上林財閥本家の次男、上林弥生と、国内有数の大手総合建設会社・東雲建設の社長令嬢、東雲瑛美。
二人が挙式と披露宴の会場に選んだのは、都内にある上林財閥グループの老舗高級ホテルだった。その宴会場には、両家の親族だけでなく、新聞の経済面で顔を見るような人々が列席していた。
高砂の前では、祝辞を述べ終えた銀行頭取と、次に挨拶を待つ企業の会長が言葉を交わしている。会場の中央では、両家の父親がそれぞれの卓を回っていた。白い花に囲まれた新郎新婦へ向けられる視線には、若い二人を祝う親しみと、新しく結ばれる両家への関心が混じっている。
「弥生さん、ご結婚おめでとうございます。お父様には、先日もお世話になりまして」
「ありがとうございます。父から伺っております。お忙しいところ、お越しいただけて光栄です」
弥生は椅子から腰を浮かせ、差し出された手を取った。黒い髪を整えた顔に、柔らかな笑みが浮かんでいる。
「瑛美さんも、すっかりお綺麗になられて。お会いするのは、お兄様の就任のお祝い以来ですかな」
「昨年の記念式典でも、ご挨拶させていただきました。あの時は父が長くお引き留めしてしまって」
「ああ、そうでした。いや、あれは私の話が長かったんです」
瑛美が笑うと、相手も楽しそうに目尻を下げた。
「奥様は、その後お加減いかがですか」
「もうすっかり。今日は来られず残念がっていましたよ」
「どうぞよろしくお伝えください。またお目にかかれるのを楽しみにしています」
白いドレスの瑛美は、膝の上に手を重ね、次の客へと顔を向けた。名前を告げられる前に会釈を返す。相手の会社だけでなく、父とどこで会い、どんな話をしたかも覚えているらしい。
弥生は一つだけ脇へ寄せておいたグラスを、彼女の右手側へ戻した。
「素晴らしいお嬢さんを迎えられましたな」
「ええ」
そこには、社交辞令を探す必要がなかった。
「僕にはもったいないくらいです」
瑛美がこちらを見た。弥生は笑ったまま、その視線を受け止める。彼女は何か言いかけたように唇を動かしたが、客の「ご謙遜を」という声に、小さく笑って顔を戻した。
写真を撮るために、二人の肩が触れた。
瑛美の左手には、先ほど自分が嵌めた指輪がある。照明を受けた細い輪を、弥生はほんの一瞬だけ見下ろした。
「もう少し、お顔を寄せていただけますか」
弥生は瑛美の腰へ手を添え、少しだけ身体を寄せた。
掌の下で、彼女の身体が強ばった。
顔を見れば、瑛美はカメラへ微笑んでいる。けれど、膝の上の指が重なったまま、きゅっと握られていた。
弥生は腰に添えた手の力を緩めた。
——嫌なんかな。
シャッターの音がした。瑛美が息を吐く。弥生は客へ笑顔を返しながら、そっと手を離した。
*
「しかし、よくまとまりましたな」
高砂から離れた卓で、一人の男がグラスを置いた。新郎新婦の前にできた列を眺め、隣席へ声を落とす。
「東雲さんも、これでひと安心でしょう」
「一時はどうなることかと思いましたよ。あの規模で、あそこまで資金繰りが詰まるとは」
「上林キャピタルが入ったんでしょう?」
「ええ。相当な額だと聞いています」
隣の男は、給仕が近づいてくるのを見て口を閉じた。皿が置かれ、足音が遠ざかってから、再び高砂へ目をやる。
「その話が決まって、ほどなくご婚約でしたからね」
「なるほど」
短い相槌のあと、二人は新婦を見た。
瑛美は、挨拶に来た客の言葉に微笑んでいた。隣の弥生も穏やかな顔をしている。救済を受けた会社の娘と、救済を決めた投資会社の代表。並んだ姿に、不釣り合いなところは少しもなかった。
「まあ、ご本人たちもお似合いだ」
「昔からのお付き合いだそうですし」
そこで話は途切れた。会場に拍手が広がり、二人もグラスを置いて手を叩いた。
*
客の列がようやく途切れると、瑛美は背筋を伸ばしたまま、そっと息を吐いた。
弥生が顔を寄せる。
「疲れてへん?」
「うん。ちょっと、笑いすぎて頬が痛いけど」
瑛美は水を一口飲んだ。口紅が縁につかないよう飲み口を確かめてから、弥生の皿を見る。
「弥生も全然食べてないじゃん」
「僕はあとでええわ。そっちこそ、食べられる時に食べときや」
「これ、一口でいけるかな」
「いけるやろ。僕に聞かんでも」
瑛美が小さく笑った。いつもの顔だったので、弥生もようやくグラスに手を伸ばした。
「さっき、ごめんね」
「何が?」
「写真の時。ちょっとびっくりしちゃって」
彼女はフォークを手に取ったものの、皿へ視線を落としたままだった。
「……弥生なのに、変に緊張しちゃって。こういうの、まだ慣れなくて」
「そら、こんだけ人に見られてたらな」
そう答えると、瑛美は頷いた。
昔は、自分の肩越しに携帯の画面を覗き込んでくることもあった。こちらの腕を掴んで、行きたい店へ引っ張っていくことも。触れたからといって、わざわざ謝られたことはない。
「しんどなったら言いや」
「うん。ありがとう」
瑛美が料理を口へ運ぶ。弥生は次の客が近づいてくるのを見て、彼女が飲み込むまで先に挨拶を引き受けた。
「本日はおめでとうございます」
新しく差し出された手を、いつもの笑顔で迎えた。
*
披露宴を終え、最後の招待客を見送った頃には、窓の外は暗くなっていた。
控室では、弥生の父がホテルの担当者から帰りの車について説明を受けていた。母は瑛美に気づくと、手元のバッグを閉じた。
「瑛美さん、お疲れさま。重かったやろ、そのドレス」
「少し。でも、脱いでしまうのも惜しくて」
「よう似合うてたわ。お写真ができたら、見せてな」
「はい、ぜひ」
瑛美の母が娘の裾を整え、椅子を引く。その隣で、東雲の父が上林の両親へ頭を下げた。
「本日は本当にありがとうございました。こうして皆様に祝っていただけて……。東雲のことも、改めて、お礼を申し上げます」
「どうぞ、お顔を上げてください。そんな、お気遣いいただかんでも」
弥生の父は落ち着いた声で応じた。
「今日はこちらも、大勢の方に足を運んでいただきまして。今後とも、よろしゅうお願いいたします」
東雲の父が頷く。弥生の父は一拍置いてから、息子へ目を向けた。
「弥生。お前が決めたことや。明日からも、しっかりやりなさい」
「分かっております。きちんとやらせてもらいます」
弥生はその視線を受け止めた。
母が立ち上がり、瑛美の前へ来た。
「昔から知ってるからこそ、かえって言いにくいこともあるやろ。困ったら、遠慮せんと相談してな」
「ありがとうございます」
「弥生も。長いこと一緒におったからいうて、何でも分かってると思たらあかんよ」
母の視線が、息子へ移った。
「これからの方が長いんやからね」
「はい。よう覚えときます」
弥生が答えると、母はそれ以上何も言わず、瑛美へ穏やかに微笑んだ。
両家の親は車の手配を確かめ、互いに挨拶を交わした。上林の両親が先に控室を出る。弥生は扉まで見送り、戻ったところで東雲の父に呼び止められた。
「弥生くん」
父は声を落とし、もう一度頭を下げた。
「君がいてくれなかったら、今日をこんな気持ちで迎えることはできなかった。本当に、ありがとう」
弥生は父親の腕に軽く手を添えた。
「もうええですって、お義父さん。今日は瑛美の祝いの日なんやから」
「そうだな。……瑛美を、よろしく頼む」
「はい。大事にします」
それだけは、何度でも答えられた。
母が娘を抱きしめ、ドレスを崩さないように離れた。瑛美が「また連絡するね」と手を振る。父母の姿が扉の向こうへ消えるまで、弥生も隣で見送った。
二人だけになると、瑛美がこちらを向いた。
「弥生」
いつもの呼び方に、弥生は顔を上げた。
「本当に、ありがとう。お父さんもお母さんも、あんなにほっとした顔、久しぶりだった」
「うん」
「私も、ちゃんと頑張るから」
「もう十分頑張ったやろ、今日は」
「今日のことだけじゃなくて」
瑛美は左手の指輪を見てから、少し姿勢を正した。
「これからも、よろしくお願いします」
弥生の口元に残っていた笑みが、わずかに動きを止めた。
彼女は真面目だった。先ほど客へ返していた挨拶とも、両親へ向けていた笑顔とも違う。弥生の返事を待っている、その顔を見ていると、軽口を返していいのか分からなくなった。
「……そんな肩に力入れんでええよ」
笑い直し、椅子へ促す。背中に触れようとした手は、背もたれに置いた。
*
着替えを終えた瑛美を待って、ホテルの廊下を歩いた。
ドレスを脱ぐと、彼女は急に身近になったように見えた。肩までの距離も、隣から聞こえる足音も、よく知っているものだった。
いつもなら気にも留めない距離を、今日は測ってしまう。袖が触れるほど近づいてもいいのか。それとも、少し離れていた方が彼女は楽なのか。
七歳の頃から、二十年。
弥生は瑛美を好きだった。
京都を本拠としてきた上林の本家が、家族ごと東京へ移ったのは七歳の時だった。京都には今も親戚がおり、折に触れて帰っている。けれど東京で家族ぐるみの付き合いが始まった瑛美を好きではなかった時期は、思い出せない。子どもの頃も、思春期も、離れて暮らしていた間も、次にいつ会えるかを考えていた。
その瑛美が、今日、自分の妻になった。
歩くたびに揺れる彼女の左手に、自分と同じ指輪がある。これからは訪ねる理由を考えなくていい。別れる時に、次の約束を取りつけなくていい。同じ家へ帰って、翌朝も顔を見られる。
嬉しくないはずがなかった。
隣にいる彼女を見ただけで、口元が緩みそうになる。挙式の間、指輪を嵌める手が震えなかったのは、我ながらよくやったと思う。
「足、痛ない?」
瑛美が少し歩調を落としたので、弥生は尋ねた。
「少しだけ。履き慣れてなくて」
「ゆっくりでええよ」
腕を差し出すと、瑛美は一度こちらを見てから、そっと手を添えた。
「ありがとう。助かる」
いつもの調子で言った瑛美は、腕に指を掛け直した。けれど、その先はどうしたらいいか迷うように、肘を少し浮かせている。
弥生は何も言わず、その手を受け止めた。
弥生は歩く速さを落とした。
彼女の父が、あれほど頭を下げた理由を知っている。母が安心して笑えた理由も、瑛美が礼を言う理由も。
東雲建設が経営危機に陥り、上林キャピタルが救った。
彼らが知っているのは、それだけだ。
資金を必要とする東雲の前から、調達の道が一つずつ消えていったことは、偶然ではなかった。信用に響く働きかけも、取引環境にかけた圧力も、弥生が上林の資本力と人脈を使って積み重ねたものだった。
会社を潰すつもりはなかった。上林の支援を受け入れざるを得ないところまで追い込めばいい。その範囲に収められると考えていた。
実際の悪化は、見積もっていたより早かった。それでも当時の弥生は、自分の働きかけがよほど効いたのだと受け取った。
そして、自分が狭めた道の先に、救済融資を差し出した。
瑛美との結婚を条件に。
普通に結婚を申し込めば、彼女は断ったかもしれない。幼馴染でいたいと言われたら、そのあとも同じように隣へ座れたかどうか、弥生には分からなかった。
断られない方法を選んだ。
彼女の父も母も、何も知らない。この先も知らせるつもりはない。東雲は立て直すし、瑛美は生涯大切にする。そのために引き受けた仕事も責任も、投げ出す気はなかった。
腕に添えられた手の重みは、ごく軽い。
握りたいと思った。けれど、そうすれば彼女はまた、妻として何をすべきか考えるのだろうか。
今夜のために用意されたスイートルームの前で、弥生はカードキーを取り出した。
「弥生」
呼ばれて振り向く。
瑛美は腕から手を離した。扉の脇に立ち、カードキーを見てから弥生へ視線を戻す。
「……私、先に入ってていい?」
「もちろん。何で聞くねん」
「うん。そうだよね」
瑛美は小さく笑った。それでも、扉が開いてから一歩を踏み出すまで、間があった。
広いリビングには花が飾られ、窓の向こうには街の灯りが見えた。奥の寝室へ続く扉は開いている。白いリネンを掛けた大きなベッドが、そこから見えた。
瑛美の目が、その上で止まった。
結婚した日の夜。二人が初めて夫婦として迎える、初夜だった。
これまで瑛美は、弥生とこんなふうに一つの寝室へ入ったことがない。彼に服を脱がされ、裸の身体に触れられることを考えると、足が進まなかった。幼馴染としてなら、二人きりでいくらでも過ごせたのに、その先で何をされるのか、自分がどう感じるのかは分からない。
弥生が嫌いなわけではない。けれど、彼と性的なことをするのは怖かった。
背後で扉が閉まる音がして、瑛美は振り向いた。
「瑛美?」
「……ううん」
答えたあとも、バッグの持ち手から指を離せなかった。弥生が近づくと、その視線が彼の手を追う。
弥生は足を止めた。
「まず、座ろか。何か飲む?」
「お水、もらえる?」
「うん。ちょっと待ってな」
弥生が寝室とは反対の方へ向かうと、瑛美はゆっくりソファに腰を下ろした。膝を揃え、バッグを脇に置く。
グラスを渡す時、指が触れた。
瑛美の手が、わずかに跳ねた。
「ごめん」
「ええよ」
弥生はグラスから手を離した。隣に座るつもりだったが、向かいの椅子に腰を下ろす。
——僕と二人になるん、そんなに怖い?
聞けなかった。聞けば彼女はきっと、そんなことはないと答える。困らせたくないと思いながら、今の反応が見間違いだったことにしてほしかった。
結婚はできた。
これからも隣にいられる。望んだ通り、誰にも渡さずに済んだ。
瑛美は両手でグラスを持ち、水を一口飲んだ。こちらと目が合うと、笑おうとする。その肩には、まだ力が入っていた。
名前は、いつも通り呼んでくれる。
それなのに、近づくたびに身構えさせる。
弥生は膝の上で手を組んだ。
二十年間、自分の隣で何も気にせず笑っていたあの瑛美を、妻にしたはずだった。
