今里くんが向かったのは境内の奥だった。
屋台は鳥居の手前の坂道に並んでいて、境内の中は思っていたよりずっと静かだった。提灯の明かりが、本殿へ続く石畳をぼんやりと照らしている。参拝の列が少しできていて、その向こうの暗がりに、あの大きな楠が立っていた。
今里くんは本殿の前の石段に座った。
五月に、二人で座った場所だった。
私も、隣に座った。
浴衣の裾を膝の下に押し込んで、下駄を揃える。石段は、夜になっても、昼間の熱をまだ抱えていた。
「足、痛くない?」
「……ちょっと」
「鼻緒、慣れないとそうなるよな」
今里くんは自分の雪駄を見下ろした。
「俺も。甚平なんか、小学生以来」
「……似合ってる」
今里くんがこちらを向いた。
「さっきの、仕返し?」
「……ちがう」
本当に、ちがった。
紺色の甚平。袖から出た腕。いつもより少し短く見える髪。似合っていると思ったから、そう言っただけだった。
今里くんは、私の顔を見ていた。提灯の赤い光が、その目の中で小さく揺れていた。
それから、前を向いた。
「……そっか」
遠くで、どん、と音がした。
川のほうの空に、光の輪が広がった。赤。それから、少し遅れて金色。境内のあちこちから、小さな歓声が上がった。
私たちの座っている場所からは、楠の枝のあいだから、ちょうど花火が見えた。
二発目。三発目。
石段の端に、誰かが飲み残したラムネの瓶が一本、立っていた。花火が上がるたびに、瓶の首のビー玉が、同じ色に光った。
光が上がるたびに、今里くんの横顔が、色を変えた。
私は、花火よりも、そちらを見ていた。
見ていたことに、気づかれないように。
今里くんは膝の上で指を組んでいた。
組んで、ほどいて、また組んだ。
「渚沙」
「……うん」
「俺さ」
どん、と花火が鳴った。
今里くんは、その音が消えるのを待った。
待って、それから、言った。
「渚沙のことが、好きだ」
花火の光が、ゆっくりと、夜空に溶けていった。
私は、何も言えなかった。
言葉が、どこにもなかった。頭の中が真っ白で、いつもならぐるぐる回っているはずの言葉たちが、一つ残らずどこかへ行ってしまっていた。
今里くんは、前を向いたままだった。
「……四月に、隣になってさ」
ぽつりと、言った。
「最初、なんでこの子こんなに返事遅いんだろって思って。でも、待ってたら、ちゃんと来るじゃん。考えたやつが。……それが、なんか、すげーよくて」
花火が、また上がった。
「気づいたら、待ってる時間のほうが好きになってた」
今里くんは組んだ指に力を込めた。
「だから、今も待つ。……いくらでも」
花火の音が、続いていた。
私は自分の膝の上の手を見ていた。
簪が、髪の中で少しずれていた。下駄の鼻緒が、指のあいだで熱を持っていた。遠くの歓声。太鼓の音。楠の葉が、夜風に揺れる音。
全部が、少しずつ遠くなっていった。
残ったのは、隣にいる人の、組まれた指だけだった。
少しずつ、少しずつ、この人の前でだけ、私の言葉は早くなっていった。
それでも、今は、何も出てこなかった。
出てこないまま、手が動いた。
私は、今里くんの甚平の袖を、指先でつまんだ。
今里くんが、息を止めたのがわかった。
最後の花火が上がった。
ひときわ大きな、金色の光だった。夜空いっぱいに広がって、しだれ柳みたいに、ゆっくりと垂れ落ちていく。
その光が、全部消えるのを待って。
境内が、しんと静かになってから。
「……私も」
息を、吸った。
「好き」
今里くんは、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりとこちらを向いた。
花火の消えたあとの暗がりで、表情はよく見えなかった。
「……今の、もう一回言って」
「……え」
「花火のあとで、静かすぎて。なんか、夢みたいだったから」
私は、つまんでいた袖を、もう少し強く引いた。
「……好き」
今里くんが、笑った。
声を出さずに、顔をくしゃくしゃにして。
それから、袖をつまんでいた私の手を、そっと上から包んだ。
大きくて、温かくて、かすかに震えていた。
その手の温度を感じながら、ふと、文化祭の日の廊下を思い出した。
俺がいなくなったらどうする、と訊かれた。
あの日の、もう一つの問いの答えは、まだ来ていなかった。
手を重ねたまま、座っていた。
花火が終わって、人の流れが坂の下へ向かっていく。境内に残っているのは、提灯の明かりと、私たちと、参拝の列の最後の何人かだけになった。
今里くんがふいに立ち上がった。
「ちょっと待ってて」
「……どこ行くの」
「お守り買ってくる」
今里くんは本殿の脇の授与所のほうを指さした。小さな窓口に、まだ明かりが灯っている。
「受験の。……二人分」
照れたように言って、歩いていった。
私は、石段に座ったまま、その背中を見送った。
今里くんは、授与所の前で何か話して、それから、少し脇へ逸れた。本殿の横の、暗がりのほうへ。そこで何をしているのかは、参拝の人の背中に隠れて、よく見えなかった。
参拝の人が二組ほど入れ替わったころ、今里くんは、本殿の正面に戻ってきた。
賽銭箱の前に立った。
手を合わせていた。
長いあいだ、そうしていた。
参拝の最後の人が石段を下りていっても、今里くんは、まだ手を合わせていた。背中が、提灯の明かりの中で、ぽつんと浮かんでいた。
何を祈っているんだろう、と思った。
受験のことだろうか。
それとも。
今里くんが戻ってきた。
「はい」
差し出されたのは、紺色の小さなお守りだった。学業成就、と金の糸で縫い取られている。
「おそろい」
今里くんが自分の分を掲げてみせた。同じ紺色だった。
「……ありがとう」
受け取るとき、今里くんの指先が見えた。
右手の人差し指の脇に、黒いインクが、うっすらついていた。
私は、それが何なのか、訊かなかった。
今里くんはお守りを甚平の懐にしまった。
「帰ろっか」
差し出された手を、今度は迷わずに取った。
屋台はもう半分くらい店じまいを始めていて、坂道には焼きそばのソースと、消えたばかりの炭の匂いが残っていた。提灯の明かりが、一つ、また一つと落とされていく。
下り坂を、手を繋いだまま歩いた。
下駄の鼻緒が、さっきよりずっと痛かった。でも、そう言ったら手を離されそうな気がして、黙っていた。
今里くんの歩幅は、五月の帰り道よりも、さらに小さくなっていた。
途中で亜美からメッセージが来た。
『どうだった』
『???』
『返事!!』
私は、繋いでいないほうの手で、画面を伏せた。
今里くんが横で吹き出した。
「見えた」
「……見ないで」
「小野寺、あとで絶対うるさいな」
「……うん」
坂の下まで来ると、駅前の明かりが見えた。花火帰りの人たちが、改札のほうへ流れていく。その流れから外れて、私の家のほうへ曲がった。
家の前に着いた。
玄関の明かりが、ついていた。母が、窓のカーテンの隙間から、たぶん、見ている。
手を離す前に、今里くんが立ち止まった。
それから、私のほうを向いた。
「渚沙、あのさ」
「……うん」
今里くんは、何か言おうとして、口を開いた。
開いたまま、しばらく、私の顔を見ていた。
繋いだ手に、少しだけ力がこもった。
「……いや」
今里くんは、首を振った。
笑って、前を向いた。
「やっぱ、いいや」
屋台は鳥居の手前の坂道に並んでいて、境内の中は思っていたよりずっと静かだった。提灯の明かりが、本殿へ続く石畳をぼんやりと照らしている。参拝の列が少しできていて、その向こうの暗がりに、あの大きな楠が立っていた。
今里くんは本殿の前の石段に座った。
五月に、二人で座った場所だった。
私も、隣に座った。
浴衣の裾を膝の下に押し込んで、下駄を揃える。石段は、夜になっても、昼間の熱をまだ抱えていた。
「足、痛くない?」
「……ちょっと」
「鼻緒、慣れないとそうなるよな」
今里くんは自分の雪駄を見下ろした。
「俺も。甚平なんか、小学生以来」
「……似合ってる」
今里くんがこちらを向いた。
「さっきの、仕返し?」
「……ちがう」
本当に、ちがった。
紺色の甚平。袖から出た腕。いつもより少し短く見える髪。似合っていると思ったから、そう言っただけだった。
今里くんは、私の顔を見ていた。提灯の赤い光が、その目の中で小さく揺れていた。
それから、前を向いた。
「……そっか」
遠くで、どん、と音がした。
川のほうの空に、光の輪が広がった。赤。それから、少し遅れて金色。境内のあちこちから、小さな歓声が上がった。
私たちの座っている場所からは、楠の枝のあいだから、ちょうど花火が見えた。
二発目。三発目。
石段の端に、誰かが飲み残したラムネの瓶が一本、立っていた。花火が上がるたびに、瓶の首のビー玉が、同じ色に光った。
光が上がるたびに、今里くんの横顔が、色を変えた。
私は、花火よりも、そちらを見ていた。
見ていたことに、気づかれないように。
今里くんは膝の上で指を組んでいた。
組んで、ほどいて、また組んだ。
「渚沙」
「……うん」
「俺さ」
どん、と花火が鳴った。
今里くんは、その音が消えるのを待った。
待って、それから、言った。
「渚沙のことが、好きだ」
花火の光が、ゆっくりと、夜空に溶けていった。
私は、何も言えなかった。
言葉が、どこにもなかった。頭の中が真っ白で、いつもならぐるぐる回っているはずの言葉たちが、一つ残らずどこかへ行ってしまっていた。
今里くんは、前を向いたままだった。
「……四月に、隣になってさ」
ぽつりと、言った。
「最初、なんでこの子こんなに返事遅いんだろって思って。でも、待ってたら、ちゃんと来るじゃん。考えたやつが。……それが、なんか、すげーよくて」
花火が、また上がった。
「気づいたら、待ってる時間のほうが好きになってた」
今里くんは組んだ指に力を込めた。
「だから、今も待つ。……いくらでも」
花火の音が、続いていた。
私は自分の膝の上の手を見ていた。
簪が、髪の中で少しずれていた。下駄の鼻緒が、指のあいだで熱を持っていた。遠くの歓声。太鼓の音。楠の葉が、夜風に揺れる音。
全部が、少しずつ遠くなっていった。
残ったのは、隣にいる人の、組まれた指だけだった。
少しずつ、少しずつ、この人の前でだけ、私の言葉は早くなっていった。
それでも、今は、何も出てこなかった。
出てこないまま、手が動いた。
私は、今里くんの甚平の袖を、指先でつまんだ。
今里くんが、息を止めたのがわかった。
最後の花火が上がった。
ひときわ大きな、金色の光だった。夜空いっぱいに広がって、しだれ柳みたいに、ゆっくりと垂れ落ちていく。
その光が、全部消えるのを待って。
境内が、しんと静かになってから。
「……私も」
息を、吸った。
「好き」
今里くんは、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりとこちらを向いた。
花火の消えたあとの暗がりで、表情はよく見えなかった。
「……今の、もう一回言って」
「……え」
「花火のあとで、静かすぎて。なんか、夢みたいだったから」
私は、つまんでいた袖を、もう少し強く引いた。
「……好き」
今里くんが、笑った。
声を出さずに、顔をくしゃくしゃにして。
それから、袖をつまんでいた私の手を、そっと上から包んだ。
大きくて、温かくて、かすかに震えていた。
その手の温度を感じながら、ふと、文化祭の日の廊下を思い出した。
俺がいなくなったらどうする、と訊かれた。
あの日の、もう一つの問いの答えは、まだ来ていなかった。
手を重ねたまま、座っていた。
花火が終わって、人の流れが坂の下へ向かっていく。境内に残っているのは、提灯の明かりと、私たちと、参拝の列の最後の何人かだけになった。
今里くんがふいに立ち上がった。
「ちょっと待ってて」
「……どこ行くの」
「お守り買ってくる」
今里くんは本殿の脇の授与所のほうを指さした。小さな窓口に、まだ明かりが灯っている。
「受験の。……二人分」
照れたように言って、歩いていった。
私は、石段に座ったまま、その背中を見送った。
今里くんは、授与所の前で何か話して、それから、少し脇へ逸れた。本殿の横の、暗がりのほうへ。そこで何をしているのかは、参拝の人の背中に隠れて、よく見えなかった。
参拝の人が二組ほど入れ替わったころ、今里くんは、本殿の正面に戻ってきた。
賽銭箱の前に立った。
手を合わせていた。
長いあいだ、そうしていた。
参拝の最後の人が石段を下りていっても、今里くんは、まだ手を合わせていた。背中が、提灯の明かりの中で、ぽつんと浮かんでいた。
何を祈っているんだろう、と思った。
受験のことだろうか。
それとも。
今里くんが戻ってきた。
「はい」
差し出されたのは、紺色の小さなお守りだった。学業成就、と金の糸で縫い取られている。
「おそろい」
今里くんが自分の分を掲げてみせた。同じ紺色だった。
「……ありがとう」
受け取るとき、今里くんの指先が見えた。
右手の人差し指の脇に、黒いインクが、うっすらついていた。
私は、それが何なのか、訊かなかった。
今里くんはお守りを甚平の懐にしまった。
「帰ろっか」
差し出された手を、今度は迷わずに取った。
屋台はもう半分くらい店じまいを始めていて、坂道には焼きそばのソースと、消えたばかりの炭の匂いが残っていた。提灯の明かりが、一つ、また一つと落とされていく。
下り坂を、手を繋いだまま歩いた。
下駄の鼻緒が、さっきよりずっと痛かった。でも、そう言ったら手を離されそうな気がして、黙っていた。
今里くんの歩幅は、五月の帰り道よりも、さらに小さくなっていた。
途中で亜美からメッセージが来た。
『どうだった』
『???』
『返事!!』
私は、繋いでいないほうの手で、画面を伏せた。
今里くんが横で吹き出した。
「見えた」
「……見ないで」
「小野寺、あとで絶対うるさいな」
「……うん」
坂の下まで来ると、駅前の明かりが見えた。花火帰りの人たちが、改札のほうへ流れていく。その流れから外れて、私の家のほうへ曲がった。
家の前に着いた。
玄関の明かりが、ついていた。母が、窓のカーテンの隙間から、たぶん、見ている。
手を離す前に、今里くんが立ち止まった。
それから、私のほうを向いた。
「渚沙、あのさ」
「……うん」
今里くんは、何か言おうとして、口を開いた。
開いたまま、しばらく、私の顔を見ていた。
繋いだ手に、少しだけ力がこもった。
「……いや」
今里くんは、首を振った。
笑って、前を向いた。
「やっぱ、いいや」
