「大好きだよ。でも、」
心臓が止まった。
やめて。
それ以上は言わないで。
お願い。
何年も前の、今はもうどこにもない初夏だった。
知らない町の、知らない家の裏口で、同じ声を聞いた。
本当に大好きだよ。でも、一緒にはいられない。
その「でも」の先で、この人は死んだ。
信号の赤が、視界の端で滲んだ。足の裏から、地面の感覚が消えていく。指先が冷たくなって、息が吸えなくなる。
一年。
一年かけて、やっと、五月七日をただの木曜日にできそうだったのに。
「——でも、渚沙だって俺のこと大好きだろ」
笑っていた。
顎を少し上げて、口の端を片方だけ持ち上げて。どうだ、と言わんばかりの、腹が立つくらい得意げな顔で。
夕焼けを背中に受けて、笑っていた。
息が、戻ってきた。
戻ってきた息と一緒に、何かが喉の奥からせり上がってきた。
笑い声だった。
と思ったら、涙も一緒に出てきた。
笑いながら、泣いていた。自分でもどっちなのかわからなかった。
「……なにそれ」
私は、裕太の肩を叩いた。
一回。二回。けっこう強めに。
「いって。え、なに。え、違うの?」
裕太は、叩かれた肩を押さえて、大げさによろめいた。
「え、ちょっと待って。違うの? 俺、今けっこう自信あったんだけど」
本気で落ち込んだ顔をしていた。眉を八の字にして、口をへの字にして。
それがおかしくて、私はまた笑った。
笑って、泣いて、叩いて。
裕太も、最後には笑い出した。
「なんで泣いてんのか、全然わかんないんだけど」
「うれしかっただけ」
「うれしくて叩くの?」
「うん」
「こわ」
信号が青に変わった。
後ろから歩いてきた人たちが、笑い転げている私たちを怪訝そうに避けていった。
横断歩道を渡りながら、私は、隣の手を握った。
裕太は、何も訊かずに握り返してきた。
同じ「でも」だった。
あの日と同じ声で、同じ言葉で、この人は「でも」と言った。
その先が、今日は、違う場所に着いた。
それだけのことが、どうしてこんなに、泣けるほどうれしいのか。
この人は知らない。
知らなくていい。
六回、戻ってきた人のことも。
何も知らないまま、何度でも私を好きになった人のことも。
三人の私のことも。
全部、私が覚えている。
誰とも分け合えないまま、この先ずっと。
つないだ手が、少し汗ばんでいた。そのくらいの重さだった。
私の家の明かりが見えてきた。
裕太が、まだ少し不満そうに言った。
「なあ、結局どっちなの」
「何が」
「俺のこと、大好きなのかどうか」
私は、少しだけ考えた。
考えて、言葉を探して。
今日は、探す必要がなかった。
「大好きだよ」
裕太は、満足そうに笑った。
裕太は本当に私を好きだったのか。
——もう、知っている。
心臓が止まった。
やめて。
それ以上は言わないで。
お願い。
何年も前の、今はもうどこにもない初夏だった。
知らない町の、知らない家の裏口で、同じ声を聞いた。
本当に大好きだよ。でも、一緒にはいられない。
その「でも」の先で、この人は死んだ。
信号の赤が、視界の端で滲んだ。足の裏から、地面の感覚が消えていく。指先が冷たくなって、息が吸えなくなる。
一年。
一年かけて、やっと、五月七日をただの木曜日にできそうだったのに。
「——でも、渚沙だって俺のこと大好きだろ」
笑っていた。
顎を少し上げて、口の端を片方だけ持ち上げて。どうだ、と言わんばかりの、腹が立つくらい得意げな顔で。
夕焼けを背中に受けて、笑っていた。
息が、戻ってきた。
戻ってきた息と一緒に、何かが喉の奥からせり上がってきた。
笑い声だった。
と思ったら、涙も一緒に出てきた。
笑いながら、泣いていた。自分でもどっちなのかわからなかった。
「……なにそれ」
私は、裕太の肩を叩いた。
一回。二回。けっこう強めに。
「いって。え、なに。え、違うの?」
裕太は、叩かれた肩を押さえて、大げさによろめいた。
「え、ちょっと待って。違うの? 俺、今けっこう自信あったんだけど」
本気で落ち込んだ顔をしていた。眉を八の字にして、口をへの字にして。
それがおかしくて、私はまた笑った。
笑って、泣いて、叩いて。
裕太も、最後には笑い出した。
「なんで泣いてんのか、全然わかんないんだけど」
「うれしかっただけ」
「うれしくて叩くの?」
「うん」
「こわ」
信号が青に変わった。
後ろから歩いてきた人たちが、笑い転げている私たちを怪訝そうに避けていった。
横断歩道を渡りながら、私は、隣の手を握った。
裕太は、何も訊かずに握り返してきた。
同じ「でも」だった。
あの日と同じ声で、同じ言葉で、この人は「でも」と言った。
その先が、今日は、違う場所に着いた。
それだけのことが、どうしてこんなに、泣けるほどうれしいのか。
この人は知らない。
知らなくていい。
六回、戻ってきた人のことも。
何も知らないまま、何度でも私を好きになった人のことも。
三人の私のことも。
全部、私が覚えている。
誰とも分け合えないまま、この先ずっと。
つないだ手が、少し汗ばんでいた。そのくらいの重さだった。
私の家の明かりが見えてきた。
裕太が、まだ少し不満そうに言った。
「なあ、結局どっちなの」
「何が」
「俺のこと、大好きなのかどうか」
私は、少しだけ考えた。
考えて、言葉を探して。
今日は、探す必要がなかった。
「大好きだよ」
裕太は、満足そうに笑った。
裕太は本当に私を好きだったのか。
——もう、知っている。
