静かに暮らしたいのに町長選挙に巻き込まれました

 
 東京の夜の空は、暗くない。街のネオンで靄がかかったようにぼんやりとした薄闇だ。東京に進学して見上げた夜空は、まるで自分の心の中のようだとあの頃いつも思っていた。思春期に、好きになるのが男だけだと気づいてから、自分はずっと薄らと暗い靄の中を歩いてきた。

 ーーそんな感傷的な思い出は、スマートフォンのアラームに一瞬でかき消される。

「結城さん、あと五分…!もう出られますか?」

 有楽町から特急に乗るため東京駅まで移動したのだが、電車に揺られたことで結城はまた吐き気をもよおしたようだ。なんとか俺の呼びかけに反応して駅のトイレから出てきたが、顔が真っ青。どうやらしこたま吐いたらしい。

「つかまって!」
「でもセ…」
「いいから!もう時間ありませんよ!早く!」

 ふらふらの結城を支えつつホームまで走り、ギリギリ目的の特急に乗ることが出来た。乗った途端、まだ顔色の悪い結城は背もたれを倒してぐったりと横になって眠る。

 間に合った…。

 ホッとして、結城越しに窓の外の景色を眺めると、自然と大郷に帰った日のことを思い出した。友人に恋して何も言えないまま失恋して…。もう叶わない恋をするのも、異性愛者のふりをするのも疲れて、俺はあの日、地元に帰る特急に乗った。ずっとずっと薄ら靄の中を歩いてきて、ついに暗闇に落ちたような気持ちだった。

 だからあの日の俺に、窓の外の景色を見る余裕などなかった。

「う…」

 ぼんやりしていると、結城が体を少し動かして、呻くようなため息をついた。まだ具合が悪いらしい。次、乗り換えのタイミングで水を買って飲ませよう…。考え事をしているとあっという間に乗り換えの駅に着いた。

「結城さん、起きてください!乗り換えです!」

 結城を起こして、電車を降りる。水を買ってやろうとして、そういえば結城は大郷から来なかったことを思い出した。

「結城さんは、この駅で降りますか?」
「いや、大郷に帰る…」
「じゃあ急ぎましょう!」

 水を買ってから、大郷に向かうローカル線のホームへ向かう。大郷への電車は実はディーゼル車。ドアも自動で開かず、ボタンを押して開ける仕様だ。

 最終のホームは人がまばら。車内もガラガラだった。各駅停車だが、席はほぼボックス席。念のためトイレの近くのボックス席を選んで結城を座らせた。俺も正面の席に腰を下ろし、ペットボトルの水を差し出す。

「水、少し飲んだ方がいいですよ」
「すみません…」

 差し出された水を飲み喉を潤すと、結城はまた眠ってしまった。

 男前が弱って、長身を丸めている。昼間は完璧なイケメンだったのに、子供っぽい仕草をするギャップ。ちょっと、可愛すぎないか…?

 結城の姿にほっこりしていると、発車の音楽が流れた。

 県庁の最寄り駅から大郷までは電車で一時間十分。三十分も過ぎると徐々に民家が減り外の闇が深くなる。もう十分過ぎると電車は森に吸い込まれてしまう。電車のライト以外の光は見えない。さらに十分過ぎると森を通過し、渓谷に出る。窓の外は、山と川。時間が遅い今、その姿は大きな影のようだ。電車の音に混ざって少しだけ、川のせせらぎが聞こえる。渓谷を走ること十分。終点大郷のひとつ前の駅で結城は目を覚ました。

「水、飲みますか?」
「ありがとうございます」

 結城は水を飲んで一息つくと、ため息混じりにぽつりとこぼした。

「本当に、迷惑かけてすみません…」
「そんな。大丈夫です。楽しかったし」

 今日俺は楽しかったんだと、 『楽しかった』と言った、自分で自分に驚いてしまった。

「でも俺、町長失格ですね」
「結城さん、それ、言ったら駄目ですよ」
「そうだ。すみません…」
「はは…!」

 俺が笑うと、結城は目をぱちぱちと瞬いた。

「黒澤くんが笑ったところ、初めて見たかも」
「え…?」
「困ったところは結構見てるんだけど。俺が役場に立候補の手続きに行った時とか…」
「その時、話しましたっけ…?」

 結城は何かを思い出したようで、クスッと笑った。

「この間と同じ、おばあちゃんたちに囲まれて、結婚しないからだ~とかいじられてたよ。俺なりに声かけて、助けたつもりだったんだけど、黒澤くんはさっさといなくなっちゃって…」
「そ、そうでしたか。お礼もせず、すみません」

 結城が結婚の話題から俺を遠ざけてくれたのは、俺のことを『結婚の話題を振られたら困る人物』だと察知したからだろうか。つまり、それは……。

 しかし、自分から『俺もゲイだと気付いているのか』とは聞けなかった。だって俺は結城みたいにイケメンで弁護士でもない。暗くて地味で…。告白する勇気がなかった。だからまたあの日のように、俺はその話題から逃げ出した。

「そう言えば結城さん、なんで大郷町なんですか?実家は隣の市でしょう?」
「実家はね。でも俺、母親が教育熱心で小学校から東京の私立に通っていて、実質この県に住んだのは就職してからなんだ」
「それなら尚更、東京の方が、向いてる気がしますけど…」
「大学生の頃、じいちゃんの家に行こうとして乗り過ごして、終点の大郷まで行ったことがあって。その時、窓の外の星がすごくて、感動したんだ」

 結城はそういって、窓の外を見た。確かに東京から帰省すれば、大郷の夜の暗さと星の綺麗さには驚くだろう。

 その時ちょうど、電車がトンネルに入った。トンネルの中に入ると、外の景色は見えなくなる。すると結城はそっと目を閉じた。

「そのあと何回も電車で大郷に通って…。春は桜を見るだろ?夏はキャンプしたり、花火を見たり。秋は紅葉、冬は滝が凍るし…。俺、大郷が好きなんだ」

 結城は瞼の裏に思い出の大郷を映しているのかもしれない。それを見られないことがもどかしく感じた。

 そして電車はトンネルを抜ける。視界が開け、窓の外には一面の星空が広がった。結城が目を開けると、瞳に星空が映し出される。瞳の中に光る星はキラキラと瞬いて、瞼が動くと流れ星みたいに弾けて散っていく。

「次は大郷~、終点、大郷~」

 終点のアナウンスと共に結城が窓の外から車内に視線を移したことで、星空は消えてしまった。いつもならやっと着いたとホッとするはずなのに、今日は酷くがっかりした。

 ーー友人を好きになって失恋して、大郷に逃げ帰ったあの日、ずっと俯いていた俺が、こんなに大郷の星空に見惚れるなんて、思わなかった。

 きっとずっと、俺は本当の大郷を、知らなかったんだ…。





 最終の電車を降りると駅にタクシーは一台もいない。俺は酔っている結城を家まで送ることにした。

 結城は大学卒業してすぐ、大郷の空き家を購入したらしい。かなり安く買ったようだが…。

「駅から遠いですね」
「そう。駅から遠いから、職場で飲むとタクシーなくて帰れなくなる」
「不便ですね」

 結城は中心地から少し離れた、民家がまばらな場所に住んでいるようだ。俺は結城の家の、少し手前で車を停めた。

「結城さん。近くまで行くと、知らない車で送られてたって変に噂になるかもしれないから、ここで…」

 そう、ここ大郷は昭和息づく村社会。隣の人がどんな人かは皆、熟知している。しかも結城は有名人。知らない車で送られたって知れたら…。

「俺は気にしないけど、黒澤くんは気になる?」
「気になります。結城さんの選挙に影響がでてしまったら取り返しがつかない」
「そっか。…ありがとう…」

 結城は車のドアを開けて、静かに降りた。俺の方を振り返り、ドアを開けたまま笑顔を向ける。

「俺、本当に大郷が好きなんだ。だから絶対、黒澤くんが住みやすい街にするよ!」

 結城はもう一度ありがとうと言ってドアを閉めると、走って帰って行った。

「あんなに吐いたのに…」

 バックミラー越しに見る結城はどんどん小さくなる。完全に見えなくなるまで見送ってから、俺はUターンしてアクセルを踏み込んだ。