五月の水仙は枯れない

 夏休みは、ほとんど図書館で終わった。

 市立図書館の二階、窓際の長机。朝の九時に開館すると同時に入って、閉館の音楽が鳴るまでそこにいた。今里くんは、たいてい私の向かいに座っていた。

 付き合い始めたからといって、何かが大きく変わったわけではなかった。

 受験生の夏には、デートと呼べるようなことをする時間はほとんどない。ただ、同じ机で問題集をほどいて、昼になったら一緒に外のベンチでおにぎりを食べて、帰りに駅まで並んで歩く。それだけだった。

 それだけのことが、毎日、ちゃんと嬉しかった。

 向かいの席で、今里くんが数学の問題に唸っている。シャーペンの尻で額を叩いて、ノートを睨んで、また叩く。そのシャーペンの軸には、駅前の歯医者の名前が金色で印刷されていた。待合室でもらったのだと、本人は言っていた。

 私は、自分の英文から目を上げて、その様子を眺めていた。天井の送風口から降りてくる冷房の風が、開いたページの端を小さく揺らしていた。

 目が合った。

「……見てた?」

「見てない」

「見てたじゃん」

「……額、赤くなってる」

 今里くんは、慌てて額をこすった。余計に赤くなった。

 図書館の司書さんが、こちらを見て咳払いをした。私たちは同時に問題集に顔を伏せた。

 

 志望校は、同じだった。

 隣の県の、国立大学。家から電車で一時間と少し。私の成績なら、たぶん大丈夫。今里くんの成績だと、夏の模試の判定はCだった。

「秋までにBにする」

 今里くんは、判定の紙を折り畳みながら言った。

「冬にはA」

「……できるの」

「する」

 迷いのない声だった。

 今里くんは、その日から、図書館にいる時間がさらに長くなった。閉館の音楽が鳴っても、最後の一問が終わるまで席を立たなかった。

 同じ大学に行く。

 それが、二人のあいだで、いつのまにか当たり前の約束になっていた。

 

 二学期の最初の日に、席替えがあった。

 私は廊下側の前から三番目、今里くんは窓際の一番後ろになった。四月から五ヶ月、ずっと隣にあった横顔が、教室の対角線の向こうへ行ってしまった。

 授業中にふと振り返ると、ときどき、目が合った。今里くんは、そのたびに、何でもない顔で黒板のほうを向いた。

 

 九月の終わりだった。

 放課後、進路指導室に呼ばれた。

 担任の宮下先生と、学年主任の先生が並んで座っていた。机の上に、一枚の書類が置いてあった。

「山吹。指定校推薦の枠が一つ、空いてる」

 宮下先生が、書類を私のほうへ滑らせた。

 大学の名前を見て、息が止まった。

 東京の、私立大学だった。名前を知らない人はいない、というくらいの。文学部。私が、小学生のころから、なんとなく憧れていた場所。

「評定は足りてる。校内選考も、たぶん通る。……ただ、専願だから、出したら他は受けられない」

「……」

「締め切りは、十月の二週目。家の人とも、よく相談しなさい」

 私は、書類を持って、進路指導室を出た。

 廊下の窓から、夕日が斜めに差し込んでいた。

 書類の文字が、橙色に染まって、うまく読めなかった。

 

 その夜、母に書類を見せた。

 母は、書類を二度読み返してから、顔を上げた。

「すごいじゃない」

「……うん」

「行きたいんでしょう。昔から」

「……わかんない」

 母は、私の顔を見た。

「わかんないの、そこの大学のこと? それとも、別のこと?」

 私は、答えられなかった。

 母は、それ以上は訊かなかった。

 書類を私に返して、「お父さんには、私から話しておく」とだけ言った。

 

 今里くんに話さなきゃ、と思った。

 思いながら、三日が過ぎた。

 図書館の向かいの席で、今里くんは相変わらず数学の問題に唸っていた。九月の模試は、B判定だった。「言ったろ」と、得意げに紙をひらひらさせた。

 その顔を見ると、口が開かなかった。

 三日目の夕方、図書館の外のベンチで、今里くんが自販機のココアを二本買ってきた。

「なあ、大学入ったらさ」

 缶を私に渡しながら、今里くんは言った。

「学食、毎日一緒に食べようぜ。あそこの学食、カレーがうまいらしい。朔の兄貴が言ってた」

「……うん」

「あと、なんだっけ。キャンパスに、でかい銀杏並木があんの。秋になると、道がぜんぶ埋まるくらい葉っぱが落ちるんだって。……それ、二人で見たいなって」

 今里くんは、缶のプルタブを開けて、空を見上げた。

「なんか、楽しみなことばっかだな」

 私は、手の中のココアの缶を見ていた。

 温かかった。温かすぎて、指先が痛かった。

 言うなら、今だった。

 でも、この人の「楽しみなことばっか」の中に、私の書類の話を落とす方法が、どうしても見つからなかった。

 

 東京の大学。家から通えない距離ではない。でも、隣の県の国立とは、方向がまるで逆だった。同じキャンパスに通う、という約束は、そこで終わる、はずだった。

 言ったら、私が何かを手放したことが、本当になってしまう。

 だから、言わなかった。

 席替えのあとも、昼休みになると、窓際の一番後ろの今里くんの席に集まった。隣の空いた机を借りて、四つをくっつける。

 四日目の昼休み、そうして机を囲んでいたとき、萩原くんが何気なく言った。

「そういや山吹さん、指定校の話きてんでしょ。美月が言ってた。職員室で聞こえたって」

 

 箸が、止まった。

 亜美が、「ちょっと、朔」と小声で言った。

 萩原くんは、きょとんとした顔で私たちを見回した。それから、隣の今里くんの顔を見て、自分が何かを踏んだことに、ようやく気づいたらしかった。

「……え、言ってなかった?」

 今里くんは、私を見ていた。

 驚いた顔だった。

 でも、それはほんの一瞬で、すぐに、別の顔に変わった。

「どこ?」

「……」

「大学。どこ」

 私は、大学の名前を言った。

 今里くんは、目を見開いた。

「すげーじゃん」

 すぐだった。

「行けよ。そんなの、行くしかないじゃん」

 笑っていた。

 いつもの笑い方だった。私の前で、よくする笑い方。

 すぐだった。

 一秒も、なかった。

 

 四月から、ずっと、この人は待ってくれた。

 私が言葉を探している間、シャーペンを指で回したり、パンの次の一口を遅らせたりしながら、ずっと隣にいてくれた。

 その人が、今、一秒も待たなかった。

 私が何を考えているのかも、訊かなかった。行きたいのかどうかも。迷っているのかどうかも。

 行けよ、と言った。

 すぐに。

 まるで、離れることなんて、何でもないみたいに。

「……なんで」

 声が出た。

 自分でも驚くくらい、速かった。

「なんで、すぐ言うの」

 今里くんの笑顔が、固まった。

 私は、弁当の蓋を閉めた。手が震えて、うまく閉まらなかった。二回目で、やっと閉まった。

 立ち上がった。

「渚沙」

 呼ばれた。

 振り返らなかった。

 教室を出て、廊下を歩いた。後ろで、亜美が「待って」と言うのが聞こえた。

 上履きの音が、ぱたぱたと鳴っていた。

 六月の階段で聞いたのと、同じ音だった。