期末テストの最終日、答案用紙が回収されるのと同時に、教室の空気がゆるんだ。
あとは終業式までの数日を消化すれば、夏休みになる。三年生の夏休みは受験の夏で、誰もがそれをわかっていたけれど、少なくともこの日の午後だけは、誰もそのことを口にしなかった。
「ねえ、神社のお祭り、みんなで行かない?」
昼休み、四つの机をくっつけるなり、亜美が言った。
高校の近くの、坂の上の神社。毎年七月の最後の土曜日に夏祭りがある。境内に屋台が並んで、夜には川のほうから花火が上がる。坂の上からは、それがよく見えるのだという。
「行く行く」
萩原くんが真っ先に手を挙げた。
「あ、でも、美月も誘っていい?」
「誘えばいいじゃん。彼女なんだから」
亜美がにやにやすると、萩原くんは耳を赤くして、コロッケパンにかぶりついた。
文化祭のあと、萩原くんと早瀬さんは付き合い始めていた。萩原くんは、あの日から一週間くらい本当に使い物にならなかったらしい。今里くんが、そう言って笑っていた。
「裕太は?」
「行く」
今里くんは、すぐに答えた。
それから、私のほうを見た。
「渚沙は?」
私は、考えた。
人混みは得意ではない。お祭りの夜に誰かと出かけたことも、ほとんどない。でも、この四人と、あの神社で、花火を見る。それは、なんだか、とても。
「……行く」
「よし」
今里くんが、机の下で、小さく拳を握ったのが見えた。
見えてしまって、私は慌てて卵焼きを口に入れた。
夏祭りの日の夕方、母が私の浴衣を出してきた。
紺地に、白い朝顔が散っている。二年前に買ってもらって、一度も袖を通していなかったものだった。
「お祭り、誰と行くの」
帯を締めながら、母が訊いた。
「……亜美と。あと、クラスの子」
「ふうん」
母は、それ以上は訊かなかった。
訊かなかったけれど、帯の結び目を整える手つきが、いつもより念入りだった。鏡越しに目が合うと、母は何でもない顔で、私の襟元を指でなぞった。
「髪、上げてあげようか」
「……うん」
母は、私の髪をまとめて、祖母の形見の小さな簪を挿してくれた。
鏡の中に、知らない女の子がいた。
待ち合わせは、神社の坂の下だった。
家から駅の前を通り過ぎて、少し歩く。下駄の鼻緒が指のあいだに食い込んで、慣れない歩き方になった。
坂の下には、もう亜美がいた。黄色い帯の浴衣で、手を振っている。その隣に、萩原くんと早瀬さんが並んでいた。早瀬さんは、萩原くんのシャツの袖を、指先でつまんでいた。
「渚沙、かわいい!」
亜美が駆け寄ってきて、私の両手を掴んだ。
「え、髪、自分でやったの?」
「……お母さん」
「さすがお母さん」
亜美は、私の周りをぐるりと一周してから、満足そうに頷いた。
「裕太、まだ?」
萩原くんが坂の上のほうを見上げた。
屋台の明かりが、坂道に沿って点々と灯り始めている。提灯の赤い光。どこかで太鼓が鳴っていて、その音が坂の上から転がり落ちてくる。
「あ、来た」
振り返ると、今里くんが走ってくるところだった。
紺色の甚平を着ていた。袖に、畳んであったときの四角い折り目が、まだくっきり残っていた。
息を切らして私たちの前で止まって、「わり、遅れた」と言いかけて。
それから、私を見て、止まった。
今里くんは、何も言わなかった。
口を半分開けたまま、私を見ていた。
一秒。二秒。
三秒。
萩原くんが、今里くんの背中を肘で突いた。それでも、今里くんは動かなかった。
亜美が、私の隣で、息を殺して笑っているのがわかった。
私は、どうしていいかわからなくなって、下駄のつま先を見た。
それから、なぜだか、口が勝手に動いた。
「……今の間、なに」
今里くんがはっと瞬きをした。
萩原くんが、盛大に吹き出した。早瀬さんも、口元を押さえて笑っている。亜美は、私の肩にしがみついて震えていた。
「いや、違う、なんか、ちょっと」
今里くんは、片手で口元を覆った。耳が真っ赤だった。
「……考えてた」
「何を」
「なんて言えばいいか」
私は、今里くんを見た。
今里くんは、私から目を逸らして、坂の上の提灯を見ていた。
「で、結局、なんて言うの」
亜美が容赦なく追い打ちをかけた。
今里くんは、提灯を見たまま黙っていた。どこかの屋台で、風鈴が一つ鳴った。
みんな、黙って待った。
私も、待った。
いつもと、逆だった。
「……似合ってる」
やっと、それだけ聞こえた。
小さな声だった。太鼓の音に紛れて、ほとんど消えそうな。
でも、ちゃんと来た。
「……ありがとう」
私の声も、太鼓に紛れてしまいそうなくらい、小さかった。
坂を上りながら、屋台を一つずつ覗いていった。
りんご飴。たこ焼き。金魚すくい。射的。
今里くんがりんご飴を二本買ってきて、一本を私にくれた。
齧ろうとして、浴衣の袖が気になって、口元で止まった。飴の表面が硬くて、どこから歯を立てればいいのかわからない。
今里くんは、自分の分をばりばり齧りながら、私が一口目を決めるのを、横で黙って待っていた。
「……見ないで」
「見てない」
「見てる」
「待ってるだけ」
結局、飴の角のところを、小さく齧った。
甘くて、ほんのり酸っぱかった。
金魚すくいの前で、萩原くんがポイを三枚続けて破って、早瀬さんに笑われていた。今里くんがそれを覗き込んで、「下手すぎ」と言いながら自分も一枚破った。
その隙に、亜美が私の腕を引いた。
屋台の陰まで連れていかれて、耳元で囁かれた。
「今日さ、たぶん、なんかあるよ」
「……なんか、って」
「わかんないけど。あたしの勘」
文化祭のときと、同じ言い方だった。
あのときの勘は、当たっていた。
「だからさ」
亜美は、私の浴衣の襟を、母と同じ手つきでちょっと直した。
「今日は、三日かけないでね」
私が何か言う前に、亜美はもう萩原くんのほうへ戻っていた。
人の波に押されて、いつのまにか、亜美と萩原くんと早瀬さんの三人が、少し先を歩いていた。
振り返った亜美が、私に向かって、大きくウインクした。
それから、萩原くんと早瀬さんの腕を掴んで、人混みの中に消えていった。
「……あいつ」
今里くんが呆れたように笑った。
「わざとだよね」
「……うん」
「どうする。探す?」
私は、少し考えた。
考えて、首を横に振った。
今里くんは、何も言わずに頷いた。
それから、屋台の明かりから少し外れた、坂の上のほうを見た。
「渚沙。ちょっと、いい?」
あとは終業式までの数日を消化すれば、夏休みになる。三年生の夏休みは受験の夏で、誰もがそれをわかっていたけれど、少なくともこの日の午後だけは、誰もそのことを口にしなかった。
「ねえ、神社のお祭り、みんなで行かない?」
昼休み、四つの机をくっつけるなり、亜美が言った。
高校の近くの、坂の上の神社。毎年七月の最後の土曜日に夏祭りがある。境内に屋台が並んで、夜には川のほうから花火が上がる。坂の上からは、それがよく見えるのだという。
「行く行く」
萩原くんが真っ先に手を挙げた。
「あ、でも、美月も誘っていい?」
「誘えばいいじゃん。彼女なんだから」
亜美がにやにやすると、萩原くんは耳を赤くして、コロッケパンにかぶりついた。
文化祭のあと、萩原くんと早瀬さんは付き合い始めていた。萩原くんは、あの日から一週間くらい本当に使い物にならなかったらしい。今里くんが、そう言って笑っていた。
「裕太は?」
「行く」
今里くんは、すぐに答えた。
それから、私のほうを見た。
「渚沙は?」
私は、考えた。
人混みは得意ではない。お祭りの夜に誰かと出かけたことも、ほとんどない。でも、この四人と、あの神社で、花火を見る。それは、なんだか、とても。
「……行く」
「よし」
今里くんが、机の下で、小さく拳を握ったのが見えた。
見えてしまって、私は慌てて卵焼きを口に入れた。
夏祭りの日の夕方、母が私の浴衣を出してきた。
紺地に、白い朝顔が散っている。二年前に買ってもらって、一度も袖を通していなかったものだった。
「お祭り、誰と行くの」
帯を締めながら、母が訊いた。
「……亜美と。あと、クラスの子」
「ふうん」
母は、それ以上は訊かなかった。
訊かなかったけれど、帯の結び目を整える手つきが、いつもより念入りだった。鏡越しに目が合うと、母は何でもない顔で、私の襟元を指でなぞった。
「髪、上げてあげようか」
「……うん」
母は、私の髪をまとめて、祖母の形見の小さな簪を挿してくれた。
鏡の中に、知らない女の子がいた。
待ち合わせは、神社の坂の下だった。
家から駅の前を通り過ぎて、少し歩く。下駄の鼻緒が指のあいだに食い込んで、慣れない歩き方になった。
坂の下には、もう亜美がいた。黄色い帯の浴衣で、手を振っている。その隣に、萩原くんと早瀬さんが並んでいた。早瀬さんは、萩原くんのシャツの袖を、指先でつまんでいた。
「渚沙、かわいい!」
亜美が駆け寄ってきて、私の両手を掴んだ。
「え、髪、自分でやったの?」
「……お母さん」
「さすがお母さん」
亜美は、私の周りをぐるりと一周してから、満足そうに頷いた。
「裕太、まだ?」
萩原くんが坂の上のほうを見上げた。
屋台の明かりが、坂道に沿って点々と灯り始めている。提灯の赤い光。どこかで太鼓が鳴っていて、その音が坂の上から転がり落ちてくる。
「あ、来た」
振り返ると、今里くんが走ってくるところだった。
紺色の甚平を着ていた。袖に、畳んであったときの四角い折り目が、まだくっきり残っていた。
息を切らして私たちの前で止まって、「わり、遅れた」と言いかけて。
それから、私を見て、止まった。
今里くんは、何も言わなかった。
口を半分開けたまま、私を見ていた。
一秒。二秒。
三秒。
萩原くんが、今里くんの背中を肘で突いた。それでも、今里くんは動かなかった。
亜美が、私の隣で、息を殺して笑っているのがわかった。
私は、どうしていいかわからなくなって、下駄のつま先を見た。
それから、なぜだか、口が勝手に動いた。
「……今の間、なに」
今里くんがはっと瞬きをした。
萩原くんが、盛大に吹き出した。早瀬さんも、口元を押さえて笑っている。亜美は、私の肩にしがみついて震えていた。
「いや、違う、なんか、ちょっと」
今里くんは、片手で口元を覆った。耳が真っ赤だった。
「……考えてた」
「何を」
「なんて言えばいいか」
私は、今里くんを見た。
今里くんは、私から目を逸らして、坂の上の提灯を見ていた。
「で、結局、なんて言うの」
亜美が容赦なく追い打ちをかけた。
今里くんは、提灯を見たまま黙っていた。どこかの屋台で、風鈴が一つ鳴った。
みんな、黙って待った。
私も、待った。
いつもと、逆だった。
「……似合ってる」
やっと、それだけ聞こえた。
小さな声だった。太鼓の音に紛れて、ほとんど消えそうな。
でも、ちゃんと来た。
「……ありがとう」
私の声も、太鼓に紛れてしまいそうなくらい、小さかった。
坂を上りながら、屋台を一つずつ覗いていった。
りんご飴。たこ焼き。金魚すくい。射的。
今里くんがりんご飴を二本買ってきて、一本を私にくれた。
齧ろうとして、浴衣の袖が気になって、口元で止まった。飴の表面が硬くて、どこから歯を立てればいいのかわからない。
今里くんは、自分の分をばりばり齧りながら、私が一口目を決めるのを、横で黙って待っていた。
「……見ないで」
「見てない」
「見てる」
「待ってるだけ」
結局、飴の角のところを、小さく齧った。
甘くて、ほんのり酸っぱかった。
金魚すくいの前で、萩原くんがポイを三枚続けて破って、早瀬さんに笑われていた。今里くんがそれを覗き込んで、「下手すぎ」と言いながら自分も一枚破った。
その隙に、亜美が私の腕を引いた。
屋台の陰まで連れていかれて、耳元で囁かれた。
「今日さ、たぶん、なんかあるよ」
「……なんか、って」
「わかんないけど。あたしの勘」
文化祭のときと、同じ言い方だった。
あのときの勘は、当たっていた。
「だからさ」
亜美は、私の浴衣の襟を、母と同じ手つきでちょっと直した。
「今日は、三日かけないでね」
私が何か言う前に、亜美はもう萩原くんのほうへ戻っていた。
人の波に押されて、いつのまにか、亜美と萩原くんと早瀬さんの三人が、少し先を歩いていた。
振り返った亜美が、私に向かって、大きくウインクした。
それから、萩原くんと早瀬さんの腕を掴んで、人混みの中に消えていった。
「……あいつ」
今里くんが呆れたように笑った。
「わざとだよね」
「……うん」
「どうする。探す?」
私は、少し考えた。
考えて、首を横に振った。
今里くんは、何も言わずに頷いた。
それから、屋台の明かりから少し外れた、坂の上のほうを見た。
「渚沙。ちょっと、いい?」
