アラームが鳴る前に、目が覚めた。
枕元のスマホを手に取って、画面をつける。
五月七日。木曜日。午前六時四十二分。
体が、勝手に固くなった。
一年経っても、これだけは抜けなかった。指先が冷たくなって、呼吸が浅くなって、心臓の音が耳の奥で大きくなる。
私は、ベッドの上で、ゆっくり息を吐いた。
大丈夫。
ただの、連休明けの木曜日だ。
あれから一年が過ぎた。
私は大学三年になった。ゼミが始まって、課題が増えて、就職の話が少しずつ現実味を帯びてきた。普通の、大学三年生の春だった。
裕太は、五月の三週間を、ほとんど覚えていなかった。
あの三週間、ずっとぼんやりしていた。そういうことになった。学食で私に手首を引かれて出ていった日のことを、萩原くんに何度もからかわれて、裕太は、そのたびに「知らねえって」と首を傾げていた。
横断歩道の白い車も、駅の階段も、足場から落ちてきた鉄のパイプも、この人の中には、もうなかった。
誰にも、話していない。
亜美には一度だけ、夏の終わりに訊かれた。
「ねえ。前に言ってた、同じ時間を繰り返してるってやつ。……もう、大丈夫なの」
駅前のファミレスで、アイスコーヒーの氷をストローでつつきながら。私の顔を見ないようにして。
「うん。終わった」
「そっか」
亜美は、それ以上訊かなかった。
「よくわかんないけど、よかった」
それだけ言って、私の皿から唐揚げを一個取っていった。
お正月には、裕太の家でお雑煮を食べた。
おばさんは私の顔を見るなり「渚沙ちゃん、痩せた? ちゃんと食べてる?」と言って、お餅を三つも入れてくれた。
いつかの雨の日、私はこの人の前で「はい」としか言えなかった。この人は、そのことを知らない。
「……多いです」
今は、そう言えた。おばさんは笑って、裕太のお椀から一つ取って、私のほうに移した。裕太が「なんで俺の減らすの」と抗議して、おじさんが笑った。
「あんた、五月に渚沙ちゃんと唐揚げ食べに来たとき、ずっと渚沙ちゃんのほうばっかり見てたわよね」
おばさんにそう言われて、裕太は、箸を止めた。
「……来たっけ」
首をひねる裕太の横で、私は、お餅を噛んでいた。
三人の私のことは、どこにも書き残していない。
書いたら、覚えていることを、紙に預けてしまう気がした。
だから、ときどき思い出す。
眠れない夜に。講義の合間に。唐揚げにレモンをかけるかどうか迷ったときに。
一人目の私。二人目の私。三人目の私。
それから、六回、戻ってきた人のこと。
去年の六月の終わりに、裕太が、スマホの画面を見せてきたことがあった。
「なあ、これ。俺、書いた覚えないんだけど」
メモのアプリだった。日付は、五月二十六日。午前四時五十一分。
短い文が、三行だけ並んでいた。
渚沙の話は、最後まで待って聞け。
遅れて来るやつが、いちばん大事だから。
名前を呼ばれたら、ちゃんと返事しろ。
「寝ぼけてたのかな。……でも、なんか、俺っぽいんだよな、これ」
裕太は、首を傾げて、それから、そのメモを消さずに画面を閉じた。
私は、頷くことしかできなかった。
あの夜明け前、枕元で、あの人がスマホに何かを打っていたのを、私は見ていた。
あの人は、自分が消えることを知っていて、次の自分に、三行だけ、置いていったのだ。
あのメモは、今も、裕太のスマホの中にある。
七時四十分。スマホが震えた。
『おはよ』
『連休終わった 無理』
『行きたくない』
溶けかけた猫のスタンプが、続けて届いた。
私は、画面を見たまま、しばらく動けなかった。
それから、自分が息を止めていたことに気づいた。
ゆっくり吐いて、返信を打った。
『おはよう。行こう』
『えらい』
『えらいのは渚沙だけ』
『俺は今日を乗り切ったら褒めてほしい』
声を出して笑ってしまって、隣の部屋から母に「朝から何」と言われた。
大学では、いつも通りの一日だった。
二限のあと、学食で裕太と萩原くんと合流した。萩原くんは連休中に行ったキャンプの話をずっとしていて、裕太は「テント張るのに三時間かかったやつが何言ってんの」と茶々を入れていた。
私は二人の間で、カレーを食べながら笑っていた。
ときどき、裕太の横顔を見た。
日に焼けた首筋。スプーンを持つ指。萩原くんの話に呆れて眉を上げる、その角度。
何も変わらなかった。
五月七日を過ぎても、この人は、何も変わらなかった。
「……なに」
私の視線に気づいて、裕太がこちらを向いた。
「ううん」
「今の間、なに」
「……なんでもない」
裕太は怪訝そうな顔をして、それから、まあいいか、というふうにカレーに戻った。
帰り道、二人で歩いた。
地元の駅から家までの道を、少し遠回りして。高校のころからの癖だった。
裕太は、車道側を歩いていた。
裕太が、高校のころいつも曲がっていた角を曲がった。
この一年、この道は通っていなかった。遠回りの癖は残っているのに、神社の前だけは、なんとなく避けていた。裕太は、気づいていなかったと思う。
今日は、止めなかった。
神社の前を通りかかった。
鳥居の向こうに、本殿の屋根が見える。夕方の光の中で、境内は静まり返っていた。
本殿の脇に、目をやった。
黄色い花は、もうどこにもなかった。細い葉だけが、少し伸びすぎて、先のほうから茶色く枯れかけていた。
四月にちゃんと咲いて、ちゃんと枯れたのだろう。
私は、何も言わなかった。
「寄ってく?」
裕太が、鳥居のほうを顎で示した。
「ううん」
私は首を振って、そのまま通り過ぎた。
裕太も、それ以上は何も言わなかった。
夕焼けが、アスファルトを橙色に染めていた。
私たちの影が、長く伸びて、ときどき重なった。
信号待ちで立ち止まったとき、私は隣の裕太の袖を、少しだけ引いた。
「ねえ」
「ん?」
裕太が、こちらを見下ろした。
私は、少しだけ迷った。
何年も前の初夏に聞いた言葉が、まだどこかに引っかかっていた。
今日なら、あの続きを書き換えられる気がした。
迷って、それから、言った。
「好きって言って」
枕元のスマホを手に取って、画面をつける。
五月七日。木曜日。午前六時四十二分。
体が、勝手に固くなった。
一年経っても、これだけは抜けなかった。指先が冷たくなって、呼吸が浅くなって、心臓の音が耳の奥で大きくなる。
私は、ベッドの上で、ゆっくり息を吐いた。
大丈夫。
ただの、連休明けの木曜日だ。
あれから一年が過ぎた。
私は大学三年になった。ゼミが始まって、課題が増えて、就職の話が少しずつ現実味を帯びてきた。普通の、大学三年生の春だった。
裕太は、五月の三週間を、ほとんど覚えていなかった。
あの三週間、ずっとぼんやりしていた。そういうことになった。学食で私に手首を引かれて出ていった日のことを、萩原くんに何度もからかわれて、裕太は、そのたびに「知らねえって」と首を傾げていた。
横断歩道の白い車も、駅の階段も、足場から落ちてきた鉄のパイプも、この人の中には、もうなかった。
誰にも、話していない。
亜美には一度だけ、夏の終わりに訊かれた。
「ねえ。前に言ってた、同じ時間を繰り返してるってやつ。……もう、大丈夫なの」
駅前のファミレスで、アイスコーヒーの氷をストローでつつきながら。私の顔を見ないようにして。
「うん。終わった」
「そっか」
亜美は、それ以上訊かなかった。
「よくわかんないけど、よかった」
それだけ言って、私の皿から唐揚げを一個取っていった。
お正月には、裕太の家でお雑煮を食べた。
おばさんは私の顔を見るなり「渚沙ちゃん、痩せた? ちゃんと食べてる?」と言って、お餅を三つも入れてくれた。
いつかの雨の日、私はこの人の前で「はい」としか言えなかった。この人は、そのことを知らない。
「……多いです」
今は、そう言えた。おばさんは笑って、裕太のお椀から一つ取って、私のほうに移した。裕太が「なんで俺の減らすの」と抗議して、おじさんが笑った。
「あんた、五月に渚沙ちゃんと唐揚げ食べに来たとき、ずっと渚沙ちゃんのほうばっかり見てたわよね」
おばさんにそう言われて、裕太は、箸を止めた。
「……来たっけ」
首をひねる裕太の横で、私は、お餅を噛んでいた。
三人の私のことは、どこにも書き残していない。
書いたら、覚えていることを、紙に預けてしまう気がした。
だから、ときどき思い出す。
眠れない夜に。講義の合間に。唐揚げにレモンをかけるかどうか迷ったときに。
一人目の私。二人目の私。三人目の私。
それから、六回、戻ってきた人のこと。
去年の六月の終わりに、裕太が、スマホの画面を見せてきたことがあった。
「なあ、これ。俺、書いた覚えないんだけど」
メモのアプリだった。日付は、五月二十六日。午前四時五十一分。
短い文が、三行だけ並んでいた。
渚沙の話は、最後まで待って聞け。
遅れて来るやつが、いちばん大事だから。
名前を呼ばれたら、ちゃんと返事しろ。
「寝ぼけてたのかな。……でも、なんか、俺っぽいんだよな、これ」
裕太は、首を傾げて、それから、そのメモを消さずに画面を閉じた。
私は、頷くことしかできなかった。
あの夜明け前、枕元で、あの人がスマホに何かを打っていたのを、私は見ていた。
あの人は、自分が消えることを知っていて、次の自分に、三行だけ、置いていったのだ。
あのメモは、今も、裕太のスマホの中にある。
七時四十分。スマホが震えた。
『おはよ』
『連休終わった 無理』
『行きたくない』
溶けかけた猫のスタンプが、続けて届いた。
私は、画面を見たまま、しばらく動けなかった。
それから、自分が息を止めていたことに気づいた。
ゆっくり吐いて、返信を打った。
『おはよう。行こう』
『えらい』
『えらいのは渚沙だけ』
『俺は今日を乗り切ったら褒めてほしい』
声を出して笑ってしまって、隣の部屋から母に「朝から何」と言われた。
大学では、いつも通りの一日だった。
二限のあと、学食で裕太と萩原くんと合流した。萩原くんは連休中に行ったキャンプの話をずっとしていて、裕太は「テント張るのに三時間かかったやつが何言ってんの」と茶々を入れていた。
私は二人の間で、カレーを食べながら笑っていた。
ときどき、裕太の横顔を見た。
日に焼けた首筋。スプーンを持つ指。萩原くんの話に呆れて眉を上げる、その角度。
何も変わらなかった。
五月七日を過ぎても、この人は、何も変わらなかった。
「……なに」
私の視線に気づいて、裕太がこちらを向いた。
「ううん」
「今の間、なに」
「……なんでもない」
裕太は怪訝そうな顔をして、それから、まあいいか、というふうにカレーに戻った。
帰り道、二人で歩いた。
地元の駅から家までの道を、少し遠回りして。高校のころからの癖だった。
裕太は、車道側を歩いていた。
裕太が、高校のころいつも曲がっていた角を曲がった。
この一年、この道は通っていなかった。遠回りの癖は残っているのに、神社の前だけは、なんとなく避けていた。裕太は、気づいていなかったと思う。
今日は、止めなかった。
神社の前を通りかかった。
鳥居の向こうに、本殿の屋根が見える。夕方の光の中で、境内は静まり返っていた。
本殿の脇に、目をやった。
黄色い花は、もうどこにもなかった。細い葉だけが、少し伸びすぎて、先のほうから茶色く枯れかけていた。
四月にちゃんと咲いて、ちゃんと枯れたのだろう。
私は、何も言わなかった。
「寄ってく?」
裕太が、鳥居のほうを顎で示した。
「ううん」
私は首を振って、そのまま通り過ぎた。
裕太も、それ以上は何も言わなかった。
夕焼けが、アスファルトを橙色に染めていた。
私たちの影が、長く伸びて、ときどき重なった。
信号待ちで立ち止まったとき、私は隣の裕太の袖を、少しだけ引いた。
「ねえ」
「ん?」
裕太が、こちらを見下ろした。
私は、少しだけ迷った。
何年も前の初夏に聞いた言葉が、まだどこかに引っかかっていた。
今日なら、あの続きを書き換えられる気がした。
迷って、それから、言った。
「好きって言って」
