって。そこへ資材も人件費も上がって」
彼女は単価の表を隣へ寄せた。
「人を減らせば、今ある仕事も請けられなくなります。父の頃からいてくれる人もいますし、簡単に辞めてもらうことはできません。そういう話を、聞いてもらったことはあります」
「雪哉さんは、何と仰っていましたか」
「大変だな、とか、無理するな、とか。相良はちゃんと仕事をしてるんだから、大丈夫だって」
弥生はペンを動かした。
「この支払いの直前にも、お話しされましたか」
「……したと思います。月末に払うものが重なっていたので」
「支払いを早めてほしい、と?」
「いいえ」
返事は、それまでよりはっきりしていた。
「そこまで頼んではいません。月末が厳しいって、こぼしただけです」
弥生はうなずき、追加工事の紙を手前へ戻した。
「こちらの工事についても、雪哉さんと話したことはありますか」
澄花は案件名を読んでから、少し顔を伏せた。
「あります。急な変更で人の予定を組み直して、このままだと、ほとんど利益が残らないと話しました」
「費用を東雲で負担するという連絡の、前でしょうか」
「前です。負担していただいてからは、赤字になる心配はなくなったので」
ペン先を止め、弥生は二枚の資料を見た。
相良が困っていた事情を、雪哉は知っていた。そのあとで、別々の担当者が相良の負担を減らしている。
「お話しされた時期を、確認していただくことはできますか。予定や、その頃のやり取りが残っていれば」
澄花はすぐには答えなかった。
「……雪哉さんに聞けば、分かるんじゃないでしょうか」
「まず、相良社長が覚えていらっしゃることを伺いたいんです」
机の上の資料を見たまま、彼女は黙っていた。
弥生はペンを置いた。
「もう一点、先にお伝えしておきます。雪哉さんと交際されていることは、把握しています」
*
澄花の顔から、表情が消えた。
弥生は続けずに待った。応接室の外で電話が鳴り、誰かが取る声が聞こえた。
「……それも、今回の確認に関係があるんですか」
「あります。交際相手の会社との取引に、雪哉さんがどのように関わったのかを確認しています」
「私は、仕事を回してほしいなんて、頼んでいません」
澄花は机へ両手を置いた。
「費用を持ってほしいとも、支払いを早めてほしいとも言っていません。会社のことを話したのは本当です。でも、それは——」
言葉が途切れた。
弥生は、彼女が閉じかけた資料へ目を向けた。
「雪哉さんから、取引について説明を受けたことはありますか」
「……少しは、あります。仕事が続いた時に、気にかけてくれているのかなとは思いましたから」
「それで、雪哉さんに確認されたんですね」
「はい。ありがたいけど、大丈夫なのかって」
澄花は一度、息を吸った。
「相良はちゃんと仕事をしてるし、必要だから頼んでるんだって。俺が勝手に決めてるわけじゃない、とも言っていました。現場の方からも、次もお願いしますと言われていたので」
現場が相良を評価していたことは、弥生も確認していた。
「あの二件の頃も、交際されていたんですね」
澄花は小さくうなずいた。
「でも、会社同士の話は、ちゃんと担当の方としています。雪哉さんとの間で条件を決めたことはありません」
「はい。その点は、今伺った経緯として残します」
弥生は二枚の資料を並べ直した。
「ただ、この追加費用については、御社にも負担を求める余地がありました。支払いも、契約どおりの日に行うことはできた。そのどちらでも、東雲は相良の事情に合わせた判断をしています」
「……私が話したから、ですか」
「雪哉さんが御社を助けるために、東雲の担当者へ働きかけていた可能性は高いと考えています。日付が分かれば、その経緯を確認できます」
澄花は契約書を見た。自分の会社へ支払われた金額のところで、目が止まる。
「東雲の担当者は、雪哉さんの意向を知っていました。相良を気にかける発言が、判断に影響していたと考えられる案件が、ほかにもあります」
「雪哉さんが、そうするように言ったんですか」
「正式な承認記録に、名前はありません。ただ、条件について確認を受けた際、雪哉さん本人も、その判断でよいと答えています」
澄花は契約書へ目を戻し、紙の端を揃えた。その手が途中で止まった。
「……東雲建設は、どのくらい損をしたんですか」
弥生はすぐには数字を答えなかった。
「必要な費用も含まれているので、変更額のすべてを損失として扱うことはできません。そこは、分けて確認しています」
「でも、東雲は、上林の支援がなければ——」
「相良建工との取引だけで東雲建設が傾いた、と申し上げるつもりはありません」
澄花が顔を上げた。
弥生は、その目を見て続けた。
「ただ、東雲にも余裕がなくなっていた時期に、利益を削る変更と、現金を早く出す判断が続いていたことは、確かです」
澄花はうつむいた。紙を揃えていた手が、机の上から膝へ下りた。
*
しばらくして、澄花が口を開いた。
「……雪哉さんは、そんなことをする人じゃありません」
弥生は答えなかった。
「私が会社のことを話したから、多少気にかけてくれたことはあると思います。でも、東雲建設を傷つけてまで、私を助けるなんて」
彼女は顔を上げた。
「自分の会社なんですよ。お父さんの会社でもあるし。雪哉さんが、そんなことをするとは思えません」
机の上には、契約書と入金の記録があった。弥生はそれを澄花の方へ向けたままにしていた。
「僕も、そう思っていました」
澄花の目が動いた。
「……昔から、知っていらっしゃるんですよね」
「はい。二十年ほど」
雪哉は、七歳で東京へ来た時から知っている。東雲の取締役になるより、ずっと前の姿も。
弥生は置いていたペンを取り直した。
「それでも、今回の取引については、確かめなければなりません」
澄花はしばらく黙っていた。やがて自分の鞄へ手を伸ばし、携帯電話を取り出した。
*
画面を探す間、弥生は待っていた。
澄花は過去のメッセージをたどり、途中で予定表も開いた。日付を確かめてから、もう一度、やり取りへ戻る。
「月末の支払いの話は、この日です」
携帯電話が、弥生の見える位置へ置かれた。
その夜に会う約束があり、その少し前に、月末の支払いの見通しが厳しいという話を送っていた。雪哉からは、あとで聞く、という短い返事が来ている。
弥生は日付を控えた。手元の記録では、その三日後、東雲から相良へ支払いを早める連絡が入っていた。
「会った時にも、この話をされたんですね」
「はい。次の現場の人を押さえて、先に払わないといけないものがあると話しました」
澄花は携帯電話を戻し、別の時期へ進んだ。
追加工事の話をした日は、予定表と、そのあとに送ったメッセージから確かめられた。遅くまで話を聞いてもらった礼と、工事の名前が残っている。
「細かい金額までは話していないと思います。でも、予定を組み直すだけで費用が増えてしまって、困っているとは言いました」
弥生はもう一つの日付も書いた。相良側の打ち合わせ記録には、それから数日後、追加費用を東雲で負担すると告げられたことが残っていた。
「今、確認していただいた箇所を、後ほど資料としていただけますか。必要なのは、日付と、その時に話された内容が分かる部分です」
「……分かりました」
澄花は携帯電話を持ったまま、契約書へ視線を落とした。
「でも、それだけで、雪哉さんが指示したことにはならないですよね」
「ええ。それだけではなりません」
弥生は答えた。
「東雲側で、誰が、いつ、何を判断したのか。その時の説明と合わせて確認します」
澄花は携帯電話をしまわずにいた。
「私からお願いしていないことも、残していただけますか」
「もちろんです」
弥生はメモを指した。
「御社から正式に相談された変更と、東雲から提示された変更は、分けています。雪哉さんへ話されたことについても、伺ったとおりに残します」
澄花はその紙を見てから、ようやく携帯電話を鞄へ戻した。
机に出した資料を片づける時、彼女は単価改定の表を一度だけ開き直した。
「父がいた時より、仕事を取るのも、条件を相談するのも難しくなって。東雲の方には、本当に助けていただいたと思っていたんです」
弥生は手を止めて聞いた。
「だから、ちゃんと仕事で返そうと思っていました」
彼女は表を閉じた。それ以上は言わず、契約書と一緒に重ねた。
*
相良建工を出る時も、事務所では電話が鳴っていた。
入口の予定表を、社員が書き直している。澄花は見送りに出てきたが、奥から名前を呼ばれると振り返った。先ほどの資材の件で、返事が来たらしかった。
弥生は今日の礼を伝え、外へ出た。
上林キャピタルへ戻ってから、東雲側の記録を開いた。澄花から聞いた日付を、案件ごとの一覧へ加える。
月末の支払いについて話した日。その三日後に、長谷川の承認で支払いが早められている。瑛美は当時、担当者から雪哉も勧めていると聞き、本人へ確認していた。
次の現場の人を確保できなかったら、東雲が困る。
雪哉がそう答えた時、相良がその人員のために先払いを必要としていたことを、彼はすでに知っていた。
追加工事の方も、同じだった。澄花が利益の残らない窮状を話したあと、費用を東雲が全額負担する判断が行われている。宮原は、雪哉にも話したうえでの条件だと瑛美へ説明し、雪哉自身も、東雲で持つのが筋だと答えていた。
弥生は二つの日付を、もう一度確かめた。
澄花へ聞く前には埋まらなかった箇所が、今はつながっていた。相良の事情を雪哉が知り、そのあとで、彼と近い担当者が条件を変えている。瑛美が本人へ確認しても、雪哉はそれぞれの判断を肯定していた。
承認欄に名前がないことは、もう、先へ進めない理由にはならなかった。
聞き取りの記録を保存し、雪哉が継続して相良に有利な判断を促していたという結論を、一覧の下へ書いた。
これを持って、東雲社長へ話す。
瑛美にも、今日のことを伝えなければならなかった。
弥生は携帯電話へ手を伸ばし、途中で止めた。
澄花は、最後まで雪哉を庇った。
少なくとも、自分が知っている雪哉については。
弥生は、瑛美の顔を思い出した。東雲家の食卓で、兄に向かって怒っていた顔だった。
『弥生がそんなことも考えずに、自分の会社のお金使うと思ってるわけ?』
弥生は手を下ろした。
瑛美もきっと、同じなのだろう。
